知識(既知の情報)が増えすぎて研究対象を新鮮な切り口でとらえられなくなるという時期が必ずと言ってよいほど研究者には訪れる。いわゆるスランプの時期だ。
私の場合、恥ずかしいことに、このスランプの時期がかなり長く続いてしまった。ちょうど結婚と子育ての時期と重なってしまったということもある。関心が、小説と付き合うことよりも、他人と付き合うことのほうに移ってしまったのである。
だから、いまイチから勉強しなおしている。
そうしているうちに気がついたことがある。評論には、その時代、その時代によって、紋切り型のフレーズや思考パターンがあるということだ。
たいていの物事には賞味期限がある。文学研究の場合、賞味期限が過ぎてしまったものは極端に恥ずかしい。賞味期限の過ぎたものをずらっと並べてみる。
古くは、著作物には、著者のこめたたった一つのメッセージがあるので、それを読み解くのが読み手の役目であるというものもあった。
それから、主人公の行動は道徳的に(キリスト教的に)正しいのかどうかということだけを評価するものもあった。
あるいは、帝国主義批判や、ナショナリズム擁護論、もしくはコスモポリタニズム支持派的な見解から、作品の価値を認定するものもあった。
さらには、女性の描かれ方だけに着目し、フェミニズム的な観点から、許せるか許せないかを論じるというものも大流行した。
近年では、書かれたものは書き手の手を離れ、書き手の意図していないことまで表現してしまうので、それを読者は読み取ってもよいというものがある。いまなおこの考えに対する研究者たちの信頼は根強い。自分の誤読を開き直って許す裏づけを与えてしまっているところが私には許せない。
あるいは、書き手がある文体を採用したことで、その文体が物語をつむぎだしたり、歪曲したりするというのもあった。こういう物言いは格好いいかもしれないが、証明不可能なことが多く、私に言わせるとズルい。
信頼できない語り手という切り口もあった。語り手が読者を欺くのだという説である。面白いのだが、これも根拠付ける論理が不十分な気がする。
私はこれらのすべてが賞味期限切れだと思う。そう考えるがゆえに、私はスランプに陥ってしまった。いまのところ、次の一手が見当たらないのである。
たいてい、賞味期限を意識していない評論には、明確な根拠もないくせに、何某という権威がそう言っているから、私の主張は正しいのだというものになっている。冷静になって考えてみたら、説得力がない。ロラン・バルトがそう言ったからとは直接書かないが、みな一様にそういう権威に頼っている。
要するに、凡庸な研究者は、自分が骨を折って集めたデータや自分の頭がつむぎだしたロジックではなく、他人の権威に全面的に依存しているのである。
彼らの章には、他人の著作物の引用、ストックフレーズ、専門家だけにしか通じないジャーゴン、そして他人のつむぎだしたロジックに満ち溢れている。それらを差し引くと、ほとんど何も残らない。
結局、言いたいことは、「私は何某の意見に賛成です」か「私は何某の意見に反対です」のいずれかである。独自性、独創性に欠如しているのである。
恥ずかしながら、私もそういう論文ばかり書いていた。実に情けない。
何某かの考えに賛成や反対を唱えるよりも、「自分はどう読んだのか」ということを表明することに専念すること。これがもっとも重要なことである。
私の師匠はつねに「自分はどう読んだのかだけを書けばいい」と言っていた。
私は今までその言葉を十分に理解しているつもりだった。しかし、自分がまったく理解していなかったことがこの頃になってようやくわかってきた。
もちろん自分勝手な論理の読みを提示してもいいというわけではない。独自の論理を打ち出せということなのだ。
「お前はそんなことも知らないのか」と言われるのが癪で、古今東西の研究書をひたすら読む日々が続いた。そうするうちに研究対象の小説がどんどんつまらなくなり、私から遠ざかっていった。「なぜこんなことをしているのか」と自問自答に明け暮れた。
その小説を読むたびに、頭の中でストックフレーズが踊った。
自分が読んでいるというより、こんなふうに読みなさいと命じられているような気分になった。
それがイヤになったのだ。
いままでの学習履歴をすべてリセットし、最初から始めたいと私は思った。
6年以上ものブランクを経て、いまようやくすべてをリセットできたような気分になった。
本当にバカになってしまったほどだ。
上に述べたようなことを理解していると思っている研究者の多くは、作品に潜む謎の解読に血道をあげている。いわゆる謎解きである。
私はそれもイヤなのである。
結局、私がやりたいこと、興味の中心は、自分の基準に照らし合わせて、その文体はしびれるかどうかを論じることだけである。テーマ(メッセージ)はどうでもいい。書き方(書法)が重要なのである。
WhyやWhatではなく、あくまでもHowを優先したい。
なぜそうなのかなど考える必要はない。
何が書いてあるのかさっぱりわからなくても、ただしびれればいいのだ。
ただそのしびれる感覚をしびれると言うだけでは、研究とは言えない。論文にはならない。
それを文章に変換するのが私の役目だと思っている。
実は、それが一番難しい。
それはある料理の上手さを表現するのが難しいのと同じことである。ただ単に「うまい」といっても、その上手さを表現できることもある。それは表情や感情が「声」に伴うからである。しかし、書かれたものには、それがない。だからこそ、言葉での表現は難しい。
中条省平というフランス文学者が、日本文学の魅力を紹介している『小説の解剖学』という本がある。詳しくはその本を読んでもらいたいと思うが、この本の最大の魅力は、作品をきちんと紹介しているということである。英語で言えば、評者の姿勢が、あくまでもdecentなのだ。とりわけて優れているわけではないが、まずくもない。礼儀作法にかなった、慎みのある紹介の仕方なのである。
批評というものは、本来そういうものである。作品の魅力をきちんと紹介すること。
私はこれをお手本にしたい。
文学研究などというものは、それ以上でもそれ以下でもない。そんなふうにキッパリと割り切った方が潔くてよい。