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2009年4月の118件の記事

メディア断ち

3月から4月まで、ニュースメディアにできるだけ触れないようにしてきた。

「メディア断ち」である。

予想はついていたが、禁断症状もないし、生活上、何の不都合もない。ということは、少なくとも私にとって、ニュースメディアは不必要なものだったわけだ。

大きなニュースがあれば誰かが教えてくれる。自分が知らなくても恥をかくこともないし、くだらない騒動に逐一煩わされることもない。

だから、穏やかな生活を求める人は、テレビやラジオなどのニュースメディアに触れないことをオススメする。

ニュース報道というのは、きわめてスペックの低い知能を持つ人間が、お祭り騒ぎをしているだけのものである。今回そういうことがよーくわかった。

彼らはどうでもいいことを騒ぎ立て、視聴者や聴取者の不安をあおったり、イライラを募らせたり、縁もゆかりもない他人を批判するように扇動したり、権力者をこき下ろして日ごろの鬱憤をはらしたりしている。まるで、ヤクザだ。

そのほかの番組の大半は、「これを買え」か「どこかへ旅行しろ」か、「これをしないと(知らないと)大変なことになりますよ」ばかりである。いやあ、幽霊より怖いねえ。

そういえば5月から裁判員制度が始まることになっていたはずだったが、あれはどうなったんだろう。

もし私のところに「裁判所に、来い」と命令が来たら、「私は死にました」と書いて送り返そうと思う。

人を裁くのは私の仕事ではない。

バイトで人が裁けるか!

それはおまえらのビジネスだろうが!

"That's none of my business."

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好きな数字は3。

中学の道徳の時間だったと思うけれど、3人いれば、何か意見の相違があったときに2:1になって、うまくことが進むと習ったことがある。

逆に、「三人旅の一人乞食」と言って、一人が貧乏くじを引いて仲間はずれになることもある。1になった人は気の毒だ。

さらに、1:1:1になって、物事がかえって進まなくなることもある。

英語には、Two is company, three is none. (二人は道連れ、三人は仲間割れ)ということわざもある。

ただ、「三人寄れば文殊の知恵」という言葉もあるように、凡人でも3人も集まれば何かいいアイデアも浮かぶかもしれない。

辞書を調べていたら、こんな表現があることを知った。

「三人行えば必ず我が師あり(三人行必有我師)」

これは『論語』の文句だそうだ。自分とほかの二人との三人でいっしょに物事を行うとき、ひとりが自分よりすぐれていればそれに従い、もうひとりが自分よりすぐれていなければ自身を反省するから、必ず自分にとって師とすべきものがいるということ。

奥が深いねえ。

いい言葉、見つけた!

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おむすび

「あら、あなた、おにぎりとおむすびは違うのよ」と、ある料理研究家が言っているのを聞いたことがある。

「おにぎり」は焼いたもの、つまり「焼きおにぎり」のことで、にぎって海苔を巻いただけのものは「おむすび」というのだそうだ。漢字を使うと「お結び」となる。なんか縁結びみたいでちょっとロマンティックな響きがする。

そういう区別は辞書には書いていないし、我が一族にもそういう区別はないので、その方だけの考えなのかもしれない。ほんとうのところはどうなのだろうか。

私の好みは三角型。ごはんはふんわり握ったものがいい。コンビニのおにぎりは硬すぎて、ご飯がまずい。中身は別になくてもいいから、うまい天然塩がまぶされていて、海苔が巻かれていれば、それだけで十分。

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英語を話すな

酒が飲めないのに二日酔いになったような気分で一日を過ごした。吐き気はするし、頭痛はするし、胸はむかむかするし、気分はイライラするし、アタマはポーっと熱があるような感じだし。

ひさしぶりに電車で通勤。駅を降りると、私のウワサをしている女子学生の声が聞こえる。「あの先生はいちいち言うことが細かいよね。どうでもいいことにこだわる」というような会話である。

それを聞いて、私のイライラの電圧が上がってしまった。今日は一日、私が細かいのではなく、そういうことを言うあなたたちが大雑把で乱暴で無神経でバカであるということを思い知らせてやろうという気分で授業をした。

英語では名詞を6種類に分けて表現する。日本語はほとんど1種類である。それは言語文化の違いであるから、仕方がない。

日本語だって、英語よりはるかに細かく分けるものがある。だからお互いさまなのであるが、そういうことに配慮のない学習の仕方、生き方をしてきた人が圧倒的に世の中には多い。それでいて、英語を話せたら格好いいとか、アメリカに留学したいとか言う。おまえら、死ね!

英語ではwear やput onで済ませるところを、日本語では、メガネをかける、マフラーを巻く、帽子をかぶる、シャツを着る、ネクタイを締める、腕時計・指輪をはめる、ズボンを穿く、靴を履く、羽織を羽織るなどさまざまな表現をとる。

これを外国人の日本語学習者が、「面倒くさいし、ネイティヴに通じればいいんだから、みんな着るにすればいい。メガネを着る、ネクタイを着る、ズボンを着るでいいじゃないか」と言ったら、どう思うだろうか。あるいは、「イントネーションも面倒くさいから『着る』も『切る』も一緒にしてしまえ」、とか「漢字は面倒だから、全部ローマ字にしろ」とか言い出したら、「偉そうにしやがって、お前ら、俺たちの文化を無視するとただじゃおかないぞ」と言って怒るはずである。

それと同じことである。

ごみの分別だって、地域によってさまざまだ。それを自分ひとりの考えで、ぜんぶ燃えるごみも燃えないごみも資源ごみもいっしょにまとめて出したら、バカだと思われるし、じきに共同体から追い出される。

だから、私の説明が細かいとか、自分の考えを押し付けているといって反発するのは、完全に筋違いであり、あなたたちのほうがよっぽど乱暴で無思慮で無神経なのである。

他人の立場に立つことができない、裏からものを見ることができない、偏見や先入観をもたずに、バランスよく物事を捉えることができないという人は、「成熟」から程遠い人間である。

そういうことに配慮しようと努力をすると、言うことが必ずブレる。つねに間違いを訂正するからである。だから、威張ることができない。つねに自分が正しいと主張することができないからである。よく間違いを訂正する人間は、相手の間違いをいちいちとがめたてるようなこともしないので、他人に優しくなる。しかも、自分も責任の一端を担っていると考えられる。そういう人が成熟した人なのである。

英語の授業は日本語に訳すだけの暗号解読の作業だと思い込んでいるバカどもがあまりに多い。本来、和訳は、目的ではなく手段に過ぎない。そういうことを考えたことすらない学生があまりに多い。その数は私の我慢の限界を越えている。

英語の勉強というのは、英語を通して、英語圏の人々のものの捉え方・見方・分節の仕方を身につけることである。ただ、日本語の単語を英単語と交換するだけで心が通じ合うと思っている人がいたとしたら、よほど知能指数が低い人である。

しかし、日本には、そんな低能な人ばかりなのである。

というわけで、「私が説明するような細かい分類を覚えようとせず、自分勝手に我流を通すもいいかもしれないないが、そういうひとは外国人と一切話をしないように。私は、クソも味噌も一緒にするような君らと同じ、乱暴で無思慮で無神経でバカな日本人の一人だとは思われたくないからね」と言っておいた。

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アホらしい

あんなものをわざわざ見てしまう人がいたり、真に受けて信じてしまっている人が世の中にいるということは驚きです。

占星術の本を読んで少しでも勉強をしたことがある人なら、占星術とラッキーアイテムなんてまったく関係がないことがわかるはずです。

ともあれ、まずは星座名を隠して占いの文章だけ読んでみてください。どれもこれも当たっていると思えるでしょう。

だって、すべてが誰にでも当てはまるように書かれているんですから。

書き手は頭がいいんです。一方、そういう作為的な文章の裏を読めずに、本気で信じてしまう読み手は正真正銘のバカだと思います。

血液型占いを信じている人も同様に知的レベルが低いと思います。血液型には、A、B、O、ABの4つの型で判断する方法しかないわけではなく、実はもっといろんな分類法があるのですが、そちらのほうは一向に話題になりませんし、それらを使った血液型占いというのを見たことがないのも不思議な気がします。

B型は「マイペース」だとか「我が強い」とかいろいろ言われますが、A型でも、AB型でも、O型でも同様な人がいます。それには、信者たちはどう反論するのでしょうか。

血液型の性格判断を信じている人というのは、人の性格を4つの類型でしか、見ることができない、きわめておおざっぱなタイプなのでしょう。

いうなれば、世界には4つの色しかないと思っているようなものです。あまりに乱暴な考え方です。

占いを真に受けて生きている人は、年は食っていても、知能は4歳児並み。もう救いようがありませんね。

ともあれ、そんなくだらない占いをメディアの電波を使って放送してしまうようなニュース番組(バラエティ番組?)を朝から見るなんて、よっぽど暇な人なのでしょうね。お気の毒さまです。


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秩父小旅行

自宅を7時出発。

8時半の開店5分前、日高中央直売所に到着。野菜やしいたけをお土産に購入。団子と饅頭でかるくおやつ。

Hidaka

その後は、羊山公園へ。臨時駐車場(500円)を利用し、入場料(大人300円)を支払う。うわさ通り、色とりどりの芝桜のパッチワークはきれいだった。観光客が多かったので、写真がとりにくかったのが残念。出店も多数出ていて、お祭りの雰囲気。フジテレビも来ていた。ニュース映像を撮っていたようだ。

Hitsujiyama

そうこうするうちにお昼になったので、大滝温泉の遊湯館に併設されている蕎麦屋に向かう。本当は、自然派レストランのシーズというところを目指していたのだが、看板が目だなくて通り過ぎてしまったらしい。

Kyorokan

蕎麦はけっこううまい。セットメニューを選んだのだが、おかずもうまかったので、大満足。食べ終わったあと、暇つぶしにほかの客たちを観察していると、見慣れた顔のサイクリストがいる。同じ職場で働いている人だ。彼は、別府マラソンに出場する資格ももっているほどのランナーなので、ロードバイクで100キロの秩父路を上ってきたらしい。顔見知りであっても、口を利いたこともないので、会話を交わさなかったが、レスペクトの視線を送っておいた。

食後は腹ごなしに、下の川原で水遊び。うつくしい青緑色の尻尾を持ったトカゲを発見。

それから、140号線を上に上がっていき、秩父湖を見て、三峰神社へ。秩父に行くなら、あそこは絶対に行く価値はある。日帰り温泉(宿泊可)も併設されているが、利用しなかった。

Mitsumine

今度は山のてっぺんから、一転して下へ。橋立鍾乳洞を見学。ヘルメット着用。息子がさっそく頭をぶつけ、ヘルメットに感謝。

西武秩父駅の仲見世通りで、お土産を買う。いつものくるみ味噌のやきとり1人前を4人で分け合う。

6時少し前に、いつもの星音の湯に到着。夕食もそこで済ます。私はいつもと違って、豚肉のカツレツを選んだ。家族には申し上げなかったが、はっきりいってまずい。ハンバーグセットのほうがはるかにうまい。

帰りは妻が運転をするというので、鍵を渡す。復路は往路と同じ芦ヶ久保を通るコース。

どういうわけか、速度をゆるめない車に前後をはさまれてしまい、妻はsのプレッシャーにまけ、レースさながらの運転。

私は後部座席で、吐き気と寒気と眠気にさいなまれてしまった。途中、運転をかわってもらったら、まともな思考能力がなく、感覚も鈍い。吐き気と寒気と眠気が収まらない。仕方なく、また運転をかわってもらい、最後まで妻に任せた。

最後はもう地獄のような時間をすごした。帰宅後、取るものも取り合えず、ベッドに駆け込み、ものの1、2分で熟睡。

今朝5時に目を覚ましたとき、少し頭痛を感じた。いまも、なんとなく気持ちが悪いが、まあ、仕事には行けそうだ。無理をせずに、電車で行くことにした。

思い出を台無しにした原因は、無理な長湯、まずい食事、そして妻の乱暴な運転だった。

コーナーではブレーキを踏みまくるし、コース取りが悪いので横ぶれがきつい。素人が下手にレーサーの真似事をしちゃいけないよ。

子供たちは熟睡モードで何でもなかったのでよかったが、全員がオェーっとやっていたら、大変なことになっていた。

あくまでも安全運転でお願いしますよ、おかみさん。

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んなにも

特に自分へのご褒美はしませんでした。

親にプレゼントをすることもありませんでした。

プレゼントなどした日には、次の日から食っていけなかったのですから。

私は初任給を茶封筒に手渡しでいただきました。いまじゃ考えられませんね。

高校で働いていたときです。

小銭がじゃらじゃらして重たかったです。

そういえば、私に給料袋を手渡ししてくれた事務のお姉さんの化粧があまりに濃かったのをよく覚えています。かわいかったですけれど、ちょっと怖そうな女性でした。どうも校長を出し抜こうとしている政治的な教頭の愛人みたいな雰囲気でした。その後、本当にクーデターが起こり、教頭が校長を追い出し、よりひどい環境になったので、やめさせてもらいました。

まあ、ろくな思い出はないですね。

その学校の生徒たちは、本当に勉強ができないし、考えていることがきわめて幼稚。

「先生は、フーゾクとか行くの?」とか平気で授業中に聞いてくるほど。

大人は全員フーゾクで遊んでいると思って疑わないのです。

大人だって、フーゾクで遊べるほどの稼ぎのない人もいるし、フーゾクで遊ぶのが嫌いな人もいるということさえ理解できず、私が「行くわけないだろう」と返しても、「うそだ、うそだ」と信じてくれません。

教室の後ろのほうでは、駅売りのスポーツ新聞を敷いて仰向けに寝いている生徒もいたし、授業中はずっとエロ本を見ていた生徒もいたし、今考えたら、私はよく生きて帰ってきたなあと感心します。

これが私の軍隊生活の思い出です。

私が働いていた高校の教諭で、私が名前を知っている人(一緒に働いていた先生)が、酔っ払った挙句に全裸なって通りを歩き、強制わいせつ罪で逮捕されたニュースが昨年か一昨年の夏に流れました。

さもありなん。あんなストレスフルな環境にいたら、誰だっておかしくなります。

そこは高校野球の常連高校。

日本中の常連高も、私がかつて働いていた高校と実態は変わらないでしょう。

高校野球の裏に広がっている世界というのは、清く正しいフェアプレイなどまったく似合わない、暴力と女と麻薬とアルコールのニオイが充満している路地裏の薄汚い世界ですよ。

まあ、ご存知だとは思いますが。

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掃除機&ついたち

母の日にはプレゼントをしたことはない。

その代わり、退職のお祝いに掃除機を贈った記憶がある。

もちろん、「これまで共働きだったからなかなか家の掃除ができなかったでしょ。これからはきちんと掃除をしてね」という意味ではない。

退職祝いに何かほしいものはないかいと聞いたところ、「別に何もいらないけれど、どうしてもというのなら、掃除機が壊れかかっているので、掃除機がいい」と母親のほうからリクエストをもらったのである。実家にはあらゆる家電があふれていて、これ以上新たにモノを置くスペースがまったくといってよいほどない。冷蔵庫だって、なぜか2台も使っている。

母にプレゼントをしたのはそれっきりである。その掃除機もとっくの昔に壊れてしまったらしい。いま実家では3000円で買った安物の掃除機を使っている。しかし、それも調子が悪いので、新しいのを探していると、先日母が言っていた。

でも、掃除機をプレゼントをする経済的な余裕は我が家にはない。子育て世代だから仕方がない。

「母の日なのに何も贈らないなんて、あんたは薄情なやつだ」という冷たい視線が、モノを売る側の人間から送られてくるのを毎年感じるが、私はそのビームを鏡で反射して、跳ね返すことにしている。

父の日だの、こどもの日だの、敬老の日だの、誕生日だの、バレンタインデーだの、クリスマスだの、セントパトリックデーだの、イースターだの、ハロウィーンだのと、いちいちうっとうしいよ。

そういえば、1日のことを「ついたち」というのはなぜだろうという疑問を、昨日風呂の中で息子と話しているうちに思いついた。

わたしは、月が始まるという意味の「月立ち」がなまって、「ついたち」になったのかなと推測して、息子に話した。

辞書で調べてみたら、驚いた。その通りなのだ。

これは太陰暦の話。「ついたち」は「朔日」とも書くが、この「朔」は、『広辞苑』によると「月の黄経が太陽の黄経に等しい時の称。すなわち太陰暦1日。ついたち。月が太陽と同じ方向にあって、暗い半面を地球に向ける。新月」のことだという。

つまり、新月の日を月が立つ日→月立ち→ついたちとなったのだそうだ。

「新月」を『広辞苑』で引くと、「陰暦で、月の初めの夜に見える月」とある。

いやあ、われわれは世界の潮流に反して、旧暦で暮らしたほうがいいんじゃないのかなとすら思った。

昔は、太陽が昇ると、鐘を6つ撞いた。これを「明け六つ」。日が暮れるとまた鐘を6つ撞いた。これを「暮れ六つ」と呼んだ。

そんなふうに、よけいなことを考えずに、のんびりと生きたいものである。



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『決定版 英語エッセイ・ライティング』

『決定版 英語エッセイ・ライティング』という本がある。これは英語のエッセイの書き方がまったくわからない人にオススメの本である。

日本語のエッセイというのは、理由や例などの具体的な詳細から書き始めるので英語圏の人間にはわかりにくい文章になる。そういうことを教えたにもかかわらず、日本語的な発想を押し通す学生が今日もいた。要するに、アタマが硬すぎるのである。

武道の世界では「守・破・離」という考え方がある。

私はまず相手方(教師、師匠)の言うことを聞いて、それに合わせ、師の格をマスターする。これが「守」である。

その後、自分なりの創意工夫を加え、そこから少しずつ逸脱していく。これはが「破」である。「離」は、いままで学んだこと、身につけたものから自由になるということである。ここからはもう完全に達人の域である。普通の人には到達できない世界なので、われわれ凡人には縁のない世界である。

まずは、みんなのレベルでは「守」が大切なのだと口をすっぱくして教えているのに、学生たちにはなかなか理解してもらえない。どうしても人の真似ができずに、自己流でなんとかやっつけようとしてしまう。

まずは自分を捨てろ。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」だ。

ちょっと違うかな。



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粗忽

「粗忽」という形容動詞は『大辞林』では以下のように定義されている。

(1)軽はずみなこと。注意や思慮がゆきとどかないこと。また、そのさま。「―な人」
(2)不注意なために起こったあやまち。そそう。「―をわびる」
(3)失礼。無礼。―ながら、その提灯の紋を見せて下さりませ/歌舞伎・助六」[派生]―さ(名)

落語に「粗忽長屋」という噺がある。この作品を立川談志は自分の好きな噺のひとつだと公言している。「落語は人間の業を肯定するものだ」という彼の持論を支える作品であるからだろう。私も好きな噺のひとつである。

談志はこの噺のまくらで、NHKの落語コンクールの立ち上げのときの話をしている。落語家の仲間が、NHKの関係者から、コンクールの出場者は6人であるという計画を談志に伝える。そこで、談志は、「6人じゃコンクールなんてできるわけがない。もっと増やせ」と主張する。ところが、NHKは時間が許さないといって、かたくなに6人での開催を主張していると、談志のところに報告に来た者が言い張る。「お前は、どっちの味方なの?」と談志は食い下がる。談志は、これが「粗忽」というものなのかと思い知らされたというのである。つまり、談志の同業者は自分がどっちの味方かわからなくなってしまうというわけである。

落語家には、落語家の本分がある。彼らの仕事は、「落語でお客を笑わせ、いい心持にしてやること」、「落語を楽しむお客さんの数を増やすこと」、「自分たちの芸の質を高めること」の3つである。

ということは、コンクールという機会が与えられた場合、できるだけ多くの噺家に競わせて、自分たちの芸を向上させる機会を彼らに与えてやることが重要なのである。

ところが、談志のところに報告に来た落語家は、自分の本来の役目を忘れ、完全にNHKの味方になってしまっている。これを「粗忽」というのである。つまり、自分のおかれた状況に「注意や思慮がまったくゆきとどかな」くなった状態である。

「粗忽長屋」では、友人が溺死体になってしまったと信じ込んでしまった男が、その友人に自分の死体を引き取らせようとし、その話を真に受けた友人は自分の死体をわざわざ引き取りに行く。最後には、死体を背負っている自分が自分なのか、背負われている自分が自分なのかわからなくなってしまうというシュールな噺である。

これと同じことが、私の勤めている大学でも起こっている。

LLの時間では、われわれは統一教科書を使わされている。今年から教科書とコーディネーターが交替し、大混乱に陥っている。コーディネーターは、自分が定めたカリキュラム通りにやるようにと、担当教員たちに強く指示する。しかし、われわれは、そのカリキュラムのスケジュールがあまりにタイトなので、どうしても予定時間内に終わらないといって、スケジュールの見直しを迫っている。英語のできない学生に、膨大な量の、同じような内容のスキットの情報処理を求めるので、どうしても私は授業内ですべての予定範囲を終わらせることができず、宿題にしてしまっている。

この状況を受け、私は学生のことを考えて、しっかり学習すべき項目を絞りに絞って、どうでもいいところはきれいさっぱり省略してしまうことにした。私は1を教えて、学生たちに残りの9をわからせるというわけだ。

一方、私の同僚の先生は、時間通りにやれと上からの指示があるのだから、学生がわかろうがわかるまいが、時間通りにやることが重要なのだと主張している。

私は、どっちの味方なのだと言いたい。学生の味方なのか、それともお偉方の味方なのか。

英語教師の本来の目的は、学生に英語がわからせてやることで、「時間内に終わらせろ」と命令するボスの言いなりになることではない。

これを「粗忽」というのだと、私は思った。

自分の授業を終えた後、黒板の文字を消していかない教師がいる。そういう教師は、後の人間のことを考えていないのである。

教師(先生)というのは、後から来るもののことを第一に考える人間のことである。

ゆえに、その意味で板書を消していかない教師(先生)は教師(先生)とは呼べないのである。

自分にとって、何が大切かということに配慮の行き届かない不注意な人間のことを「粗忽者」と呼ぶ。

本当に救いようもない人たちばかりだけれど、これが人間の業というものなのだろう。

業を煮やすことなく、このいらだたしい状況を肯定するような度量を私も持ちたいものである。

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give & take

英作文の授業で、学生が書いたエッセイを、学生同士で添削させた。

そこでわかったことは、まず彼らには他人の文章を添削するという経験が一切なく、またその能力もほとんどないということである。

文法的な間違いやスペリングの間違いの指摘以外に、何かコメントを書くようにと求めたら、「たいへんわかりやすい文章でした」とか「よくできていると思います」とか、やたらとほめ言葉が多い。

本気かよ? 

相手を傷つけないようにという、彼らなりのやさしさの発露なのかもしれないが、そういうやさしさは自分のためにも仲間のためにもならない。きちんとツボ(急所)を攻めてやらないと、お互いの技が正確にならない。武道と一緒だな。

私が読むと、彼らの印象とはまったく正反対であった。

論証の仕方が整理されていないもの。理由が理由になっていないもの。説得力がないもの。正確な意味を理解せずに使った英単語の羅列。そのまま自動翻訳機にかけたような意味不明な文章。やたらと受身を使いたがる傾向。現在分詞、過去分詞の使い方の混同。未熟な名詞の扱い方。aとtheの区別もできていない。数えるという発想もない。動詞の扱い方もひどく、現在形、完了形、過去形の使いわけすらできていない。確率に応じた助動詞の使い分けもわかっていない。論をどのように展開したほうが読み手を説得するのに効果的かということや、読み手の意地悪な反論をどうかわすかという配慮もない。要するに、他人の目、読者の目がないのである。きっと、日本語で作文させても、彼らの作文には書き手が自分を客観的に見ているという視点を感じないだろう。

つまり、彼らの文章は絶対的に無防備なのである。完全にノーガード状態。

隙だらけなので、ぼこぼこに殴られても仕方がない。このままだとパンチ・ドランカーにされちゃうよ。

さて、これから私はどうすればよいのだろうか。

仕方がないので、彼らにある程度の批評眼がつくように、文法をシンプルに整理して、彼rにクライテリアを作ってやりながら、何か文章を精読する訓練を先にしようと思う。

彼らは英語のリーディングの授業を受けてきたはずだが、英文をきちんと読むという訓練がまったくできていない。ただ日本語に訳すだけで読んだ気になっていたのだろう。

だから、英文の書き方の特徴にも目が行き届かないのだ。

今日は、「私は英語力がないので、他の人の文章を添削する能力はまったくありません」と最初から音を上げる女子学生もいた。というより、半べそをかいていた。

そんな悲鳴は聞かない振りをして、「成績のつく来年の1月までに、自分たち同士で英語力を高めるようにしておくように。いやなら授業に来なくてよい」ときっぱり命じておいた。

私の究極的な意図は、英語の能力を高めることだけではなく、お互いの文章を添削したり、わからないところを教えあって、お互いを支えあうことを通じて、お互いの能力を高めあっていくことの喜びを学生たちに気づかせてやることである。

学生たちは熾烈な競争社会に生きているせいか、「他人は他人、俺は俺。他人の価値観は尊重してやるから、俺に迷惑をかけるようなことをするな」という意識が先行し、他人とのかかわりを極力避ける傾向がある。

「なぜ他の学生の作文を私が添削してやらなければならないのだ。そういう作業は、教師がやれ」という狭量な学生もいる。

そこが素人の浅はかさ。

相手のために何かをすることを通じて、人は何かを与えられる。自ら与えることをしないものは、何も得ることはできない。自分がほしいものはまず相手に授けよ。英語ではこれをgive & takeという。聖書の一節に「与えよ、されば与えられん」というものもある。giveのほうが先に来る理由はもうお分かりだろう。これは人類学の真理である。

子供はtakeばかりしている。giveが大切であることに気づくことが、成熟の証である。その意識を持つことができた者だけが、社会に迎え入れられる。

急いで、付け加えておくが、自分がほしいものはまず自分から与えるという意味ではない。与えることを通じて、自分が本当にほしかったものがわかるという意味だ。自分が本当に求めていたのはこれか、ということがわかるのである。たとえば、焼肉を食べたいと思っている人が、焼肉をおごると、次に焼肉をおごってもらえるという次元の低い話ではない。

学生たちを社会に歓迎する儀式として、私は彼らに共同体を維持するために絶対に必要な価値観を与えているのである。意外に知られていないのだが、この価値観は全世界的に汎通性が高い。

残念ながら、私の意図を理解できず、反発する学生が一人いる。遠回りをするだろうが、私の若いころに似ているので、私は彼をかわいがりたいと思っている。

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朝ラン6K

午後から仕事なので、お散歩程度に走ってきた。

ほとんど息切れもしない。

往路は17分45秒。
復路は16分16秒。

最後のスパートもなしで、軽く流した。

帰宅後、注文の本をセブンイレブンから送った。ものによっては、クロネコメール便(ヤマト運輸)のほうがはるかに安く済む。

レジのおばさんは、特製の定規を使って荷物の厚みを測って料金を算出する。「押せばへこみますよね」といって、厚みを1センチとしてくれた。梱包用のスポンジを本に巻いているので、本当は1ミリ程度厚いはず。

郵便局から送るより、料金がはるかに安く済んだ。

いま、我が家の隣家に遊びに来ている親が、隣のマンションの管理人と話をしているのを盗み聞きしている。

話し方が桂米朝さんそっくりなので、聞いていると愉快な気持ちになってくる。

そういえば、隣家の旦那さんは神戸出身。桂米朝さんは、尼崎出身だったはず。口調が似ているのも頷ける。

江戸落語の噺家さんたちの多くはすでにほとんど消えてしまった江戸弁を学んでしゃべっているが、関西の噺家さんたちは語り口調を新たに学びなおすこともなく、自然にしゃべっているのかもしれない。方言というのは独特のリズムがあって、耳に心地よく響くものである。

標準語というのは人工言語のようで、リズム感がどうもしっくり来ない。方言を自然に話せるという環境がうらやましい。

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辞書引き学習法

話題の「辞書引き学習法」って、なに? - [男の子育て]All About

辞書を引く習慣がつくとと、多くの言葉を正しい使い方で覚えられる。その学習法を子供の教育に活用せよという。

言葉を多く知っていると、「世界」を複雑な言葉を操ってよりきめ細やかに捉えることができる。

わたしも中学生のころ、三省堂の『新明解国語辞典』の「あ」から順に読み、そしてそれをノートに書き写すという宿題をさせられたことがある。今も自宅にそのノートが残っている。『新明解国語辞典』は2回目を通した記憶がある。

まず、知らない言葉、誰も使っていない言葉が、死ぬほどあるということ。言葉というものは、相互参照的なものであり、ある言葉は別の言葉があるから、意味や意味の差が生まれ、それによって存在意義が生じるということ。さらに、言葉というものは、基本的には単なる記号であり、それによって世界のあらゆることを説明することは不可能であるということ。

そういうことが辞書を読む時間とともに頭のなかに徐々に刷り込まれていった。

高校時代に、ソシュール由来のポストモダンやポスト構造主義の思想にはまったとき、その思想がすんなり頭に入ったのは、中学時代の経験が活かされたからだと思って感謝している。

このガイドさんは、親が子供に辞書を引かせるということを求めているが、まず親が自ら辞書を引いて言葉を正しく覚えることを楽しみ、それを子供の成長レベルに合わせて使っていくほうがよいと私は思う。そうすれば、子供は実際に活用されている言葉としていろんな言葉を自然に吸収していく。

こうやって知的レベルを上げることは、自分のためでもあると同時に子供のためでもあるし、ひいては、そういう知的レベルの高い子供の数を増やすことは世の中のためにもなる。

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プリゾナ

少林寺拳法の会報5月号に、元看守が起こした会社が紹介されていた。アパレルや雑貨の製造を刑務作業と連携させ、犯罪被害者支援として寄付しているという。

刑務作業 刑務作業製品 刑務所作業製品をデザインするプロジェクトチーム - PRIZONA inc. - 株式会社プリゾナ

【楽天市場】ブランド > PRIZONA selection_プリゾナ セレクション:PRIZONA store

私は本格的に社会に出る前の学生たちを支援する仕事をしてお給料をもらい生活させていただいている。

しかし、世の中には、社会から逸脱してしまった人たち、あるいは社会に参加できない人たちもいる。彼らをいかに社会に組み込んでいくかという視点は比較的忘れられがちである。

犯罪者は社会から排除していけばいいといってしまえば、そこで終わりである。しかし、彼らの多くは死刑にならなければいずれ社会に戻ってくる。彼らを再び刑務所に送り込むことのないように社会が彼らの居場所を確保していかなければ、ふたたび犯罪を犯す危険性がある。

犯罪者はなぜ犯罪を犯すのか。

その責任は犯罪者のみにあるのだろうか。犯罪とは縁がないと思って生活している我々にも彼らを犯罪に追い込む責任の一部はあるのではないか。脚下照顧である。

さらに、犯罪被害者も健康な社会生活ができなくなってしまった人たちであり、彼らも救わなければならない。それは他のわれわれのためでもある。犯罪者も犯罪被害者も、同様に社会の中で幸せに暮らす権利がある。その権利を守ることによって、逆に我々の権利も守られる。

そう考えると、非常によいプロジェクトだと思う。

私と考えを共有できる人は、果たして世の中にどのくらいいるだろうか。

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感謝されたことに対する感謝の気持ち

今晩、師匠が法話の中で、感謝されたことに感謝する気持ちになったという話をされていた。

そういう気持ちが今の私にはよくわかる。

要するに、世の中でサバイバルしていくのにもっとも大切なのは助け合いの精神なんだよね。

相手を蹴落としたり、自分だけ生き残ろうとする人は、最終的には生き残れない。

自分を犠牲にしてでも、お互いを高めあっていこうという意識を持っている人だけが生き残っていくのである。

そういう意識改革ができた人だけにしか、感謝されたことに対する感謝の気持ちなど抱けないと思う。

日本を競争社会にしたのは、学校の成績がよくても、真の意味での知的レベルと精神年齢の低い人たちである。ああいう人は、自分たちが世の中を牛耳っていると錯覚しているけれど、いざとなったら真っ先に殺されるはずである。共同体の平和を維持するのに、もっとも邪魔な存在だからである。

少なくとも私は自分の子供や教え子たちを、あんな意地汚い、尊敬の念をまったくもてない人間には育てたくないと思う。

本日は、親子演武の科目をすべて師匠に決定してもらい、その練習を通して行った。

燕返、小手抜、押小手、下受蹴、袖抜、逆小手の順である。

自分で言うのもなんだけれど、ろくに練習をしていないのに、急に息子がうまくなって驚いた。

ところどころ直さないといけないところはあるけれど、全体的に姿勢が格好よく決まっているのである。

息子の成長に、私も負けずに練習しないといけないと励まされた。

やはり、ほめるのは効き目がある。教えるのときに、けなすのは一番よくない。

「だいぶうまくなったね。いまのはいいねえ」とか言っていると、それだけで、相手は上手になった気になるし、自信がついて、自然に風格が備わってくる。そうすると、それにつれて自分の動きも正確になり、お互いにうまくなれっていく。

私は、親子でこんなふうにお互いを高めあえるのが、涙が出てくるほど嬉しい。

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重大ニュース

私の授業の評判がいいらしい。そういう情報が間接的に伝わってきた。

これは英語のできないクラスだけの話だと推測できる。

私は、英語の得意な人には本当は得意なんていえるレベルじゃないだろうということをわからせてあげて地獄に突き落とす。苦手だとする人には、英語ができると威張っている連中も、自分たちと大して差がないことを見せてやる。

だいたい英語を苦手とする人は、それで安心し、苦手意識を克服する可能性を与えられる。一方、英語が得意だとする人は、天狗になって自分の能力を過信することなく、正しい学習方法を知り、よりいっそう精進していく。

しかし、おそらく、私のやり方ではTOEICのスコアが600点以上の学生には物足りないだろう。彼らは、できるだけ速く多くの情報を処理する能力を鍛えたいと思い込んでいるからである。まあ、そういうアホな連中は救いようがないので、自分の馬鹿さ加減に気づくまで放っておくしかない。

私のリーディングの授業は、教育学や第二言語習得だけではなく、新批評や象徴主義や構造主義やモダニズムを踏まえた英文学研究をベースにしているので、テキストをものすごく深く読むという特徴がある。

リーディングというのは、基本的に、不完全な人間が書いた不完全な文章の穴を、自分の想像力を働かせながら埋めていき、思考の流れを丁寧にたどりながら、何を言おうとしているのかをできるだけ正確に解釈していく作業である。横を縦に訳して内容把握の確認問題に回答したり、知っている単語の数を増やすことだけを目的とする授業を受けてきた学生は、相当なショックを受けるらしい。

その上に、声に出して読んで、受け入れられる発音やイントネーションを身につける練習もする。これはリスニングや会話にも役立てることができる。さらには、ディクテーションをしたり、それをもとに英作文をして自分の考えを英語でまとめる作業もする。こういう作業ができるようになったら、プレゼンだって簡単である。

日本の学生が、高校時代までに国語の授業でやってきたことをただ英語の授業でやるだけなのだが、学生たちの目には新鮮に映るらしい。

誰かが作ったくだらない会話のスキットを暗記して練習をするようなものは、教科書が指定されているLLの授業以外ではぜったいにしない。そんなものを練習する前にやらなければならないことがあまりに多すぎるので、そういう知的レベルの低いものの学習は学生たちにお任せしている。

重大ニュースといえば、大学のビルの中に、CNNをずっと流しているテレビが置かれていて、そこに、Swine fluという文字が躍っていた。今度はBird fluではなく、豚インフルエンザが流行しているらしい。

徐々に、人間に近い動物へとインフルエンザウィルスが住処を移動してきている。豚の次は、牛かな。それとも、タヌキかな。「尻取り」じゃないか。

しかし、インフルエンザウィルスもバカではないだろうから、人間を全滅させることはないと思う。そんなことをしたら自分たちの住処を失うし、自分たちも滅亡してしまうだろうから。

新型インフルエンザというのは、ふつうの風邪と同じで、「手洗い、うがい、顔洗い」で予防することができるという。マスコミは大騒ぎしているらしいが(テレビもラジオもネットニュースも見ないからよくわからないけれど)、いつもあの手の病気がはやるのは衛生環境が悪いところだということを見逃してはいけない。

詳しくは、こちらを参照されたし。

ほぼ日刊イトイ新聞 - Dear DoctorS ほぼ日の健康手帳

仕事から帰ってきて、子供たちと、「仲間はずれはどれ?」というゲームをした。

たとえば、「キャベツ、豚、牛の中で、仲間はずれはどれ?」というもの。

答えは、いうまでもなく、キャベツである。

「アンコウ、トビウオ、イルカ。仲間はずれはどれ?」

答えは、アンコウ。それ以外は、水面を飛ぶことができるから。私の出した問題に、長男はアンコウは深海に住むからと答えた。それでも正解だ。

「犬、サル、キジ、豚。仲間はずれはどれ?」

私は、この問題の正解が豚のつもりで作ったのだが、長男はキジと答えた。確かに、両方とも正解だ。私は、桃太郎に出てくる家来であるかどうかを想定していたが、息子は空を飛べるかどうかを基準にしていた。

 

4歳のこどもが出した驚愕の問題はこれ。

「アンコウ、ライオン、バナナ、カレー。仲間はずれはどれ?」

これは答えるのに窮した。彼によると、答えはカレーだという。もちろん、いい加減な答えである。

しかし、よく考えたら、当たっているのである。英語の場合、カレーという名詞だけは数えないから、カレーが仲間はずれなのだ。

これは、カテゴリーをつくる「基準」を設定するという訓練である。これができると、メタレベルでものを捉えることができるようになる。抽象的な発想の訓練でもある。

こういう問題をお互いに出し合って遊んでいると、子供の知性も高まるんじゃないかな、と思ったのである。

たとえば、こういうことを子供たちの教育の現場でやると、差別やいじめを助長するということを言う先生や親が出てくることは容易に想像できる。

しかし、それは差別をなくすことに貢献することはないだろう。むしろ、子供の知的レベルの向上を阻害し、そういう知的レベルの低い子供たちへの差別を助長することにもなりかねない。

教育の本来の目的は何か。自ら物事を学習する能力や、物事を順序だてて考える能力、次元を繰り上げて物事を俯瞰する能力、偏見を持たずにバランスよく物事を把握する能力などの知性を高めることである。それらを忘れて、差別を云々し、子供たちの知性を育てることをしないのは筋違いである。

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和訳

外国語は、学習が進むと、いちいち母語に訳さなくてもその言語をその言語のまま理解できるようになる。これは真実である。

英語の場合なら、英語を英語として理解できるようになると、そのときはすでに、日本語にきちんと訳すことができるようになっている。

逆に言うと、日本語にきちんと訳すことができるようになっていると、英語を英語として理解できるようになっている。ただ、その訳は必要にして十分なものに過ぎず、元の言語を100%何ももらさずに翻訳したものではないというもどかしさも同時に抱えることができる。

授業で、これまで和訳ばかりさせられてきたから英語ができるようにんらなかったと不満を漏らす学生は、和訳ばかりやらせられてきたけれど、英語を英語として理解できるように、和訳を通じて自分の頭を英語をダイレクトに理解できるような頭に作りかえられなかったのである。

その差は、トレーニング方法の誤りに起因している。

実に不思議である。

英文をきちんと読めるようになると、英文をきちんと書けるようになり、話せるようになり、聴けるようになる。

書けるようになると、話せるようになり、聴けるようになり、読めるようになる。
話せるようになると、聴けるようになり、読めるようになり、書けるようになる。
聴けるようになると、読めるようになり、書けるようになり、話せるようになる。

すべてのスキルが連関している。

実に不思議である。

言語というものはそういうものなのであろう。

この経験をせず、自然に外国語を身につけてしまった人ももちろんいる。その人はたまたま子供のころの柔軟な頭を活用できる環境にあっただけである。単にモノリンガルな生活環境で暮らしてきた人は、相当なトレーニング期間が必要である。

そのトレーニングには、和訳を含む地味な作業がたっぷり含まれている。

それがいやだからといって、留学したり、英語のシャワーを浴びたり、英会話教室に通えば、とたんに英語が口をついて出てきて、ふつうの英語圏の人と同じように話ができるようになるというのは、冗談以外の何ものでもない。いまだにそんな冗談を信じている人は、賢明とは言えない。

もともと賢明な方ではないので、そういう人はいくら留学したりしても、英語ができるようにならないだろう。

英単語を増やし、文法を使いこなせるようになれば、日本語で発想した考えを自然に変換でき、それで会話が成立すると考えるところが、素人料簡の浅はかさなのである。

言語によって発想法そのものが根本的に違う。そういうことに気づかない人は、いくら学習しても、英語なんてできるようにはならない。

「翻訳ソフト」というものを使ってみればわかるが、ああいうソフトを開発する人たちの頭は、理系なのだろうか、言語というものの恐ろしさや不可思議さや面白さをまったく理解できていない。

言語というものは、メッセージを載せる単なる器ではないということはモダニズムの世界ではすでに常識であり、私もそれは正しいと考えている。

言語という記号は、人間にそのメッセージをいちいち解釈することを要請する器である。Aという単語の次にBという単語が置かれ、さらにそれらの単語をわざわざ選択したということのなかで、一定の文脈が作られていく。その文脈を正確に理解することは、人間にも難しい。

また、言葉は文字通り解釈できない。コミュニケーションのほとんどは表情やジェスチャーや間などの要素が多い。となると、それだけ考えてみても、機械的にA言語をB言語に変換するということが不可能なことがわかるはずである。

日本語でも、要約したり、別言すると、ニュアンスが大きく変わってしまう。外国語の場合なら、その差ははるかに大きい。

言語というものは、基本的に、機械による自動翻訳には向かない。

日本語の話者と英語の話者との間には、発想法に根本的な違いがあり、その発想法を変換することができるようになれば、また話は別であるが、まだそういうことすら翻訳ソフトの開発者たちは気づいていないようである。

It thinks なんていう表現を見れば、英語教師なら誰しも目玉が飛び出でてしまう。あまりに劣悪な翻訳で、笑うに笑えない。

翻訳ソフトのレベル向上は、私が生きているうちは期待できないので、今日も、学生たちに和訳の作業をしっかりやってもらうつもり。

しかし、学生には、和訳がうまくなることが目的なのではなく、英語を英語として理解するための手段として和訳作業が必要とされるのであるということを、よく認識してもらうわなければならない。

日本人の英語学習者の中で、このことに気づいている人は、きわめて少ない。経験上、私の教え子にはたった一人もいなかった(と思う)。もちろん、同僚の英語教師は、私と同じ意見のものが多いけれども。

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GWのプラン

たいていの人が思いつくGWのプランは、旅行、観光地めぐり、キャンプ、温泉、水族館、動物園、博物館、遊園地、ディズニーランド、ショッピングモールあたりだろう。

山へ行っても登山客であふれかえっているだろうし、川や海へ行ってもBBQをやりながら酔っ払って大騒ぎしている人が多いかもしれない。

混雑とか人ごみとか騒音が大嫌いな私としては、すべて逆バリで行きたいところである。

いろいろ考えてみたのだが、ふだん行かないような、柔らかな陽光がレースのカーテンごしに差し込む小洒落たカフェレストランで、のんびりランチを食べるなんていいかなあと考えている。

もしくは、行ったことのない天然酵母のパン屋をガイドブックを頼りに探しに出かけ、そこでランチを調達し、あまり人のいない公園で、子供たちとだらだらと無駄話をしながら、のんびり食べるというのもいい。

本当は家にいてみんなでじっくり時間をかけて何かをこしらえるというのが一番いいんだけれど、結局我が家も妻の言いなりになってあくせくガツガツ遊んでしまうのかもしれない。

GWなんてなければ面倒な計画なんて立てずに済むから、みんなが普段どおりあわてずのんびり幸せに暮らせるのになと思う。

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生まれ変わったら何になりたい?

本日の「今日のダーリン」の中で、糸井さんは生まれ変わったら「河童」になりたいと書いています。そのわけはよくわかりませんが、こういうことって現実をよく理解している大人こそ、想像力を働かせて真剣に答えるべき質問ではないでしょうかと、糸井さんは言っています。まったく、その通りです。

私だったら、鼻の頭だけが真っ白の黒猫になりたいですなあ。

暗いところにいてじっと寝ている。するってえと、ネズミがおまんま粒だと思って食らいついてくる。そこをパクっとやるわけです。

そうすれば、汗水たらしてわざわざ働かなくても済むんですよ。

似たようなことをするチョウチンアンコウなんかでもいいですな。

私は、生まれ変わったら何になりたいという質問を受けて、即座に、この古今亭志ん生の小噺の一節を思い出しました。よほど働きたくない人間なんでしょうな、私は。

What would you like to be if you were born again?

今度、このネタで学生たちに英作文をしてもらおうかな。でも、まともなことを書いたらダメと言っておく。笑えなければ、許さない。

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昼ラン5K

彩湖に到着したときにはすでに11時を過ぎていた。妻はなんだかんだとランチの準備やら掃除やら洗濯やら化粧やらに忙しく、8時半に私がジャージに着替えてから、2時間以上たってようやく出発となった。あまりに長い時間待たされたので、うとうとと昼寝(朝寝)をしてしまった。

いつものようにドライバーは私。久しぶりなので、どこの道で曲がってよいのかまったく覚えていない。結局、なんども道を間違い、11時過ぎの到着になってしまった。子供たちはとっくにおなかをすかせていて、到着と同時にランチになった。

私も空腹だったが我慢して、ジャージを脱いで、ひとりで彩湖の周りを走り始めた。湖の東側からは、太陽光線が水面に反射し、キラキラと輝く様子が見える。デートスポットとしては最高である。カップルが、自転車に乗って周回したり、犬の散歩をしたり、ジョギングしたりと、ほほえましい。

橋のところで前のランナーやサイクリストが曲がっていくので私もつられて曲がると、26分ほどで元の位置に戻ってきてしまった。要するに、半周しかしなかったのである。陽の光もきついし、腹も減ったし、いまさらもう1周走る気にはなれなかったので、家族のもとに戻り、ランチとあいなった。

ランチの後は、なんだか、連日の睡眠不足と運動のしすぎでぐったりして、レジャーシートの上でごろ寝。iPodを持っていったので、古今亭志ん朝の「搗屋幸兵衛」を聴く。

しばらく子供たちを遊ばせた後、コンビニへ寄ってアイスクリームを買って食べ、彩湖の自然博物館に立ち寄った。私は2度目、子供たちは3度目。魚のエサやりの時間と重なり、子供たちは亀にエサをやる手伝いをさせてもらった。

風は強かったが、空気が乾いており、天気もよかったので、屋上から赤城山、榛名山、筑波山、武甲山、富士山、新宿辺りのビル群も、さいたま新都心もよく見えた。

展示室を見ていると、彩湖の水は埼玉県民すべての6日分まかなうことができるということを学んだ。

 

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彩湖

これから彩湖に家族でピクニックに行ってきます。

湖の周囲は10Kあるらしいので、私は走ります。
子供たちは公園の遊具で遊び、私が戻ってきたところで、みんなでお弁当を食べて帰るという予定。

学生たちの子守でたまりにたまったストレスを抜くにはジョギングが一番。

毎年11月に彩湖マラソンがありますが、ハーフの制限時間は3時間で、定員は2000人。一度走ってみたいと思っています。

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バカ

昨日、匿名で学生の英作文を黒板に書き写した後、「この人は他人に知能指数が低いと思われるから注意するように」と申し上げた。もちろん学生たちの将来を慮ってのことである。

English is important. Because, I like USA.

この発言を聞いて、首を傾げない人はいないだろう。文法的な間違いを無視することはできるが、この論理性のなさは無視できない。

「英語は重要である」というのは、これを書いた人にとって真理かもしれないが、全世界的、全宇宙的な真理だとは言えない。英語が重要であるなら、日本語だって同様に重要であるからである。

もしそういうことを言いたいのなら、English is important to me.という具合に、範囲を限定するべきである。

その上で、合理的な推論を述べる。ところが、この学生は、理由として自分のアメリカ好きを述べる。個人の嗜好が、全世界的な真理に影響を与えると考えるのは、単なる思い上がりにすぎない。「お前は、神か!」と突っ込みたくもなる。

まともな知能を持つものなら、論理的に推論(reasoning)して出された理由(reason)がbecause以下に続くはずなのだが、まともな理由になっていないので、これでは4歳児くらいの知能しかない人なのではないかと思えてしまう。

細かい点だが、アメリカといいたければ、the U.S.Aかthe USあたりにして、becauseは従属節なので、前のセンテンスに直接つなげなければならない。Because のあとのカンマもいらない。

英語を教える仕事というのは、実は、単語や文法を教えたりすることよりも、考え方や発想そのものを教えるという要素がはるかに大きい。

こういうことは案外知られていない。

発想法そのものを教えることなく、単語や文法を教えるだけでは、学生たちの口から、英語として通じる発言が出てくることがない。出てきたとしても、バカのひとつ覚えのキーフレーズだけ。That sounds goodとか。

このままではまずいと思うので、私は自分の担当している学生には、こういうことを最初からしつこく、厳しく教え込む。できない人には、容赦なく、「バカ」と言ってあげる。学生のためだと思って。

付け加えさせてもらうと、英語を学ぶ理由として、就職に役立てるため、かっこういいから、外国人と話がしたいからということを言う人が多い。

しかし、本当に就職に役に立っているのだろうか。英語が話せることがそんなに格好いいのだろうか。格好つけるために英語を話す必要があるのだろうか。外国人と議論したい具体的なネタはもっているのだろうか。

基本的に彼らにとって英語学習のモーティベーションとは、ライバルを蹴落とすため敵愾心とか、ナルシスト的な優越感とか、外国人が言っていることがわかりたいというだけの受動性でしかない(映画を字幕なしでみたいとか、外国に行って困らないようにとか)。完全に、発展途上国並みの価値観なのである。我々は中国から中華思想を見習うべきである。麻生総理はぜったいに公式の場で英語を使ってはいけない。日本語の優位性を死守するためにも。そういう意識がないところが、植民地的、発展途上国的なのである。

自分の持っている技術や知識を外国人に伝えるためとか、外国の人たちと、お互いを高めあったりするために英語は使うべきなのに、日本人はまったく人間の器が小さいというか、なんというか、本当にあきれてしまう。

学生ばかりが悪いわけではない。彼らは子供のころから、親や教師やメディアなど周囲の人間たちに、ずっと、「英語を話せると役に立つよ」、とひたすら念仏のように言われてきて、その理由さえ考えることすらなかったからである。

日本人全体が、正真正銘のバカなのである。

そういうバカを一人でも減らすために、私は英語の文法や単語を教えるだけではなく、考え方そのものも教えるようにしている。

なんだか、シンプルライフしかり、私は鈴木孝夫氏に考えが近くなってきたみたい。

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相手

日本語の「相手」という言葉は、「結婚相手」や「遊び相手」という使い方が示すように、「何かを一緒に行う人」という意味があると同時に、それに反して、「競争相手」という使い方が示すように「敵」という意味もある。両義的というか、ambivalentな言葉である。

英語のopponentという単語には、partnerという意味はない。

これは実に不思議であり、知的好奇心をそそる。

本来、日本人は「相手」を「自分に敵対する者」であると同時に、「自分の能力を高めてくれる存在」として捉えていたのかもしれない。

私は今までこのことに無自覚だったが、日英の感覚との違いにぼんやりとした違和感は感じていた。

しかし、たった30分ほど前にこれに気がつき、長年の違和感が解消し、日本人の敵の存在を見るときのまなざしのやさしさ、懐の深さを見たような思いがし、感心してしまった。

踊りや歌の調子に合わせて差し挟む掛け声や手拍子のことを「合いの手」というが、「相の手」、「間の手」という書き方もあある。

「相」は、「何かと何かの間」でもあり、「合わせる」や「一致させる」という意味でもあるのだろう。

ちなみに、漢字の「相」では、「木」を「目」で見る姿をかたどったものであり、「面と向かう」ことを指すそうだ。

と、ここまで書いてきて、competitorという単語があることを思い出した。

この単語の語源は、com(一緒に)+pete(求める)とある。rivalとは違って、敵意を感じない言葉なのだという。こちらには、日本語の「相手」に若干近いニュアンスがあるようだ。

rivalは同じ川(river)を利用する人に由来し、川をめぐる争いの相手という意味だと辞書には書いてある。

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不幸

夕方、書店に行って、くだらない雑誌を数冊立ち読みした。実際は、パラパラとページをめくっただけ。雑誌業界、出版業界が不況であるのも詮無いことである。あんな内容じゃ、わざわざお金を出して買う人などいるはずがない。

雑誌のタイトルは忘れたが(思い出したくもないビジネス情報誌だ)、ページをめくるたび安っぽいインクの臭いが鼻につく(敗戦直後に発行されたカストリ雑誌かと錯覚した。といっても私はカストリ雑誌なんて見たことがないけれど)。

鼻につくのは何もインクの臭いばかりではない。

この雑誌には、「インターネットにも紹介されていないサイドビジネスでお金持ちになる方法」という特集が組まれている。愚にもつかない、われわれ貧乏人を馬鹿にした姿勢がたまらなく鼻につく。

どうしてネットでさえ紹介されないかは明々白々。あまりに取るに足らないからである。こうすればお金が稼げると言っても、たまたまうまく儲けられた人を紹介するだけの安易な企画。

われわれが彼らの二番煎じをしても、儲かる保証などまったくない。ほとんど0%。

だから、あんなもの何冊読んでも明らかにお金と時間の無駄。そんなことは、サルにでもわかる。

いつ書店に行っても、店頭に並んでいるのは、手に取る気にもならないタイトルの本ばかり。お金儲けか、時間やお金の節約か、あるいは田舎暮らし。編集者やライターたちは、サルやオウム並みの知能しかないのかと小言を言いたくもなる。

あれは、とどのつまり、知能の未発達な読者を食い物にして、出版社だけが儲けようというという料簡なのである。あんなクソ雑誌を買うよりも、宝くじ(貧乏人の税金!)を買うほうがまだましである。

『DIME』や『日経トレンディ』という雑誌もひどすぎる。もうコメントのしようがない。まるで、筑波山のがまの油売りである。いや、がまの油売りのほうがはるかに高尚である。ならば、ニッセンの通販カタログ並みといったほうが正確かもしれない。あれは単なるカタログであり、「批評性」はゼロであるからである。

いつも書いているけれども、世の中にあふれる情報とやらはまったく価値のないなものばかり。

「これを買え」、「あれを食え」、「これを読め」、「どこどこへ行け」、「これを知らないと損をする」。あんなものに「情報」などという立派な軍事用語を当ててよいのだろうか。

われわれが生活しているのは資本主義社会&消費主義社会だから、いまさら文句を言っても仕方がないかもしれないが、「これを買えば幸せになれる」、「これを食えば幸せになれる」と言っても、幸せになれるのは我々の方ではなく、ゴミみたいな粗製乱造品を売りつける彼らの側である。

消費者は、彼らの言うことを真に受けているたびに、懐がどんどんと寂しくなり、不幸せになっていく。

どうして不幸になるのだろうと思い悩む人をさらに不幸に陥れるのが、「幸せをつかむ100の方法」という類の本。あんなものを買ってはいけない。

こういうことって、「釈迦に説法」ですか?

「不幸」といえば、夕方行ったスーパーに、パトカーの展示イベントが開催されていた。子供たちは運転席に乗って楽しむという企画である。私は以前、とあることで、警察官に無理やりパトカーの後部座席に乗せられ恐ろしい目にあっているので、今では警察官やパトカーなんて自分の視界に入れるだけでも怖気立つ。乗せてもらうなんて、お金をもらってでも、真っ平ごめんである。無邪気な子供たちには、無論そういう経験はあるはずもない。ハンドルを握って満足げな笑みを浮かべていた。君たちは、将来、後部座席に乗せられるようなまねをしてはいけないよ。

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お直し

早朝の通勤電車の中で、古今亭志ん朝の「柳田格之進」、立川談志の「お化け長屋」を聴いた。「柳田格之進」は、嘘などついたこともないような実直な侍があらぬ疑いをかけられる噺。朝っぱらから電車の中で聴くには、けっこう深刻な作品である。

まあ、Eye openerとしては、「お化け長屋」のような、どうでもいいような軽い噺を先に聴いたほうがよかったかもしれない。この作品は、「陰にこもってものすごく」というフレーズが印象的。

帰宅の電車の中では、古今亭志ん朝の「お直し」を聴いた。聴いたと言っても、これももう何度聴いたか覚えていないほど。

「お直し」は、金に困って女郎屋を始めた夫婦の噺。夫は若衆(わかいし)になり、もと女郎の妻に酔っ払いの相手をさせる。しかし、恋の駆け引きをする妻の会話を隣の部屋で聞いているうちに、夫の焼きもちと後悔の念が高まってくる。そこがなんとも言えず、男の心をくすぐる。自分の妻に他の男の相手をさせてお金を取るなんてひどいことは誰にだってできるわけがない。この噺のサゲは気分を和ませてくれて実にいい。

「馬に行灯をくわえさせたような顔の女」というフレーズも印象的。たしかに、世の中にはそんな女がけっこういる。今日もスーパーに行ったら、あくびを手で隠さないような、色気のまったくない女がいた。あれじゃ、100年の恋も冷めるわな。

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料理

糸井重里さんのサイトから、『LIFE』という料理本が販売されている。

ずいぶん前からグルメブームというのがあって、人々がやたらに食べるものに対して批評的になっているのにうんざりしている人も大勢いる(まさに私がそう)。そういうのも手伝って、自分で料理をする男性が増えているのだそうだ。

私も時間があるときは料理をする。

料理をするときには、目も耳も鼻も手も足も頭も使う。五感をフルに使って状況を把握し、先を予測する。この色だとまだ火が通っていないとか、これから何分後には、水分が蒸発しているはずだから、スープの味はいまはこの程度の薄さでいいとか。

料理をするというのは、料理をしない人にはまったくわからないと思うけれど、実はたいへん知的な作業なのである。だから、バカが作った料理はまずいのである。

他人の作った料理を、ワインのソムリエよろしく詩的な言葉を無理に使って、高みからものを言うような姿勢で批評しながら味わうのは、本来の料理の食べ方ではない。頭の使い方がどこか歪んでいて、恥ずかしい。

料理というのは、時間と知恵(女の人は愛情も)を放り込みながら自分で作って、あるいはそんなふうに誰かに作ってもらって、料理を作った人(自分にも)や食材を作ってくださった方の労力や自然そのものに感謝しながら食べるものである。

人間は自分で料理をすると、忘れていた基本に返ることができる。そういうこともあって、料理本を買う男が増えているのかもしれない。

料理というのは、『広辞苑』によると「物事をうまく処理すること」と書いてある。だから、「料理ができる人」というのは、きちんと段取りを取って、てきぱきと物事を処理できるような人のことでもある。

『漢字源』によれば、「料」は「米+斗(ます)で、穀物をざらざらとますに落として入れ、かさをはかること」、「理」は「里は「田+土」からなり、すじめをつけた土地。理は「玉+音符里」で、宝石の表面にすけて見えるすじめ。動詞としては、すじめをつけること」という。深いねえ。

一方、英語のcookには、そんな意味はまったくない。

私の朝食は、私はHBで焼いたくるみパン。もちろん焼き立てだからね。出勤前に、1斤の3分の1を腹の中にびしっと収めた。

私が利用しているのは無料のブログなので下にgoogleの広告がついています。このごろ私が英語の話を書くので、英語学習の広告ばかりになっていて、不快な思いをしています。

みなさんは、こんなのに絶対にひっかかってはいけませんよ

英語の勉強は地味な基礎トレが必要なんです。筋トレと同じです。手っ取り早く3ヶ月でフルマラソンを2時間で走れるようになる方法なんてどこにあるんですか。英語だってそうです。何年もかかります。

大事なのは、100年前、200年前に日本人が英語に初めて触れたとき、どんなふうに理解していったのかを想像しながら英語を読み続けることです。中学高校で習った文法用語を駆使して和訳だけしていれば、英語がわかるようになるわけじゃじゃないんです。

あること(技術)を身につけること(習得)というのは、スポーツや武道ができるようになること同じやり方をするしかないのです。

海外留学をすればとたんに英語が話せるようになるのは学習者のよくある「幻想」であり、英語のシャワーを浴びているうちに、無意識に英語が口から飛び出て驚いたというのは学習者のよくある「錯覚」です。

われわれは日本語を話すときも、無意識に言葉を操ってはいません。英語だって、脊髄反射的に出てくることなんてありえません。子供のころから、「おまえはよく考えてからしゃべりなさい」と親に叱られたことはありませんか? 人間は、無意識でしゃべってはいけませんよ。バカだと思われます。

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今戸の狐

古今亭志ん朝の「今戸の狐」、立川藤志楼(高田文夫)の「紺屋高尾」、「野ざらし」、立川談志の「野ざらし」を通勤途中に聴いた。

「今戸の狐」なんて、よくできた噺で感心する。でも、博打や女郎買いの符丁がわからない人には何がおかしいのかさっぱりわからない噺なので、志ん朝師匠もまくらの中で相当な時間を割いて解説している。あまりにまくらが長いので、まるで大学の講義を聞いているような気分になった。

日本語は主語や目的語をあいまいにしたまま話を進められる言語なので、ああいう混同が起こりやすいのだろう。英語だったら、it とかthemとかばかりで、野暮な噺になるかもしれない。

立川藤志楼の落語も5年ぶりくらいに聞き返してみた。くすぐりが時代を感じさせるものがあるけれど、電車の中で笑みをこらえるのに苦労するほどおかしい。家でひとりで聴いていたら、腹を抱えて笑ってしまっていただろう。

円楽さんがとうとうボケちゃったという話とか、桂三木助(後に自殺)の自殺未遂とか、シャレで済ませられない話題が出てきて、笑うに笑えないところもあった。

円楽さんは昔、「笑点」の番組に冒頭で、「私は差別と○○人が大嫌いなんです」なんてことを言って、撮り直しになったらしい。「お前が一番の差別主義者なんだよ。」

こういうのは大好き。

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学力調査

学力調査、現場はウンザリ!? ココログニュース:@nifty

個別の話は興味はない。

だいたい私は調査そのものが信頼できないので、何の調査をしようが一向に構わない。

けれども、日本中のすべての生徒を対象にして学力を調査するという、この無駄はどうなのという疑問を抱く。紙や税金や時間の無駄である。

いかなる調査であろうとも、せいぜい1000人とか1万人とかの単位で調査すれば、だいたい統計学的には正確な結果が出せるということではなかったか。

さらにいえば、対象者の数を増やしすぎると、逆に調査結果が不正確になる可能性だってあるだろう。

それに学力というものの定義を厳密に定めて、調査をしているのかという疑念もある。

「いまから3分間でこれを覚えてください。それを正確に覚えられたかどうか調査します」という類の調査なら、人々の記憶力を正確に測定できる。

しかし、学力というものは、何かを自ら学び取る姿勢や、すでに学んだものを使って何か別のことに応用していく力のことであるとするなら、そういう力を正確に測定し、予測することは、あまりに困難である。

学んでいる途上にある人は、いままさにその力を養っているところにあるわけだから、そこで調査をしても意味がない。泳げない人が将来泳げるようになるかということを予測することは不可能であるのと同じであろう。

現時点での達成度や到達度を査定することは可能であるかもしれないが、学力というものを測定するのは、やはりあまりに難しい。

こういう学力の調査をしないのなら、すでに学校を卒業した大人を対象にするべきではないかと思う。

ものを知らない、論理的な思考のできないバカな大人たちばかりであることを、子供たちに知らせるためにもよいチャンスである。「こんなバカどもに任せておられん。俺たち下の世代の者ががんばるしかないぞ」と、子供たちを奮起させるきっかけになるはずである。

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スピード

「春はスピード練習だ」という言葉にころりとだまされて短い距離を速く走るトレーニングばかりしていたけれど、速く走れるようになったと感じるのは錯覚に過ぎないと某ランニング誌のメールマガジンに書いてあった。速くなるのはそれまでのスタミナの貯金のおかげ。そこからさらに速度が高まる保証はないらしい。

やはり地道にLSDをしてスタミナをつけていくほうがよいのかもしれない。

10Kだと少々物足りないし。

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ことば

英作文の授業の運営方針がようやく自分の頭のなかで固まってきた。数回の授業を経てからではないと、どんなふうにやっていこうかということがまったく思い浮かばないのである。やってみて初めて、自分はこういうことをやりたかったんだということに気づく。これがいつものパターンである。

学生たちに、こういうネタで作文をしたいというものを持ち寄ってもらい、それをランダムに、あるいは私の気分で選んで即興で書いてもらうというアイデアを思いついた。

そして各自が書いたものをお互いに読みあい、添削していく。添削する側も、自分のリーディング力や文法力を養っていかないと、他人の作文を修正したり、批評したりすることができない。

私がしゃしゃり出て、上から目線で正解はこうだと断言しない。そうすると、お互いに張り合うだけのエゴセントリックな人間ばかりを養ってしまうからである。私が目指すのは、学生たち自身にお互いを高めあってもらうことである。だから、お互いに切磋琢磨しないと、チームとしてひどい成績しか残せない。それは仕方がない。連帯責任なのだから。

最終的に、英作文の能力がある程度高まった時点で、一人三分ほどのプレゼンを行ってもらい、それを学生たち自身に採点させる。それと私がプレゼンの原稿を読んでつけた点数をつき合わせ、最終的な評価を算出するという仕掛けである。

おそらく学生たちは、急にネタを振られても何もかけないよと文句を言うだろう。しかし、日常会話というのは、そういうものである。急に、考えもしなかった問いが突きつけられ、それに対して何らかの返答を返さなければ相手は納得してもらえない。

たいていの人たちは、自分の考えなど持たない。私もそうである。

しかし、書き始めているうちに、あるいはしゃべっているうちに、ああ自分が言いたいことはこういうことだったんだと気がつくのである。

しかしながら、こういう結論を言ってしまったけれども、どう私が言おうとしていたこととはズレてしまっている。本当に言いたいことはもっと違うことのような気がするんだけれどなあ、という経験もする。

こういうことが起こるのは、言語というのはそういう性質を持っているものだからである。

人間は自分が意識的に言語を操っていると思いこんでいるが、実は、言語という記号によって操られている。人間は自分を主体とみなし、言語を対象とみなしているが、実は逆なのである。

だから、自分の考えなどないのに、何事かについて何らかの意見が言えるのであり、また言おうとしていたこととは別のことを言ってしまうわけである。

そういうことに自覚的な人と、無自覚な人との間には、大きな断絶がある。

私は自覚的なタイプである。だから、つねに矛盾したことばかり言っていることによく気がついている。でも、その矛盾したことばかり言っていることには、きちんと首尾一貫性がある。

たいていの人間は、ブレるものである。

ブレない人は、救いようがないほど頑迷固陋な馬鹿者である。

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プチ自慢

このネタに参加するのは2回目です。

私のちょっとしたプチ自慢を思い出したので、紹介させてください。

私は人を気絶させることができます。

大男でも一発で。

でも、自分の命も相手の命も危険にさらしてしまうので、実際にはやったことはありません。

危ない話で、申し訳ありません。

コネタマ参加中: あなたの“プチ自慢”を教えて!

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朝ラン10K

今日もまた涼しいうちに朝ラン10K。

往路は26分34秒。
復路は25分9秒。

考え事をしながら走っていたので、今日はあまりがんばらなかった。

帰宅後、自転車でいつもとは違う郵便局へ行って、荷物を郵送。

ついでにぶらぶらポタリングをしていると、新しくできたパン屋を2軒発見。

ひとつは天然酵母のパン屋で、もうひとつはケーキ屋さんから暖簾わけしたような名前のパン屋。

今度、暇なときにでも妻と一緒に買いに行ってみよう。

これから洗濯物を干して、昼飯を食べて、午後からは極端に英語のできない学生たちに英語を教えに行く。

まだ朝の10時だというのに一日が終わったような気分だ。今日も5時起きだから仕方がないか。

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英語教師

私は長男に「お父さんは本当に英語の先生なの?」とよく疑われる。

だいたい、私が息子に「今日は授業で味噌汁の作り方を教えてきた」とか、「太陽はひとつではないことを教えてきた」ということを言うからいけないのかもしれない。

仕方がないので、私が英語教師であることを証明するために、英語で1から20まで発音してみせる。

いま長男は4年生だが、小さいころは、私の発音を真似るのが上手だったので、6をシックスとは言わずに、セックスに近い正確な発音をした。そのせいで私は何度、英語の発音のわからない日本人の前で恥をかかされたことか。

sixのiは、日本語「イ」と「エ」の中間の音なので、日本語のみの環境の中で育っている子供にはその音を発音するのが難しいようだ。「イ」よりも少し口を大きく開けて、「エ」よりも少し口を小さくすれば誰にだって簡単に出せる音なのだが、標準的な日本語ではまず出すことのない音であるため、「イ」か「エ」のどちらかで代用してしまう。

たいていの日本人は、この音をイで代用している。ところが、私のように英語の正確な発音を心がけている親の子供は、どちらかというとエのほうを使い、セックスと言ってしまう。

だから、私が英語教師であることを証明する唯一の根拠は、子供が6という数字をセックスと発音することかもしれない。

長男は環境のせいだと思うが、今は日本人らしくシックスと発音するようになった。

しかし今度は4歳の次男が人前で無邪気にセックスと大声で言うようになってしまった。私の不安な日々はまだまだ終わりそうもない。

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誤ると謝る

ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム

糸井重里さんが会社の内部資料らしいのですが、おもしろいので引用させてもらいます。

「ほぼ日」の約束三原則

1.できるだけ約束をする。

2.できる約束だけをして、守る。

3.約束が守れなかったら全力で謝る。

3のあとに、「ついでに言うと、相手に謝らせるようなことがあった場合、こちらにも大きな責任があります」と付け加えられている。これですよ、これ、これ。その人が信頼できる人かどうかが決まるのは。「どうして失敗したんだ」と相手を責める前にまず自分には非がなかったかどうか考えましょう。「脚下照顧」の精神で。

ところで、「謝る」も「誤る」も同じ「あやまる」と読むことに、みなさんはお気づきでしょうか。

誤ったときに、誤ったことを認める。それを現代の日本語では「謝る」と書きます。でも、読み方は一緒。

「あやまる」に当てられた漢字は、感謝の「謝」。中国語では、「誤」と「謝」はまったく別物なんでしょうね。

でも、日本語では、「誤る」も「謝る」も「あやまる」です。

ということは、この「あやまる」は、自分が誤ったことを素直に認めると同時に、相手が自分の謝罪を快く受け入れてくれたことに感謝する行為なのです。

ある人が誤りを認め、それを詫びているのに、先方がそれを許さない場合、謝罪という取引は成立しません。つまり、その取引が成立以前の状態では、「誤り」が事実なのかどうか確定されなくなってしまいます。だから、必然的に、謝られた側は相手の誤りを許さざるをえなくなり、また、誤りを犯した側は、それを受け入れてくれる相手の懐の深さに感謝するのです。

つまり、誤ると謝るは日本語の「あやまる」という言葉の中で、完全に一体化し、不可分な1セットになっているというわけです。(いやあ、まったく、私は哲学者みたいなことを言うなあ。)

そう考えてみると、「あやまる」って素敵な言葉に思えてきませんか。

この「ほぼ日」の約束三原則の附則には、問題は、対立的にでなく、協同的に、解決しよう」と書いてあります。

私も、こういう会社で働きたいと思わせられる言葉です。

人間の関係もまた、こうありたいものです。

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お金持ちになるには

金持ちになる法則とメンタリティ|特集 - [All About マネー]All About

お金持ちになるには、以下の6つの力が必要だという。

1.素直に受け入れる力

2.実践する力

3.他者に貢献する力

4.正しく努力する力

5.自立して取り組む力

6.あきらめない力

「黄金餅」という落語がある。金に執着のある乞食坊主の西念(さいねん)が、近所を回って、お経を唱えて集めてきたお金を、誰にもとられないようにと餅にくるんで飲み込んで腹の中に溜め込んでいるうちに死んでしまうというのが噺の前半。もともと病気だったが、お金が心配で死ぬに死に切れず、お金を飲み込んだのである。そのお金を使って医者にかかれば、病気は治ったかもしれない。しかし、それすら使うのを惜しんだ。

そのクソ坊主のようにお金を使わずに溜め込めばお金持ちになれそうであるが、死んでしまっては元も子もない。

お金持ちになるには、上掲の「6つの力」が必要であるというガイドさんのご意見はもっともであるが、しかし、お金持ちの人が全員これらの力をすべて兼ね備えているかと問われたら、おそらくガイドさんは口ごもってしまうはずである。

お金持ちはお金持ちになるべくしてなったわけで、貧乏人はなるべくして貧乏になった。このガイドさんが唱える力を身につけていても、貧乏なままの人は貧乏であると考えるのが自然である。

これも座標軸を作って、4つのカテゴリーに分けてみよう。

1.6つの力を兼ね備えており、お金持ちになれる(である)。

2.6つの力を兼ね備えているが、お金持ちになれない(ではない)。

3.6つの力を兼ね備えていないけれども、お金持ちになれる(である)。

4.6つの力を兼ね備えていないので、お金持ちになれない(ではない)。

これらのカテゴリーを見たら、「6つの力」を身につけ、その効力を十分に発揮したとしても、お金持ちになれない可能性は否定できないわけである。

これらの力がなくても、お金持ちになる人もいる。

「黄金餅」のクソ坊主も、死ぬまでは実は金持ちだった。でも、使わずに腹の中にしまっていたので生活はきわめて貧乏だった。

「黄金餅」の噺の続きはこうだ。ある日、見舞いに行った金兵衛の目の前で西念が死んでしまう。金兵衛はそれを焼き場に自分でかついでいって、死体から金を取り出し、それを元手に餅屋を開き、繁盛したというのである。すごい話である。

金兵衛は、ガイドさんの唱える6つの力を持っていたのかもしれない。確かに、西念を見舞いに行く心優しさがあったし、彼が死んだ状況を素直に受け入れたし、それを自分ひとりで焼き場に運んで、あきらめずにお金を取り出す努力もした。

しかしながら、金兵衛さんが西念と出会うためには、「運」も必要である。ということは、6つの力を備えていても、まだ足りないものがあったわけである。

お金持ちになるための最大の要素は「運」である。宝くじに当たるのも運、外れるのも運。人間には、自分の人生を自在に操る能力は備わっていない。自分を超えた大きなものに突き動かされている。そういうことを忘れている人は、傲慢なビジネスマン、がめつい乞食坊主のようになってしまう。

それに、金兵衛のような人間を誰が尊敬するだろうか。

頭の単純なビジネスマンなら、このガイドさんのレクチャーを受けて感心して帰るのかもしれないが、私にはとうてい納得できない話である。

お金持ちになるということを、人生の最大の目標にしているうちは、けっしてお金持ちにはなれない。

こんなふうに、私には「素直に受け入れる力」がないので、お金持ちになれないのかもしれない。

それもまたよし。

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マラソン

去年の12月のことですが、はじめてハーフマラソンに出場し、無事完走。

走る前は、21キロなんて自分に走れるだろうかという思いでいっぱいだったのですが、走り終えた瞬間、自分が輝いて見えました。

オヤジだって、”キラキラ”と輝けるんですよ。


コネタマ参加中: あなたの中の“キラキラ”した思い出。教えてください。

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削れるもの

私の人生において「削れるもの」はほかに何があるだろうかというようなことを時々考える。

これまでに私は自分の生活から、新聞とテレビとラジオと携帯電話を追い出した。

それ以外で削れるものは、もしかしたらインターネットだけかもしれないが、それはまだできそうもない。

私の道楽もやめることはできない。自転車も、ランニングも、少林寺拳法も。

一時は絶ったコーヒーも、いまはガブガブ飲んでいる。

ほかに削れるものって何があるのだろう。

あとは、クルマかな?

でもクルマがないと、私も長男も稽古事に行けないんだよね。

だから、クルマもしばらく私の生活から削れない。

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落語

私は中学生のころから落語が好きで、よくNHK-AMの演芸番組をエアチェックして聴いていた。

当時は、春風亭小朝が二つ目の先輩たちより先に真打になったのが話題になっていた。新鮮で軽妙な口調の若い落語家が登場したという印象だった。前座噺だが、小朝の「子ほめ」があまりに面白いので、当時は健在だった祖父のところにラジカセを持っていって一緒に聴いたほどである。

いまでは小朝は「金髪の豚」と嫌味を言われているらしい。NHKで100歳の老人を集めて長生きしてくださいね、などとやっていたころのことを蒸し返され、あれは落語家に料簡ではないと談志にも批判されていた。

あとは春風亭柳昇の「結婚式風景」や10代目桂文治の「反対車」などもよく聞いた。

大学に入ったら、ぜひとも落語研究会、略して落研(おちけん)に入ろうと思っていたのだが、私が入学した大学には、残念ながらというか幸運なことに落研がなかった。

いまの50代以上の方たちの中には、落語家のように自然に上下(かみしも)を切って、二人の会話に仕立てて話をする人がいる。

ちなみに、上手は、客席から舞台を見て右側。位の高い人は、上手にいるので、その人に向かってしゃべるときは、左を向く。下手はその反対である。

おそらく、これが自然にできる人は若いころに落語文化にどっぷりつかっていた人だと思う。

私にはそれがなかなかできない。少し練習しておきたいくらいである。

もし大学に落研があったとしたら、今頃、私は落語家ではなく、落伍者になっていたかもしれない。

こういう洒落はお好きですか?

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失敗談はありません。

私には酒にまつわる失敗談はまったくありません。そもそも、お酒が飲めない体質ですからそういうことはありえないのです。

昔、大学のゼミの先生が、私がいくら飲めないと断っても、「飲めばいつか飲めるようになる。飲んで鍛えなさい」と言って、酒を飲む機会があるたびに私に無理やり飲ませようとしました。

いまなら確実に「アルハラ」で訴えられます。

先生によると、酒を飲まないのは、まじめすぎるからだということだそうです。

これは性格の問題ではなく、体質の問題なんですけれど、先生にはおわかりにはならなかったようです。

飲めない人が無理やり飲むと、すい臓だか肝臓だかに負担をかけて癌になったり、早死にするらしいです。

ともあれ、体質のおかげで、他にお金が使えてありがたいと思っています。

酒が飲める人は、下戸が酒が飲めないことに劣等感を抱いていると思いこんでいる人もいるようですが、劣等感なんてまったくありませんよ。

左利きの方は、優越感を感じられることがひとつ減って、残念でしたね。


コネタマ参加中: 酔ったら止まらない?!お酒の失敗談教えて!

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唯一と体育

私の思い違いは、腐るほどありますが、ひとまず、ひとつだけ。

私は21歳くらいまで「唯一」という言葉を「ゆいつ」と言っていました。正しくはもちろん「ゆいいつ」です。

卒論を書いているとき、昔懐かしいワープロ専用機で「ゆいつ」といくら入力しても「唯一」に変換されないので、辞書で調べたら私の間違いが発覚しました。かなり恥ずかしかったです。

「体育」も「たいく」が正しい読み方だと思っていました。みなさん当然ご存知だと思いますが、正しくは「たいいく」。

うちの長男は小学校に入学したてのころは、きちんと「たいいく」と言っていたのですが、「体育」という漢字が書けるようになるにつれて、「たいく」と言うようになってしまいました。

そのうち直してやらないと、あとで困るだろうな。

コネタマ参加中: 今だから言える!? 恥ずかしい「思い違い」教えて

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オススメは

私のオススメは、テレビを見ないこと。

地球環境のため、人類の平和のため、自分の心の平安のため、テレビは廃品回収のおじさんに持っていってもらうことをオススメします。

考えて見てください。

テレビから受け取る情報の99.9%はゴミですよ。

テレビなんか見る暇があったら、英語の勉強でもした方がはるかにましでしょ。

あるいは、スポーツを楽しむのもいいですよ。


コネタマ参加中: 4月スタートの新テレビ番組。オススメは?

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『究極の英語学習法』

私が出品していた本に注文が入った。これは非常によい本である。

私の英語の授業では、これと同じトレーニング方法を用いている。

英語を英語として理解できるようになるためには、その英文が発想された過程を順番通りに追いかけながら、頭の中に英語のイメージを再現する訓練が必要である。

たいていの英語の授業では、和訳と内容理解の確認で終わりというパターンが多い。もしくは、かんたんなスキットを教室内で覚えて、練習するだけである。この本で実況中継してくれているようなトレーニング方法を採用している授業は少ない。だから、英語脳ができないのである。

この本は、読めば、とたんに英語が理解できるという類の、営利目的でつくられたインチキ本ではない。このトレーニング方法で、たくさんの英文を読んでいるうちに、英語の頭ができていくものだということを教えてくれるたいへん貴重な本なのである。

こういう親切な本にはなかなかめぐり合えない。



今日のコネタマのランキングは、27位から25位に上昇していた。

でも、上がったら、落ちるだけ。

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英語

「英語は、日本人が国を挙げてわざわざ学ぶ必要はないものだと思う。」

3人の教員たちによる、昼飯を食べながらの熱い議論は、そういう結論に収束した。

最初にその話題を振ったのは私だが、私が投げかけた質問は「どうしてやる気のない学生がいるのでしょうね」というものだった。不思議なことに、この結論は、私の疑問に対する直球の答えになってはいないが、不思議なことに必要にして十分な解答になっている。

要するに、理路はこういうことだ。

学生が学習意欲を失うのは、目的が明確ではないことを学ばせられることに起因している。英語はその代表科目である。だから、英語は必修科目ではなく、選択科目にすればいい。そうすれば、やる気のない学生は英語の授業を受けることがなく、やる気のある学生ばかりになる。これが、「どうしてやる気がない学生がいるのか」という私の疑問から導き出される結論である。

学ぶ必要性や学ぶ理由がないものを、むりやり押し付けられている状態に耐え続けているうちに、学生たちはどんどん英語が嫌いになっていく。英語の授業でやる気のない学生が増えるのは当然の帰結である。

だから、「日本人は英語を国を挙げてわざわざ学ぶ必要はない」という結論がそこから導き出されたわけである。

英語の学習時間に当てる貴重な時間をほかのものを学ぶのにまわしたら、どれだけ日本人の能力が発揮されるかと、同僚の先生の一人は嘆く。「私だって、英語の学習に当ててきた時間をほかのものに費やすことができたら、もっとすばらしい業績を残せたかもしれないよ」と。

おっしゃる通りなのかもしれないが、だからといって、日本人が英語を学ばなかったほうが、日本人の潜在能力がより発揮されるいうことは証明できないだろう。そもそも、そんな対照実験を行っても、実験そのものが非科学的であり、導き出された分析や結論に説得力ないだろう。

私は、同僚の先生たちとは、若干違う意見を持っている。

英語は必修科目にして、英語嫌いの学生を大量に作り、やる気のない学生を増やし、彼らの貴重な時間を奪うことに、大きな問題があるわけではないと思う。そのひとつの理由は、先述したように、英語を学習しなければ、必ず日本人は優秀な業績を残せると誰にも言えないということである。

もうひとつは、英語という漬物石を頭に載せておいたほうが、日本人は劣等感を克服するチャンスや、自分や世界を相対化する視点を与えられるということもある。

第3の理由は、外国語を強制的に学ばされるということは、文化や考え方の異なる人たちと、共存することの必要性や重要性を実感させてもらえる。同時に、弱小な個人にはどうしても抗えない強力な権力が世の中を支配しているという事実も実感できる。そういうものと折り合いをつけていくことで、人は成熟することができるのである。

第4の理由は、英語の学習そのものが、なんらかの形で学習者の役に立つことが否定できないからである。

英語を話せるようになるのかどうかということと、英語を学んだことが自分の生活に役立てられたかどうかは、別の問題である。役に立つといっても、英語のおかげでより高い収入が得られるということばかりではなく、ものの考え方を学ぶのに役に立つこともあるし、自分を絶対視するようなことを防ぐのに役に立つこともあるし、スポーツのように息抜きになることもある。もし学校で学んだ英語がまったく役に立たなかったという人がいたら、その人はウソつきではないかと思う。まず外来語を理解できるようになったのは、学校で英語を学んだからであるはずだから。

ただ、国家的なプロジェクトとして、日本語以外に英語のみ話すことを日本人に強制するというのは、確かに問題はある。われわれはみな国家の臣民である前に、ひとりひとりの個人である。幸福な生活を送る権利のある個人であるからである。今の英語教育の現場で起こっているのは、お国のためになる、英語を話せる日本人を育成するということである。これはどうも間違っているように思われる。

しかし、そういう政治的な問題は、この問題をより複雑にしてしまうから私は論じたくない。

ともあれ、日本人にとって英語なんて、スポーツと一緒である。どんな言語を選ぼうとその人の自由であるべきなのだから、選択科目でもいいというのが同僚の先生たちの一致した見解であった。

矛盾をしているかもしれないが、私はそんなふうにロジカルに考える必要もないと思う。

ほかの言語ではなく、英語を教えるべきだと私が考える理由は2つある。

ある人の目にはガラクタと映るものも、別の人にとっては自分の生活には欠かせないものになるかもしれない。いつどこでガラクタが宝物になるかまったく先が予測できない状況で生きていくのなら、ガラクタでもつねに家の中においておいたほうがよいからである。

何でもかんでも、いらないものを捨ててしまうというのは、私のような中年になってからでも遅くはない。若いうちは、いろんなことに手を出すべきだ。

貴重な時間を無駄なものに費やすなというのは、残り少ない時間を大切に思うようになった老人のせりふである。

若いうちは何が大切になるかさっぱりわからない。あれもこれも貪欲に貪り食ったほうがいい。英語もそのひとつとして考えてもいいと思う。

同僚の先生たちによれば、ならば、英語ではなくて、アジアの諸言語でもいいだろうという。

そのとおりなのだが、西洋の言語は、日本語とは発想があまりに大きく異なるため、自分の言語を相対化できるチャンスを与えてくれる。ならばフランス語やドイツ語でもいいだろうという意見も理解できる。そのとおりである。

ただ、今後、アジアの人たちとの付き合いを深めていく可能性が高まってきている。その共通言語(リンガ・フランカ)としては、英語が一番経済的なのである。つまり、リスクを最小限に抑え、ベネフィットを最大限に高めることができるわけだ。これが第二の理由である。

英語でおまんまを食べさせてもらっている私としては、自分で自分の首をしめるようなことを言いたくない。それに、いまの私があるのは英語のおかげであることは間違いない。

だから、同僚の先生たちと大筋で意見の一致を見たのだが、こう考えてみると、中身はどうも違うようだ。

英語は、日本人が国を挙げてわざわざ学ぶ必要はないものかもしれないが、わざわざ学ぶのも悪くはないと思う」というのが私の結論である。

こういう非論理的な発想こそが、日本人の長所でもあると私は思う。

まあ、日本人にとって英語なんて所詮「ラジオ体操」みたいなもの。

実用的な英語というのは、実用性を求めて学習している間だけ実用的なのである。

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自信

私は威張っている人が大嫌いである。

世の中で一番嫌いな人は、威張っているバカである。

威張っている人というのは、自分がつねに正しいという自負を抱いている。そして、自分の信念を疑うというということがない。

つまり、次数を繰り上げて、二次元を三次元に、三次元を四次元にして物事を捉えるという能力が決定的に欠如しているのである。

視野が狭いから、自分の正しさを疑うことができず、他人に対して威張れるのである。

視野が広いということは、自分が過ちを犯すことを勘定に入れて、物事を捉えることができる。

つねに、自分は判断を誤るかもしれないと考えるのは、自信のなさを示しているのではなく、油断や予断をできるだけ最小限にとどめようという姿勢と同義である。

私はつねにそのような努力をしている。これを自信のなさと見なすのは見当違いである。

この姿勢はおそらく(80%から90%の確率で)誤ってはないだろうという自信を私は抱くことができるからである。

もちろん過信はしていない。いずれ私の考えが変わって前言を撤回する可能性もなきにしもあらずであるからである。

というような趣旨の話を、今日は英語の授業の中でしてきた。私は、学生たちの目には、エキセントリックな教師として映っているのかもしれない。それもまたよし。

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ダダ

こういうことは子育て中の親なら誰しも経験することであろう。

昨日の夕方、4歳の次男を連れて近所のスーパーに買い物に行った。もちろん、目的は食材の買出しである。ところが、小さな子供にとって、買い物というのは、おやつかオモチャを買うことしか意味していない。

たいてい、われわれは買い物に行く前に取り決めをする。「今日は10円のうまい棒だけしか買わないよ」とか、「100円の袋に入ったお菓子だけだよ」という具合に。そうしないと予想外の値段のものを買わされる危険があるからである。

昨日が、まさにそうだった。

私はうっかりしていた。次男の企みを忘れていた。何の取り決めもなく、お菓子売り場にいかせてしまった私が悪かった。

息子は仮面ライダーのお菓子つきおもちゃを2箱、子供用のカートに放り込み、それを憧れのまなざしでじっと見つめている。

値段を確認したら、ひとつ398円。2つだから約800円。私どもはワーキングクラスに属しているので、ミドルクラスの方々のように、そんなものを気軽に買うことは不可能である。

彼の買い物をどうしてもあきらめさせなければならない。

私は別の100円のポケモンのフィギュアを買うように勧めた。ちょうどうまい具合に、3人の子供たちが、それらを手にとっていたからである。しかし、次男の心は仮面ライダーからまったく動かなかった。

私はむりやりカートからおもちゃ(お菓子?)を取り出し、ひとつ棚に返した。すると、それを見た次男は、もうひとつのほうを引っつかみ、反対の棚に向かって放り投げた。カートをゆらして、ばたばたと大暴れをして、大声で泣きながら床に転がり始めた。もうそうなったら、手がつけられない。

私はそそくさとその場を離れ、自分の買い物を済ませ、お菓子売り場に戻ろうとした。すると、依然大泣きを続けながら、スーパーの中をさまよっている息子に途中で出くわした。

それを見て、恥ずかしくなった。

仕方がないので、ほかのお菓子を買うように勧めると、彼は120円のお菓子を手に取った。それをもってレジに並ぶと、今度は一番行列の長いところに並ぶと言い出す始末。私にはその意味がまったく理解できない。私がすいているところに移動し、そこへ来るように命じると、息子はいったん私のところに近づいてきたけれども、また元の位置に戻ってしまった。

そうこうするうちに、私の番になった。でも、手元に商品がない。私はお金を用意しているが、商品を忘れてきた間抜けな買い物客になってしまった。

そこで、私の堪忍袋の緒が切れた。「もう二度と一緒に買い物に来ないよ。わかったね。お菓子はもとのところに自分で戻すように」と言い放ち、店を足早に出てしまった。

息子は、未清算のお菓子を手に持ったまま、私の後を追って出口から出てきた。

それでは泥棒になってしまうので、しかたなく息子に代金を渡し、自分で買うようにといい、私は少しはなれたところからむっとして眺めていた。その間も、大泣きが続いていた。

帰りは、私は歩みを速め、息子と会話をしないように家路を急いだ。途中、用事を済ませて自転車で帰ってきた妻に呼び止められると、息子は道の真ん中でしゃがみこみ、さらに大泣きをしだした。

事情を説明しないまま、私はそのままひとりで家に戻ってきた。

その晩、ずっと夕食のときも、私は気分が悪く、次男とは一切口を利かなかった。少林寺の稽古に行く気力も完全に失われてしまった。

しかし、寝る前に次男は「おとうさん、今日はごめんなさい」と言って、寝床に行った。母親の入れ知恵であることは見え見えである。

もう二度と一緒には買い物に行かないという前言は撤回するが、私は買い物に行く前に、きちんと取り決めをすることを忘れないように注意することにした。

こういうときに恥をかくのは親のほうである。しばらくあそこの店には近づけないような気がする。

しかし、いつも甘やかされてばかりいる次男には、今回はよいお灸をすえられたと思う。

今日も天気がよいのでこれから自転車通勤。4月の1ヶ月だけで交通費が5000円ほど節約になる予定。その分で、ジャケットを買い足そう。

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事故

朝ランから自宅周辺に戻ってきたら、信号機のある交差点の近くで、二車線の道路の一車線をふさぐように3台の車が止まっており、2名の警察官がノートをとりながら、ドライバーと思しき人たちに事情聴取をしていた。

よく見ると、縦に並んだ3台の車の一番後ろの車のフード部分がぐにゃりと折れ曲がっている。前の2台の傷は軽そうだ。

ということは、その状況から察するに、最後の車が前の車に、思いっきりぶつかったのだと思う。

どうやら、事故の原因は、最後尾の車両のドライバーの「前方不注意」にあるようだ。

たいてい、事故を起こすドライバーには1)集中力の欠如、2)短気、3)予測力の欠如が見られる。要するに、こういう人をバカと言う。

英語のリーディングでも同じような事故はしょっちゅう起こる。

先を予測しながら読むということをまったくせず、ただ日本語として通じるように変換することだけに躍起になっている学生があまりに多いせいである。

主語と述語が定まったら、次に何が来るのか、不足した情報は何か、だいたい予測できるはずである。そういう予測力がないと、文章というものは読めない。話も聞けない。

その予測力を鍛えていない学生は、構造を捉えられず、事故を何度も何度も起こし続ける。

これは勉強ができないということではない。英語ができないということではない。

ものの考え方、トレーニング方法がそもそも完全に間違っているのである。

事故を起こすドライバーは、自分の都合しか考えない。全体の交通の流れや、信号機が変わるタイミングなどを推し量って、適切なスピードを維持するのが、賢明なドライバーである。

それができないドライバーは、無駄な動きが多い。先を急ぐあまり、無駄に車線を変更し、前の車を煽りたてる。しかし、最後には、次の信号で、自分が追い抜いた車にぴたりと追いつかれてしまう。

こういうことを毎日人々は経験しながら、いつまでたっても賢くなれない。

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選挙カー

選挙カーが走り回っていた。「民主党の枝野です。古い時代の政治を終わらせ、なんとしでも政権交代を実現させなければなりません」と言う定番のフレーズを力強く連呼し、そのあとに、今日はだれだれという候補者の応援で来ておりますと控えめに言っていた。どうやら選挙が近いらしい。

郵便局に郵便を出しに行くときに、川口市の市長選と市会議員の補欠選挙が5月17日に行われるということを知った。枝野議員は、その応援で来ていたのだ。

近頃、ローカルニュースさえも気にしなくなったので、世間の細かい動きがさっぱりわからない。

糸井重里さんが、今日の「ほぼ日刊イトイ新聞」に、3月生まれの子供と、4月生まれの子供が小学校に同時に入学することが面白いし、いいなあと思うと書いている。1年間の差が最初は大きいのだけれど、直にそんな差はどうでもよくなってしまい、後から生まれたものが、先輩をどんどん追い越していくこともある。

たとえばね、ずっと水泳をやっていた人と、
今日から水泳をやりますっていう人との間には、
最初、ずいぶん大きな差があります。
でも、同じように一所懸命に泳いでいれば、
その差はたいてい、どんどん開いていくのではなく、
縮まっていくものです。

こういうことを「いいなあ」とか「おもしろいなあ」と言える感性や心の余裕に、私はしびれてしまう。

で、私は何が言いたいのかというと、教育というのもそういう世界だということが言いたいのある。

勉強の遅れている者を馬鹿にするのは「うさぎ」であり、勉強の遅れている者は「かめ」にたとえてもいい。いったん同じクラスのメンバーになったものは、口を利いたこともなくてもすでに仲間なのである。同じ釜の飯を食っているわけではないが、目に見えないかもしれないが同じ空気を吸っている。その時点で、仲間なのである。競争相手ではない。相手を出し抜こうとした時点で、すでにその人は「うさぎ」になって負ける運命にある。

イソップの寓話では、最後に勝負に勝つのは「かめ」である。われわれはみなあの寓話を子供のころから聞かされているのに、どうして世の中には「うさぎ」が威張っているのだろうと不思議に思う。

「学歴の高さは人間性の高さと比例する」とホリエモンがほざいたそうだ。あの人は「うさぎ」タイプである。

ホリエモンはつねに挑発的なことをいう癖があるから、発言を文字通り受け取るわけにはいかない。しかし、この言葉をあの人は本気で信じているらしい。

彼の定理とは完全に矛盾するが、ホリエモン自身の人間性はかなり低い。彼はそういうことすらまったく気づいていないように思える。

果たして、民主党は「かめ」になれるのだろうか。

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朝ラン10K

雨上がりの気持ちよさを感じながら、10Kラン。9時出発、10時到着。

往路は26分37秒。
復路は24分20秒。

老人用介護マンションがジョギングコースの途中にあるのだが、そこで介護士の方に車椅子を押してもらっている90歳近いおばあさんと目が合った。

おばあさんは、私に向かって右手をゆっくり上げた。

私は、「お兄ちゃん、がんばれ。いつも見てるよ。応援してるからね」というメッセージを受け取り、そのメッセージに対して、私は会釈をした。

もちろん、おばあさんは手を上げただけである。ちょうどわきの下がかゆくなって、左手でかきむしろうとしたのかもしれない。それはわからない。

でも、私はとにかく、そう受け取ったのである。

コミュニケーションというのは、そういうものである。コミュニケーションというものは、文字通りのメッセージ(つまり記号が直接示している意味)よりも、メタメッセージ(記号から受信者が任意に読み取るもの)のやりとりの要素のほうが大きいのである。

言葉やジェスチャーというものは、物質に過ぎない。あるいは、器といってもいい。その器には、何か得体の知れないものが盛られている。それを食べる者は、それが何なのか読み解くことを求められる。読み取ったことを受けて、返答を返す。だが、本当に、それは受信者がそう思ったものとイコールで結べるのかどうかは誰にもわからない。

人間は、言語を介して、世界と和解することはできないのである。

この考え方が、モダニズムの常識である。

しかし、学生たちの圧倒的多数は、プレモダンの住人であり、常に正解はひとつであると思い込んでいる。笑止千万である。そして、たったひとつの正解を教員が示さないと納得しないし、教員というものはそういう仕事をするものだと思い込んでいる。

モダニズムの考えを常識化した教員は、たったひとつの正解しかないということを決して言わない。だから学生は混乱する。混乱に慣れていない学生は、教員を無能だと見る。だが、無能なのは、学生のほうである。

メッセージを文字通り受け取り、それ以上のことを言っていないと思う人間はよほどの馬鹿であり、世の中にはそうめったにいるものではない。

たとえば、ある人が別の人に「私はあなたを愛しています」と言ったとする。それは文字通り、「愛している」と捉える人はいない。そこにはさまざまな解釈が介在する。「ただあなたとセックスをしたい」といっているだけなのか、「あなたと暖かい家庭を築き、お互いを高め合って生きて生きたい」といっているのか、それとも、また別の意味なのか、文字からは何もわからないのである。

たとえばサルなら、危険を仲間に伝えるときに、黒板をつめで引っかくときの周波数の「キー」という音を出す。その音には、たった一つのメッセージしか乗っていない。ほかの声にも同様にひとつのメッセージしか乗っていない。

青信号は「進め」、赤信号は「止まれ」と解釈するときのように、単純明快な世界の中で生きているのが人間以外の動物である。

しかし、人間は違う。メッセージを文字通り受ける取ることができず、そのメッセージに重ねられたメタメッセージを読み解かねばならないのである。

そのメタメッセージには正解はない。メッセージの発信者にも受信者にも、いかなる確信も持てないのである。

そういう世界に、人間は生きている。

というようなことを、残りの5キロを走りながら、私は考えていた。

「走っているときはやることがないわけだから走るのは退屈なんじゃないの」と、走る習慣のない人に言われたことがある。しかし、実はけっこう忙しいのである。

足も体も頭もフル回転である。

折り返し地点の公園の水のみ場で、顔を洗った。顔を上げると、雨上がりの新緑、緑の芝生が視界に入った。

妙なことだが、「水も滴るいい女」という言葉が浮かんだ。

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学んだことを活かす

このネタは、二度目の参加。

リサイクルというと、すぐにモノを思い浮かべるけれど、リサイクルできるのは何もモノばかりではない。

知識や智慧もリサイクルできる。

学校や本や人生で学んだことを、誰かのために、大きく言えば、世界のために活用することもリサイクルのひとつである。

少林寺拳法では「技を生活に活かせ」と教え込まれる。

むろん、われわれ修行者はバカではないから、「突や蹴を使って誰かを倒せ」と受け取ることはない。警察官のような人たちなら、犯人を取り押さえるために、直接、技を活用できるかもしれないが、一般人はそんな状況におかれることはめったにないので、使う機会がない。

おそらく、「技を生活に活かせ」というのは、自分で学んだことを何かに活かそうとする気持ちを持って生きていきなさいという意味だと思う。

学校で教えていると、どうも学生たちは、テストでよい点を取り、A評価をもらって、会社の就職の面接のときに、それを勲章として面接官に見せてやりたいという意識が強すぎるように思える。そういう傾向は、今に始まったばかりではなく、今も昔も変わらないと思う。

この姿勢は、学校で学んだことを人生に活かしていると言えるのだろうか?

私の理想は、お互いに競争するより、お互いに高め合う関係の構築である

この考えは、先日引用させてもらった、アウトドアメーカーの「パタゴニア」の100のルールのひとつにも含まれている。

こういう考え方は少林寺拳法の世界では常識である。しかし、ビジネスの世界、いわゆる、「社会に出たときに役に立つ」という表現を使うときの「社会」(本当は社会というもののほんの一部の突然変異した社会に過ぎないものだが)の常識と大きくかけ離れているように思われる。

社外ではライバル会社を蹴落とし、社内ではライバル社員を出し抜くことだけが求められている旧来の企業精神は、私が理想とする人間関係とは千里の径庭がある。

一方、パタゴニアが社員に示している100のルールを見ると、世の中には、意地汚い、ハイエナのような会社しかないわけではないことがわかる。

そして、パタゴニアには、おそらく私が尊敬できるような人たちが多数いて、その人たちとお互いを高めあう関係が構築できるだろうということが容易に想像できる。

将来、世間の人々に敬意を持って見られるような企業というのは、そういう企業なのだろう。

パタゴニアは、「うちはリサイクルしてますよ。環境によいことをやっています」などとわざわざ声に出して言う会社ではない。そんなふうに宣伝すれば、会社のイメージがよくなって消費者をだませるという狭量な精神を持つ会社があまりに世の中には多い。辟易する。

話をまとめよう。

つまり、リサイクルというのは、なにもモノを捨てずに何か別のものに活用するというだけではない。リサイクルは、モノという物質的なものだけではなく、考えや知識などの精神的なものにも関わるものである。

学校や家庭や本や稽古事や仕事などを通じて、自分がこれまでに学んだことを、いろんなところに活かしていく。そういうリサイクルもあるのだということを、われわれは決して忘れてはならない。

物質文明の中を泳ぐ現代人は、どうもモノにばかり目を向けすぎる悪い傾向がある。学校や家庭の中で精神的に豊かな生活を送っていないからに違いない。

私はそういう現代人をたいへん気の毒に思う。きっと、彼らは誰にもリサイクルされずに、使い捨てされていくのだろう。技術を高め、智慧を養うことを怠ってきた派遣社員のように。


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就職の面接

笑う人事課長(就職活動応援中): 面接で、これ言われたら『合格』って言っちゃうかも

このブログを書いている方は、人事課長さんで、面接のときに「当社の事業で、何に興味がありますか」という質問をすることがよくあるという。

自分には与えられた仕事は何でもこなせる能力があること、そして自分の働く意欲の強さを示して、「バリバリ働きたいです」とか「何でもやってみたいです」などと答える人がいるらしい。何でもできるということは、裏を返せば、何にもできないということでもある。

これは「絶対」という言葉を無自覚に使う人を「絶対」に信用できないのと同じである。

「○○事業部に興味があります。理由は○○です。」という明確な答えも、自分の希望ではない部署に配属されたらどうするのという疑問を抱かせるから、ダメパターンのひとつだという。

では、この人事課長が合格させる人の模範解答は何かというと、こういうものらしい。

「御社には尊敬できる社員の方々がいます。その人達がいれば たとえ自分の興味の無かった仕事でも、続けることができると思います。」

私は、この人事課長の書いていることが、私の考えを言い当ててくれているので、ここまで引用させてもらった次第である。

やはり、興味は何かと聞かれて、明確に具体的に答えるのが、正攻法というものであろう。でも、それしか興味がないのか、と思われてしまうと、柔軟性のないやつだと思われる危険性があるので、同時に、ほかの仕事でも、私に知らない分野に挑戦してみたい気持ちがあるというメッセージも伝えておくべきである。そして、ほかの社員の方たちと、一緒に会社を盛り上げていきたいという協調性の高さを示す。

要するに、明確な高度な専門性を持ちながらも、他者との協調性、環境への柔軟な適応能力を示せる人物であることをアピールするのが、人間たちの世界ではきわめて重要なことなのである。

お勉強ができるというだけでは、片手落ち。自分の利益や都合ばかり考えて、他人にあわせることができない連中が、頭のよいやつには多い。

昨日、英語のできない学生のために私がわざわざ行った英文読解の超スローモーション解説を聞きながら、イライラしていた学校の成績のよい学生は、自分の都合しか考えられない、ただのクソガキである。つまり、自己中心的なバカなのだ。私は、殺したいほどバカが嫌いである。(ちなみに勉強ができないのは、バカではない。自分の持っている能力を単に眠らせているだけの人である。)

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面白そうな新刊

しばら本屋に行っていないうちに、いろいろ面白そうな新刊が出ていました。

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メール

今朝、パソコンを起動してメールチェックをしたら、メッセージの件数は0。

この数週間、1日のメール件数はあってもせいぜい5通くらいである。

以前は、おそらく30通くらいあった。外出していて、3日もチェックをすることができないときがあると、100通を超えるのものすごい数のメッセージがたまっていることがあった。そういうときは、中身を見ずに、片っ端から削除。

私に届いていたメッセージの99%はどうでもいいメッセージだった。たとえば、楽天ショップや銀行のDM、アンケートなどだ。だから、先月、それらを配信停止した。

友人や職場からのメッセージは、年に数回あるかどうかである。

ということは、メールなんて、私にはほとんど必要のないものなのかもしれない。(しかし、完全になくしてしまうと、アマゾンマーケットプレイスから届く注文がわからなくなり、注文をしてくださった方にご迷惑がかかってしまう。)

だから、私にはケータイすらいらない。

現在、数多くの人たちが、電車の中や駅のプラットフォームなどで、ケータイの画面をじっと見ている。メッセージを書いている人もいるし、ネットを見ている人もいるのかもしれない。

何をしようと勝手だが、そんな時間があったら、本を読んだり、思索にふけったり、落語を聴いたりしたほうが、自分に与えられた時間を活かすことになると思う。

ケータイ電話が本当に必要な人は、その中のごくわずかな数の人しかいないと思う。

彼らのほとんどは、だまされやすい善良な市民なので、電話会社に貴重なお金と時間を無駄に奪われているのである。(私は、電話会社側にとっては、性悪な市民なのだろう。)

私は遠くに離れた友人たちと何かメッセージを交換するより、近くにいる職場の友人たちと毎週直接顔を合わせて、いろんな話題を話すのが好きだ。それで満足している。

緊急のときに、誰かに救援を求める必要があるからケータイを持っている人もいる。以前の私がそうだった。しかし、緊急のときなど、そうめったに来るものではない。ケータイがどうしても必要になる緊急時は、私がケータイを持っていた数年間で1度もなかった。万が一そういうときになったら、近くにいる他人を頼ればいい。

「遠くの親戚より、近くの他人」と昔から言うではないか。

私は忙しいビジネスマンではないから、基本的にメールは必要ない。しかも、大嫌いである。

ちなみに、メールとブログ(日記)には大きな違いがある。

メールは特定の誰かに向けて伝えるメッセージである。一方、ブログは、不特定多数を読者として想定した個人的な日記である。ブログのほうは、読者がいた場合でも(私のブログになんて読者はいるのだろうか? アクセス解析を一度も見たことがないので、よくわからない。)、不特定の私の知らない人たちなので、なんの気兼ねもせずに、好きなことを書いていられる。しかも、このブログの場合、コメントやトラックバックを受け付けない設定にしているので、何の反応も返ってこない。面倒くさい喧嘩や議論にすらならない。私の間違いを正してくれるような、ご親切な方との交流も避けられる。

メールの場合、相手はどういうつもりでこの言葉を選んだのだろうなどと私はいちいち気を回して考えてしまうことがある。電話などで直接相手と話したとき、相手の口調から、相手がたとえどんな言葉を使っていても、私に向かって発しているメタメッセージを受け取ることができるので、私は安心して会話に集中することができる。

ご案内のように、知的な人間なら、言葉を文字通り受け取るのではなく、文字にはなっていないメッセージを受け取っている。そのメタメッセージをうまく交換するのが、コミュニケーションというものなのである。

メールの場合、そういうメタメッセージが受信しにくい。しかも、ブログや小説の言語とはちがって、直接的で、生活に支障が出る恐れがあるものなので、誤解釈をしてしまうと大変に危険なものなのだ。

「君子危うきに近寄らず」と昔から言うではないか。

だから、私はできるだけそういう危険なものには、便利さを犠牲にしてでも、触れたくないのである。

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混乱

一人の学生に、授業後、先生は一回の授業に情報を詰め込みすぎており、あまりにていねいに説明する傾向があると指摘された。わざわざ教えなくても気づかせられるかもしれないことを、丁寧に教えると学生が自分で考える時間を奪ってしまうというわけだ。確かに、彼の言うとおりである。自分がふだん言っていることとやっていることが矛盾していることも十分にわかっている。

しかし、私が最初の数回の授業で教えすぎるのは意図的なのである。教えすぎるとかえってわからなくなる。それを狙っているのである。

一回のプレゼンでは、数多くの情報を盛り込むと、かえって聞き手の頭を混乱させてしまい、わかりにくいものになる。それはぜひとも避けねばならないと言われている。

そういうプレゼンの一般常識もよく理解している。

しかし、学校の授業は1年間を通して行うものである。一回の授業ごとに理想的なプレゼンをするというのもけっこうなことであるが、1年間のコースの最後のほうで、帳尻が合えばいいのである。

私は最初の数回の授業で、学生の頭ををわざと混乱させる。毎年そうしている。そうするのは、彼らに自分の頭を使って考え始めさせるためである。

混乱させてもかまわない。最初に私が言ったことをすべて理解させようとは思っていないし、また何度も何度も繰り返し思い起こさせ、徐々にその考え方を刷り込んでいくのである。

私のスタイルを部屋にたとえてみよう。ここにきれいに整頓したように見える部屋があるとする。その部屋の住人がいる目の前で、私がどかどかと入り込んで、「お前んち本当にきれいに整頓されているのかよ」などといって、押入れのドアを開けて、荷物を引きずり出して、部屋中ににまき散らし、「こんなもの何に使うの」とか、「同じようなものをどうして何個も持っているんだよ」とか言いながら、部屋の中をぐちゃぐちゃにするのである。それを見た、住人の頭の中は混乱し始める。

そうすると、「追い待てよ、ここは俺の部屋だ。俺の荷物を勝手に触るな」と住人は言い出す。

そのまま、引きずり出された荷物を、押入れに無造作にしまいこんで、ぴしゃっとドアを閉めてしまう人もいる。あるいは、「なにをするんだ」と激怒し、私に殴りかかってくる人もいる。そういう人たちは、私を部屋から追い出してしまうか、自分自身から部屋を出てしまう。つまり、その時点で、そのタイプの学生は私の授業に来なくなる。私もそういうタイプが大嫌いなので、それ以降、相手にしなくなる。

魚釣りのたとえでもいい。私は誰も見たこともないような奇妙なルアーをぶらぶらさせて、魚をおびき寄せる。それを見て、面白そうだとくらいつく好奇心の強い魚と、くらいつかない無関心な魚を篩(ふるい)にかけるのである。冷笑的な学生を排除し、好奇心の強い性格の学生だけを集めるわけである。

話を戻すが、部屋をぐちゃぐちゃにされたまじめな住人は、仕方がなく自分で荷物の整理を始めだす。これが自分の頭で考えるということである。いわば、私がやっていることはショック療法なのである。

自分の手で整理整頓をしていると、自分が何を持っていて、何を持っていないかがわかり、だんだん必要なものと不要なものを区別し、不用品の処分に取り掛かるのである。

最初の数回の授業で、学生に混乱したままの情報を注射する。それを学生たちは、自分の頭のなかで整理しだす。

その整理期間は、3回目以降の授業になるわけだ。そこからしばらく私が教えることは少なくなる。ほとんどが学生任せ。

そうしているうちに学生が不安を感じ出す。自分には解けない疑問を、私にぶつけだす。それを私がまた丁寧に説明する。最初の2回の授業で説明したことを、再度説明する。

これで、かれらの頭が整理される。

そこまでついてこられた学生たちは、その後、ひたすらいろんなタイプのトレーニングに励む。考える時間はいくらでも与える。

これが私の考えている、1年間の授業の運び方である。

私にアドバイスを言いにきた学生は教育学専攻であり、おそらく理想的な1回1回の授業の理想的な運営方法を教育学専攻の教師に教え込まれているのであろう。

彼らのクライテリア(評価基準)に照らし合わせると、私の単発の授業は、残念ながら、欠陥だらけである。それは十分に自覚している。

私は学生時代に、「フランスの哲学」という授業を受講したことがある。私は半年間、担当の教授が言っていることの半分ほどしか理解できなかった。What on earth are you driving at? という感じだった。

しかし、後期に、ジャック・デリダの話が始まった。すると、前期に学習したことが、落語のまくらや、小説の伏線のようなものになっているのに気づいた。ぜんぶ、デリダを語るための予備知識にすぎなかったのだというわけだ。ヴィトゲンシュタインの言葉を借りると、前期の学習内容は「上ったらあとは捨ててもいいような梯子」だったのである。

最後の授業の日に私たちは教授から1年間の授業の感想を求められた。そのときに、私は、「先生の授業は最初わけがわからなかったのですが、最後に来て、システマチックだったことに気がつきました」と言った。「有機的」ということを選んだほうがよかったかもしれない。先生は髪の毛のだいぶ抜けてしまった頭をポリポリとかきむしりながら、私の控えめな賞賛の言葉をしっかりと受け止めてくれた。

私は、そういうのを理想にしている。

アメリカのビジネスマンが理想とするような、論旨の明確な、消費しやすい、馬鹿にでもわかるプレゼンをするのは実は簡単である。ふつうの学生が目標とするのはそのレベルで十分だと思う。

しかし、大学の授業というのは1年間という長いタイムスパンを有効に活用してそれを行うのである。単発の授業で1回1回がよくわかるという経験を積み重ねる授業のスタイルでは、単発の4コマ漫画を読ぬようなものである。大学の授業は、大河ドラマなのだ。だから、しばらくは混乱が続くのを我慢しなければ、おいしいものは食べられないのである。それにそういう混乱がない授業はまったく味気ない。

こういうものは、なかなか近頃の小粒の教師や学生には理解されないスタイルかもしれない。

私は武道を学んでいるのだが、実はその経験も私の教育方法に生かされている。

とにかく入門当初は師匠からわけがわからないことを言われる。まず術語がわからない。言っていることの意味がまったくわからない。しかも、情報量が圧倒的に多い。だから、何から手をつけてよいのかまったくわからない。

仕方がないので、とりあえず、指示されたとおりに、体を動かすことだけを考える。集中力をマックスに高めて周りの人たちをじっと観察する。重心はどちらの足にあるか、手や腕の角度はどうなっているのかなど、いろんなものをじっくり観察し、まねていく。いくらまねても、うまくいかない。どこが悪いのかもさっぱりわからない。

そうやって懸命に周りについていこうとしているうちに、次第に、ひとつずつわかることが増えていく。わからないことは、誰かに聞くか、本やインターネットで調べる。すると、ばらばらなことが書いてあり、さらに頭が混乱する。

ようやくわかってきたと思ったのに、さらにわけがわからなくなってしまう。

仕方がないので、仕入れた情報をいったん忘れる努力をする。

そうして、またゼロから歩き出す。師匠の体の動きを観察し、そのとおりに動こうとする。たまにほめられることもあるが、ほとんどの場合は、なぜだめなのかわからないまま、いろんなところを修正される。また次の稽古のときに、それをすっかり忘れている。

毎日がこれの繰り返しである。

おそらく語学の勉強も同じことだろう。結局、試行錯誤の連続である。

情報量が多いとか少ないとか、そういうレベルの話ではない。東洋の武道の世界は、教育学専攻の学生や、プレゼンおたくのビジネスマンの考えている世界とはかけ離れた深遠な世界なのである。

そういう神秘的で深遠な体験をせずに、歯ごたえのない、やわらかいお菓子のような授業ばかりを受けてきた学生は、将来きっと深みのない、底の浅い人間になるだろうと思う。

私は日本に、そんな馬鹿をこれ以上増やしたくはないと思っている。それが私の持論である。

私の言いたいのは、教え方がまずいとかうまいとかいう基準は、ひとつではないということである。

昨今の世間の常識とはだいぶ違うことを私は言っていると思う。私の考えを受け入れたくない人は受け入れなくてもけっこうだ。しかし、何事も自分の基準だけが正しいとは思わないほうがいい。世界の常識はたった一つではないのだから。

そして、世界はきれいに整理されているわけではない。いくら整理しても、整理しきれないのが世界である。

言語というものも、同じである。世の中のあらゆることは、混乱だらけである。

この混乱こそを、人間は楽しまなければならない。混乱を楽しむのが、成熟である。きっと青二才にはわからないだろうな。

リーディングの授業では、テキストを超スローモーションで読んだ。私の頭の中の動きを、超スローモーションで解説したのである。おそらく私ならせいぜい2秒くらいで読むところを、10分くらいかけて話したのだと思う。

しばらくすると、前列に座っていた学生がしびれを切らし、教科書をバタンバタンと鳴らし始めた。そういう短気な学生は毎年必ずいるので慣れている。いまはスピードの時代だ。食べ物はファーストフードが一番。スローフードなんて、まっぴらごめんだ。落語の世界のようにのんびりなんかしていられないというわけだ。

残念ながら、その時点で、その学生は終わったのである。

わたしの与えた試練に耐えられなかったわけだ。君は、もうすでにトライアルに落ちたんだよ。来週から、もう来なくていいよ。今年は単位を落として、来年また別の先生の授業を取りなさい。できれば、ファーストフードを人一倍おいしそうに食べる先生を選びなさい。

 

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GW

GW16連休をプラスに考えよう ココログニュース:@nifty

一部の製造業では、16連休というところがあるという。収入減の不安を訴える人や、単純にうらやましいという人や、せっかくの休みを自分の教育のために使えばいいという意見の人もいて喧々諤々である。

不景気に関して、私はノーコメント。人それぞれですな。小泉純一郎みたいな言い方だけど。

そんなことより、製造業も、過ごしやすいGWのあたりに長く休業するより、夏の蒸し暑い時期に従業員を休ませたほうが、社員の健康を考えたらいいのではないか?

自分の場合、とりあえず今年は首がつながったし、給料も増えた。だが、その分休みが減った。休みが減れば出かける回数も減って支出も減り、銀行口座の残高も増え、家計は助かる。

妻に聞いたのだが、スーパーなどにおいてある就職情報誌が、最近は、店頭に並ぶ日をすぎるとたちまちなくなってしまう状況が続いているのだという。それだけ、仕事を求めている人の数が増えているとううことだろう。

一家の大黒柱の給料が減れば、家計を預かる主婦は節約に励む。しかし、それだけではやりくりできないので、外に働きに出ることを考える。

ところが、子供が学校や幼稚園に通っている時間帯には、仕事の空きがなく、あるのはたいてい、早朝か、午後。夜8時くらいまでの仕事というものも多い。

そのうえ、子育て中の主婦は、子供の学校や幼稚園の役員になって、学校のイベントのときなどにミーティング出たり、イベントの裏方をしなければならない。しかも、先生との面談やら、なにやらで、しょっちゅう学校や幼稚園に呼び出される。

明らかに、どうしてそんなに幼稚園や学校は、親に頼るのだろうか。親にそこまで頼らなければならないのなら、イベントを減らせばいい。

それに5月ごろに家庭訪問が予定されている。いまは教師が家の玄関まで来て親と話しをする方法や、あるいは親が学校に行って教師と面談をするという方法もあるらしい。

しかし、5月では、まだ教師も子供のことをよく理解していないはず。そんな状況で、面談をしたり、家庭訪問をして何の意味があるのかさっぱりわからない。

とにかく、主婦たちも仕事をしないといけない状況になってきている。それなのに、学校は、主婦の時間を奪おうとする。こういうことって、時代にそぐわないのではないだろうかと思う。

前にも書いたことがあるが、我が家のGWは何の予定もなし。


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目玉焼き

目玉焼きにかけるものは、私の場合、その日の気分で決めます。

たいがい、塩コショウの入ったクレージーソルトが多いですが、ケチャップのときもあれば、ブルドッグ中濃ソースのときもあります。

ごくたまに、エバラ焼肉のたれを使うこともあります。

でも、しょうゆをかけることは、ほとんどありません。

たまごかけごはんも好きですが、そのときはたまごかけごはん専用のたれを使います。

ともあれ、食べ物というものは、安いもののほうがだんぜんうまいですね。


コネタマ参加中: 塩、醤油、ソース…、目玉焼きにかけるのは?

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朝ラン7.8K

天気予報によると、今日は朝から雨が降るだったはずだが、当初の予想が外れて、午前中は曇りがち。雨が降り出す前に、そして仕事に行く前に、走りに行った。

給水のための休憩なしで、7.8Kを38分57秒。

ということは、だね。

計算中…。

えーと、1キロあたり5分を切って、4分くらいで走ったということになる。

(大雑把)

驚き、桃の木、山椒の木、一気に時を渡りきり、ついに出た出たやっと出た、地球のアイドルヤットデタマン!

やっと、出ました。

でも、このスピードを維持した場合、10Kまでならなんとか行けると予測できるけれど、21K走り続けるのは今のところはまだ無理。明らかに、無理。

次回からは、10Kを50分で走るトレーニングをしてみよう。そうすれば、ハーフ21Kを1時間50分で走りきるという目標が視界に入ってくる。

帰宅後、10時にサブスタンシャルなランチ。まるでディナーだ。

私がランチをいただいている間に、カミさんに彼女の母親から電話がかかってきた。会話を聞いていると、次男が幼稚園で毎日飲む牛乳が紙パックではなく、200ml入りのビン(日帰り温泉の自動販売機で売っているようなタイプ)で、それを持参したコップに移し変えてから飲むので、不慣れな次男は牛乳をこぼしてしまうのだという。カミさんは、どうしてわざわざそんなふうに牛乳を飲ませるのか、と不満を母親にもらしていた。

幼稚園や学校や家庭というところは、できないことをできるようにトレーニングする場所である。そういえば、「不可能を可能にする」というキャッチフレーズをどこかで聞いたことがある。

だから、子供にできないからといって、やらせるなと親が口を出す理由が、私にはまったく理解できない。

ということを話したのだが、教育者とは縁のない世界の住人は、すぐには飲み込めないらしい。しばらく腑に落ちない顔をしていた。

でも、人間は死ぬまで自分にできることだけしかしないというわけにはいかない。

自分には多分できないと思うようなことをしていかねばならないことが圧倒的に多い。

私なんぞが人様の子供に英語を教えるなんて、学校で教えはじめるまでは想像もつかなかったんだから。

以前の自分にはできなかったことを、できるように鍛えていくこと。これが人間の最大の喜びである。その喜びを提供する場が、幼稚園や学校や家庭なのである。いや、正確に言えば、われわれに喜びを提供してくれる場はそれらに限定できるものではなく、人生そのものであると言ってもよい。

生きている限り。

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反省

20年以上前、私が思春期を歩んでいたころに、両親に向かって言った二つの言葉をときどき思い出し、反省することがある。

ひとつは母親に言った言葉である。私の進路のことで母と話をしているときに、「おかあさんは惰性で生きているようなものだね」とふと若造の私の口から飛び出したのである。「毎日同じことばかり繰り返している人生によく飽きないね。俺はクリエイティヴな生き方をしたい」と傲慢な私は言い放ったのである。

母親もよっぽどショックだったらしく、わたしたち夫婦の結納の日に、カミさんの両親の前で、抽斗の奥から古い着物を引っ張り出してくるように、「あのときはショックだったねえ」などと10年以上も前の話を蒸し返した。

私も生活の糧を得、家族を持つようになってからは、毎日惰性で生きているようなものである。惰性の力を借りないと、朝、目を覚ますことなく、あの世に行ってしまいそうな気がするくらいである。

もうひとつは父親に言った言葉である。「おとうさんは、いつも同じ道ばかり通るね。まるでネズミみたい」と。この発言も父にはそうとうショックだったらしく、あのときは1週間以上口を利いてくれなかった。私はいまだに同じ道ばかりを通るのを好まない。通勤途中でも、曲がったことのない曲がり角で曲がってみることをする。すると、意外な発見があることがあるからである。

しかし、このごろ、同じ道を毎日通るのもけっこう楽しいことだと気がついてきた。同じ道でも、季節の移り変わりの中で少しずつ風景が違っていく。そのわずかな違いを楽しむことが人生なのではないかと思えるようになってきた。いつも刺激的なことばかり探す行為に、年を重ねるにつれて、飽きてきたのかもしれない。

両方の発言をつき合わせて考えてみると、若い頃の私は、他人と違う生き方を楽しみたいという志を持っていたということがわかる。しかし、世の中というものは、そう甘いものではなく、簡単に自分の思い通りの人生を歩めるようになるものではない。あきらめざるを得ないことが、年齢とともに増えていく。

それはそれでいいのだろう。

いずれ私も自分の子供に、私が親に言ったようなことを言われるのかもしれない。いつか来た道。覚悟はできている。かかってこい!

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ゆうメール&クロネコメール便

3月にアマゾンマーケットプレイスに蔵書の一部を出品してから、本日までに11冊売ることができた。

しかし、まだ112冊も残っている。

昨日も仕事から帰ってきてから郵便局に行き、注文品の発送手続きをした。ここ1週間で3度も足を運んだので、美人の局員さんたちと顔なじみになってしまった。おふたりとも左指に指輪をはめていたので、とうに売却済みらしい。

ゆうメールだと、250gまでが210円、500gまでが290円、1kgまでが340円、それを超えると450円になる。

クロネコメール便だと、A4サイズまでの大きさで、重さが2kgを超えず、厚みが2cmまでなら160円。B4サイズだと240円。だから、厚みが2cmを超えなければ、ゆうメールよりお得だ。

梱包材や封筒にも余計なお金をかけないように注意が必要だ。こういうサイドビジネスも、けっこう大変である。

昨日、大学のキャンパスですれ違った某有名ノンフィクション作家は、お連れさんとの話の中で「あの本を図書館に全部寄贈しようかと思っているんです」などと話していた。

さすがに太っ腹だ。

成功した人生を歩んでいる方なら、私のように自分の血を抜いて売るようなことはせず、「寄贈」という発想しか思い浮かばないのだろう。

もし私が金持ちなら、チェーンではない小さな塾をひとつ建てて、近所の子供たちに寺子屋のようなスタイルで勉強を教えたいと考えている。

もっと大きな夢を言えば、貧しい外国に学校を建て、世界の中でサバイバルする方法と人生を楽しむ方法をみんなで一緒に考えるようなこともしてみたい。

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the

授業の後、「theがようやくわかりましたよ」と学生に言われた。英語教師冥利に尽きる、うれしい瞬間である。

英語を使えるようになるためには、名詞の扱い方、動詞の扱い方を理解しておかなければならない。これらは、教えるべき内容を削りに削っていって最後に残るミニマムな項目である。しかし、ミニマムといえども、日本人の前には富士山のように高く聳え立っている。サッカーでいったら、ボールの扱い方と走り方(足の使い方)に比することができるかもしれない。

これらが使いこなせなければ主語と述語すら立てられない。しかし、これらがわかれば、自動的に5文型を完成させることができる。あとは節や句などをつなげていけば、より詳しく、より複雑なことも言えるようになる。

知っている単語の数が少ない人でも、辞書さえあれば、なんとか英文を読んだり書いたりしゃべったりできるようになる。

だから、theがわかるということは、英語のエッセンスの主要な部分が理解できたということを示している。日本語を母語とする者にとっては、きわめて大きな前進なのである。

果たして、theがわかると自信を持って言える人は、日本の英語学習者の中にどれくらいいるだろうか。おそらく、その数は、笑っちゃうほど少ないはずである。

The Rolling Stones、 The Beatles、the earth、the sunなどにtheがついている理由を説明しなさいといわれて、あなたは即座に答えられるだろうか。

もちろん私は英語教師だから、小学生の子供にもわかるように、やさしく、ていねいに説明することは可能である。

英語の名詞を制するというのは、単に知っている単語の数を増やすということだけではない。日本語の訳を覚えているということだけでもない。より重要なのは、6種類もある名詞の扱い方の違いを把握して、それぞれをきちんと頭の中でイメージ化できるかどうかである。

そういうことを、「英語を英語で理解する」というのである。

まず、人は自分の中にマトリックス(そこから赤ちゃんが生まれる母体)を作っておいて、その基本原理から類推・応用して、自分の言葉をクリエイトしていく。しかし、クリエイトとはいえ、ふつうは誰かがすでに使ったことがある言葉ばかりだ。そうではなければ、他人に理解されにくいからである。

ただひたすらキーフレーズを暗誦して、それを脊髄反射のように、その状況になったときに、口をついて出てくるようなトレーニングをしても会話など一生できない。誰も、単語帳をめくって自分が言いたい表現を探す時間を与えてくれないからである。

困るのは、学校文法を憎んで、こういう基本原理を理解しようとしない人があまりに多いことである。

そして、その理解力の不足につけこんで、商売をしようとするあこぎな連中も多い。文法しらずに、自然に英語が話せるようになるというのは愚か者が抱く幻想である。英語のシャワーを浴びているうちに、英語がひとりでに口をついて出てくるというのは、夢物語に過ぎない。

文法というものは、自然にその言語が身についた人ならもう学習する必要がなくなってしまっているもので、自然に身につかなかった人ならばしっかり学習する必要があるという性質を持っている。

自然にサッカーができるようになった人は、サッカーのルールを学びなおす必要がない。しかし、自然にサッカーができるようになっていなかった人は、サッカーのルールを基礎から学ぶ必要があるのと同じことである。

たとえばイギリスやインドで人気の高いクリケットというスポーツだって、子供の頃からクリケットに親しんでいる人にとっては、そのルールは常識化していて新たに学びなおすことはない。しかし、やったことも見たこともない人にとっては、何が行われているのかさっぱりわからない。いくら野球を知っている人でも、急にチームに参加しても、何をしたらよいのかさえわからないだろう。クリケットの試合に出れば(英語のシャワーを浴びれば)、クリケット(英語)がわかるようになるというのが、いかに論理的ではないか、幻想に過ぎないかというのがわかる。

日本人は論理的にものを考えることが苦手で、どうしても印象論に陥ってしまう癖がある。私が、英語の授業で、教えたいと思っているのは、まず論理的に考えることである。いくら言葉を覚えても、論理的に話が組み立てられなければ、自分の考えを相手が理解することが難しくなるものである。だから、英語の勉強というのは、知っている単語の数を増やすことや、翻訳技術を習うことや、学校文法を習うことだけではなく、母親が子供を生むように、そこから言葉が生み出されていくマトリックスを作ることなのである。

閑話休題。

私は大学に勤めているので、メディアで活躍している有名な方に触れる機会がけっこうある。今日も、学生時代の私に多大な影響を与えた方とキャンパスですれ違った。

言葉など交わす時間もないし、視線も交わすこともなかった。だが、そういう人はなぜか、異彩を放っているのである。私はその光を一瞬だが浴びることができた。こういうことも、わかってくれる人は少ない。

そういえば、給料の明細を見たら私の勤務する複数の大学のいずれもが4月から昇給を行っている。授業のコマ数が2年前に比べて年間4コマも増えたのだから当たり前のことであるが、それでもたいへんうれしいことである。

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コンピュータ・ウィルスに感染?

今朝も5時前に起床。来年40歳になるというのに、何も目立った業績を残せていないことにこのごろ焦りを感じ始めている。

昨晩、私のノートパソコンはコンピュータ・ウィルスに感染したらしい。起動しても、しばらくすると画面が消えてしまうのだ。それをループ状に繰り返すので、パソコンが使えなくなった。

土曜日には、なぜだかブルースクリーンが2度出た。来月、私のパソコンは5年目に入る。ハードディスクにも問題があるのかもしれない。

仕方がないので、OSを再インストール。Windows XPのリカバリーディスクを使う。OSがSP3までアップデートされているので、普段使っているアプリケーションのインストールも含めて、それらを元の状態に戻すには数時間かかってしまうだろう。

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遊ばざるもの、働くべからず

『遊ばざるもの、働くべからず』とは、アウトドア・ブランドのパタゴニアの創立者イヴォン・シュイナードの言葉で、パタゴニアの社訓でもある。

日本では、「働かざるもの食うべからず」という言葉が人口に膾炙しているので、「遊ばざるもの食うべからず」としたほうが、もしかしたらインパクトが大きかったかもしれない。

ともあれ、この言葉の真意はおそらく「自分を楽しませることすらできない人はお客さんを楽しませることなんてできない。だから、うちの会社では働いてもらっちゃ困るよ。そんな無粋な人間なら、遊びを通して人生を楽しもうとしているお客さんを失望させてしまうからね」ということだろう。

人生を楽しむことができないやつは、仕事も勉強もを楽しむこともできない。

ちなみに、私は遊んでばかりいる。だからこそ、仕事も勉強も楽しめると思う。

というより、仕事も勉強も遊びの一部になってしまっている。

遊ばざる者、働くべからず | hiroshima.jp

パタゴニアには、100条のルールがあるそうだ。

いずれも興味深いものだが、私が特に気に入ったものをいくつか取り上げておく。

6.お金のかからない自分なりの贅沢を知っている。

13.プロの物書きではないが文章を書くのは好きである。

16.太陽系の中のひとつの惑星に自分は生きていると感じることがあり、神秘を知る。

17.生きることはユーモラスなことだと笑うときもある。

18.ハードなときでも人生や仕事を楽しむコツを知っている。

19.大人の常識よりも子供の奔放さに本来の姿を見る。そして感心する。

20.生活習慣のひとつに日記やスケッチがある。

22.およそ営利目的だけで作られた新製品には興味がない。

28.子供の頃から好きで、ずっとやりつづけていることがある。それがあるから自分だと思う。

32.喜びや富は多くの人と共有すべきものである。

34.文明ということでいえば、先進国より未開社会に真価をみる。

35.マス・メディアを信用しない。観ない、読まない。

36.都市での流行現象に無関心のうえ、他人を意識したファッションを着ない。

37.どんな問題も頭で解決するものではなく手と足を使い解決する。

42.生涯一職人的なスピリットを持った自由人であろうとする。

46.人と能力を競いあうことよりも高めあうことに興味がある。

53.組織はシステムではなく個人が解放されるサークルであるべきだ。

54.何よりも自己の健康の管理が大切である。と同時にメンタリティの自己コントロールも。

55.フラストレーションを決して他者にぶつけない。

62.何事も決断が早い。

63.体験したことのないことを知ったかぶりをして批判的に語らない。

74.いくつになっても、たえず何か学ぼうとする。

76.シンプルな生活ほど人の強さをあらわしている。

77.テレビを観ることは、ほんの気晴らしである。観ないにこしたことはない。

90.他人のプライバシーをのぞきみしたり、干渉したりするようなことも、気もない。

91.肩書きで相手をみない、そんなものに惑わされない。

92.東洋的、日本的な文化や精神世界への関心がある。

97.臨機応変の生き方をしている。

98.それを欲しているうちには、それは本当に手に入らないことを知っている。

100.はじまりは終わり、終わりははじまり・・・であると知る。

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ゴミを減らす方法

我が家がある地域では、燃えるごみの日は週2回ある。そのたびに私はごみ収集所に45L分のごみを2袋両手に抱えて持っていくので、1週間に180Lものゴミを出していることになる。

その半分が紙ごみである。

紙ごみを仕分けすると、ダイレクトメールやクレジットカードの明細書と一緒に送られてくる旅行の案内など、かさばるものが多い。できれば私のところに送らないでもらいたいのだが、先方にも都合があるのだろうから、我慢せざるをえない。

それ以外のもので、減らせそうなものとしては、ティッシュペーパーがある。我が家では何かというとみなティッシュペーパーを使ってしまう。テーブルに味噌汁をちょっとこぼしただけでも使うのである。見ていると、1週間に1箱を軽く使い切っているようだ。5箱で250円程度だから、1週間当たり50円分だが、額としてはたいしたことはないが、ごみの量を減らすには、そのあたりを減らすしかない。

ひとつはトイレットペーパーで代用する方法も考えられる。使ったら、ためておいてトイレに流す。あるいは、昔のようにフキンを使うのもよいだろう。そうすればわずかだが、燃えるごみとして出すごみは減らせる。

しかし、フキンを何度も洗うようだと、水が汚れる。トイレに流せば、そちらのほうも処理費用がかさむかもしれない。

一番経済的なのは、やはり燃やしてしまうことだろう。そうすれば、そこからエネルギーが取り出せ、それを使ってお湯を沸かすようなこともできるのだから。

というのであれば、ごみを減らす努力をしてもあまり大きな効果が期待できないということかもしれない。

ほんと、なんとかなりませんかねえ。

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ジョグ5.5K

家族で福祉村へ。

最初は長男のペースに合わせて歩くようにゆっくりジョグ。

前回一緒に近所を走ったとき、息子は1.5K程度で音(ね)を上げていたが、今回は時々歩きながらも最初の1周を終えることができた。

5分ほど休憩を挟んでから、息子はさらにもう1周走ると自分から言い出した。驚いた。

その後、妻たちが待つ場所まで1.5Kほど歩くことなく走った。

たいていどんな子どもでも、親や教師が他人と比較して自信を失わせるようなことばかり言っていると、苦手意識だけが極端に強い消極的な人間に育ってしまう。下手でも遅くても最後までやり通したということを素直にほめてやれば、苦手意識を克服でき自分から進んで何事でも楽しめるようになる。

私は走りながら、「この前はこのあたりで息切れして音を上げていたけれど、今日はすごいねえ。さすがに4年生だ。体力がついてきたようだ。後ろを振り返って見てごらんよ。こんなに遠くまで走ってきたんだよ。すごいなあ」などと励ましているうちに、息子は最初の1周目とは違って歩こうとしなくなった。私も少しはコーチングがうまくなったようだ。

そうなったらしめたもの。「こんなふうに地面からの反発力を活かすんだよ。そうすれば、自然に足が前に出るんだ。上りの坂道は体を少しだけ前に傾ける。上を向いて走ると、ブレーキがかかるのがわかるだろ」などと言って、楽に走るコツを伝授していった。

人は他人を気にせず過去の自分とだけ比べられるようになれば、いろんなことを楽しめるようになる。それは勉強にもスポーツにも当てはまる。

だから、「成熟」というのは、他人と自分とを比べなくなることを指すのかもしれない。

その間妻は次男の面倒を見ていた。

妻は私たちが走り終えてから、ひとりで一周だけしてきた。誰かと一緒に走るという楽しさも知ってもらいたいので、子どもたちが学校や幼稚園に行っている間に今度一緒に走ろうよと妻と約束した。

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学ぶべきこと

言われなくても気づく能力の高さがその人の人間的魅力を形作る。勉強とはそういう能力を磨くことであると思う。

それを理解してもらうために座標軸を書いてみよう。

縦軸と横軸にそれぞれ、「教えてもらう」、「教えてもらわない」、「理解する(気づく)」、「理解しない(気づかない)」と置く。

すると、次の4つのカテゴリーが出来上がる。

1.教えてもらったので、理解している(気づいている)
2.教えてもらったが、理解してない(気づかない)
3.教えてもらっていないのに、理解している(気づいている)
4.教えてもらっていないので、理解していない(気づいていない)

通常、学校でおこなわれる定期試験の類は1と2を試すものである。教えられたことをきちんと理解しているかどうかが学校の勉強では重要なのである。

しかし、生徒や学生であろうとも物事の道理を学ぶのは学校だけではない。それがわからない人は学校で教えてもらえなかったから自分は知らないんだとか、学校の先生の教え方が悪かったから自分は勉強ができないんだとか、自分の無能さを他人の責任に転嫁しがちである。そんな人には人間的な魅力をまったく感じない。要するに、そういうことを言う人は与えられた仕事を処理することだけしかできないつまらない奴なのである。

大事なのは3である。「誰も教えてくれないことに気づくこと」。

その能力の高さは人間的な魅力に比例する。

人が本当に学ぶべきことというのはそういうことではないだろうかと思う。

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荷造り

今朝は5時前に起床。いじわるなクラスメートと喧嘩をし、その男に目潰しをくらわせ、羽交い絞めにして人質にとって、クラス全員の悪行に仕返しをするという夢を見た。我ながら乱暴である。だいたい、私はいじめられっ子ではなかった。つねに中立の立場であり続けてきた人間である。いまも政治的に中立でいようと努力している。だから、私が夢で見たような経験はまったくない。

そうだ、思い出した。

昨日私が仕事から帰宅したとき、妻がテレビで壮絶な乱闘シーンを見ていたのだ。我が家の親たちは、子どもの教育上よくないことばかりしている。

その乱闘シーンでは、ジャニーズ系のかわいい顔のアイドルが、彼には似つかわしくない鉄パイプを持って戦っていた(ように見えた。よく見なかったから、不正確かも)。どうやら、妻は彼のファンらしい。ケータイの画面にも彼の顔写真を貼り付けているほどだから。

また、いやなことを思い出した。

昨日長男に自転車で伴走させて、公園までジョギングをし、彼のために公園で10分だけ遊ぶ時間を取ってあげた。そのとき、長男がぜひとも遊びたいと思っていた遊具のひとつに親子連れの先客がいたので、数分待ってようやく遊ばせてもらえることになった。

その瞬間一人の女の子が近づいてきて、「か、し、て。か、し、て。かしてくれないと、だめなんだ~」などと言い始めた。それを聞いて長男も呆れ顔。たった今(10秒もたっていない!)、彼はその遊具で遊び始めたばかりなので、私は「あのね、きちんと順番を待たなければ駄目なんだよ」と彼女のがめつさ、自分勝手さをたしなめた。私は誰かをせっつく人間がどうしても許せない。出口めがけて、前にいる人を突き飛ばしながら黙って後ろから突進してくるようながめつい中高年サラリーマンの姿が重なって、どうしてもひと言、言ってやらなければと思ったのだ。

私の息子は気持ちの優しい子どもなので、ろくに遊びもせずにその女の子に遊具を譲ってあげた。様子を見ていると、2、3分後、その女の子も、別の女の子に「貸してちょうだい」と言われた。だけれども、「いま遊び始めたんだから、待っていてよ」と言い返すではないか。これこそ、ダブルスタンダードである。末恐ろしい女の子である。私は教師だから、ああいう自分勝手がどうしても許せない性質(たち)である。

そういう場合、他人の子どもでも叱ってやる。もし親が怒鳴り込んできたら、親を叱りつけてやる覚悟はできている。もし殴ってきたら、その対策はすでに講じてある。そのときは、少林寺拳法の技が役に立つ最初の日になるだろう。

少林寺拳法では、技を人生に活かせと教えられる。でも、突きとか蹴りとか押さえ込みとかいう具体的な技を人生に活かすのではなく、少林寺拳法で学んだことを「自分なりに活かしていく」という発想そのものが、技を活かすということになっているのだと思う。

日本人は、概して、あるものは役に立つ、役に立たないという発想をしがちである。そうではなく、自分があるものを役に立てるという他動詞的な発想をすることが重要なのだと少林寺拳法は教えてくれるのである。英語という他動詞表現をデフォルトとする言語を学ぶのも、日本人がそういう精神を学ぶよいチャンスであると私は考えている。

ありがたいことに、昨日の値下げの効果もあって、アマゾンに出品中の書籍にまた注文が入った。そういうわけで、朝っぱらから荷造り。郵便局が開き次第、郵送手続きをしてくる。荷物は全部で4つ。ひとつは日本ガイシの浄水器C1の使用済みカートリッジ。カートリッジはリサイクルされるらしい。残りの3つは注文品。

私は専業で古本の販売をやっているわけではないので、梱包材や箱の確保に困ることが多い。仕方がない、ホームセンターで何か調達してくるか。

今朝は朝っぱらから洗濯機を二度回した。「早起きは三文の得」というが、我が家の場合、深夜電力(午後11時から午前7時まで)を使えば、電気代は昼間の三分の一で済む。節約効果はけっこう高い。

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ブックマーク

現在、私のブラウザーのブックマークに登録されているのは、自分のブログの作成画面とアマゾンの注文管理、それから以下のブログ&ウェブサイトのみです。ホームページは、天気予報にしています。

内田樹の研究室

Letter from Yochomachi

ほぼ日刊イトイ新聞

30’sの美ジョギング

29歳、ジョギング美人生活

素敵に Run Time

All About(オールアバウト)

たまログ ~さいたまブログ~

私はウチダ先生に私淑してます。武道を始めたのも、実は先生の影響です。合気道は月謝が高かったので、少林寺拳法にした次第です。

ウチダ先生の文章からは、発想法、文体、語法など、学ぶところが多いです。教育上の経験から言わせてもらうと、まともに文章が書けない人は、語学を教えても身につかない人が多いよう です。ということは、外国語を操る能力は、母語の言語能力に比例するということでしょう。文章の巧い人は頭のよい人が多く、文章の下手な人は頭の 悪い人が多いと思います。

余丁町散人さんのブログは、「日刊ゲンダイ」好きの「団塊の世代」に顕著な不安産業的な発想があり、そういうものにはできれば近づきたくはないと思っています。都市の 住民をだまして私腹を肥やす醜い田舎モンへの痛烈な批判が、古臭いマルクス主義的な階級闘争(フェミニズムも基本的にそれを男女に置き換えただけ)を想起させてかなり鼻につくのですが、自由と独立を愛した永井荷風のファンというよしみもあって削除することはしばらくできそうもありません。

糸井重里さんのサイトは、ほのぼのさせてくれます。糸井さんの文章に触れているだけで、自分の人間的な価値が高まるような錯覚に陥ります。

ランニング関連のブログ3つがいずれも女性のものであるのは、足の速い男性ランナーのように嫌味な自慢がないからです。それに女性にはライバル心を感じないので、不安や羨望に駆られることがなく、自分のペースを乱されることもありません。

オールアバウトはビジネス・オリエンテッドの要素が濃く、「この情報を知らないと、損をするぞ、置いて行かれるぞ、これを買え」とせっつくような特集にあふれているのが気になります。しかし、その中にも、雑誌の立ち読みすらしない私には、暮らしを快適にするコツを提供してくれる珠玉の記事があるので、ときどき立ち寄らせてもらっています。

さいたまブログは地元の情報を提供してくれる数少ないブログ。紹介されているラーメン屋や蕎麦屋のメニューがちっともうまそうには見えないのは、ご愛嬌。

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週刊こどもニュース

久しぶりにテレビを見た。あまりに久しぶりなので、むさぼるように見てしまった。もちろん、私が見たのは下らない番組ではない。

大好きな週刊こどもニュースである。(ちなみに長女役の奈良瞳さんは、川口在住らしい。)

もし日本中のテレビ番組の中でたったひとつだけ残さなければならないという状況があったとしたら、私はあの番組だけはぜひとも残してもらいたい。あとはすべてなくてもいい。

その理由は、以下のとおり。

1.われわれが本当に知る必要がある、大事なニュースだけを厳選して伝えていること。(どうでもいい殺人事件や政治家の汚職、裏を取っていない噂話、扇動的な話、芸能ネタを100%省いていること。)

2.子どもにもわかるように、伝える側の大人たちが伝えるべき内容をしっかり消化して伝えていること。

3.知識人ぶった長屋の隠居のようなオヤジ評論家・オバハン評論家の視点ではなく、率直で素直な子どもたちの視点を提供していること。

4.子どもたちにいたずらに不安を与えるようなニュースを伝えないこと。

5.バランス感覚のある物の見方を提供していること。

6.昔より今のほうが世の中が悪くなっているという、まったく根拠のない愚痴を決して言わないこと。

7.スポンサーの商品を売るための宣伝番組ではないこと。

このリストはいくらでも伸ばすことはできる。

このように理由を挙げてみると、現在のニュース番組、報道番組はどれもこれも、上掲の諸条件に合わない。

ほとんどが偏見と嘘と誇大広告に満ちた規格外の欠陥番組ばかりであることがよくわかる。

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出品している書籍

4月18日現在(5月7日改訂)、私がアマゾンに出品している書籍の一覧です。都合により、一部除外しております。

本本堂未刊行図書目録―書物の地平線 (1984年) (週刊本〈6〉) [古書] by 坂本 龍一

シェイクスピア―言語・欲望・貨幣 by イーグルトン,テリー; Eagleton,Terry; 洋一, 大橋

D.H.ロレンス―その生涯と作品 (1975年) (UL双書) [古書] by T.スレイド; 山下 主一郎

村木道彦歌集 (1979年) (現代歌人文庫〈23〉) [古書] by 村木 道彦

長田弘詩集 (1968年) (現代詩文庫〈13〉) [古書] by 長田 弘

見えない隣人 (1976年) [古書] by 鈴木 志郎康

ダブル・バインドを超えて by 彰, 浅田

On Lies Secrets & Silence (Paper) by Rich, A

Paroles [French] [マスマーケット] by Prevert, Jacques

Roman Poems (Pocket Poets Series) [ペーパーバック] by Pasolini, Pier

The God Squad by Doyle, Paddy

詩の本〈1〉詩の原理 (1974年) [古書]

重力の虹〈2〉 (文学の冒険) by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 芳明, 越川; 泰樹, 佐伯; 達郎, 植野; 秀明, 幡山

重力の虹〈1〉 (文学の冒険シリーズ) by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 芳明, 越川; 泰樹, 佐伯; 達郎, 植野; 秀明, 幡山

ヴェルレーヌの余白に by 征夫, 辻

「イリヤ」からの脱出を求めて―エマニュエル・レヴィナス論 (フマニタス選書) by 龍男, 谷口

ア・プーク イズ ヒア by バロウズ,ウィリアム・S.; Burroughs,William S.; 隆昭, 飯田

レヴィナスの思想―希望の揺籃 by 正人, 合田

「だれでもないもの」の「抵抗」―パウル・ツェランと詩(ことば) [単行本] by 兀歩, 界

授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ) by イヨネスコ,ウージェーヌ; Ionesco,Eugene; 正, 諏訪; 光一, 木村; 輝臣, 大久保

シルヴィア・プラス詩集 (1976年) [古書] by 皆見 昭

星に唄おう [単行本] by 杞一, 高階

不死の人 (1968年) (新しい世界の短編) [古書] by ホルヘ・ルイス・ボルヘス; 土岐 恒二

バフォメット by ピエール・クロソウスキー; 俊明, 小島

記号と事件―1972‐1990年の対話 by ドゥルーズ,ジル; Deleuze,Gilles; 寛, 宮林

自我の行方 (岸田秀コレクション) by 秀, 岸田; 誠一, 八木

指導力の豊かな先生 [単行本] by 敦, 宗内

日本詩人全集〈第32〉明治・大正詩集 (1969年) [古書]

現代日本名詩集大成〈第1〉 (1960年) [古書]

シベリア夢幻―零下59度のツンドラを行く by 誠, 椎名

新しい仏文解釈法 増訂 [単行本] by 山田原 実; 島田 実

ビート読本―ビート・ジェネレーション 60年代アメリカン・カルチャーへのパスポート (現代詩手帖特集版)

20世紀 イギリス文学研究必携 by 謙一, 羽矢; 正純, 虎岩

日本語キーワード英語表現辞典〈名詞編〉―日本語の発想で引けて英語表現が豊かになる

記憶の宿る場所―エズラ・パウンドと20世紀の詩 [単行本] by 恒二, 土岐; 実英, 児玉

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) [単行本(ソフトカバー)] by スピヴァク,G.C.; 忠男, 上村

チャールズ・オルスン詩集 (アメリカ現代詩共同訳詩シリーズ (2)) [単行本] by チャールズ・オルスン; 太郎, 北村; 成吉, 原

ロバート・ブライ詩集 (アメリカ現代詩共同訳詩シリーズ) [単行本] by ブライ,ロバート; Bly,Robert; 俊太郎, 谷川; 寿夫, 金関

女性たちのアイルランド―カトリックの「母」からケルトの「娘」へ (平凡社選書) by 光子, 大野

Sexual/Textual Politics: Feminist Literary Theory (New Accents) by Moi, Toril

ケルトの宗教ドルイディズム by 新一, 中沢; 和雄, 月川; 真弓, 鶴岡

たのしく読める英米幻想文学 (シリーズ文学ガイド (4)) [単行本(ソフトカバー)] by 丈二, 大神田; 直人, 笹田

愛―後期恋愛詩集 by P.エリュアール; 智, 高村

マルドゥーン詩選集―1968~1983 [単行本] by マルドゥーン; 現代英米詩研究会

見える像と見えない像 (1982年) [古書] by 近藤 耕人

フィクションの修辞学 (叢書 記号学的実践) [単行本] by 米本 弘一; 渡辺 克昭; 服部 典之; ウェイン・C.ブース; Wayne C. Booth

伊藤サムのこれであなたも英文記者 [単行本] by サム, 伊藤

はじめての人の日本語文法 (はじめての人シリーズ) [単行本] by 尚史, 野田

パリ、砂漠のアレゴリー―ジャベスとともに by 和成, 鈴村

作家の墓を訪ねよう―明治の文豪から現代作家まで148人の墓碑案内 (週末計画) by 寛, 岩井

英語のしくみが見える英文法―ネイティブのセンスに迫る! [単行本] by 典久, 酒井

ママ・グランデの葬儀 (集英社文庫 40-A) by ガルシア・マルケス; 桑名 一博

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) by 仁司, 今村

19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう [単行本] by プール,ダニエル; Pool,Daniel; 信, 片岡

テリトリー論 1 (1) by 伊藤 比呂美

Ireland (Eyewitness Travel Guides)

ユビュ王―Comic by 明子, 宮川; アルフレッド・ジャリ; フランツィシュカ・テマソン

英語世界の俗信・迷信 [単行本] by 義雄, 東浦; 成寿, 成田; 英夫, 船戸

読むことのポリフォニー―フェミニズム批評の現在 by 美保子, 武田; 信恵, 角田; 和男, 岩田; 光子, 大野; 悠一, 武田; 優美, 浜名

サティケージデュシャン―反芸術の透視図 (1984年) [古書] by 鍵谷 幸信

ボリューム4倍角 [単行本] by 栄瞳, 青木

マザー・グース事典 by 茂, 渡辺

英語の発音パーフェクト学習事典 [単行本] by 深沢 俊昭

サイバネティック・フィクション―柔らかい機械としてのポストモダン文学 by デヴィッド・ポラッシュ; 伸雄, 上岡

メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー) by 孝之, 巽

CD BOOK ネイティブに英語を直してもらいました (CD BOOK) [単行本] by 貴宏, 岩城; クオ,クリスティーナ; オルダー,マーク・E.

エルビスコステロ詩集 by コステロ,エルヴィス; Costello,Elvis; 茉莉恵, 上田; えりか, 山下

笑う人間/笑いの現在 (Pola seminars) by 清和, 西村; 到, 松枝

写真の新しい読み方―表現の秘密がひと目でわかる、はじめての全世界・写真相関図 (別冊宝島EX)

グレン・グールド by WAVE編集部

アンディ・ウォーホル (1978年) (パルコ・ピクチャーバックス) [古書] by ピーター・ジダル

アイリッシュ&ケルティック・ミュージック (POP 90’s) by 敦史, 山尾

アイルランド音楽への招待 (音楽選書) by カーソン,キアラン; Carson,Ciaran; 功, 守安

超越・外傷・神曲 (ポリロゴス叢書) by エマニュエル・レヴィナス; 内田 樹; 合田 正人

旅の詩集 by 修司, 寺山

詩のボクシング 声の力 by かつのり, 楠

フランス (地球・街角ガイド タビト) by Dorling Kindersley; 同朋舎出版

Cambridge International Dictionary of English (Cambrdige Illustrated History)

(文庫)スーパーロックガイド/ローリング・ストーンズ (スーパー・ロック・ガイド) by ヘクター,ジェイムス; Hector,James; 智之, 山崎

帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ) [単行本(ソフトカバー)] by スティーブン・ハウ; 見市 雅俊

ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) [単行本(ソフトカバー)] by キャサリン・ベルジー; 折島 正司

ヴィジョンのひずみ―ブレイクの『四人のゾア』 by 繁子, 土屋

文学アメリカ資本主義 by 正司, 折島; 信二, 渡辺; 貴樹, 平石

寺山修司イメージ図鑑 [単行本] by 寺山 修司

映像のポエジア―刻印された時間 by アンドレイ・タルコフスキー; 鴻 英良

アンダー・ア・ブラッド・レッド・スカイ [VHS] [VHS] (June) U2

Smoke [VHS] [Import] [VHS] (June) Paul Auster; Wayne Wang; Harvey Keitel

Good Will Hunting [VHS] [Import] [VHS] (Dece) Gus Van Sant; Robin Williams

Shine [VHS] [Import] [VHS] (Dece) Scott Hicks; Geoffrey Rush; Justin Braine

発信型英語スーパーレベルライティング―日本人学習者の弱点を克服する技術とトレーニング [単行本] by 一三, 植田

VOAリスニングトレーニング―プロ通訳養成メソッド活用 (CD book) [単行本] by 篤志, 三島; 慶郎, 小倉

ロック伝説〈上〉―プロフィールとインタビュー36 by ホワイト,ティモシー; White,Timothy; 公夫, 石岡; 澄江, 月村

英語シャドーイング―映画スター編〈Vol.2〉【CD2枚付き】 [大型本] by 玉井 健; 西村 友美

新TOEIC TEST 英文法 出るとこだけ!―直前5日間で100点差がつく鉄則27 [単行本] by 小石 裕子

現代詩人論―現代詩史論・現代詩人論集 (1980年) [古書] by 粟津 則雄

Liar by Fry, Stephen

Paperweight by Fry, Stephen

日本語がついにとけた―日本語の扉をひらく三つの鍵 [単行本] by 武広, 桜井

Macmillan's preparation for the TOEIC test - A Guide for Advanced Learners...

母権と父権の文化史―母神信仰から代理母まで (人間選書) [-] by 茂孝, 市川

文体としての物語 by 陽一, 小森

The New Shorter Oxford English Dictionary (Dictionary) by OUP; Brown, Lesley

TOEICテスト まるごとリスニング CD付 by BSフジ『もし模試TV for the TOEIC TEST』; ECC

ヴァン・モリソン―魂の道のり [単行本] by ローガン,ジョニー; Rogan,Johnny; 京子, 丸山

競売ナンバー49の叫び [単行本] by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 正雄, 志村

ディラン、風を歌う by マイケル・クレイ; 三井 徹

すでに売れてしまった本:

知の最前線―現代フランスの哲学 (1984年) [古書] by ヴァンサン・デコンブ; 高橋 允昭

野口雨情童謡集 (1976年) (日本の童謡) [古書] by 野口 雨情; 藤田 圭雄

ランボオからサルトルへ―フランス象徴主義の問題 (講談社学術文庫) by 啓之, 平井

CD BOOK 外資系の英語プレゼンテーション (アスカカルチャー) [単行本] by ベートーベン, 浅見

究極の英語学習法K/Hシステム入門編 ワークブック [単行本] by 国井 信一; 橋本 敬子

新編 英和活用大辞典―英語を書くた

めの38万例 [大型本] by 繁治郎, 市川; Dutcher,David; Boyd,Stephen; 灌, 沢村

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ラン6K

仕事から帰宅した後、6Kラン。息子は自転車で伴走&荷物係。

前半: 17分35秒
後半: 13分34秒

後半は1回2K地点で休憩を入れた。

今日の授業は、フルスロットル。何年かぶりに満足の行く授業ができた。

その上、帰宅後、スピード練習もしたのでエネルギーが枯渇して、今はろくにものが考えられない。

ありがたいことに、このごろポツリポツリとアマゾンマーケットプレイスに出品している本に注文が入ってくる。

価格を下げれば、より多くの注文が入るのはわかっているのだが、なにぶん思い入れが強い本ばかりなので、なかなか賞味期限寸前のバナナを叩き売るようには価格を下げられない。

でも、身を切るような思いをしながら、何冊か値下げをしてみた。私の部屋のクローゼットの中で眠らせておくよりも、大事にしてくれる人に譲ったほうが本も喜ぶと思うので。

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コネタマ

コネタマって、誰かにお題を出されて、それにブロガーが何かコメントするものだけれど、これって、けっこう楽しい。

けっこう楽しいので、英作文の授業でこれを取り入れようかと思っている。

毎回、学生にお題をひとつ出してもらったり、あるいは私が出したりして、その場で何か書いてもらうのである。

これは日常会話の訓練になる。

会話というものは、即興でおこなわなければならないものである。あらかじめ用意しておいた原稿を読み上げることはまずない。ただ、頭の中に、このネタだったら、こういうことを言おうというネタ帳をつくっておくことは、日常会話で言葉に詰まるようなことを減らすことができる。

実は、英会話を勉強するより、英作文を勉強したほうが、英語で会話をするのに役に立つ。そういうことは、意外に知られていない。

英会話は、瞬間的な英作文であり、英作文ができないのに、英会話などできるわけがないからだ。

英会話の指導法は、たいていの場合、たくさんのフレーズを暗記させ、それを脊髄反射のように、口に出させるような練習に陥りがちである。

もしくは、英作文すらできないのに、ただ原稿なしにその場で無理やり不完全な英作文をさせるだけのようなものになりかねない。これだとその場限りのものになり、自分が知っているものをひたすら再生する訓練にしかならず、新しいことを学び、創造する機会を失ってしまう可能性がある。

その点、英作文の練習では、自分が知らない単語や表現を大量に覚え、それを使う訓練をすることができるという利点がある。

遠回りかもしれないが、引いては英作文が英会話の練習になるのだ。

私の同僚の先生で、英会話なんてぜんぜんできないのに、会話とリスニングのクラスを急に任されて困っている人がいる。

会話なんていったって、学生に英作文をさせて、それをプレゼンさせればいいだけである。ついでに発音指導をすれば、まともなリスニングの訓練にもなる。

プレゼンのネタは、たとえば、自分の自慢を3つ挙げなさいとか、好きな言葉や映画をひとつ出して、なぜそれが好きなのか説明しなさいとか。いくらでも考えられるだろう。

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『人生ってなんだろ』

Jinsei

 

中学1年のときの担任の先生が、この本(当時の価格は900円)をクラス全員に買わせて読ませた。担任の先生は国語の先生で、私たちに教科書には載っていない三好達治や高橋新吉や草野心平の詩を教えてくれた。頭で読むのではなく、心で味わいなさいということだけをつねにおっしゃっていた。10年ほど前に中学のクラス会があったとき、久々にお目にかかって、「先生の影響で、私はいま大学で教えさせてもらっているんです」と報告させてもらうことができた。私も教師だから、教え子にそんなことを言われたら、抱きしめたくなっちゃうかもしれない。

この本を読んだのは13歳のときだから、かれこれ26年前になる。当時どういう思いでこの本を読んだのかまったく覚えていないが、読み返してみると、いまの私の人生の基盤を作っているように感じられる。

大人は目的や目標を持って生きていかないとだめだと子供に諭すことがよくある。しかし、松田先生はこう書く。

 大事なことは、軌道修正がいつでもできるように、人間としてのしなやかさを失わないことだ。
 馬車馬のように、ある方向につっぱしるだけというのは、自分の可能性の芽をつみとっているようなものだ。
 人間は、余裕をもっていないとだめだ(21)。

この本は1973年が初版だが、当時すでに松田先生は「シンプル・ライフ」や「もったいない」の精神を提唱されている。「人類が生きのびられるかどうかは、シンプル・ライフにたのしみをみつけられるかどうかにかかっている」(39)と先生は言う。

その他、面白い部分をいくつか引用してみたい。

 実生活で必要なのは、記憶力や短時間にまとめる能力でなく、大きな問題をじっくりとりくめる能力だ。そのためには、ほかの人ともうまくつきあって、「あの人なら手助けしよう」という気にさせたり、自分の仕事をひろい視野のなかでみる度量のひろさをもっていたり、人間として誠実で、まわりの人を仕事に集中させたりする能力が大切だ。
 それだから、入学試験で頭がいいと思われる人ばかりよりすぐって、そういう人を中心にした社会をつくると、ゆがんでくる。あたたかさがない、視野がせまい、思いやりがない。
 今の社会が住みにくいのは、そのためだろう(71)。

もうひとつ、スポーツが私におしえてくれたのは、自分のからだの調子と練習とをうまく組みあわせて、試合のときに、ベストコンディションにもっていく技術だ。(中略)このコンディションの調整の技術は、あとになって期限をきめられた仕事をするときに役にたったと思っている(145)。

わたしもスポーツをするようになって、はじめてこういう考えを理解できた。

 世界中の人間は、もっともっと、つよがりをやめないといけない。人間は、よわく、はかないものだという自覚をもたないといけない。
 無限の宇宙の銀河系のなかに、たかだか七十年か八十年の生命をあたえられた、つかのまの存在と思えば、殺しあいの無意味がわかるはずだ(171)。

松田先生は、世の中で一番怖いものは「権力」であり、「権力ほど人間を腐敗させるものはない」(181)という。おっしゃるとおりである。

 昔から、どうしてこのおそろしい権力をなくせるかと、いろんな人が、いろんなことを考え、いろんなことをやったが、うまくいっていない。子どものときから、人にいばるのは悪だということを心にきざみこむしかないだろう(181)。

スピード違反をしたドライバーを捕まえたときに、全能感をみなぎらせている醜い警察官にぜひとも読んでもらいたい。

 自分と思想のちがう人間と、どうやって平和にくらすかということが、いま、私たちにいちばん必要な知恵だ。
 自分は正しいのだから、まちがった相手にはどんなことをしてもいい、というかんがえをなくさないといけない。問答無用ということばがあるが、こんなことばはなくしてしまいたい。
 どんなにかんがえ方がちがっても、相手の言い分をよくきき、自分のほうが正しいと思ったら、その正しさを相手にわからせる努力をすべきだ。
 相手にわかるように言えないというのだったら、それが正しいことかどうか、はっきりしないということだ(189)。

以下は、ゆとり教育を打ち切らせ、詰め込み教育を復活させようとしている方々にぜひとも読ませてやりたい。

 人から命令されておこなう善は善とはいいにくい。それは人から命令されておこなう悪が悪ではない場合があるのとおなじだ。
   ほんとうの道徳というものは、人から命令されること自体を、これは善だろうか、悪だろうかと、自分で判断する自由をふくんでいる。
 道徳を教科としておしえることは、この自由を制限するおそれがある(205)。

こういう言葉を読んでいると、特定に誰かに向かって言うわけではないが、「ざまあ見ろ」と言いたくなってくる。

こんなものを13歳の私は読んでいたのだ。

最後にひと言。水泳を習っておけと松田先生は言う。その理由は、日本は周りを海に囲まれているからだ。

泳げない私には、きつい一言だ。私が泳げない理由はただひとつ。周りの人たちが曲がりなりにも泳げる中で、ひとりバッタンバッタンともがいていることを見せるのが恥ずかしかったからだ。松田先生もそれをずばりと見抜かれている。

これは英語が話せない人にも共通している。下手であることが恥ずかしいと思ってしまうことが上達を阻害する最大の原因である。

だから、私は授業の最初に、英語が苦手な人も、得意な人も実は同じように英語がよくわかっていないのである。だから、苦手だと思っている人は安心してほしいとなだめる。一方、得意だと思っている人には、慢心しないでほしいと釘を刺す。そうやって、みんなを同じ土俵に乗せてしまうのである。

ちょっといいアイデアでしょ?


この本は売りませんよ。自分の息子たちが人生に悩むような時期にきたら、読ませてやりたい本なので。

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『明治人物閑話』

まだ、内田樹氏のあとがきしか読んでいないのだが、これもあとがきを読んだだけですべて読んでしまったような気分になった。

要するに、ウチダ先生によると、この本は学究的常識を軽々と突き崩してくれる本なのである。

学者たちは自説をなすには客観的典拠がなければすまされないというような常識に縛られている。私もそのうちの一人である。しかし、森銑三氏は、その説を述べているだれだれ先生はいい加減なことを言う人ではないから、その説は正しいのであるとあっさりと言い切ってしまう。

ウチダ先生は、「そうか、それでいいのか」とハッとさせられたそうだ。

大事なのは、人間を見る目の確かさだけであり、ポストモダニズムやら、カルチュラルスタディーズやら、フェミニズムだのという知的ファッションなどどうでもいいのであるという。同感である。



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『お部屋も心もすっきりする 持たない暮らし』

この本を図書館で予約したが予約件数が多くて、なかなか借りられない。しかし、以下の紹介文を読んで、読んだ気になってしまった。

持たない暮らし : akiyan.com

「持たない暮らしの”七つの習慣”」

  1. もらわない
  2. 買わない
  3. ストックしない
  4. 捨てる
  5. 代用する
  6. 借りる
  7. なしで済ます

「なしで済ます」&「代用する」ことができるかどうかで、その人の創造性が試されると思う。

このakiyan.comのサイトには、引用の域を超えた著作権違反行為であると批判するコメントが書き込まれていた。果たして、その批判は正しいのだろうか。

私は法律の専門家ではないのでまったくわからないが、本来ブックレビューというのは、本の内容をきちんと紹介する行為であり、その意味では、上掲のサイトはまっとうなブックレビューになっている。

レビューと称して、ほんの一部を取り上げ、「この本はクズである」などと作品を全否定したり、レビューアー自身の身勝手な考えを伝える場に変えてしまったり、単に自分の著作物の宣伝に使ったりするような悪質な行為も世の中にはまかり通っている。

それに比べたら、はるかにましではないだろうか。いちいち目くじらを立てるほどの行為なのだろうか。

著作権法違反だなどと大げさにがなりたてるような、正義感の強い人がひとりでも混じっていると、たちまちその場の雰囲気が悪くなり、とたんに居心地が悪くなる。

この本のタイトルは『持たない暮らし』というのだから、わざわざ本を買わなくてもよいようにしてくれているレビューアーの行為は、著者の理想とする状態をつくる補助してくれているのではないだろうか(笑)。


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自分の座標軸を持て

前にも書いたことがあるが、「自分の座標軸を持て」とは、高校の担任の先生に言われた言葉である。いまだに先生の真意はわからない。でも、私は物事をバランスよく捉えることが大切だという意味に解釈している。

たとえば、「英語を話せると役に立つ」というのが世間の常識である。しかし、X軸Y軸の座標軸で考えると、4つのカテゴリーに分けることができる。

1.英語を話せて、役に立つ
2.英語を話せるのに、役に立たない
3.英語を話せないのに、役に立つ
4.英語を話せないし、役に立たない

つまり、「英語を話せると役に立つ」という常識は、先入観というか偏見であり、バランス感覚に欠けた単なる思い込みでしかなかったということが、こんなふうに座標軸を作ることでわかるのである。英語を話せても、役に立てられない人もいるし、英語が話せなくても役に立つ人もいるということである。

「Aは役に立つ」(A=B)というスタティックな(静的な)発想になじんでいるのが日本人。だから、そういう偏見に騙されやすいのである。

英語圏の人間は他動詞表現で発想する傾向がある。だから、「私はAを役に立てる」とダイナミックに(動的に)発想する。大事なのは、役に立つとか、役に立たないとか自分勝手に価値判断をするのではなく、自分なりにどう役に立てるかどうかである。

日本人特有のスタティックな発想の不備を改善する方法を、この座標軸は教えてくれていると思う。

私は先生の言葉をそう解釈して、自分の人生に活かしている。


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『なぜオシム語は人を惹きつけるのか』

気になる目次だけを拾っていく。目次を見れば、読むべき価値がある本かどうかわかるかもしれない。

「気づきの言葉」をたくさん持っている不機嫌な男
夢ではなく現実をとことん考える
無い物ねだりではなくあるものを活かす
絶対負けない喧嘩をする
あえて挑戦的な言葉を投げかける
反権力、反権威がオシムの真骨頂
ゴーンとオシムの共通点は数学的思考法
あれこれいわず短い言葉でビシッと伝える。
感動するからハマってしまう。
言葉に「毒」をまぶす
予想を裏切り、予想を上回る
問題解決のヒントに満ちている
凡才チームが天才チームに勝つ方法を教えてくれる
「縁の下の力持ち」をけっして忘れない
失敗の知識化を教える
モチベーションを刺激するオシムのひと言
ユーモアと皮肉で包んで料理する
サッカーで人生を熱く語る
たとえ話の原則---目からうろこがぽろぽろ落ちる
たとえが巧い人、下手な人
ほかの数値に換算してみるとイメージがつかめる
「毒と挑発」の原則---鮮やかな印象でハッとさせる
毒は劇薬という特効薬に変わる
「シンプル」の原則---複雑な話を簡単、単純にする
「ひと言で言えば」を巧く使う
要約力に頭の中身が透けて見える
「天の邪鬼」の原則---常識に風穴を開ける
逆転の発想ができるか
チーム力は平均値で決まるものではない!
「論理」の原則---誤解させない、錯覚させない
三段論法、起承転結、順接展開がいちばん正確に伝わる
「ユーモア」の原則---ひと言で場の雰囲気を変える
魅力がない人は必ず話もつまらない
話の引き出しを増やしておけ
人を見抜くひと言を持っているか

私はサッカーにはまったく興味はない。しかし、監督や調教師(トレーナー)としてのオシム氏ではなく、教育者としてのオシム氏の指導法には興味がある。

僭越ながら、申し上げさせてもらうと、私が普段行おうとしているスタイルに、彼の指導法がよく似ているのである。

まずは世間の常識とはかけ離れた発想法という毒を学生たちに提示し、彼らの頭を混乱させる。その混沌の中から、シンプルでやさしい言葉を使いながら考え方を論理的、数学的に整理していき、彼らの頭の中にマトリックスを形成させる。たとえ話を多用し、なるべくイメージしやすくする。そして、学習の過程を、人生にたとえ、人生を熱く語るのである。

偉そうな言い方だが、私は、学生時代の自分が受けたかったような授業をしようと思って授業をしている。もしかしたら、オシム氏は私の同志かもしれない。

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朝ラン6K

今朝は霧雨の降る中をジャージを着て走った。前日までの気温とは違い少々肌寒い。最高気温は15度だという。今日もスピード練習。

前半3Kは16分1秒。(1キロ5分20秒ペース)
後半3Kは13分55秒。(1キロ4分36秒ペース)

正直に言えば、後半は車道の横断時を含め2度休んだ。でも、キロ4分30秒台というのは、こういうペースなんだということを実感できた。

このペースでは3キロ程度は続けて走れるが、4キロ以上は無理。徐々に、5キロくらいまで4分台で走れるようにしていきたい。その距離を500メートルくらいずつ伸ばしていけば、いずれ10キロを45分から50分で走れるようになるかもしれない。ふだんは60分くらいで走っているので、今はいくらがんばっても55分はかかる。

仮にハーフマラソンを1時間45分くらいで走ることができるようになったとしたら、フルマラソンにも挑戦してみたい。これは私の夢だ。

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貧乏人の家にあるモノBEST3

貧乏人の家にあるモノBEST3★ 2ちゃんねる ゴマ速十兵衛

私ならこの3つを挙げる。

1.プリント化粧合板の家具
2.100円ショップで買ったプラスティックのケース
3.クリーニング屋からもらった針金のハンガー

これらは我が家にもあるし、99%以上の日本人の家庭にあるはず。ということは、日本人全体が貧乏くさいということである。

ところが、これらの品々は、落語の世界に出てくる長屋には一切出てこない。江戸の貧乏長屋ほうがよっぽど貧乏くさくないということか?!

大丈夫か、にっぽん人?

このごろ、このブログのランキングが上昇傾向にあり、いま27位だ。あまり上がりすぎるのも気恥ずかしい。1ページ目に表示されるのは20位までだから、20位以内には入らないように努力をしなきゃ。

「この記事を評価する」のボタンを押したくなるのは、私の場合、その記事を読んで共感したか、笑わせられたかである。たいていの場合、ウケた勢いで押してしまう。だから、そういう気の利いた笑いとは無縁の、ストレスが募るようなことを書けばランキングが下がるのだろう。

これからは「おじゃる丸」に出てくる貧乏神さまのような、生きる気力ややる気をなくさせるような人になろう(笑)。

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金子由紀子、『暮らしのさじ加減』

10年ぶりに砂漠に降った慈雨のように実にやさしい本だ。意味がわからない? 意味なんて、そのうちわかりますよ。

金子さんは、中島敦の『山月記』の一説を引用している(22)。なつかしい友人に再会したような気分になった。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、

何事かを為すには余りに短い。

念のため、この一説を含む箇所を青空文庫から引用しておく。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎(ひごと)に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪(たま)らなくなる。

私も、「虎」かもしれない。厳しいな。

金子さんの本に話を戻そう。

金子さんは裏技や裏技を扱ったテレビ番組が嫌いだという(42)。時間の無駄を省くために、わざわざ裏技を覚えるのが面倒だからである。私も大嫌いである。私とは違って、父は裏技というのが大好きで、本棚に裏技の番組本を3冊も飾っている。しかし、どうやら何一つ続いているものはないらしいが。

さらに嫌いなものとして、ファミレスをあげている(48)。これも同感である。正直言って、ファミレスでは価格に見合うだけのおいしさや満足を感じられない。家族4人で4000円も支払って、ハンバーグ定食なんて食べても、家で食べる冷凍食品の198円のハンバーグとさして代わりがないし、むしろ家で食べるほうがゆっくり落ち着いて食事ができる。無愛想なウェイトレスにいやな思いをさせられることもないし、大声で話すお客の下品な会話を耳にすることもない。

裏技も外食も自分の時間を節約する人には都合がよいのだろうが、けっして財布にやさしいわけでもないし、生活の余裕を失わせる原因になっているのではないかと思う。

たまの休みだから、どこかへ行こう、贅沢をしようというのも、家族を不幸にする原因である。どうせ渋滞にはまってイライラをつのらせるだけなのだから、そんなことをするより、ふだんの生活を充実させることにもっと気を配ったほうがいいと金子さんは言う。

金子さんは、もうひとつよい言葉を紹介してくれている(67)。

起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半

私もモノや他人にに振り回される生活はまっぴらごめんだ。

金子さんの先輩にちょっと変わった人がいたという(128)。まるでいまの私を見ているようだ。誰もが知っている情報には疎いが、逆にトリヴィアルな知識を持っている。ほかの人が知っているのなら、教えてもらえればいいだけで、別にわざわざ自分が知らなくてもいい。膨大な知識を集めても、それらを全部処理し活用することは不可能だ。だから、自分にとって何が大切か、自分が知るべきことは何か、ということをきちんと見据えて生きるべきなのだ。

金子さんによると、中国料理は野菜をすべて加熱して、ビタミンを減らしてしまうのだが、それは人間のビタミンの処理能力を考えたものだという。限度を超えたビタミンを摂取しても、毒になるだけである。情報もそれと同じではないかと金子さんは言う。おっしゃるとおりである。

無買日(Buy othing day)というのが北米にあるそうだ(142)。一日お金を使わずに楽しむのである。お金というものは、自分の代わりに何かをしてくれるものである。自分がやりたくないことをやってもらえるし、労力のかかることをかわりにやってくれる。自分ではできないようなことを可能にさせてくれる。だから、みんなお金をほしがるのである。しかし、お金は考えることや楽しむことまで代わりにやってくれてしまう危険がある。そこで、お金を使わないというシバリを与えた時点で、その人の生きることに対するクリエイティヴィティが明らかになるのだ。得てして、お金をかけないと楽しめないと思っている人は、お金を稼ぐことが人生の第一目的となり、お金を支払ったもの=自分らしさであると勘違いしている。しかし、大切なものはお金では買えない。お金をかけないで楽しんでみることで、宝の山は自分自身であるということに気がつけるのである。

私はこの本を読んで、自己肯定感でいっぱいになった。まるで10年ぶりに砂漠に振った慈雨のようなやさしさを感じた。ほんのちょっとのさじ加減で、人生は楽しめるものになったり、つらいものになったりする。充実した人生だったと思って死んでいきたいものである。

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ナマケモノ

自分を動物に例えるとしたら、ナマケモノ以外にはありません。

ナマケモノは、ふだんは動きが緩慢ですが、敵に襲われそうになると、とたんにものすごい勢いで逃げます。

そういうところが、私好み。

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戦隊モノ

私の子供時代は、戦隊モノの元祖(?)、秘密戦隊ゴレンジャーをよく見ていた。地元にゴレンジャー・ショーが来たので喜び勇んで見に行った記憶がある。写真まで買ってきたほど。私はカレーライスが大好物のおどけたキレンジャーが好きだった。彼らの乗り物であるバリドリーンも実家の本棚にずっと飾ってあったが、残念なことに私の長男にぶっ壊されてしまった。

私の子供が見始めたのは、ハリケンジャーからだった。その後アバレンジャー、デカレンジャー、マジレンジャー、ボウケンジャー、ゲキレンジャー、ゴーオンジャー、シンケンジャーと見続けているが、ジャッキー・チェンのファンだった私が好きだったのは、ゲキレンジャー。でも、役者さんたちの動きが、クンフーの動きのようには見えないのが笑えた。腰が使えていないのだ。クンフーはそういうものなのかねえ。

デカレンジャーは、往年のアイドルで私も大ファンだった石野真子が出てきたのもよかったが、デカピンク(ウメコ)やデカイエロー(ジャスミン)という女性陣の台詞回しが振るっていた。

ゴーオンジャーでは、穢れを知らない子供たちのわきで、私はケガレシアを演じた元AV女優(今も?)の及川奈央さんのセクシーな肉体美に釘付けになっていた。日曜の朝っぱらからお父さんは何を考えているのでしょうねえ、まったく。

「スーパー戦隊百科」

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チラチラ

私は男ですから、チラチラ見てしまうのは、若い女性の豊かな胸や、ふくよかな腰、ミニスカートをはいて自転車に乗る女性の股間です(笑)

妻が入浴のために服を脱いでいるときとか、朝パジャマを脱いで着替えているときとか、胸の谷間やお尻を見てしまいます。

それ以外には、街中をジョギングしている人ですかね。男女問わず、走っている人を見ると、「同志よ、私も負けずに走るぞ」と急に元気が出てきます。

コネタマ参加中: 思わずチラチラ見ちゃう?!気になって仕方のないもの

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授業の予習

毎年GWは授業の予習に当てています。だいたいどこへ行っても混雑しているから、出かけたとしても近所の公園。その公園ですら、ふだんの日曜日よりも混んでいるほど。

GWなんて、どこも出かけずにじっとしていたほうがよいと思います。

天気がよければ、私はジョギングに出かけるつもりです。

コネタマ参加中: GWのエピソード教えて 【コネタマ選手権】

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おかげさまで

今朝は5時前に起床。2度寝ができず、そのままぼーっと起きていた。

今日も自転車通勤。私の通勤コースの途中に比較的大きなお寺がある。そこを通りかかったときに、80歳くらいのおばあさんが、お寺に向かって腰の高さあたりで手を合わせ、会釈をしてさっと通り過ぎた。すがすがしい光景だった。

私は気恥ずかしくて「おかげさまで」という言葉が人前でなかなか使えない。ところが、先日、自分よりはるかに若い人が「おかげさまで」という言葉を使って会話をしていた。

学生たちに自己紹介の文を書いてもらったときに、「ポリシー」を書いてもらった。その中に「他人に感謝すること」というようなことを書いた人が数名いた。

彼らはよい環境の中で、素直に育ってきたのだろう。いまの大学の新入生たちが育ったのは、バブルがはじけて不況になった時代である。彼らは生まれてこのかた好景気というものを知らない。きっと傲慢な夢を抱かず、つつましく生きてきたのだろう。

団塊の世代がぶち壊した日本をよくしてくれるのは、彼らのような若者かもしれない。

そういう話を昼休みに同僚の先生と話していたら、その先生が愚痴をこぼし始めた。

彼の勤務先のひとつは3流大学で、そこの学生たちはまったく勉強しようとう姿勢を見せないのだそうだ。机の上に足を乗せていたり、私語が教師の声より大きかったり、何のために大学に来ているのかまったくわからない。

私も10数年前、東京の最底辺の私立高校で教えたことがあるので、そういう事情は手に取るようによくわかる。私の受け持ったクラスの中には、授業中、スポーツ新聞を教室の後ろに敷き、その上で横になって寝ている白痴(顔を見ると知恵遅れの人の顔に近い)や、漫画やエロ本を堂々と読んだりする厚顔無恥の痘痕面(あばたづら)の青年もいた。

スポーツ推薦のクラスでは、授業中に目を覚ましているのはつねにたった一人。その一人は毎回別の人物である。きっと当番制になっていたのだろう。

あまりに馬鹿らしくて、笑ってしまう。三流の漫画に書いてあるような世界である。

そういう方々に、何を申し上げても、意味はない。まるで死体に食事を用意したり、枯れた花に水をやるようなもの。時間の無駄というのはこのことである。

日本中にはそういう高校や大学は腐るほどあると思う。ビジネスだから仕方がない。彼らは大学を卒業したという資格がほしいだけなのだろうから、出席を取らずに、テストもなしで、全員合格させてやるべきだと思う。お金で卒業資格が買えますというのを売り文句にすればいい。

「おかげさま」で、私はこの10年間そういう馬鹿と一切接触する機会を持たない。まことにありがたいことである。

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片づけのコツ

片付けが必要なのは勉強でも同じ。長年のうちに集積した知識の断片で逆にものが見えなくなってくることが多い。

だから、部屋を片付けるように、必要なものと不要なものを仕分けして、不要なものを思い切って捨て、ひとつあれば済むようなものを一つだけ残し、足りないものは買い足して、どこに何があるか、手に取るようにすぐにわかる状態にしておく。

頭の中もそのくらいシンプルであると、さっぱりしたいい人間になれると思う。

「家は自分の延長です」(60ページ)と著者は言う。まったくそのとおりである。家の中が散らかっている人は、頭の中も散らかっており、しょっちゅう混乱している。

「暮らしの核になるものを見つけよう」(78ページ)という提案も振るっている。旅に行く予定がなくても、持って行くもののミニマムリストを作ってみる。すると、暮らしの核になるものがわかる。残りはすべてなくてもよいものなのである。

「買っているつもりが買わされている」(97ページ)という視点を持つのも重要である。

「『元に戻す』を体で覚える」(159ページ)。元の安定した体勢に戻すのは武道やスポーツと同じ。それを体で覚えるしかないわけだ。




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今晩の稽古

私は物覚えが極端に悪い。

人の名前と顔は覚えられないし、本を読んでも内容をすぐに忘れる。落語なんて何度聴いても同じところで笑ってしまう。授業では、教科書は毎年必ず替えているけれども、同じ話を10クラス以上で繰り返しても平気でいられる。だから、噺家に同業者のような親近感を感じるのかもしれない。

スローラーナーであるというのは、必ずしも悪いことではないと思う。何度教えられても、覚えられないので、教えられる内容をいつも新鮮な気持ちで受け止めることができるからだ。

少林寺拳法でも同じ状態が入門以来2年間も続いている。毎度毎度同じような稽古をしているが、ちっとも上達しない。

今晩の稽古は、袖抜、袖捕、片胸落、襟十字、腕巻、千鳥返(刈足ではなく連反攻の方)。

今晩の私はちょっとしょげている。私の悪い癖は途中で力を抜いてしまうことであると師匠に指摘されたからである。相手が痛みを感じ始めた瞬間に手加減してしまうのはよくない。最後まできちんと技を極めないと、相手に障害を残すような悪い痛みを与える可能性があるからである。正確に攻めて、正しい痛みを当てれば、相手の体を健康にすることもできる。だから、かわいそうだと手加減せずに、びしっときつい痛みを与えるのが大切だと言うのである。おっしゃるとおりである。

今晩もいろいろ細かいことを教わった。すべて書き留めているわけにはいかないので、印象的だったものをいくつか挙げておく。

1.襟十字のときに、相手の手首を打ち上げる手は生かしておくこと。横ではなく縦にして親指の付け根と手首の間の固いところで当てる。攻撃側は相手を押すこと。そうすればその反動で、守者は技をかけやすくなる。

2.袖捕や腕巻は、腕と手で相手の手首を圧着する。ひじを高く上げる。腕巻は、目打ち(相手の髪の毛を必ず掠める)をして、反対の手での指先で目の近くを牽制し、コンパクトに相手の腕に自分の腕を絡ませる。相手のひじを伸ばしたままにしてしまうと、ひじを壊してしまうので、必ず戻して(腰を返して)、ひじを曲げてやる。

3.千鳥返の受けは、しっかりやって相手の体勢を崩してやらないと、蹴りを受けることになるので注意。受けの後、目打ち、中段、一歩入って裏拳、中段、上段、蹴りの順。

いつも同じことばかり稽古しているけれども、学ぶことばかり。目からうろこが落ちまくる。

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ジョグ9K

朝ラン9キロ。トータル46分45秒。風強し。午前中、妻とダイソー&ジャスコへ。ユニクロで折り畳み傘、ジャスコでワイシャツ購入。午後は散髪。帰宅後、図書館へ。ガソリン給油(110円/L)。

運転中、強風のため自転車に乗る女子高生の白いパンツが2度見えた(笑)。ありがたや、ありがたや。

長男の体調悪し。微熱あり。熱中症と思われる。稽古は休ませる予定。

話は変わるが、日本にはなぜ参議院と衆議院の区別があるのか。参議院はもともと金持ちの貴族の代表者の集まりで、衆議院はそれ以外の一般人の集まりであったはずだが、現在は衆参ともに金持ちで、同じような意見の人たちばかりがそろっている。だからこそ、参議院は機能していないのである。

参議院を廃するという考えは国家予算の無駄を省くにはよいのかもしれないが、それよりも、私は所得制限を設けて、衆議院を貧乏人代表にし、参議院は金持ち代表とするのがよいと思う。

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書いているうちにわかってくる

文章を書いたり話をしていたりすると、自分が何を言いたいのか、何を言う必要があるのかということが次第にわかってくる経験がよくある。「俺はこういうことを言いたかったのか」、と。

だいたい書き始める前、私は何も考えていないことが多い。頭のよい人なら、「序はこうで、本体は3つに分けて、結論はこの言葉を使って締めよう」などと瞬間的に思いつき、あとはそれを文字に書き起こしたり、声に出してしゃべっていくだけなのかもしれない。モーツァルトはこのタイプだったそうだ。だから彼の手書きの楽譜には訂正がないという。D・H・ロレンスもそうだった。

そういう頭のよい人間なら別だが、一般人は、書きながら自分の考えをまとめていく。というより、ある言葉を書きとめると(声に出して発すると)、その言葉に引きづられて、考えが形成されていくのである。

だから、結論に達するころには、自分が最初に言おうと思っていたことはまったく逆に考えになっていることもある。

私の場合、そういうことは授業中にも友人と会話を楽しんでいるときにもよく起こる。実に不思議なのだが、凡人というのはそういうものなのだろう。

学生に自己紹介の文章を書かせるとき、お題のひとつとして、将来の目標をあげることにしている。自分の来し方行く末についてきちんと考えて、毎日漫然と生きないようにという戒めを与えたいのである。

学生の中には、進路がはっきり決まっている人も多いが、まだ決めていないという人も多い。

もしかしたら、自分の将来を決められないなんて、馬鹿なやつらだと思う人もいるかもしれない。しかし、私は進路をまだ決められないという人に親近感を感じるし、それが自然な態度なのではないかと思う。

人は何かをしてみて初めて、自分はこういうことをしたかったんだということがわかってくるものである。最初から自分がしたいことは何かということがはっきりイメージできている人などほとんどいないはずである。

自分のしたいことが決まっている人でも、教師になりたいとか、心理カウンセラーになりたいとか、警察官になりたいとか、営業だけはやりたくないとか、そういう漠然としたイメージを持っているだけである。より具体的で解像度の高いイメージはだれも持っていないのである。

将来の自分の映像が鮮明に想像できるようになってしまったら、働く気も失うだろうし、生きる気がしなくなるだろう。その意味では、モーツァルトやロレンスは不幸だったのではないかと思う。

天才は千里眼をもって、先の見えた人生を送らなければならない。彼らの人生は彼らにとってはエキサイティングではないはずである。だから、彼らは不幸なのである。

話は急に小さくなるが、英作文の授業では、前年までのように教科書の問題の暗記テストなどはせずに、今年度からはレポートだけで成績をつけることにした。そうすれば教科書で学んだ表現を、自分のエッセイに生かしてもらいたいという私の意図がより明確に学生に伝わると考えたからである。

今年度からは、毎回、さまざまなお題を私が出したり、学生たちに出させたりして、それで何か英語で書く訓練をする。私は巡回して文法的な間違いを正し、構成を変えることを勧めていくのである。学生たちにお互いのエッセイに採点させるのも面白いだろう。

そうやって、学生たちは、自分や自分のおかれた環境を文章にしているうちに、いろんなことに気づいていく。学生たちにその経験を与えたいと思う。教師の重要な役割は、何かを教え込むだけではなく、気づかせてやるということでもある。今年からは、一歩身を引いて、彼らに考える時間を与えてやりたい。

私は英語の授業を、国語の授業のようにしていきたい。これが私のポリシーである。

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ニュース

最近、本当にニュースを見ない。だから世の中で起こっていることをほとんど知らない。

テレビやラジオに触れないだけではなく、携帯電話も解約したので、携帯電話に配信されるニュースすら目にする機会がなくなったし、ネットに接続してもニュースサイトすら見ない。

だいたい、大事なニュースというのは、自分が知らなくても、誰かが教えてくれるもの。だから、自分からわざわざ出向いて、教えてもらいにいかなくてもよいのである。

ある人が重大なニュースを知ってしまったら、たいていの場合、自分の中にしまい続けていることはできずに、なんとしてでも誰かに話さないと気がすまなくなるものだ。

だから、自分はその「誰か」のうちの一人になればいいのである。

昨日、妻が、ケータイに配信されたニュースをひとつ教えてくれた。

亀田なんとかというボクサーの対戦相手が滝で修行をしているという話。

我が家ではこの解釈をめぐって、彼らのタイトルマッチの前哨戦として、大激論が戦わされた。

われわれ親は、滝に打たれて集中力を高めているのだと受け取ったが、長男は滝登りをして足を鍛えているのであると解釈したのである。

よく考えてみたら、長男の説ももっともである。先入観のない子供たちの発想はすばらしい。

まあ、どちらが正しくても、どうでもいい話である。ニュースとしての価値は100%ない。

話は変わる。

同様に、地球温暖化は本当だという説と、地球温暖化は嘘だという2つの説をめぐって世間では激論が戦わされている。私は間を取って、「よくわからない」派である。

それはどうでもいんだけれど、二酸化炭素の排出量を減らすのが難しいのなら、地球全体を植物で覆うような努力をもっともっと積極的にすればいいだけだと思う。

二酸化炭素は、植物の栄養のひとつである。二酸化炭素が空気中に豊富にあれば、植物にとっては格好の環境になる。

ならば、地球上を植物だらけにすれば、二酸化炭素の量を減らすことができる。

地球温暖化が本当であろうが、嘘であろうが、そんなことはどうでもよく、地面をコンクリートやアスファルトや汚物を処理したレンガで固めてしまうのではなく、さまざまな動物たちが暮らしやすい緑あふれる環境を取り戻す努力をしていけばいい。

みんなむずかしく考えすぎるんじゃないかと思う。

 

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腹直筋

自慢できることというのは腐るほどある。

というのは、もちろんウソ。

数少ない自慢のうちのひとつが、40歳近くになって腹筋が割れてきたこと。

でも、最近は、sit-upsをさぼっているので、残念ながらまたお隠れになってきてしまった。

私は学生時代に、「筋肉は人を変える」という名言を吐いたことがある。

この言葉は友人が覚えていたもので、自分がどんな状況でそんなことを言ったのかまったく覚えていないが、友人によると確かに私の言葉らしい。

学生時代、私は春になると、重いものを運ぶ肉体労働のようなバイトをしていたので、幾分肉付きがよかったのでt腹筋は割れていなかったが、大胸筋や三角筋や上腕二頭筋などの上半身の筋肉が発達していて、冬までの私とはかなり印象が違っていたらしい。握力もいまの1.5倍はあったと思う。

学生時代の私の言うとおり、筋肉は人の性格までも変えてしまうというのは確かである。

筋肉があると、体が美しく見えるだけではなく、考えがポジティヴになる。

もしかしたら動きが軽やかになるから、考えも軽やかになるのかもしれない。

名言になるかどうかわからないが、こんなのはどうだろう。

「贅肉は人をネガティヴにする」

二番煎じっぽくて、だめかな。中年の私には、この程度しか思い浮かばない。

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聞き違い

ほぼ日刊イトイ新聞 - 『言いまつがい』より。

英会話教室で働いています。
小学生の女の子から
手作りチョコレートをもらった
外国人講師が言っていました。
Oh、本命チョコ!!」
日本語がちょっと話せる方なので、
本命チョコもらったの??
と思ってよくよく考えると‥‥
「Oh, home made chocolate!!」でした‥‥。
                (空耳アワー??)

いい間違いというより、聞き違いだと思うけど。

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まくら

どうも商売というものは、なんになってもやさしいものはございませんので、あたくしたちがこういうところへ上がって、頭だか尻尾だかわからないようなことを言ってても、これでもどうも人間が馬鹿じゃできないんでありまして。利口ならなおのこと、こんなことやらない。何事も頭の問題だそうですな。

これは古今亭志ん生のまくらである。落語はまくらが面白い。もちろん本編の噺も面白いのだが、私はまくらを聞くのが好きで、たてつづけにまくらばかり聞くこともある。何度聞いても笑えてしまうのが不思議である。

「まくら」といえば、柳家小三治さんに同名の本がある。自分のまくらを集めたものが本になっているのである。

小三治さんのまくらは概して長い。長すぎて、肝心の落語をせずに、公演が終了してしまったという伝説さえある。また、それでもお客が許してしまうくらい小三治のまくらは面白いのだそうだ。

私も授業の中で何か肝心な話題を話そうと思うときに、まず前振りとして何を語ろうか、と考える。抽象的な概論ばかりでは、なかなか学生の頭に入らないので、個人的なエピソードを述べながら、私が伝えたいメッセージに持っていくのである。これが日本人の典型的な話し方である。

欧米では、まくらや前置きや前振りはない。単刀直入に、意見を述べ、その後、理由や実例やデータを述べる。わかりやすいが、味気ない。スリルもないし、感情移入もできない。

学生時代に、教師が授業の内容から逸れて話した言葉がやけに印象に残っているという人も多いことだろう。おそらく、授業で学んだことはすべて忘れてしまっても、教師が話してくれたエピソードや考えだけはよく覚えているという人が多いと思う。

そう考えると、もしかしたら本編より、まくらのほうが大事なのかもしれないとさえ思えてくる。

初回の授業では、いつも学生に自己紹介の文章を書かせている。その中で、私の授業は、友人から面白いと聞いたので取ったという学生がいた。何が面白かったのかは聞く勇気はない。

私は英語の構造や英単語の成り立ちを解説しながら、人生訓を引き出すようなことをたまにする。英語の授業を国語の授業のように行うのである。一部の学生の中で、そういうところが受けているのかもしれない。

私は、学生にただ英文和訳をする作業に徹することを求めるのではなく、読みの解像度を上げるという意識を持たせる努力をしている。自称文学研究家であるので、細部をなめるように読むことの重要性をどうしても学生たちに知ってもらいたいのである。

解像度が上がれば上がるほど、明快になることもあるし、逆にわからなくなることも多い。その矛盾を面白がってもらいたいのである。

これは人生にも当てはまる。要するに、正解はひとつではないということ。

それにしても、私の話は「頭だか尻尾だかわからないような」話ばかりだ。

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パンク

「道楽は自転車なんですよ。今日も片道10Kの自転車通勤なんです」と授業中に話したら、授業のあと数名の学生が近寄ってきて、僕は自転車部ですとか、親父の自転車をリペアして自転車通勤していますというような学生がいて、敵の中に同士を発見したような、なんともよい気分になった。もちろん学生は敵ではないけれども。

一日の仕事が終わった後、駐輪所に戻り、自転車に乗ろうとして、ハンドルに手をかけた瞬間、前輪のタイヤから小さな白いカケラ(ガラス?)がポンと飛び出し、シューという音を立てて、空気がすべて抜けてしまった。

私はぼーっと生きているように見えるけれども、実は用意周到な人間なので、自転車に取り付けたバッグの中にいつも予備のタイヤ・チューブとタイヤ・レバーと6角レンチを携行している。愛車はダホーンの折りたたみ自転車なのでシートポンプも内蔵されている。シートを引っ張りあげると、中に空気入れが入っているのである。

危機管理は万全。

しかし、パンク修理(というよりタイヤとチューブをはずす作業)は2年ぶりなので、要領がさっぱりわからない。チューブをはずしたあと、新しいチューブを入れたはよいが、タイヤがはまらない。

駐輪所は門の近くにあるので、数名の守衛さんが駐在している。気のよい若い守衛さんが、私に近づき、「ここまで準備をしている人にはお目にかかったことはありませんよ」なんてことを言うので、気をよくして、自転車や仕事の話などをしながら、のんびり作業をしていた。

しかし30分たってもパンクの修理ができない。通常なら15分もあればできる程度の簡単な作業だ。手馴れた人は10分以内で完了する。

見かねた別の守衛さんが、予備のチューブを見て、「これ、サイズが合っていないんじゃないですか」と一言。「24インチのタイヤに、26インチのチューブでは、合うはずがないですよ」

私のダホーンのタイヤの口径は26インチなのだが、守衛さんがそういうものだから、どうもチューブのサイズが合わない気がしてきて、いくらやってもだめだと思い込んでしまった。

これじゃパンクを直せないので、駅まで押していって、折りたたんで電車で帰ったほうがよいかもしれないと一瞬思った。しかし、輪行バッグがなければ、折りたたみ自転車を電車に乗せることは許可されていない。

その選択肢が消えたので、片道10キロの道のりをパンクした自転車を押しながら歩いて帰ることも考えたが、ジョギングするわけではないので、2時間は優にかかってしまう。

この選択肢も消えたので、こうなったら最終手段。困ったときのカミさん頼みだ。携帯電話は4月1日に解約したので、公衆電話から電話をして、妻に車で迎えに来てもらうことにした。ところが、見つけた公衆電話は、硬貨が使えない。テレフォンカードなど何年も前にすべて処分してしまった。仕方がないので、事務室で電話を借り、いつもお世話になっている方々に事の顛末を聞かれ赤っ恥をかいてしまった。

駐輪所に戻り、20分もすると、妻が到着。ダホーンを折りたたみ、荷室に積み込み、一路自宅へ。私のためにペットボトルのお茶も用意していてくれた。ありがたや、ありがたや。

チューブの穴を修理するためのキット(パナソニックのイージーパッチ)をホームセンターに買い行き、帰ってきてから自宅で修理を始めた。

古いチューブに空気をいれると、まったくふくらまない。水を張った盥に沈めたまま、空気を入れてみると、ボコボコ音を立てながら、大きな泡が出る。そこにパッチを貼って、空気をいてれてみると、風船のように大きく膨らみ、私の自転車のタイヤのサイズをはるかに越える大きさにまでなった。空気を抜いて、雑巾で水分を拭い取り、折りたたんで、その作業は完了。

次は、肝心のタイヤに新しいチューブを入れる作業である。解説書を見ながら、落ち着いて作業をすると、ものの5分でできてしまった。たしかに新旧を比較すると、新しいチューブは若干大きめであった。しかし、問題なく、はまった。その後、チューブが爆発することも、空気が抜ける気配もない。

私は大きな教訓を得た。 

他人の話は真に受けてはならない。相手が断言口調でも、そうではない可能性があるかもしれないと思い、きちんと自分の頭で考え、自分の目で確かめること。

作業完了後、大急ぎで夕食をとり、少林寺拳法の稽古に向かった。息子と一緒に練習ができるので、私は楽しくて仕方がない。前回、師匠に教わった演目のおさらいをした。息を合わせること、動きをできるだけ正確に速くすること、格好良く見えるようにすることなどを意識して練習した。

息子は叱られると、とたんにやる気をなくすので、少しでもよいところがあると、「それでいい。そのほうが格好いい。いいねえ。」などとと褒めまくった。

誰かに承認され、自信をつけさせてもらえないと、人間というのはふつうは潜在能力を発揮できないものである。

パートナーは親子同士だから自宅でも練習できる。でも、自宅だと、甘え出るらしく、すぐに練習をやめてしまうのが難点。

帰宅後風呂に入り、ゆっくり休むまもなく、ベッドへ向かう。iPodで志ん生の「あくび指南」を聴いていると、いつの間にか寝てしまった。夜中に目を覚ますと、まだ志ん生が別の落語をしゃべっていた。私は志ん生の落語で、睡眠学習をしていたわけだ。

久しぶりにアマゾンマーケットプレイスに出品している本に注文が入った。注文してくださった方、ありがとうございます。

午前中、郵便局が開くのを待って、ゆうメールにて郵送。2営業日中の郵送に間に合った。

確認のためにわざわざ自転車に乗って行った。タイヤチューブがやや大きいせいか、前輪の安定感が高まったような気がする。あくまでも気がするだけだが。

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朝ラン10K

散ってしまった桜に横目に、いつもの10Kコースを走った。

花筏を作っていた桜の花びらが茶色く汚れ、水の中に沈むのを待っている。

ブルー系の半袖と短パンがどんよりとした曇空の中ではひときわ目立つ。

裸の腕にややひんやりした空気が刺さる。それがかえって気持ちがいい。

出発は9時。朝ランと呼ぶには少々遅い。

最初の5Kは29分47秒。
次の2Kは10分10秒。
最後の3Kは14分27秒。

折り返し地点からは、合間に2分ずつ休みを入れて、できるだけ速く走るトレーニングを行った。

後半2キロは、5分5秒、最後の3Kはキロ4分50秒。

心肺機能に負担を掛けてもさほど問題がない。驚いたことに、息切れはあまりない。体力がついてきた証拠だろう。

最後に、全力疾走で上がったので、充実したよい気持ちになった。

今後は、スピードに関係なく、地面を跳ねるように軽やかに走る癖をつけていきたいと思っている。

そうすると、自然にストライドが伸びるので、ゆっくりカラダを動かしても速く走れるわけだ。この走り方は疾走というより快走に近い。節約型の走りである。

このごろ、走って帰ってくると左の乳首に痛みを感じる。

腕を大きく動かすことを意識すると全身を使って走れるので、それが楽しくて、大きく腕を振る。そのせいで、シャツと乳首がこすれてしまうのかもしれない。

これからは、絆創膏を貼ってから走りに出ようと思う。

スピードを上げるためには、速く走れる距離を少しずつ伸ばすトレーニングを行えばよいのだそうだ。

たとえば、ふだん1キロ6分のペースで5キロの距離をイーブンペースで走っていたとする。

最初の2Kは普段どおりの走りでウォーミングアップをするが、残りの3キロはスピードを上げて5分台で走ってみる。

最初は、5分台で走れるのは1キロ程度かもしれない。そのペースで走れる距離を徐々に2キロ、3キロと伸ばしていく。さらにスピードを5分台から4分台に上げていくというふうにしていけば、より速く走れるようになっていくらしい。

気温が高い間は、あまりに長時間走り続けるのは体に悪そうだ。夏が終わるまでは、こういうタイプのスピードトレーニングをしていこうと考えている。

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紙類を追い出す

シンプルライフを送るためには、家からできるだけ紙類を追い出すことが重要である。

DMは受け取らない、開封しない。

古い手紙や年賀状は捨てる。

新聞は購読しない。

本は買わずに借りる。

とはいえ、私の場合、職業柄、捨てるわけにはいかない専門書が1000冊以上ある。そういうものを大きな本棚2棹に並べているのだが、そのせいで私の部屋はまるで古本屋のようになってしまっている。

そこから脱却するには、本をベッド下に収納したり、押入れの中に収納したりすればいいのだろう。

だが、それをしてしまうと、アクセスしたいときにアクセスできなくなる。自分がどの本を所有していて、どこに置いてあるのかがわからなくなる。

これは持ち物をすべて活用するというシンプルライフの条件に反してしまう。

シンプルライフはけっこう難しい。

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シンプルライフの条件

シンプルライフの条件 - [シンプルライフ]All About

「シンプルライフ」というと、英語圏の人にとっては、コミューンを作って自給自足の共同生活を送るようなイメージがあるらしい。まるで、武者小路実篤の「新しき村」か60年代のヒッピーみたいだ。カナダ人の同僚の先生と話していて、そういうことがわかった。

日本人の場合だと、たいてい単なる節約生活を思い浮かべるらしい。でも、私の考えるシンプルライフとは、そのどちらでもない。

ガイドの金子由紀子さんの列挙する4つの条件が自分にも当てはまるので引用しておく。

・持っているモノすべてを活用している。
 すべてを活用しているということは、管理できているということ。
 管理できているということは、散らからないということ。
・困ったときに助けてくれる人、知恵を貸してくれる人がいる。
 人が助けてくれれば、モノはあまり必要ではありません。
・やたらに「忙しい!」って言わない。
 時間がたっぷりあるなら、モノはあまり必要ではありません。
・きちんと食べていて、よく眠れる。
 生物としての生活(食、睡眠)が充実していると、心が安定するからか、 むやみにモノを欲しいと思わない。

私の考えるシンプルライフとはこんな感じ。

持ち物を減らす。

やたらにモノを買わない。

モノを増やさない。

旅行先で飾りにしかならないお土産を買わない(実用品ならOK)。

すべての持ち物を活用する。

自分のカラダとアタマを活用する。

付き合いづらい人には近づかない。

満員電車には乗らない。

人ごみには近づかない。

携帯電話は持たない。

ゆったりとすごす。

早寝早起きする。

休日は時計を持たずに過ごす。

ドライブに行ったときに、道に迷っても、それを楽しむ。

時間をかけて料理をする。

コーヒーはインスタントではなく、レギュラー。コーヒーマシーンを使わず、自分でドリップする。

油もの、惣菜ものを減らす。

ご飯は自分で炊く。

パンは自分で焼く。

植物を育てる。

テレビなどのメディアにはなるべく触れない。

特に、朝からテレビのスイッチを入れない。

情報に振り回されない(重要なニュースはたいてい誰かから教えてもらえる)。

他人と自分を比べない。

他人に後れを取っても気にしない。

クルマを運転するときには、制限速度を超えない。

ルームミラーに映る後続車が気になるようであれば、ミラーの角度を変えて、見えないようにする。

イライラしない。

ケンカをしない。

悪口を言わない。

気持ちを落ち着ける。

人の話を最後まで聞く。

ポジティヴに考える。

自分を卑下しない。

姿勢を正す。

「なるようになる。どうにかなる」と考える。

子どもといろんな話をする。

お金のことにあくせくしない。

いつ死んでもかまわないように生きる。

身辺整理をしておく。

工夫を楽しむ。

自作を楽しむ。

会話を楽しむ。

学びを楽しむ。

人生を楽しむ。

たまにはぜいたくな食事や旅行を楽しむ。

すべて使い切る。

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Helpful

各クラスの初回の授業が来週の火曜日まで続く。初日はガイダンスなので、具体的なことは何も言う必要はない。はっきり言って、ただ大風呂敷を広げればいいだけのこと。

大雑把だが、本日も、1年のうちに身につけてもらいたいこと、こういう考えで大学生活を送ってもらいたいというようなお話をさせてもらう。

中でも、我ながら良いことを言ったなあと感心したのは、こういうことである。

世間では、「○○は役に立つ」「××は役に立たない」という語法がまかり通っており、人々に多大な悪影響を与えている。

そもそも、役に立つか、役に立たないかは、ある技術や知識を身につけて、将来それらを活用してみたときにならないとわからないものなのだが、情報の洪水におぼれているような耳年増の連中は、何もしないうちに最初から先入観を持って「××は役に立たない」とか、「○○は実践的でいい」とか勝手に断定してしまう悪い傾向がある。

たとえば、英語に苦手意識を持っている人が日本人の多くは、自分には英語なんて役に立たない。なぜならば、外国人と話す機会もないし、将来英語を使う仕事には就かないからというようなことを言う。どうして、将来英語を使う機会はまったくないとそこまでの確信を持って予言できるのか不思議に思う。

英語が得意な人でも、会話は役に立っても、リーディングやグラマーは実践的ではないので、勉強しても意味がないとまで思いこんでいる人がいる。

それが実践的かどうかは、実践してみないとわからないはず。実践もしないうちに、実践的かどうかを判断できるのは、神様くらいなものである。もしかしたら神様にもできないかもしれない。

日本語のネイティヴ・スピーカーは日本語の影響なのかもしれないが、「AはBである」(たとえば、「私はカツ丼」)の考え方に深く汚染されているのではないだろうか。だから「××は役に立たない」という発想を何の疑念もなく受け入れてしまうのだろう。

要するに、私が言いたいのは、「役に立つ」という判断を勝手に下して自己満足してしまうのではなく、何かに「役立たせる」という他動詞的な発想を身につけることが大事なのだということである。

一見何の役にも立たないようなものに思えるかもしれないが、もしかしたら何かの役に立つのではないか、という具合に。こういう発想は、ゴミとして捨てる前にリサイクルできないか、というエコ・フレンドリーな発想ときわめてよく似ている。

現代の日本人の中にある何かに「役立たせる」という知恵の欠如は、おそらく、そう遠くはない将来に、日本という国に不利益を与えることになるのではないかと私は危惧している。

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トイレに流せるティシューペーパー

100円ショップで売られているポケットティシューの中には、トイレに流せるものがある。

あれはなぜ存在する必要があるのか私にはわからない。

たいていポケットティシューは、洟をかむためにあるのだと思う。ふつう、トイレまで行って、洟をかむ人はいないだろう。だから、トイレに流す必要もない。

このあいだ、公園に行ったときに、アレルギー持ちの息子の洟が止まらなくなってしまったので、私が持っていたトイレに流せるタイプのポケットティシューをあげた。息子は、洟をかんだ後のティシューと、使い切らず残っていたものをポケットにしまったまま、ズボンを洗濯してしまった。

そのせいで、妻に我々はこっぴどく怒られてしまった。

トイレに流せるティシューペーパーはトイレットペーパーのように水に溶けるので、バラバラになって洗濯物にこびりつく。それをひとつひとつ取っていく作業はきわめて厄介である。

そういうリスクを考えると、ポケットティシューは、水に溶けないタイプを選んだほうがいい。ふつうのものは洗濯しても、そのまま袋の中で固まっているだけだから。

昨日、久しぶりに会ったカナダ人の先生に、I don't know what's happening in the world because I don't read any newspapers nor watch TV.と言ったら、笑われた。彼はいつもJapan Timesを手にしているのだが、イタリアで大地震について言及しただけだった。

それは、数日前、同僚の日本人の先生に聞いたから知っている。彼も死者の数は200人という話は知っているが、その後何も伝えられていないからよくわからないと言っていた。

それ以外の目立ったニュースはなかったようだ。

私のような状態を日本では「浦島太郎」ということを教えてあげた。亀に連れられて竜宮城へというような詳しいことは省いて、ただ別の世界に行っていた間に時が過ぎいて故郷に戻ってくると数十年だか、数百年たっていたというような話だと説明した。

浦島太郎も玉手箱を開ける前は、けっこう自分の置かれている状況を楽しんでいたんじゃないかと思う。

今日も世界は平和である。

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納豆味のうまい棒

立川談志の言うとおり、食べ物は安いもののほうがうまい。

安いものの代表が納豆。私は毎日食べても飽きないくらいの大の納豆好き。納豆はたんぱく質の塊だし、ナットウキナーゼという血栓を溶かす物質が入っているので、私のように動脈硬化が心配な人間は積極的にとりたい健康的な食品である。

納豆といえば、常磐道のSAやPAでよく売られている納豆味のうまい棒は辛子が利いていてけっこううまい。こちらは健康的とは、口が裂けても言えないけれども。

千葉だと、房総半島に「なめろう」という料理がある。新鮮なアジをたたいて、ショウガやネギをまぜて、ねぎとろのようなものにする。それに醤油をかけてご飯と一緒に食べるのである。これも自分でやれば100円程度でできる料理である。ただ、まな板が汚れて魚臭くなるのと、時間がかかるのが欠点。

埼玉なら、長瀞の「阿左美冷蔵」の天然カキ氷かな。こっちは栄養価が低いのに、価格は高め。

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未来時制

英語には未来時制がないというと学生たちは驚く。未来を表すときは助動詞表現を利用しているからである。このあたりはよく英語の授業で説明を受ける人も多いだろう。

しかし、日本語にも未来時制がない。

これを話すと、学生たちはもっと驚く。

"My son will be 10 years old this year."という英文を日本語に訳すとき、「息子は今年10歳になるでしょう」などとはふつう言わない。100人いたら、100人とも「10歳になります」と表現する。「でしょう」と誤って訳すのは、中学校で英語を習い出したばかりの頃だけであるはずである。

この「なります」だが、もう10歳なのか、年内に10歳になるのかわからない。

このことからわかるように、日本語には未来時制や未来形というものがないのである。日本語では、現在と未来が混在しているのである。(詳細は省くが、同様に過去と現在も混在している。)

そういうことを言うと、天気予報では「明日は雨になるでしょう」などという表現が使われているではないかと反論する人がいるかもしれない。

しかし、この「でしょう」という表現はNHKが天気予報のために作り出した比較的新しい表現なので、まだ口語としては完全に定着していない。

だからこそ、日本語のネイティヴスピーカーは、英語の動詞の時間表現が苦手なのだろう。

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朝ラン6K

今日は朝から初夏の陽気。半袖でもちっとも寒くない。時間を掛けてストレッチをする必要もないほど筋肉がやわらかい。

水色の半袖シャツに着替え、腕時計をして、キャップをかぶり、赤色のランニングシューズを履き、右手に家の鍵を握り、iPodのイヤホンを装着し、玄関を飛び出すころには、すでに浮世のしがらみから解放されたことによる高揚感がカラダ全体に浸透していく。

昨日の風で桜の花びらが落ちてしまい、道には花の絨毯、川には花筏ができていた。菜の花の黄色、桜草の濃いピンク色、桜の薄い桃色、そして少しずつ桜の花びらの間から芽を伸ばそうとしている新緑。華やかな色を見ていると、心がウキウキしてくる。

完全にアドレナリン全開状態である。

前半3キロ:16分41秒

後半3キロ:15分20秒

後半は1キロ5分6秒ペース。けっこうきつかったが、もう少しで、4分台だ!

4月以降は、10K以内の短い距離を走ることにしたい。秋になるまでレースは入れるつもりはない。

タイムや走行距離を気にせずに、しばらくの間は走ることそのものを存分に楽しみたいと思う。

しかし、走る楽しみというのは、ゆっくり走ることだけではない。快走する楽しみもある。たまには今朝みたいに心肺機能に少々負荷を掛けて走る練習をして、より速く走れるようになることも目指したい。

もちろん、無理をせず、怪我に注意をすることが大前提。

学院標語と結婚の条件 (内田樹の研究室)

自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学舎そのものが構造化されているのである。

今日も、内田センセイはたいへん素晴らしいご意見を述べられている。新入生に向かって、バイトをするな、できるだけ神戸女学院のキャンパスの中にとどまること、時間割はゆとりをもって組んで、たっぷり下調べができるような時間を作ることが大切だと述べている。

そして、そのキャンパスには、設計者がさまざまな仕掛けを施しているので、それを自分の力で発見する歓びを味わって欲しいとも述べている。私は神戸女学院には足を踏み入れたことはないが、人生の豊かさを構造化した素晴らしいキャンパスなのだろう。

大学という場所は、世間とは隔絶した空間でなければならない。世間に出ればすぐに身につけられる程度の知識を頭につめ込む場所ではない。

昨今の大学教育が置かれている状況を鑑みると、それとは逆の方向に向かっている。どこぞのアナウンサーやスチュワーデスが教授になってしまう妙な時代である。

近頃の大学生は、世界中どこに行っても生きて行けるようになるための「教養」とは無縁の、ビジネス的な意味での実用的な知識を頭の中に注射されてばかりいる。とりわけその傾向が顕著なのは、2流以下の大学である。大学の専門学校化とよく称せられているが、大学の経営者が専門的な知識のみを重視し、その土台になる基礎的な教養を無視している。そういう教育が日本の津々浦々まではびこってしまっているのはきわめて嘆かわしいことである。

これは「使える英語」「実践力」というコトバを吹聴して回ったメディアの責任でもある。このことが、結局、使いまわしのできない(リサイクルできない)知識しか頭の中に入っていない、使い物にならない人間ばかりを増やしてしまった。

そんな人間にされてしまわないように、バイトで自分の体と時間を安い時給で切り売りすることなく、そういう世間知から隔絶された大学と言う学究空間の中にとどまり、下らないメディアの悪影響を受けずに、自分の感覚をするどく研ぎ澄ませて、世間の人たちを俯瞰するような視点を身につけることを大学の4年間でたっぷり行うことを、私も大学生にお勧めしたい。

今朝も、私はテレビをつけていないし、ニュースにいっさい触れていない。だから、世間で何が起こっているのかまったくわからない。

しかし、逆に感覚が研ぎ澄まされてきているのを実感している。

もしかしたら、詩人か哲学者になれるかもしれないなんてことすら思ってしまうほどである。

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妄言

Letter from Yochomachi: 日経十字路での島根大学名誉教授保母武彦氏の迷言

昨日、久しぶりに往復20Kの自転車通勤をした。僧房筋が痛い。要するに、肩こりである。ハンドルバーを両腕で支えて路面の段差から受けるショックを吸収するときに、活躍する部分で、日常生活の中で私があまり使っていない部分が僧房筋なのだろう。

私の通勤コースは坂道だらけなので、大腿四頭筋を酷使する。ペダルを下に押し下げる力が重要になる。ビンディングペダルであれば、上に引っ張り上げる力も活用できるので、もう少し楽に走れるのかもしれない。しかし、コケたときに怖いので、私のダホーンにはふつうのペダルを装着している。

その道は、歩道と車道に20センチほどの段差がある。歩道のほうが高く作られている。だから、歩道から車道へ降りるときは、段差がないところを探す必要がある。そういうところは歩道が車道に向かって斜めに削られており、クルマの横断のために使われている。だから、路面は坂道の中にさらに坂道が作られているようなもので、凸凹だらけになっている。横から飛び出してくるクルマも怖い。

車道のほうは、路上駐車が多いので、自転車は自動車に準ずる軽車両だからといって、車道ばかり走ってはいられない。さらに、暴走する車に注意を喚起するハンプというコブが作られているところがあり、あれがまた自転車には走りにくい。それらを避けたり、さらには、右側通行をする高校生の自転車などをかわしたりしながら走らないとならないので、自転車に乗っていると本当に疲れる。

日本の道路は自動車優先。自転車や歩行者のことはあまり考えられていない。電信柱は歩行者を守るためにあると考えられているらしいが、犬が小便を引っ掛けるために作られているだけである。歩いているときでも、いちいちクルマが走っている側に飛び出さないといけないで、大変に危険である。

歩行者やサイクリストのことを考えられている道でも、利用者自身はそういうマナーやルールを一顧だにしないのも問題である。

人々のそういう怠惰な姿勢が道路を計画し建設する側に大きな影響を及ぼしている。

地方だろうが都会だろうが関係なく、これからは自転車や歩行者やランナーが走りやすいように道路を整備してもらいたいと思う。

政治や経済に詳しい人は、いつもカネの話ばかりする。一方は景気対策のためにジャブジャブとカネを撒き散らせと主張し、もう一方は後代に借金を残すなと言って浪費を戒める。

そんなことはどうでもいいから、両者には私が述べたような現状をきちんと身をもって知ってもらいたい。

おのずと答えは出てくるはず。

地方の山を切り崩して、クルマが通りやすいような道路を作りたいと主張する側の人間は、それによって自分たちの仕事が増え、お金が儲かると考えているのかもしれないが、それでは片手落ちである。作る側のメリットしか考えられていないのだから。

道はそれを利用する人のためにある。この基本的事実を忘れている人が多すぎやしないだろうか。

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上司&部下

実在の人物で、上司にしたい有名人なんていまだかつてお目にかかったことがないし、部下にしたい有名人も5分ほど考えてみたがまったく思い浮かばない。

私が上司とも部下とも縁のない生活をしているからかもしれない。

落語の世界の住人ならば、上司にしてみたい人がいる。

「あくび指南」の中で、あくびの仕方を教えるお師匠さんなんて、上司にしたら毎日退屈しないだろうなと思う。立川志らくさんはこの落語を退廃的だというけれど、私にはそうは思えない。実践とか実戦を重んじるあまり、視野狭窄になってしまっている現代社会を相対化してくれるシュールな噺であると思う。

上司にしたくないのは、「らくだ」という噺に出てくる通称「らくだ」の兄貴分、丁の目の半次。クズ屋のお兄さんに死体を背負わせて、「カンカンノウ」という唐人の踊りを踊らせてしまうほど恐ろしい人である。

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テレビと占い

春とはまったく関係がないことだが、マスメディアの報道の下らなさにこのところずっとイライラを感じている。

たまには、テレビの受像機が機嫌を悪くして映らない日があってもいいと思うくらいだ。

ニュース(NEWS)というのは、新しい(New)ことじゃなかったのか! いつもいつも同じような、どうでもいいような話ばかり繰り返すのがニュース番組なのかい。

これまでブラウザーを立ち上げたときに表示されるホームページをヤフーにしていたのだが、「ニュース」の記事が目に入るので、そういう不快な情報に触れないために、ホームページをほぼ日刊イトイ新聞に替えることにした。

もうひとつ、ヤフーに関してイライラさせられることは、「占い」の情報があることである。先日解約してしまったが、auのケータイ電話のデフォルトの画面でも、つねに12星座占いによる今日の運勢が表示されている。

どうして、メディアはこぞって星座占いなんかを伝えるのだろうか。血液型占いも下らない。そうやって毎日、似非科学情報を垂れ流すのだから、メディアの信頼が失墜するのは当然だろう。UFOやら幽霊やら本気で信じているのかよ。お前らはアホか。

私はそういうことに本当に耐えられなくなってしまった。

だから、お気に入りから日本語のニュースサイトもすべて削除した。テレビも見ない。ニュースは英語のサイトのみでチェックすることにした。

とにかく、ニュースというものが、ただ単に私のイライラを募らせるだけのものになってしまったのである。

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脚下照顧

「あなたの座右の銘は?」と聞かれたら、即座に「脚下照顧」と答えたい。

「脚下照顧」とは自分の足元に光を当てて自分自身を省みるという意味。武道の世界ではよく使われる言葉である。

脱いだ靴をそろえる。脱いだ服をきれいにたたむ。机の上をきれいに整頓する。つねに周りを清潔にしておく。不要なものを処分し、自分が何を持っているのか、どこに仕舞ってあるのかをすぐにわかるようにしておく。そういうことはすべて脚下照顧だと思う。

さらに言うと、自分にできることを見つけて少しずつやっていくことも脚下照顧であるだろう。

ということで、「ゴミにしないリサイクル術」だが、私にはそういう魔術の持ち合わせはない。

リサイクルというと、たとえば牛乳パックやペットボトルや紙コップなどをすぐにゴミにせずに、それを使って何かを作るというものがある。しかし、どんなに工夫をしてみても子どものおもちゃのようなものしか作れない。取っておいても、貧乏臭さが漂ってしまって、見ているだけで気が滅入ってしまう。だから、数日以内にゴミ箱行きになる。それをリサイクルと呼ぶべきなのかどうか私には自信がない。

だから、なるべくゴミになるものを家の中に持ち込まないということを先に考えるべきだと思う。

リサイクルは、明らかに環境に大きな負荷がかかる。だからこそリサイクルしない方向に社会が向かっていくのが理想だと思う。

究極のリサイクル術は、リサイクルしないこと。完全に使い切ってしまい(燃やしてしまい)、炭素や二酸化炭素にして、樹木の栄養にしてしまうほうがはるかに環境にはいい。

牛乳パックや紙コップなら、それを焚き火の種火を起こす。ペットボトルは、リサイクルをすると石油資源を余計に使ってしまうから最初から買わない。

そういうことである。

世の中には、リサイクル大好きな人がいる。モノを大事にする気持ちが強すぎて、ごみ収集所からさまざまなものを拾ってくる人もいる。私の義父もその悪習で、家族を困らせている。義父が亡くなったときに、4トントラック数台分のゴミを処分することになるはずである。

ゴミをリサイクルして生活している倹約家の芸人さんが人気らしいが、彼とは比較にならないほどのゴミを私の義父は家の内と外に溜め込んでいる。

ほんとうに始末に終えない。

私はリサイクルをしなければならないようなものは、最初からなるべく敷地に入れないというシンプルな暮らし方を心がけたいと思う。それが私の脚下照顧である。

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親子演武

今晩は市民大会、県大会に向けての親子演武の練習を行った。

演武では、1分30秒から2分以内に6つの技を披露することになっている。

私は初段までの技、息子が5級までの技を使える。

前半は燕返(私)、小手抜(息子)、押小手(私)というメニューを先生に決めていただいた。今日はひとまずそこまでの練習。

演舞の場合、お互いの息を合わせたり、気合を入れたり、キメのポーズをとったり、格好をつけることが重要だ。逃げる場合も、横に移動しながら回転して、審査員に技がよく見えるようにしなければならない。

息子は連反攻が初めてだったらしく、動きがぎこちないので、これから時間を掛けて教えていくつもり。

閑話休題。

子どもの写真を撮るとき、どうしても子どもを中央においてしまうが、子どもの顔が向いている方向を少し空けると、何を見ているのか気になる情感のある写真になるという。空間を上手く使うというのは、演武にも共通することかもしれない。

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お花見ラン11K

当初3キロ地点で折り返してこようと思ったら、桜の香りがあまりに心地よいので、いつものコースを少しだけ余計に走ってしまった。

前半:33分32秒。

後半:30分23秒。

帰宅後、銀行で預金(定額給付金+確定申告の還付金)を下ろし、コンビニで夫婦二人分の年金を前納。なにもかもすっからかんになった。我が家の定額給付金の使い道は、年金の支払いだったわけだ。

定額給付金で夫婦仲アップなんてできるわけないでしょう。

そのあと散髪に出かけたが、行列が外まで伸びていたので、あきらめた。通り道にあるパン屋の駐車場も満車だった。

混雑といえば、どこのスーパーやショッピングモールに行っても駐車場は混雑しているし、数年前から次々に大型・小型を問わず店舗が開店している。

病院に行けば、いつも病人でいっぱい。

このごろは近隣の往来も激しくなった。

日帰り温泉も観光地も人ごみだらけ。

我が家の家計は確かに火の車だし、世間では「不況だ、不況だ」という声がかまびすしい。しかし、この状況を考えると、今は本当に不況なのだろうかと疑ってしまう。

確かに広告費で食べているマスコミ関係は相当に厳しいらしい。テレビをつければ、番組自体が何かを売るために作られていることがよくわかる。たとえば、子ども番組はみな、そのキャラクターのおもちゃを買わせるために作られている。このごろは、そういう質(たち)の悪い番組ばかりになってしまった。

数年前から盛んにテレビCMを流していたアーバンエステート(川口市)という住宅建設会社が倒産した。宣伝費を掛けすぎた罰である。経営者が無謀で無能だったわけだ。

建築業界も不況で苦しんでいるのかと思いきや、我が家の近隣を見る限り、方々で建築ラッシュである。さらに、道路を渋滞させる原因にもなっている道路工事もいたるところで行われている。さらにトラックやダンプカーもうんざりするほど道路を走っている。建築建設業界は本当に不況なのだろうか。

一方、サービス業関係では、方々で正社員やパート社員の募集広告を目にする。こちらは相当な人手不足に陥っていることは間違いない。

それに昨今のマラソンブームでスポーツ関連の会社もウハウハらしい。自転車もよく売れている。

ということは、不況は、マスコミと自動車関連の製造業だけに限られているということかもしれない。

話は大きくそれるが、近頃の日本人は本を読みすぎる。マスコミはつねに人々が本を読まないという嘆きを垂れ流すが、世界的にもまれなほど日本人は読書好き。読者は大量に本を買い込むし、著者も年がら年中本を出版している。

本の値段も不当に安い。単行本を1000円程度で買えるというのはかなり異様に思える。個人的な意見だが、単行本は1冊3000円にしてもよいと思う。そうすれば、くだらない本を駆逐できるからである。

一言ですませられるようなことをたっぷり水増したものが立派な装丁を施されて本として売られているのが現状だ。そんなものをいくら読んでも、頭の栄養にはならないし、視力と姿勢が悪くなるだけ。

今年は、妙な考えを吹き込まれたり、貴重な時間を奪われることのないように、できるだけ駄本を読まないようにしていきたい。

もうひとつ思い出した。介護関係に従事している人から伺った話だが、介護施設に入居している老人の中には、きわめて凶暴な人がいるのだそうだ。職員に暴言を吐くだけではなく、暴力を振るい、ケガを負わせることも多いという。

ニュースでは、介護施設の職員や親の介護をしている人が、痴呆症の老人を虐待したり殺害したりする話をときどき聞く。介護職員なんかだと、相当な悪党として報道されるが、実際は、彼らは逆に凶暴な老人に虐待されているのである。

実態を詳細を調べずに、一般常識や道徳心や思い込みだけで、物事を斬って報道してしまうマスコミ人はあまりに怠慢だ。

不況というのも、どうも大企業からもらえる広告費が減ったために、マスコミが不況になって、その腹いせに、製造業の派遣切りの問題を大げさに報道して憂さ晴らしをしているだけなのかもしれない。

それを間に受けて財布の紐を硬くしてしまった人たちが、本当の不況を引き起こしつつあるのではないか。

しかし、その心配はご無用。どこを見渡してもいつも混雑、混雑、混雑。マスコミの報道を完全に無視すれば、景気はきっと回復する。

そういえば北朝鮮が発射したミサイルが、日本の頭を通り越して太平洋に落ちたそうだ。私はそのことをずいぶん後になって知った。だいたい、北朝鮮から飛んできたミサイルが自分の近くに落ちる確率を考えたら、何も恐れずに、普段どおり生活したほうがいいに決まっている。

これに関して、日本の防衛力の不備や危機管理能力の不足を論議するのは、誰かに叱られてしまうかもしれないが、筋違いだと思う。くだらない話である。

昨日、公園に花見に行ったら、60代のオヤジさんが「日本は北朝鮮に相当になめられているな。これじゃダメだよ」なんてことを言っていた。そうかなあと思う。北朝鮮がミサイルを飛ばすことと、日本がなめられていることがどうして結びつくのかさっぱりわからない。むしろ、そんなことは一切報道せず、何事にも動じないところを見せたほうが、日本が肝の据わっていることを証明できたのではないかと思う。

ヤクザにからまれたときに、あたふたしているところを見せてしまうことは相当に格好悪い。あれと同じではないか。

なめられているというなら、北朝鮮よりアメリカのほうがよっぽど質(たち)が悪いじゃないか。

冗談じゃない。

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自然豊かな町

私のふるさとを公表してしまうと、自分が何者かバレてしまうかもしれないので、それはしたくない。

関東地方の海岸沿いの町ということだけは教えられる。

山も近いので、海に行きたいと思えばすぐに行けるし、山に行きたいと思えばすぐに行ける。川もたくさん流れているし、渓流もある。釣り好きな人は、釣り場所にまったく困らない。

はっきり言って、日本中どこにでもありそうな自然豊かな町である。

最近では、ドラマや戦隊ものでよくロケ地として使われている。財政破綻寸前の寂れた田舎だからだろうか。

自慢できることといえば、水道水が美味いこと。浄水器をつける必要はない。

人間のカラダの6~7割は水でできているのだから、わがふるさとの人間のカラダは、美味い水でできていると言っても過言ではないだろう。

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プロバイダーを替えようかな

プロバイダ比較 | 光ファイバー・ADSL - 価格.com

上記のサイトで一番安いプロバイダーを探すと、光回線で1年間は毎月2000円以下というところがけっこうある。

いま我が家ではauに7000円も支払っているので、思い切って解約して、NTTのフレッツにしてしまおうかな。

見るべきウェブサイトがほとんどないから、自分はひと月1000円分くらいしか活用してないような気がする。そこがもったいないんだよね。

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ジョグ1キロ

Sakura

昼間、お弁当を持って、家族で県民健康福祉村へ花見に行った。

本日の最高気温は、クルマに取り付けた温度計によると25度を超えていた。

子どもたちが遊具で遊んでいる間に、私は1周2キロのコースを満開の桜をめでながら歩いた。ランニングウェアをもっていかなかったのが残念だった。

桜は気分を高揚させる物質を分泌するそうだが、歩いているうちにだんだん前向きな気分になってきた。

公園から帰ったあと、図書館に本を返しに行って、その足でスーパーに立ち寄り、帰宅後、コーヒーを飲みながら房総土産の乾燥芋(中国産)でおやつ。

腹が満足したところで、急に走りたくなってきた。走るのは、9日ぶりだ。今回は肥満気味の長男と一緒。彼に走る楽しさを知ってもらうために、歩く速度よりやや速いペースを維持して、話をしながら、息が切れないように走った。最初から2キロは無理なので、1キロほどの距離を14分くらいかけた。

短い距離を速く走るより、ゆっくり長く走るほうが燃焼する脂肪の量が多くなると言われている。まず、息子の肥満を解消し、血行不良や肩こりによる頭痛を治するためには、走ることを習慣化させる必要がある。

習慣化させるためには、苦痛ではなく、楽しみを与えなければならない。その楽しみは、走った後のご飯のうまさだけではない。適度な疲労感の心地よさ、最後にダッシュをして上がったときの爽快感、走りながら見るきれいな風景、忙しさにかまけて普段できないような会話をすることも大きな楽しみである。

走りながら交わす話題は、たいていの場合、悪口や不平不満になることはない。前向きで、明るい話題になるのが普通である。

この気分転換と高揚感こそが、ジョギングの楽しさなのである。

明日から長男の学校が始まる。彼が学校から帰ってくる前に、私一人で少し長い距離を走ってこようと思う。

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退会

銀行口座を見たら先月30日に定額給付金が振り込まれていた。

でも、実質的には同月に引き落としされた固定資産税と国保税で消えてしまっているし、近いうちに国民年金も支払う必要があるので、我が家では、もらう前からすでに定額給付金は消えてしまっているような気がする。

今朝も早くから身にまとわりついた垢やサビを取り除く作業をしている。

今朝退会したもの。

 nanaco

 webヤマダ電機

 Japan Times

 JOMOカード

 TownMarket

4月以降に退会・解約予定のもの。

 プレミアムドラアイバーズカード(NEXCO中日本)

 ETCマイレージポイントサービス

 イーバンク銀行

 マクロミル

 楽天(クレジットカード)

 アイワイカード(妻が勝手に私用に作ってしまったもの)

先月退会したネットマイルから、ポイント交換の商品が届いた。

Coffee

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アジール

アジールとは「犯罪人が復讐などの制裁から守られるように、慣習的・法的に配慮された一定の領域。避難所。中世ヨーロッパにおける教会や都市など」(『大辞林』)のこと。

おそらく、多くの人は自分が置かれている不愉快な環境とは別の論理で動いている世界、すなわちアジールを密かに求めているのではないだろうか。

そんな逃げ場を持たなかった以前の私は、それゆえにさまざまな悩みを抱え、何かしら答えが見つからないかと、専門分野以外のさまざまな書物を読み漁り、無駄に時間を費やしてしまった。結局、何も見つからず、情報の渦の中で途方にくれた。結局、精神的な病だけではなく、身体的な病にも犯されてしまった。自暴自棄になった時期もあった。

その後、私は少林寺拳法の道院を駆け込み寺にしようとした。そこは俗世間の論理とは違う論理で動いている異空間に思えた。世間のさまざまなしがらみ(柵)を忘れて、仕事とはまったく別のことをして楽しめる場所であるような気がした。

私は道院に、「肩書き」が一切話題に上らないような避難所を求めたのだ。職業という服を通して見ることなく、ありのままにお互いに触れ合うような世界を。だから、私は仲間の職業や仕事の具体的な内容を詮索したりすることもないし、家庭内の問題、果ては政治的な信条などをいっさい語ることはない。

しかし実際は、世間の論理を持ち込もうとする人が少なからず存在する。残念ながら、道院長もその一人である。

道院を私にとってのアジールにする試みは完全に失敗した。その後、私は自分が教える教室を学生にとってのアジールにしようとしている。世間の論理とは別の考え方を知り、世間を相対化できるような空間に。

おそらく、学生たちもそういうアジールがないと、自己否定を通じて、高度を上げる努力を要求したり、何でも数値化するような世間の論理に押しつぶされてしまうだろう。

このごろの風潮では、「社会に出てから通用すること」が金科玉条のように崇め奉られている。しかし、生きていくうえでより大切なのは、いずれ自分が放り出される社会では通用しない考え方を知っておくことのほうではないだろうか。

それより大事なのは、唯一の「社会」と見なされている「複数の社会のうちのひとつ」に出ても、あるいはまた、別の社会に出ても、うまく適応できる柔軟性を高めることを身につけることだろう。

「常識」というものが、「期間限定」で「地域限定」であることは、いまだに「常識」になっていないのかもしれないが、複数の常識をかいくぐっていけるようなフレキシブルな人間に自分を育てることが、一人の人間が生きていくうえで、もっとも重要なことであると私は信じている。

教育における至高の目的は、豆知識を頭に詰め込んだ人間を育てることではなく、どんな環境におかれても、柔軟に適応できる人間を育てることである。それ以上でもそれ以下でもない。

最初、私は少林寺拳法の道院を自分の肩書きから解放されるアジールとして見なそうとした。しかし、いまでは物事を柔軟に捉え、あらゆる状況に対応できるような自分を作る場所こそが本物のアジールなのだと考えるようになった。私にとって道院は、肩書きから自分を解放してくれない桎梏かもしれないが、この意味では、パーフェクトなアジールとして十全に機能している。

本日の稽古は、上受突、押小手(閂)。押小手は初段の技なので、初めて習うもの。「小手抜3年、閂7年」というくらい、閂は難しいそうだ。

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落ち着け!

今年度の授業がいよいよ今日から始まる。

教師だって、初回の授業は少し緊張する。

特に、学生たちの表情が硬く、反応が鈍いと、緊張の度合いが余計に高まる。

だからといって、こちらの表情が固まると、1年を通じてクラスの雰囲気が悪くなってしまう。

だから、初めが肝心なのである。

落ち着け。落ち着け。落ち着け。

緊張しても、何の得にもならない。

別に、損得勘定で生きているわけではないけれど、誰だって損より得のほうが好きだろう。

授業の中身については、はっきりいって何にも考えていない。教科書の選定だけは終わったが予習もしていないので、やってみないと進め方や成績のつけ方はわからない。いろんなことが途中で変わることが多いので、初回から明確な方針なんてものは伝えられない。

まあ、何をするのかさっぱりわからないというほうが、学生にとっても教師にとっても、好奇心を刺激されるのではないかと思う。

カリキュラムを見れば、何が教えられるのか一目でわかるような授業なら、出席しなくてもよいのかもしれない。自分で勉強できるだろうから。

今年度も、いい加減に、良い加減にやっていこう。

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シンプルライフ

この春、新たに始めたいことは、シンプルライフです。

無駄な贅肉をそぎ落とした簡素な生活を送ることが理想です。

ケータイ電話から足を洗ったので、できればインターネットとも縁を切りたいくらいです。

我が家の場合、ひと月7000円ほどプロバイダー代を支払っていますので、年間8万円ほどの出費になります。8万円もあれば、どんなにか生活が楽になることでしょう。

ネット通販でいかに安くモノを買おうとも、プロバイダー代の8万円分も得するには、相当な買い物が必要になるはずです。

ほんとうに馬鹿馬鹿しいことをしているものですよ。

ケータイの次は、インターネット。その次は、クルマかな。クルマがなければ、本当に裕福な生活が送れるはずです。少々不便になるかも知れませんが、確実に裕福にはなります。よく言われることですが、クルマの年間の維持費は30万円だそうです。3年で100万円が羽を生やして飛んでいくことを考えてみてください。

こんなことを言ったら、ぜったいに激怒する人がいると思いますが、現在の日本の不況は、日本人が自分たちの生活を見直すためには大変よいことだと思っています。特に自動車製造業や道路建設関係の受注の激減はきわめて歓迎すべきだと思います。

生きていくうえで、なくてもよいものをそぎ落としていく作業に、先進国の人間はそろそろ勇敢に取り組まないといけません。

私が言わなくても、そんなことは誰しも先刻承知でしょう。でも、現在の日本は完全に経済至上主義社会ですので、私の考えとは、つねに逆向きに動いています。

ゴテゴテした虚飾を捨て去ることが、これから人類が生きていくうえでも、もっとも重要なことであるはずなのに、そっちの方向にはなかなか向かいそうもありません。

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帰省

春休み最後と言うことで妻の実家に帰省していました。

久しぶりに子どもたち(姪も含む)を連れて房総半島を旅しました。高滝湖の蕎麦屋で蕎麦を食べ、高滝神社にお参りした後、菜の花に彩られた小港鉄道の無人駅の風景を楽しみ、養老渓谷をハイキングし、天津小湊の港でカニを捕まえ、勝浦の海岸で波と戯れました。翌日は千葉市動物公園で一日楽しみました。

カメラを持っていくのを忘れたので、写真はすべて妻のケータイの中。

4月1日からケータイなしの生活をしていますが、インターネットなしの生活もほぼ4日続きました。正直言って、一生続いてもでもかまわないくらいの気分です。

なければないで、ほかに楽しみがあります。iPodで落語をたっぷり聞く時間も取れました。

テレビも少しは見ましたが、誰かがつけていた番組をちらりと見ただけ。他人の悪口と低俗な笑いでは、私の脳みそは満足しませんから。

本当に、ひとは時間をテレビやネットに(子どもたちは、テレビとゲームに)無駄に奪われているものですね。

我が家のネット環境は光ファイバーですが、巨大なファイルをダウンロードするわけでもないので、この高速回線は明らかに猫に小判、豚に真珠です。

かといって、ADSLでは、固定電話の回線を復活させなければならないので、料金がさほど下がらず、メリットはほとんどありません。ダイヤルアップでは、さすがにひどいでしょう。

ぐるっと一周してきて、ケータイ電話だけにするという手もありますが、他人のプライベートな時間を土足で侵入してくる電話こそがわずらわしいので、それはできるなら復活させたくありません。

現代では、シンプルライフを送るのはけっこうむずかしいものですね。

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笑いでデトックス

昨夜からの強い雨は上がったが、強風が残ったまま。体感温度は真冬並み。桜は5分咲きというところ。そろそろお花見ランをしようかと思っていたが、二の足を踏まざるを得ない。

家の周りにおいてあるものが吹き飛ばされていないかどうか、今朝方見回りをした。子どもの自転車のカバーがめくれ上がっていただけだった。

寝る前と早朝の5時に、iPodでやすしきよしの漫才と、三遊亭歌之介の落語を聴いた。HDDからひっぱりだしてきて、2年ぶりに聞き返した。いずれも爆笑王だ。笑いが止まらないというのを久しぶりに経験した。

絶頂期の「やすきよ」は私よりも若い。36、7である。「キャバレー天国」という漫才がある。子どもの頃に大人になれば、そういうところへ行くものなんだとぼんやり思っていた大人の世界の話。しかし、39歳になっても私はそういう風俗の世界には一度も足を運んだことがない。このまま一生を終えるのかも。

漫才の中で、きよしさんは娘さんが5歳になったという話をしている。彼女は結婚して子どもを生んで、昨年は離婚をしたんじゃなかったかな。やすしさんはまだ若いのに白髪だらけだから、いつ死んでしまうかと心配だなんてこともきよしさんは言っている。

人生はなんて短いのだろう。

でも、人生は短いからこそありがたいものだというのが歌之介さん。もし人間が1000歳まで生きられたら、ちっともありがたくない。昔は「親孝行、したいときには親はなし」といったものだが、今は「親孝行、したくないのに親はいる」というのだそうだ。長生きはよくありませんよ。

鹿児島出身の歌之介さんは、顔は少年隊のかっちゃんに似ているが、口調はきみまろさんそっくり。洒落が数十秒ごとに出てきて、笑いが止まらない。しかし、テレビには一切出ない主義。

歌之介さんによると、息を吐くのは健康によく、息を吸うのは健康に悪いらしい。笑うときは息を吐くが、逆に怒るときは息を吸い込むからだそうだ。彼のような人がテレビで喋り倒したら、息を吐くだけで吸い込めなくなって、視聴者はみな卒倒してしまうだろう。

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うそつき

あるところに、うそつきの住むうそつき村と、正直者の住む正直村があったそうだ。

ある人が、うそつき村に行く用事ができた。

正直村の人間に質問すれば、きちんとうそつき村への道を教えてくれるはずだが、うそつき村の人間に聞いたら、正直村への道を教えられてしまうかもしれない。その人が正直者か、うそつきか見極めるための質問は何か、と長男に風呂場で質問された。

聞いたことがあるようなクイズなんだけれど、あいにく答えを忘れてしまった。息子も肝心の正解を忘れてしまったという。

そういうときは、はぐらかすことに限る。

「クレタ人はうそつきだとクレタ人が言った」というコトバがあるんだけれど、ここに出てくるクレタ人はうそつきなのだろうか、それとも正直者なのだろうか。そう息子に問いかけたら、わけがわからないと言われた。

私にもわからない。

ちょうどお時間となりました。

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ケータイ解約

今朝は、雨のため、紙ごみを回収に出せないかもしれないと思っていたら、ちょうどタイミングよく収集時間に雨が上がったので、駐車スペースにおいておいた本をすべて捨てることができた。おそらく250~300冊くらいあったと思う。

そのあと、auショップに行き、ケータイを解約した。

宿便が出たようにすっきりした。もうしばらくは携帯電話は持つつもりはない。暇つぶしのために読むような本も無駄に買わない。

ケータイ電話にかけるコストは私の場合、年間約3万円だった。さっそく3万円を預金して、家族旅行の足しにしよう。

壁に漆喰を塗る作業もとりあえず終了。もう漆喰がなくなってしまったからだ。作業を続けるには、4キロ入りの練り漆喰を4~5袋買い足す必要がある。

来年度の教科書の選定も終えた。面倒なので、ちらりと眺めただけで、第一印象で決めてしまった。12クラスで全部違う教科書を使う。予習なんかできそうもないので、今年もぶっつけ本番。泥縄でやっていくつもり。

ジャスコで安物のスーツも購入(値段は安すぎて書けない)。いままでは英語の教師らしくA5サイズだったが、A5サイズを購入していた頃より10キロ近く痩せたので、今度からはY4サイズを着用することにした。最近の流行は、ストライプ、タイトフィット、2ボタンなのかな。ファッション誌なんて立ち読みすらしないから、わからないけれど。

数週間前に、もうこれからはスーツは買わずにジャケットだけにすると、ここに書いたが、あっさり前言撤回。蒸し暑い夏以外は、スーツもけっこういいものだよ。第一安上がりだし、仕事をしている雰囲気が出るから。

ネクタイも1000円の安物だけど、1本購入。100円ショップで買ったポリエステルのものは先日捨ててしまったので、似たようなものをスーパーで購入。パンツも半額だったので、美尻パンツというものを購入しておいた。お尻が上げ上げになって、寝るときには少々きついかも。歩くときには筋肉を補助してくれてよさそうだ。

以前私はトランクス派だったが、いまはボクサータイプのブリーフが好み。痩せてしまったので、トランクスだとブカブカになって、大事なものが、横にはみ出てしまうことが多くなったのだ。

パンツは化学繊維を使ったものほうが、水分がすぐに蒸発するので、蒸れないし、洗濯してもよく乾くのでいい。ネクタイは安物でも、パンツはいつも高級なものを選んでいる。

仕事用に靴下も購入した。一足180円。

私の買い物はいつも貧乏臭いなあ。

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今日は雨

昨日、せっかく車を洗ったのに、今日は雨。いかに私がテレビを見ていないか、情報にうといかを証明してしまった。

それはかまわない。

残念なのは、今日は紙ごみの日なのに、雨だから出せないことである。回収には来てくれると思うが、捨てる本であっても、濡らしてしまうのは忍びない。

さらに2週間、駐車スペースの奥に眠らせておくしかないだろう。

リサイクルセンターに自分で持っていくことも可能だが、面倒だ。あるいは、古本屋に持ち込んで買取にかけて、買い取ってもらえないものも引き取ってもらうという手もあるな。

わずかでもお金になるかもしれない。でも、買取にもっていくのも重いし、面倒なんだよね。

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