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2009年5月の148件の記事

疲労困憊

本日は市民大会に出場し、親子演武を披露した。

帰宅後、妻が録画しておいてくれたビデオをチェック。

我々の欠点は次の3点に集約されることがわかった。

 1)気迫が足りない。

 2)スピード感がない。

 3)メリハリがない。

お互いに遠慮して、突きも蹴りも弱い。息も合っていないのでチグハグな感じを与える。動きがきびきびしていないので、技と技の間がつながっているように見える。

1週間後には県大会が控えている。これらの欠点を一つ一つつぶしていかないといけない。

他の組が演武を披露している間、緊張の波が訪れては去っていった。

しかし、いざ演武が始まってしまうと、頭が真っ白になって、意識が飛んでしまい、ひとりでに体が動いた。

2分もやっていたなんて信じられない。私には1分程度にしか思えなかった。うっかり技を飛ばしてしまったんじゃないかと思ったくらい。

演武が終わると、急に現実に戻り、緊張しだした。汗が全身から噴き出し、止まらなくなった。「なんだこりゃ」という不思議な体験だった。

あとで聞いてみたら息子も同じ感覚だったという。息が合っているのか、息が合っていないのか、なんだかわからない親子である。

 

Oyako

 

 

 

 

 

 

今晩は、妻も夕食の用意をする気力もなくなったので、自分たちへのご褒美として、「夢庵」にて夕食。

今夜も、早々に就寝する予定。

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5月の走行距離

月間走行距離は113キロ。

年間走行距離は512.5キロ。

フルマラソンに出るためには、一月200キロを3ヶ月走破しなければならないらしい。

3ヶ月で600キロか。


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やってみなければわからない

朝ごはんを食べ終わって、ほっと一息。あと1時間20分くらいしたら、市民大会に出場するために家を出る。妻は、私たちが目を覚ますだいぶ前から弁当の用意をしてくれている。謝々。

演武の演目の順番は間違えることはなさそうなのだが、親子で息を合わせて動くのがなかなかむずかしい。私が前に出ると、息子が後ろに下がり、私が後ろに下がると、息子が前に出るという動きが自然にできない。

相手の動きを察知していない証拠なのだろうか。

体が動かないということは、動く必然性を感じていないということだろう。

お互いに気迫たっぷりに攻撃性を前面に出せば、自然に体が動くのかもしれない。

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足と靴のニオイ

足と靴の臭いについて、深く考えてみる! - [靴]All About

ジョギングシューズなんて、2日連続で履くことも多いし、何よりふつうの靴を履いているときよりはるかに汗まみれになる。

だからニオイもそれに比例して強くなる。

そのニオイの除去にはアルコールやお酢を薄めたものを吹きかけたり、それで拭いたりするのがよいという。

足の角質は雑菌のえさになるから、軽石などで除去するほうがよい。

ボディソープには保湿剤が含まれているので、雑菌にとってはよい環境をつくってしまうから、足を洗う場合は固形石鹸を使ったほうがよいとのこと。

参考になるなあ。

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『柳生真吾のがんばらないガーデニング』

Gardening

この本を読んでいたら、久しぶりに土いじりがしたくなった。

花壇の植物が野生化してきているので、少し手を入れ、さっぱりさせた。

大きな黒い毛虫も見つけることができた。さっそくハサミでちょん切ってゴミ袋行き。ナメクジも2匹昇天してもらった。すまん。

窓の花台のコンテナの松葉菊も5年目なので、どうも根っこが張りすぎて、枝も木のようになってしまい、みすぼらしい。

かわいそうだが、思い切って、切り刻んで処分することにした。これまた、すまん。

花台がある2階の窓下は強烈な西日があたる場所なので、本来植物にとってはよくない環境である。

しかし、そこに花があるだけで、我が家が華やぐ。

いずれ近いうちにまた何か夏の日差しにも負けない植物を見つけてきて育てたい。

でも、ガーデニングをあまり「がんばらない」ことにした。

放っておいても、勝手に育つようなものしか育てないのが理想だと思う。

この本のウリはもしかしたらコンテナガーデンかもしれない。

組み合わせなんて面倒なことは考えず、いろんな植物を寄せ集めて、配色と背の高さだけを考えて植える。あとは植物たちがライバル心を燃やして、勝手に育ってくれるという。まさに野生のまま。

ガーデニングなんて、そんなものでいいんだよなあ。

そういうことを教えてくれる好著である。

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炒飯

Chahan
今晩は私が夕食をつくりました。

レタス炒飯です。

天井からのハロゲンライトが左上より当たっています。

もちろんカメラは、リコーのCX-1。

F 3.6 1/23

ISO: 200

焦点距離:23mm

焦点は奥の浅葱(あさつき)に合わせてあります。

レタスを炒めるとビタミンCがなくなってしまいますが、でも繊維質は残ります。

中国料理というのは何にでも火を通しますが、それはビタミンの取りすぎを防ぐためでもあると、ものの本で読んだことがあります。日本やアメリカにはビタミンを過剰摂取する人が多いですが、中国人に見習うべきかもしれませんね。

どんなものでも、取り過ぎ、やり過ぎは体に悪いものです。

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写真の撮り方

参考になるサイト

ごはんがおいしく見える写真の撮り方3原則 - きき酒師ちえの料理と酒の相性研究
100円で作るレフ板で10倍引立つ写真に - [写真撮影]All About
ブロガーのためのデジカメスキルアップ講座
料理・レシピ写真を撮る - [写真撮影]All About(1/2)
デジカメで料理をおいしく撮りたい | オレンジページnet
美味しく変換 - 料理の写真をおいしそうにするよ♪
窓の杜 - 【REVIEW】影つきのサムネイル画像を簡単に一括作成できる「Thumbuilder」
窓の杜 - 写真屋さんのデジタル・トリマー

Yume-no-nakade

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昼ラン8K

昼過ぎになって雨が上がった。体がむずむずしてきて午後2時ごろから走りに行った。当初6キロの予定だったが、8キロ走ることにした。何も飲み物を持っていかなかったので、10キロは走らなかった。

走行時間は41分45秒。1キロあたり5分15秒くらい。快調だった。去年の今頃は、足や脚が痛くて仕方がなかったが、いまはなんともない。

昨年の少林寺拳法の県大会のビデオを見てみた。二段以上と思しき高校生ペアの演武が美しい。カチ、カチ、カチと機械仕掛けのように不自然に動くのが気になったが、相手の動きにピタリと連動しているからそうなるのだろう。

茶帯と白帯の親子演武も映っていた。私たち親子と実力はさほど差がないので安心した。

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我が家を見守るシーサーならぬ、猫ちゃんです。もう5年もここで昼寝をしております。

Thanks

 

オクラはこんなに大きくなりました。

 

Okura

猫の額のような庭の花壇の手入れをしていたら、お向かいのおばさんにまたアゲハの幼虫をいただきました。ちょうど、もう一度最初から観察したいと思っていたところなので、渡りに船。

 

Worms

Worm

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フォトブック

父の日のプレゼントしてフォトブックを贈るというのもよいかもしれない。

先日写真屋さんに行って、遅ればせながら「フォトブック」なるものの存在を知った。

写真は20枚で、1冊1280円から。通常デジタルプリントだと一枚30円くらいだから、2倍出せば、写真集になるわけだ。ただ、写真そのものをプレゼントするより、ちょっと奮発して写真集にしてプレゼントしたほうが、インパクトもあると思う。

【父の日ギフト特集】キタムラグループネットショップ|デジタルカメラ デジタルフォトフレーム フォトブック インテリアフレーム ギフトカード 写真



コネタマ参加中: 父の日に何を贈る? 予算はどのくらい?

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CX-1オーナー

アマゾンの価格も下がってきました。ただいまCX-1が28000円です。私も愛用していますが、イチ押しのコンデジです。



楽食住のブロガーさんも、リコーのCX-1のオーナーになりました。

同志が一人増えました。

この方はニコンのD60のオーナーでもあるようです。

私もD60の購入を検討していた時期がありました。ニコンはシャッター音がすごくくいいんですよね。しびれます。

でも、ライブビューがないのと、一眼レフにつきものの重量感に抵抗を感じてしまって、購入をあきらめた次第です。

いずれ、CX-1に物足りなさを感じるようになってからでも、デジ一デビューは遅くないでしょう。

そのころには、もっとよい機種が出ているはずです。

やはりキヤノンよりニコンのほうが私の趣味に合うなあ。

今日は、あいにく予定されていた子どもの小学校の運動会が雨のため延期になってしまいました。この日のためにせっかく授業を休講にしたのに至極残念です。しかし、水曜日に開催されるということなので、私の休日と重なりラッキーです。Dad jobである、写真撮影の仕事に精を出すつもりです。

それより、明日、少林寺拳法の市民大会で、親子演武を披露します。もちろん採点されて、場合によっては予選を通過し、受賞するなんてこともあるかもしれません。だれにだって可能性はあります。茶帯(私)と緑帯(息子)の我々の場合、蓋然性は高くはありませんが。

まあ、緊張せず、リラックスして、肩の力を抜いて、間違ってもいいから、あわてず、楽しんでこようと思います。われわれにとって、賞なんてどうでもいいですからね。

なにより大切なのは、楽しむことです。親子でいっしょに日ごろの成果を観客の前で披露できるという体験を思う存分楽しむことです。

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柳生博と和暦倶楽部、『和暦で暮らそう』

「旧暦」は飛鳥時代に中国より伝来したもので、月の動きで日付を、太陽の動きで季節を測る「太陰太陽暦」である。

一方、「和暦(われき)」とは、「旧暦」が伝来する以前にあったと推定される日本独特の自然暦、農事暦、祭事暦である。

この本の目的は、借り物の「旧暦」とは違う「和暦」の存在を掘り起こし、わたしたちの「和の心」の源流を遡ることである。

近年、日本の年中行事のルーツをすべて、古代中国の伝説や習俗、陰陽道信仰、仏教縁起などに求めて説明するような安易な「はじめに大陸ありき」の説が紹介されることが多いが、著者たちはその説をきっぱりと打ち捨て、大陸文化との接触以前に育まれてきたはずのミステリアスな文化を探り当てようとする。

まったくチャレンジングでアメイジングな研究である。

中沢新一、折口信夫、柳田國男らの研究が好きな人にはオススメの一冊だ。

たしかに、著者たちが指摘するように、漢字を読み解くだけでは、わたしたちの和の心は解明できない。日本語で使われる漢字というのは大和言葉に無理やり当てはめたものであり、もともとの大和言葉の意味とはズレがある。そのズレに無自覚な人が近頃あまりに多いように思えるので、そんな人たちにはこういう本を(死ぬまでには)読んでいただきたいと思う。

栃木県に「日光」という観光地がある。その日光の由来はご存知だろうか。

あそこには、男体山という別名を持つ二荒山(ふたらさん)という山がある。その「二荒」を「にこう」と音読みし、それに「日光」と当て字をしたのである。もともとの「ふたら」の由来は何なのだろうか。当て字によって消されてしまったその由来は杳(よう)として知れない。この本は、そのような失われてしまった道を辿るような試みと考えてもらってよい。知的好奇心を駆り立てられる魅惑的な研究に思えてはこないだろうか。

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想像力

金曜日は再履修のクラスがある。(今日もあった!)他の先生に落とされた学生たちを寄せ集めて英語を教えるという最悪のコースだ。

ゼロからの出発という言葉があるが、それよりひどい。まさにマイナスからの出発である。

学生たちは、単位を取得できなかったことに対する劣等感と、英語に対する長年の怨念と、なぜ自分は英語なんて学ばなければならないのかという素朴な疑問にとり憑かれている。

再履修クラスの担当を任ぜられた教師に課せられた最大の任務は、それらを払拭することである。英語がわかるようになったり、英語が好きになったりということよりも先に、英語学習に対する抵抗感を減らすことが最優先課題なのだ。

それが達成されたとしたら、残りはどうでもいいのである。

彼らに教えるべきことは、それ以外何一つないと言ってもよいかもしれない。

今日私が教えたのは、英語の時制は「過去」と「現在」しかなく、それらは互いに別世界の話なので、二つの時制の間には大きな断絶があり、それらを結びつけるために完了形というアスペクトがあるということ。

日本語では「過去」と「現在」の境目があいまいであるため、過去と現在がつながっていると勘違いしている人がいる。中学以来の根本的な誤解を指摘したつもりなのだが、再履修のクラスの学生たちは、ポカンと口を開けたまま、ただただぼんやりしている。たいていの学生はこの話をすると目を輝かすものだが、彼らの表情にはまるで変化がない。

そこで私は悟った。

おそらく彼らは英語だけではなく、他の教科も同様にできないのであろうと。

積極的に物事を解明しようとする意欲、つまり学習意欲すらないのだろう。

自分を客観視する能力もないし、自分を表現する道具だと思い込まされている言語の恐ろしい力に対しても無自覚なのだと思う(人間は言語の乗り物なのです。「利己的な遺伝子」というのが昔はやりましたが、あんな感じです)。

何のために生きているのかなどということも考えたことがないし、自分は将来何をしたいのかという目的もないのだろう。

そういう人は世の中には大勢いるので、別に問題ではないのかもしれない。

しかし、そういう人々と学習意欲のある人との差は歴然としている。

学習意欲のない人は話し相手としてつまらないし、魅力もないことのほうが多い。

その差は「想像力」だと私は思う。

Aという事象とBという事象の間に断絶を感じたとする(もちろん、その断絶を感じる能力というのが必要であることは言うまでもない)。その断絶を埋めたいという気持ちが「想像力」を突き動かす契機となる。

「想像力」がある人は、そのスキマを、さまざまな手立てを使って埋めようとする。そこに学びの喜びがある。物事を解明していくという知的好奇心である。

引いては、それが新しい物事を生み出す「創造力」につながる。

おそらく、勉強ができない人というのは、その「想像力」に大きな欠陥をもっているのだと思う。

彼らはテレビばかりひたすら受動的に見つづけ、あるいはゲームばかりやりつづけ、本を読んだり、自然を観察したりして、自分の頭で考える時間すら持たなかったのかもしれない。

彼らはこれまでの人生の中で常に「正しい答え」を与えられ続けてきたのかもしれない。

それをただひたすら受け入れていれば、よかったのかもしれない。

そんなのは、まったく、つまらない人生だと思う。死んだほうがましだ。

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SPEEDOコンプレッションウエア

Speedo - SPEEDOコンプレッションウエア - 機能紹介・技術開発

いよいよ6月以降に発売されるらしい。

このロングタイツなら1万円以下で買える。

ワコールのCW-Xよりも5千円も安いのが魅力。

ネットでの口コミを確認してから、買うかどうか決めよう。

やはりタイツを履いているアスリートって格好いいんだよね。

Productsimg01

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羨望

不動産賃貸業の老夫婦が殺害された事件。だいたいどんな反応が生じるか予想はできていたが、「やっぱりな」という印象だ。

マスコミだけではなく、庶民も「羨望」に突き動かされて生きていることが暴露されてしまった感じがする。

  • 板橋の元農家の地主。
  • 一月の飲み代が300万円。
  • 妻はパチンコで暇つぶし。

おそらく誰もこの被害者に同情を寄せる人はいないだろう。不労所得で贅沢三昧をしている金持ちには、残念ながら誰も共感ができないのである。

しかし、それでいいのだろうかという思いもある。

それにしても、実に嫌な事件である。その嫌らしさというのは、私たち傍観者の中の一番汚い部分が表にさらけ出されてしまうことに起因しているのだろう。

こういう意見を分かってくれる人は意外に少ない。

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マラソンの予定

今年の終わりにハーフマラソンを1~2回、来年の1、2月あたりにも1~2回出て、そして3月、荒川でフルマラソンに挑む。

秋には、25~30キロ走を試してみようと思っている。

今年の目標は:

ハーフを1時間50分でフィニッシュすること(10分縮める必要がある)。

フルを4時間半以内にフィニッシュすること。

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影が薄い

父の日は母の日と比べたら影が薄い気がする。

幼稚園に通う次男は、どうも園で何か用意しているらしい。

おそらく似顔絵をプレゼントしてくれるのだろう。

5年前に長男が書いてくれたものも大事に飾ってあるが、似顔絵というものは一番よいプレゼントだと思う。

今回もひそかに楽しみにしている。

私の場合、自分の親に何かをプレゼントするなんていう習慣がなかったので、今後もそんな気恥ずかしいことはすることは今後もないだろう。

もっぱら子どもたちに要求するか、自分で勝手に好きなものを買うだけである。

Portrait


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人間の目とカメラの目

人間の目というのは一個所に焦点が当たると、それ以外はぼやけてしまう。

一回に一点しか焦点を当てておけない構造になっている。

通常の写真のようにいっぺんに自分の視野にすべてをまんべんなく映しこむことはできない。

だから、どこか一点に焦点が当たっている写真を見ると、なじみやすさを感じて安心できる。

人間の思考もそうで、実は、いっぺんにはバランスよく物を捕捉することはできない。

たいていAの見方とBの見方をいっぺんに天秤に載せることはできず、必ずどちらかが一方よりも時間的に遅れることになる。

人間の知覚や思考は事ほど左様にリニアであることを運命付けられているのである。

直線に、同時に二つのことを盛り込むというのは、なかなか難しい。洒落のようなものは、その典型だが、やはり、表の意味を捉えてから裏の意味を理解し、笑いが生じるようになっている。必ず時間の遅れがある。つまり、一点を捉えてから、次の点を捉える構造になっているということである。

カメラの偉大さは、そのすべてを平板にフレームに映しこんでしまえることである。しかし、それが不快感をもよおすこともある。

だから、一点にしか焦点が当たっていない写真を見ると、なんとなくほっとするのは、カメラという機械も、人間の目の捉え方に似ており、人間の能力を超えていないと錯覚させてくれるからかもしれない。

愛機のリコーCX-1では、そのような写真が撮れる。マクロズームという機能があり、通常のマクロよりも背景を強くぼかすことができる。しかし、人間の目にはなかなか見えない細かい汚れや埃まで写し取ってしまう。

それを見せつけられると、やはり人間の知覚能力の限界を思い知らされてしまい、少々不安になってしまう。

Edic

私の電子辞書。

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ランニングウォッチ

私のランニングウォッチです。拡大してみると、ちょっぴり汚れていますね。

Watch_2

写真は難しいです。

何かを物語っているような写真を撮りたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。

背景がうまくボケてくれているのはいいのでしょうが、存在がわからないくらい白っぽくなってしまっているのが悪いのかもしれません。

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500円玉

やはり、もらってうれしいのは、一番額の大きい500円玉。

デザインが好きなのは、5円玉かな。

神社へ行ったら必ず、5円玉をお賽銭にまぜて、「始終ご縁がありますように」なんていいながら45円を賽銭箱に放り込んだりしている。

そういう意味では、5円玉というのは役に立つやつかも。

でも財布に入っているとけっこう邪魔。

古くなると10円玉の色に似てくるので、ホント紛らわしいんだよね。

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モンゴル

夏休みの計画は、モンゴルに行くこと。

ただの計画だから、実現の目処はまったく立っていない。

予算もまったくない。

自民党による大盤振る舞いのバラマキ政策のひとつに、我が家の旅行代も出してくれるというこものがあったら、私はモンゴルへ行き、草原を馬に乗って走りたい。

でも、それが無理なら、近くのキャンプ場で、一夜を過ごすしかないかな。

第13回 モンゴル国際マラソン

アスファルトを走らない草原マラソン。ハーフの優勝賞品は馬1頭。当日はフラワーホテルより往復送迎付き、表彰式後草原パーティ付き、Tシャツ付きです。


コネタマ参加中: どこ行く?何する? 夏休みの計画を教えて!

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長男に聞いてみた。

食事中、長男にこのネタを振ってみた。

間髪おかずに、「もちろん大好物は最後まで取っておくよ。でもお寿司のときは、好物から食べるかな。だれかに食べられちゃうかもしれないから」という答えが返ってきた。

彼の言う「お寿司」というのは、回転寿司ではなく、スーパーで買ってくるパックの寿司のことだろう。

彼も彼なりに意外と考えているんだな。

で、わたしの場合はというと、何も考えていない。

好きなものと嫌いなものとの差がさほど大きくないので、パック入りのお寿司の場合、ただ右端から食べていくだけ。右利きだから右から取っていった方が食べやすいってわけ。

それ以外の食事は、どれも均等にバランスよく順番を考えて食べている。でもフルーツ系のものは最後になってしまうかな。とりわけ好物とはいえないものでも。

たとえば、焼肉とフルーツのふたつが並んでいたら、どっちも好きだけれど、まずは焼肉を食べてから、フルーツを食べるでしょう。好物から先とか、好物は後に取っておくということはないんじゃないかな。


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演武の稽古

昨日は演武の稽古の最終日だった。それにもかかわらず、配慮すべきポイントがさらに数点つけくわえられた。

うちの師匠は、「そこまでできるようになったら、今度はこうしよう」と言って、どんどん新しいことを我々にさせる。いつになっても完成しない、発展系になっているのである。

付け加えられた点は、1)蹴りのスピードを上げること(蹴った後、脚を引いて止める)、2)八相構えをするときに、勢いよく手を伸ばしてから戻すポーズを取ること(猫足立ちを忘れない)、3)相手の動きに合わせて、前に出たり、下がったりするようにすること(相手の動きを見て反応する)。

本当はすべて以前から言われていたことだが、なかなかできない。最後のは、考え方を伝えられていただけで、実際の動きを教えてもらったのは今回が初めて。これが一番難しい。

実際に、ストップウォッチをつかって計ってみたら、2分5秒かかった。あと5秒以上縮めなければいけない。動きが緩慢なところをできるだけ減らすのが課題だが、緩急をつけるのは大事だから、あまり急ぎすぎてもいけない。

土曜日は息子の運動会。息子は帰ってきたら、スイミングスクールにも行かなければならない。本番は日曜日。日曜日の朝にでも会場で練習するしかないかな。

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アゲハのさなぎ

Agehaさぼり屋の息子は観察日記を毎日つけていないので、昨夜、母親に叱られていた。夏休みの宿題として提出できるかどうか怪しくなってきた。

いつのまにか、3匹のうちの1匹が茶色に変色してしまった。この写真のは大丈夫なさなぎ。

CX-1で撮影して、DigitalTrimmerというソフトでトリミングしてみた。

窓の杜 - 写真屋さんのデジタル・トリマー

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エビチリ

Ebichiri02

 

おいしそうに見える色調にするのはむずかしい。

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SDHCカード到着

注文していたトランセンドのSDHCカード(8G)が到着した。やはり連写をした後の記録スピードは、2年以上前に買ったハギワラシスコムのSDカード(1G)より数倍は速い。これなら、運動会で連写をしても、ストレスがたまらなくていいだろう。

8gbsd

1gbsd

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朝ラン13K

そういえばすっかり忘れていたが、今朝は、ニューバランスのMR749Jを履いてLSDをやってみた。やはり、10キロ以上走ると、クッション性が劣るのが若干気になる。まあ、スピード練習用と考えておくのがよさそうだ。右足の人差し指の先に靴擦れができそうになった。親指の当たりはいいのだが、人差し指がわずかに親指よりも長いようなので、当たってしまうのだ。

前半は36分39秒。
後半は35分21秒。

足や脚が痛くなるとか、心臓がつらくなるとかはなかったが、練習不足のため持久力が落ちているようで、けっこうバテた。後半、頭の中が真空になった。

Pc



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ガーデニングの本

借りてきた本です。わかりにくいですが、一番奥の本に焦点を当てています。

Books

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カメラ用品のお買い物

Tripod

Tripod02

カメラ屋さんに行ったら、ノーマルタイプのゴリラポッド(三脚)がひとつ残っていた。1980円で購入できた。

デジカメケースはバッファロー。「水に強い」が売り。入れてみたら、ちょっと小さい。無理やり押し込まざるをえない。

液晶画面の保護フィルムは3.0インチ用。これもサイズが若干合わない。縦横それぞれ2ミリずつ小さい。

他の大きなメーカーなら、専用のものが販売されているが、リコーの場合、そんなものは売ってない。

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親の生活と子どもの成績の関係

asahi.com(朝日新聞社):本読む親の子優秀 下位はワイドショー ベネッセ調査 - 社会

Servey

この調査の結果、「保護者の普段の行動と子どもの学力には強い関係性がある」という分析がなされている。

「成績上位の子どもの保護者は本をよく読む」。

「下位の子の親が好むのはテレビのワイドショー」。

この調査は、お茶の水女子大とベネッセ教育研究開発センターが共同で行ったもの。

真に受けてしまう人が少なからずいると思う。

注意すべきなのは、調査会社がベネッセであることである。学習教材を販売するビジネスを展開している営利目的の企業である。「もっと勉強しろ」というメッセージを流して、自分のところの教材を売ろうとしているのだから、太陽が西から昇っても、「親がバカなら、子どももバカで、親が利口なら、子どもも利口」という発想を疑うことはしないだろう。

我が家の場合、小4の長男は子どものころから本が好きで、いまは高学年の児童が読むようなけっこう難しい小説にまで手を出している。そのほかにもさまざまな入門書や科学の本なども読んでいる。図書館から借りる本の数は、一ヶ月に40冊以上。毎週10冊ずつ借りてくるのである。とてつもない読書家である。私が子どものころは、1年に1冊くらいしか本なんて読まなかった。しかも、夏休みにいやいや読んだだけ。

息子は、本を読んでいるだけではない。テレビは長時間見つづける、ニンテンドーDSのゲームは日に1時間はやっている。時間をちょろまかすこともある。

ベネッセの進研ゼミなどやらせていないし、学習塾にも通わせていない。

それでも学校の成績は上位である。

私の家には、職業柄、本が大量にある。半分は洋書。でも、読むのはもっぱら、電車の中なので、私が本を読んでいる姿を息子はほとんど見ていない。しかも、私はテレビのニュースもめったに見ない。「勉強しろ」なんてめったに言わない。たぶん言ったことはないと思う。

彼の母親は、ワイドショーやテレビドラマが大好き。本なんて年間2冊しか読まない(今年の例)。料理の本を入れても10冊以下である。でも、子どもに対しては「勉強しろ」とうるさいタイプだ。

我が家にはあまり勉強している姿を見せない父親と、本はめったに読まず、ワイドショーが好きな母親がいる。

それでも、子どもは読書家で、成績は人並み以上。

もし両親がともに世界的に有名な学者で、テレビなんてまったく見ることもなく、いつも勉強ばかりしていたら、子どもは息が詰まってしまうだろうし、ストレスで勉強が嫌いになってしまうかもしれない。

親の生活スタイルと子どもの学力には密接な関係があるという発想は、一見わかりやすいし受け入れやすいが、しかし、そこには予断がある。

常識的な分析はかえって疑ったほうがいい場合もある。

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CX-1到着

Cx1
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仕事から帰ってきたら、机の下に箱が置かれていた。

あけてみると、CX-1。

充電後、ファームウェアのアップデートをし、撮影をしてみた。

いずれもフラッシュなし。フォトショップエレメントで圧縮。

ほとんど同じ環境でも、発色が違う。実力の差を感じさせる。

これは実に面白いカメラだ。

明日、近所を散歩していろんなものを撮影してみようかな。

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朝ラン6キロ

涼しいうちにと思って、8時に家を出た。

この時間帯は、大学生や高校生の通学時間で、間を縫って走るのはあまり気分のよいものではない。だいたい若い連中というのは、学校で無理やり長距離を走らされて、ランニングに対して極度の嫌悪感を抱いている場合が多いので、「何を朝っぱらから走っているんだよ、この中年オヤジ」という軽蔑の視線を感じる。

とはいうものの、このごろは神経が図太くなって、あまり気にしなくなったが、だらだらと横に広がって足を引きずりながら歩いている若者たちはけっこう邪魔なものである。

往路は17分00秒。
復路は15分30秒。

往路と復路では1キロあたり30秒も違ってしまうのはなぜだろうか。いつも不思議に思う。同じペースを維持しているつもりなのだが。

今日は、先日購入したニューバランスのシューズMR749Jをおろした。25.0のEEなのでぴったり。アシックスのゲルカヤノは25.5の4Eだったから、私の足にはやや大きかったようだ。

クッション性はもちろんゲルカヤノのほうがはるかに上。でも、これでももうすぐ走歴2年になるから、クッション性の比較的低い靴でも筋肉は耐えられる。ハーフマラソン程度なら、足への負担に関してはまったく問題ないと思う。

むしろサイズがちょうどよくなったおかげで、靴擦れもなくなるだろうし、体重移動もスムーズになるはず。ゲルカヤノは、サイズが大きかったので、重たいスリッパを履いているような感じだった。

これで楽に走れるようになるだろう。

注文していたカメラとSDカードは明日か明後日には届くはず。昨夜、発送したという連絡が入ったので。

これで息子の運動会に間に合う。

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気合と気迫

書こうと思っていたことをみな忘れてしまい、書きたいとすら思っていなかったことが次々に頭に浮かんできてしまう。

昨日も親子演武の練習をした。

私(守者)が息子(攻者)に押小手をかける際に、攻者うまく転がすためには、守者が横に移動する必要があることを先生に教えていただいた。当然といえば当然。でも、どうしてそんな当たり前のことにいままで気づかなかったのだろうか。

逆小手のときに、「反射神経の応用」を利用すると、力をいれずに簡単に相手を倒せることを息子に伝授した。コツをつかんだみたいで、うまいように私は転がされてしまった。

練習の成果があって、いままで2分15秒ほどかかっていたのが、1分45秒から2分以内で終えられるようになった。息子が技で手間取ることがなければ、問題はない。

次の技へ移行するとき、演目を忘れた場合、相手の動きを見て、思い出せばいい。これは緊急事態のときの備え。

息を合わせることが重要なのだといわれるが、実は息を合わせるためには、目を合わさないといけない。3秒経ったら、動き始めるという考えはあまりに大雑把である。それよりも、相手の動きを察知して動くということが重要なのだろう。

それから、大事なのは気合と気迫。相手に対して甘えを感じてしまうのはよくない。警戒心があれば、それらは自然に出てくるものだ。

突きも本気で打ち込み、寸止めするようにする。私のパートナーはまだ子どもだから、中段突きをするときに、帯のあたりだと下すぎて、どうしても、胸の辺りに入ってしまう。その悪い癖も直さないといけない。

蹴りも、痛いけれどもきちんと入れるようにしないと、相手がうまくならない。

練習日はあと水曜日のみ。日曜日が本番。家で練習しておかなくちゃ。

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マスクはしていない。

豚インフルエンザの予防目的でマスクをしていない。

私は花粉症なので、5月のある時期マスクをしていたけれど、実際に被害にあっているから仕方がなくかけていた。

そういう場合以外では、マスクは病気を他人に感染させないために使ってもらいたいと思う。

現在、予防のためにマスクをかけている人たちは、「自分だけはかかりたくない。地球が滅んでも自分だけは生き残りたい」というように、自分のことだけしか考えていない人のように見えてしまう。それではなくても、あの白い布で顔を隠す姿を見るだけで気持ち悪い。

そういうマスクの使用法が広まるのは大変不快である。

もし感染が南関東にも拡大し、学生たち全員が授業中もマスクをするようになったら、教員もマスクをかけて授業をするのだろうか。

そういえば、皇室の方々がマスク姿で公務をされている様子を一度も拝見したことはない。体調がすぐれないときは、休まれたり、代理人が出席されたりするようだ。

マスクはやはり見た目が悪すぎるからかもしれない。

そこまで気にするなら、みんな本格的なガスマスクをしたらいいじゃないか。

でも食べるときはどうするのだろう。

食事のために、ガスマスクをはずしたら、感染の危険性がある。

全員がマスクをかけている姿って、バカげていないか? 

滑稽極まりない。


コネタマ参加中: インフルエンザ予防してる?

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能ある鷹は爪を隠す

「能ある鷹は爪を隠す」は、おそらく武術の世界から出た言葉なのだろう。

いくら能力や技術があっても、相手に自分の実力を悟られてしまった段階で、勝負はついてしまうものである。

だから、実力がなくても、自分の実力が相手に完全にはわからないように、頭を使って隠す必要がある。

隠せば相手はいろいろと思い巡らす。たいてい勝負は後追いをしたほうが負けるものである。

また、実力のよくわからない相手にはふつう手を出せるものではない。だから、勝負を避けられる。

無駄な争いを避ける能力こそ、武術においてもっとも重要な要素である。

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中央大学教授刺殺事件

中央大学教授が元教え子に刺殺された事件。

私も他人事ではない。

10年ほど前になるが、就職先の決まった卒業間近の学生を落としたことがあるからである。彼ももう30歳は優に越えているだろう。

まあ、私が悪いわけではない。だから、もし私が刺されるようなことがあっても、それは逆恨みである。

その学生は就職活動やバイトに忙しく、授業にきたのはたった3回。初日と前期と後期のテストの日だけ。しかも、テストの点は基準をいちじるしく下回っている。

それでどうやって卒業させられるというのか。

課題を提出させるという気にもならない。

だから、大学事務室を通して、なんとかしてくれないかといわれたが、断固断った。

私の対応が悪かったとは思えない。

腐っても、大学ですよ。学ばなかった学生(語義矛盾!)を卒業させてどうする?

実は、いろいろ周りに話を聞くと、私と同じような体験をしていない教員のほうが少ないくらい。

みな、すねに傷を持っている。でも、みな学生が悪いのである。

私も大学時代、いくつかの授業で単位を落とした。その理由は明確である。出席しなかったからである。

すべて自分が悪いのである。

教授を恨むことなんて考えたこともない。

犯人は、無防備になるトイレを狙った。とことん卑劣で卑怯なやつだ。

私が裁判員だったら、極刑の求刑に大賛成だ。

(ほんとうは死刑制度はよくないと思っているけれどね。私はいつも矛盾しているなあ。)

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ゴリラポッド(三脚)

Gorillapod

【楽天市場】さまざまなシーンで大活躍、コンパクトデジタルカメラ用三脚JOBY ゴリラポッド YELLOW 【PC家電_044P2】:ValuMore!(バリューモア)

これ買おうかな。

その前にSDHCカードを注文しておこう。

 

 

 

 

Transcend SDHCカード 8GB (Class6)

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Thurmos

Thurmos

午前中、北戸田のジャスコに行って、靴下とパンツを買ってきた。ランチはレストラン街に新しく入ったラーメン屋さんで。

雨の日曜日だったので、とてつもない大渋滞。川口、戸田、越谷、さいたまあたりは東京のベッドタウンだから、日曜日になると、我が家の近辺のショッピングモールはどこも、ものすごい人手になる傾向がある。地方に住む人には想像できないほどの人ごみ。景気が悪いなんてウソみたいに思える。

帰ってきてから急に具合が悪くなり、つめたい床の上で昼寝をしてしまった。よく考えたら、食べすぎと飲みすぎと睡眠不足。

夕方、元気になったので、ホームセンターへ行き、プリンタのインク4色セットと、A4のフレームと、サーモスの真空断熱ケータイマグ480mlを購入した。

我が家の壁は、賃貸暮らし長かったので、まっさら。何も貼っていない。これからいい写真が撮れたら、A4に印刷して、トイレの脇の殺風景な壁に飾ることにした。

以前、魔法瓶は、象印のものを使っていたのだが、お湯を入れると匂い移りがして、気持ち悪くて飲めなくなってしまった。サーモスならそんなことは起こらないと期待しているが、どうなることやら。これは保温&保冷用。

サーモスの背景に写っているのが愛車のダホーン。

フロントディレイラーのシフトがきついので直そうとしたら、余計におかしくなってしまった。素人にありがちなトラブル。1時間くらいかけてようやく元通りにしたのだが、本当に直ったのかどうかわからない。

ワイヤーケーブルを引っ張ったり、硬いシフトレバーを何度も押したので、つめが痛くなってしまった。

いま、雷が鳴っている。明日の朝まで雨が降り続くらしいので、自転車通勤は無理かもしれない。

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観察

子どもが観察の記録をとっているアゲハの幼虫がさなぎになった。

Mushi

オクラもこんな感じ。

Okura

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アマゾン

アマゾンマーケットプレイスに出品していた本のほとんどを引き上げた。

あらかた売れそうなものは売れてしまった。

残っているのは、よほどのマニアではないと買わないようなものばかり。

しばらくビジネスはやめて、押入れの中に寝かせておこう。

今日は雨降り。走りにいけない。

自治会の運動会も午後からの開催になると放送があった。雨が上がったとしても、小学校の運動場はぬかるんでいて開催は無理かも。

 

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夫婦喧嘩の種

今ドキ夫婦会話術~悪態をつくのはいつも妻 - [結婚生活]All About

女性は誰かとおしゃべりをしてストレス解消をしたりしますが、男性の場合はひとりになり、自分の時間を楽しむことでストレスを解消する傾向があります。

まさにガイドさんのおっしゃるとおり。

妻というものは、夫が仕事から疲れて帰ってきてひとりになりたい、干渉してほしくないというときに限って話しかけてくる。PTAのこととか、学校や幼稚園での出来事とか、近所の人のうわさとか、悪口とか、あるいは、お互いの両親の話(一番嫌なのはこれだ!!!)など、夫(私)にしてみればどうでもいい話ばかり。

どうせ話すなら、世界情勢とかにしてほしいものだ!

それから、休日に子どもたちと一緒に出かけたときに、気分が滅入るような話なんてできればしたくない。なのに、わざわざそんな憂鬱な話題を切り出してくる。学校の宿題はやったのかとか、明日のテストの勉強はどうなのかとか。子どもたちだって、そんなことを忘れたいはず。

そういう話が始まると、私は黙り込んで無視するか、カーステレオで音楽をかけたりして、話題を変えようとする。

それでやめてくれたとしても、ようやく忘れかけたころに、気の滅入る話は何度も何度もゾンビのように甦ってくる。

日帰り旅行に行きたいという気分のときというのは、仕事や家庭の中で、ストレスがたまってきて、限界点に近づいてきていることをあらわしている。

妻はそういうことを理解せず、さらにストレスをためるようなことばかり言う。

私が会話に積極的に参加せず、上の空だったりすると、妻は急にヒステリックになる。

「話しかけない=愛情がない」とは違います。

おっしゃるとおりですよ、ガイドさん。

それと、妻が一言多い指導員みたいな態度を取るところも気に障る。

「あなたならきっと解決できるわ」という信頼のこもった視線で、温かく見守ってあげることです。

そうなんですよ。そんなふうに、自分を信頼し、自信を与えてくれる存在になってくれることを夫は妻に求めているのですよ。

なのに、いつもその逆のことばかりする。

だから、喧嘩になるのです。

これは、子どもや学生に接するときにも当てはまること。

自信をなくさせるようなことをする大人は煙たがられる。

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尊敬できる人

Reality check from the top of the world | Cycle for Change project to traverse 4,000 km, help raise awareness of climate change | The Japan Times Online

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オーストラリア生まれのGavin Dixon氏(38歳)が、恋人(27歳)と二人で、4000キロの自転車旅行に旅立つ。(バイクはGIANTのグレイトジャーニー3みたい。)彼らの目的は、旅行を通じて、環境問題や気候変動についての人々の意識・関心を高めること。旅の記録はインターネットで配信するという。

とりわけ、私が彼について興味を持ったのは次の記述。

彼はこれまでさまざまな国でさまざまな職業についてきた。それは父親の影響であるという。

父親の言葉が実に振るっている。分かりやすいように、すべて太字にしておく。

Dixon attributes his action-oriented inclinations to his father, whom he remembers telling him, "Son, you're too big for Australia." The elder Dixon placed high value on curiosity. "He always said, 'the best education you'll ever get is to jump in an airplane with no money and go somewhere you don't know anyone.' " It was advice the younger Dixon took to heart.

"Dad always said, 'you've had a good day when you've learned something in the day. You've had a bad day when you haven't learned something.' He would talk about having an inquisitive mind, not being normal, not following the normal path, but actually thinking about things and not believing everything. 'If you're interested in something, go and have a look at it' he would say. 'Don't ignore it if you think it's important.'

"He said, 'Get yourself out there, son.' "

 

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リコーCX-1注文

仕事帰りにヨドバシカメラに立ち寄り、カメラをいじっていたら、店員さんが近づいてきて、「CX-1をご検討ですか?」と聞かれた。「ええ、そうなんです」と答えると、待ってましたとばかり、よどみなく、CX-1の使い方や特徴を丁寧に教えてくださった。

「ふつうのカメラは、一番近いところにあるものに自動的に焦点を合わせてしまうものですが、このカメラは自由に焦点をあてたいところを決めることができるんです。それから、2本の蛍光灯を撮影するとわかるのですが、このDR(ダイナミックレンジダブルショットモード)という機能を使うと、光でつぶれることなく、きちんと2本の蛍光灯が写るのです。だから、明暗の差の激しいところや、屋内などの暗いところでは、たいへん役に立ちますよ。最近では、このカメラを使う芸能人が増えてきたそうです。その影響かもしれませんが、女性で買われていく方が多いですね。一番売れているのは、黒。シャンパンロゼは色が悪いので、女性もあまり買いません。このカメラをうちの店ではイチ押しにさせていただいています。一眼レフを普段使っているプロのカメラマンがサブカメラとして使うこともあります。それくらい賢いカメラで、何でもできるんです」とのこと。

私は店員さんの説明にいたく感心し、大きく心を動かされた。

帰りの電車の中で買うことを決意した。

ヨドバシの店頭価格は36000円。さすがに高くて、ヨドバシでは買えない。

帰宅後、価格コムで値段をチェックすると、週末限定で値下がりしている。でも、ブラックは品切れの店が多い。シルバーでは、インパクトが薄い。やはり玄人っぽいブラックがいい。

結局、デジオンで3年保障(1000円)をつけてブラックを購入。ここはクレジットカードが使えるので、銀行振り込みの手数料がかからずお得。代引き手数料も送料も5月31日まで無料だそうだ。

一眼レフはあきらめた。私がやりたいのは、なんといってもマクロ撮影だ。虫や花を撮ったり、料理を美しく撮りたいのである。

キヤノンのEOS Kiss X3もあらためて触ってみたが、直感的には操作できないし、重たいし、私の手には負えない気がした。

買うならLUMIX G1だが、まだ第一世代なので、もう少し進化の余地があるだろう。3年位して、こなれたら、買うことを検討してもよさそうだ。

CX1 - リコー - カメラ - photohito

My Logic: カメラ

撮る / Photo Style | Ricoh Japan

イーバンク銀行の口座と楽天KCカードを本日解約した。いやあ、さっぱりした。

明日は、ニコスのカードを解約する予定。

700円分もたまっているポイントを使い切ったら、アイワイカードも解約するつもり。

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感染と発症

マスコミの報道では、「感染」と「発症」という言葉を混同して使っているように思えるが、そんな風に感じているのは私だけだろうか。

以前「感染」というのはウィルスをもらうことであり、その病気が「発症」するかどうかはまた別問題だとどこかで教わったことがある。

季節性のインフルエンザの場合でも、家族の間でさえもかかる人とかからない人がいる。同じ空気を吸っているはずなのでウィルスをもらっているはずなのだが、発症しない人もいるのだ。

おそらく、その意味で豚インフルエンザに感染している人は、日本では300人どころではないだろう。

このウィルスが、ただちに発症するかというと、それもわからない。

人によっては、数ヵ月間体内に潜伏し、その後免疫が弱っているときに発症するということもありうる。時差通勤みたいなものだ。時間差攻撃か。

ということは、仮に、ここで感染拡大が終息したように見えても、それは一時的なもので、冬に爆発的に流行する危険性もある。

一部には、マスコミの報道はヒステリックだという見方もある。それも一理あるかもしれないが、ただ、今後数年以内に本当に恐ろしいウィルスに変わっていく可能性もあるのだから、ふだんから警戒しておくことは重要だと思う。

少なくとも、人間というものは愚かな生き物であるということだけは自覚しておいたほうがいい。実際に自分の身に危険を感じることがないと、自分には関係ないことだと思ってしまう生き物なのである。その意味では、虫や他の動物と同じ知的レベルである。

私も大人になってから、季節性のインフルエンザにかかったことが一度ある。結婚前の話。

とある女性とデートで、日比谷のシャンテシネだったかでで映画を見ようとしていたときに、行きの電車の中で急にひざがカクっと折れ、体中に力が入らなくなった。そのまま映画を見ずに、カノジョに付き添ってもらって日比谷の病院に直行。カノジョには、そういう場合は、デートをすっぽかしてもいいと叱られた。その後は、自分の部屋でたったひとり2日間、水とヨーグルトだけですごした。

死ぬかと思った。それは後から抱いた感想にすぎない。高熱にうなされているときは、自分は死ぬんじゃないかと思うより、この苦しみから解放されるのなら、いますぐにでも死んでしまいたいという思いを抱く。

当時は、タミフルやイレンザのようなよい薬がなかったから、医者は何も食べずにひたすら寝ていなさいというばかり。そうは言っても、苦しくて寝られやしない。

インフルエンザというのは、そういうものである。軽く考えてはいけないと思う。

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演武

少林寺拳法 | 金剛禅総本山少林寺広報誌「あ・うん」 | 宗門の行としての少林寺拳法

片胸落の演武が掲載されていた。

守者は、胸倉をつかまれまいとしながら、でもつかまれてしまうという状況を必然性をもって演じる。その必然性と真剣さが、絶妙な間合いを生む。恐れ入った。

私が守者になるときは、具体的な状況が想定できていなかったので、ただひたすら棒立ちになっていた。

これからはこういうことも気をつけて演じなければいけない。

夕方、子どもたちをつれて図書館へ。『特選街』という雑誌にデジカメの特集があったので読んできた。EOS Kiss X3は、とりあえず何でもできる一眼レフのデジカメがほしいという人に勧めやすい機種なのだそうだ。ライブビューがついているので、液晶画面を見ながら写真を撮れる。男性にはわからないことだが、女性はファインダーを覗くと、化粧がカメラについてしまうのがいやなのだそうだ。そういうことを考慮に入れると、これからはコンパクトデジカメのようにライブビュー機能が必須になるのだろう。

CX-1の評価はさほど悪くはなかったが、画像の発色がビデオみたいだとか、粒子が粗いとか、いろいろケチをつけられていた。

『特選街』は辛口が売りだから割り引いて考えなければならない。どんなカメラにだって、欠点はある。そういう欠点が必ずしも悪いとは言えない気がする。

その雑誌に、私の愛用しているカシオのEXILIM EX-Z1000 10.1メガピクセル(2006年発売)は、コンパクトデジカメで初めて1000万画素の大台に乗ったものだと紹介されていた。あれから3年か。いまや1000万画素のカメラなんて、当たり前になってしまい、1万円台で買えるものすらある。デジカメの進化のスピードは速い。

EX-Z1000は決して悪いカメラではないが、マクロがうまく撮影できない。望遠も3倍しかない。CX-1は7倍ズームだし、1センチ接写ができる。

一眼レフの購入はもう少しの間控えて、コンデジで我慢しておくのがいいのかなあ。

キヤノン EOS Kiss X3ダブルズームキットは4月24日発売で、まだ1ヶ月も経っていない。発売当初11万円が9万円にまで下がってきた。7月くらいまで待てば8万円になるかも。それまで待とうか。

図書館で、世田谷美術館のメキシコ20世紀絵画展のリタラチャーをもらってきた。フリーダ・カーロが目玉なのだろうが、もしかしたら、彼女の作品はこれひとつかもしれない。だったらがっかり。

Mexico

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ハンカチ

レイクタウンで久々にハンカチを購入した。

Towel

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NB MR749J

埼玉にも新型インフルエンザが侵入した。そんなニュースをものともせず、われわれ夫婦は越谷レイクタウンでデートを敢行。オープン以来だいぶ経っているので、以前の異常な賑わいはなかった。平日ならば、買い物がしやすい雰囲気になってきた。

まっさきにスポーツオーソリティに行き、ふたりでジョギングシューズを選んで購入。妻はアディダス、私はニューバランスを選んだ。

15%引きだったので、私のほうは7050円で買えた。

サイズは25センチ。いま履いているアシックスのゲルカヤノは25.5センチなので、やや大きかったことがわかった。

これで重たいスリッパを履いているような状態から解放されると思う。

これからは暑い季節になるので、10キロ以上を走るのはつらくなる。秋口になるまでLSDもしないと思うので、あまりクッション性の高い靴はいらない。

いまは短い距離を速く走るトレーニングをしているので、この程度の軽い靴で十分だろう。

店頭には、この靴には初心者用ということで、クルマの若葉マークが貼り付けられていた。

アディダスは30%オフのセールをしていたので、ちょっと心が動いたけれど、ランナー歴2年ではアディダスはまだ早すぎる。

帰りにジャスコに入り口近くにあるたい焼き屋で、季節限定のずんだあんのたい焼きを買って食べた。皮は薄くパリパリに焼けていて、塩味がきいている。あんは、甘すぎないのがいい。これは自信をもってオススメできる。私は黒胡麻くるみあんの数倍はうまい。

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朝ラン6K

今朝は4時55分起床。
6時半スタートで、帰宅は7時。

前半は17分20秒。
後半は15分8秒。

朝早いと、筋肉が目覚めていないのだろうか、体が思うように動かない。

このごろ体重が増えてきたことも原因のひとつだろう。

シューズさえも重く感じる。

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我が社?

どうして世の中の人の多くは、「仕事に行く」と言えばいいところを、「会社に行く」と置き換えて言うのだろうか。

このごろは、市役所職員や大学職員まで、「会社に行く」と言う始末。なんか違和感がある。私には「会社」というのは、営利目的のビジネスのイメージしかないからだ。

彼らにとって「会社」というのは何なのだろうか。

それはofficeそのものではなく、もしかしたら、人の集まりを指すcompanyなのかもしれない。

不思議な使い方である。

私には「我が社」はない。

誰にでも「我が社」があるという発想は、サラリーマンが一気に増えた1960年代以降の日本人の偏見ではないのか。

母子家庭の子どもが、学校でお父さんの絵を描きなさいと言われたような嫌な気分がした。

我が家の近くには、工場がけっこうある。朝、社員かパートの女性たちが工場の前の道を掃き掃除している様子を見かける。

たいへんよい習慣だと思う。見ていて、気分がよくなる。

コネタマ参加中: 我が社ならでは!? びっくり社内イベントを教えて!

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ネタがよろしくない

こういうネタは、質(たち)が悪い。

「昔はよかった」なんていうと、小学1年生が幼稚園生だったころのことを振り返るような軽薄さを感じる。

だからといって、「今が一番楽しいよ。振り返るなんて40年早い」なんていうのも当たり前すぎて面白くない。

「生まれる前がよかったな」なんていっても、「ご冗談でしょう」とあっさり片付けられてしまいそうだ。

何を言っても、つまらないネタふりであると思う。



コネタマ参加中: 今までいちばん楽しかったのは何歳?

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トートロジー

裁判員の役割は、裁判官が下した判決が正当かどうかを判断することである。

しかし、裁判員は何が正当かという判断基準を持たないから、その基準を裁判官に伺わなければならない。これはトートロジーである。

よって、裁判員は裁判官の判決を追認せざるをえず、裁判員は裁判にほとんど影響を与えることができない。

以上の理由で、裁判の正当性を判断させる裁判員制度は、民主主義を補強するものとは言えず、意味がないと結論付けることができる。

では、やりたいのかやりたくないのかといったら、これでも私はけっこう忙しいので、裁判員なんかやっている暇はない。

そういう仕事は、シルバー人材センターのオバ様たちに、ゴミ掃除や花壇の植え替え作業の合間をぬって、お願いしたらどうだろうか。

コネタマ参加中: 裁判員、やりたい?やりたくない?

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失望

ここ数日あんまり面白いことがない。

今日も自転車通勤だった。往復20Kだから、けっこう汗をかく。湿度が低いので、シャツが肌に張り付くこともなく、不快感もなかったので気にしていなかったが、帰宅後脱いだときに、強烈に汗臭い。完全にオヤジのニオイである。とたんに、げんなりしてしまった。

自転車通勤で利用している道は、高速道路の側道である。そのため、路上駐車が多い。たいていは仕事の暇つぶしをしているようなおじさんばかり。ところが、帰り道、仕事用クルマの後部座席で、男女がしっかりと抱き合っている様子を見てしまった。おいおい、仕事中だろう、お前ら、いい加減にせい。いままで気にしてはいなかったが、もしかしたら、そういう連中がけっこういるのかも。

高速道路の側道に多いのは、路上駐車の車両や暇なオヤジどもだけではない。ゴミも多い。人通りの多いところは割合ゴミが少ないが、そういう道には異様なほどゴミが多い。見ているだけで落ち込む。本当に汚い。

そこへ向こうから自転車のかごにゴミをいっぱい乗せてやってきたオヤジが、わざわざ植物が生い茂っているところを選んで、ポイポイとゴミを捨てていく様子を見てしまった。

風体を見ると、60代。いい年をしたオヤジがちり紙みたいなものまで道端に捨てていくなんてまったく情けない。

さらにペダルをこいで一山を越えると、警察がネズミ捕りを張っている。警察もセコイし、昼間っからスピード違反でポリ公に捕まっているヘラヘラした外車のドライバーも情けない。

豚インフルエンザの感染拡大につれて、消費活動が不活発になってきているらしい。それをうけて、政治家やメディア関係者たちが、パニックになるななどとほざき始めた。

おいおい、そんなことを言っても、いまさらもう遅いよ。

日本は、本当に狂っているんじゃないのか。北朝鮮のほうがまだましかもよ。

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東京にも侵入

Flu infiltrates Tokyo as patient tally leaps to 267 | The Japan Times Online

川崎の私立高校生2人が、NYで新型インフルエンザ・ウィルスに感染した。そのうちの一人は八王子在住。とうとう東京地区にも感染が拡大した。

私は八王子の大学にも通勤しているので、かなり心配である。

ウィルスは、マスクだけでは侵入を防ぐことができない。髪の毛や衣服に付着したウィルスから感染するということもある。目の粘膜を通しても侵入する。

20日現在、国内の感染者は東京、神奈川、大阪、兵庫、滋賀で計267人に上る。

1週間ほどの休校が、現実味を帯びてきた。

昨晩の稽古は、いつものように、親子演武の練習。最初5分近くかかっていたところを2分15秒まで縮めることができた。規定の時間は1分30秒から2分。それを超えると、減点になる。

余剰な15秒を削るには、技の切り替えの時間、つまり次の技にいく時間を短くすること。いまはまだ次の技をすぐに思い出せないことがある。

もうひとつは、技がきかなくても(たとえば閂とか固め技とか)、すぐにきいたふりをすること。やはり閂は難しい。

息子の課題だが、逆小手などで、技をすばやく極める。目打ちから、掛け手、抜きの時間が異様に長い。これを5秒縮めることは十分可能である。

気合を入れるポイント(手刀、中段突き、蹴り)は、間違わなくなってきた。

カメラを買いたいのだが、結局、私は何をしたいのか、まったくわからなくなってきた。

常に愛用のカシオのコンパクトデジカメで不満に思っているところは、マクロ撮影がうまくできないこと。料理の写真がうまそうに見えないこと。子どもの早い動きに追いつかないこと。暗いところでは背景がまっくらで不自然な写真になること。

これらすべての不満を解消するには、一眼レフが必要だ。だが、マクロ撮影をするには、別のレンズが必要である。お金がかかる。

お金をかけないのであれば、リコーのコンパクトデジカメCX-1にするという選択肢もある。

一般の人が撮影した投稿写真を価格コムで見ることができる。それを見ていると、自分は、こういう写真を撮りたいんだよな、ということがわかってくる。

やはり、マクロだ。キヤノンのEOS Kiss X2の写真では、満足できない。

たとえば、私が撮りたいのはこういうもの。


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ニューバランスの靴

金曜日からスポーツオーソリティで15%オフセールを開催するというので、ランニングシューズを試し履きしてきた。

私のジョギングシューズ歴は、アシックスが2足続いたので、今度は別のメーカーのものにしてみようと思って、アディダス、ミズノ、ニューバランスを試してみた。

アディダスとミズノは、どうも私の足には合わないようだ。

私の足は幅が広いので、スーパーワイドの4Eをこれまで履いていたのだが、ニューバランスの靴を履いてみたらEEのタイプが履きやすい。足との一体感が高いのである。

アシックスは、クッション性が高いのだが、走っているときに中で足が若干泳ぐので、どうもスリッパを履いているような感覚がある。

あさってニューバランスの靴を買いに行こうかな。

候補は、MR749Jのオレンジ。 約280g。こちらのほうが軽いので、レース用としても使えそう。色もこちらのほうが好き。

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もしくは、MR769Jのブルー。 約320g。クッション性が高いのはこっち。色は無難な感じ。

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カメラ

新しくできたケーズデンキに行って、30分くらいかけてじっくり、ニコンD60とキヤノンEOS Kiss X2とLUMIX G1をいじってきた。

ニコンはシャッター音がいい。キヤノンとLUMIXはシャッター音が電子的で銀板カメラをいじっていた者にとってはやや不満が残る。

持ち運びやすさや使いやすさを考慮すると、G1がよいかもしれない。液晶画面を見ながらの撮影できるのも便利。

ニコンとキヤノンの一眼レフは望遠レンズをつけたときにやや重い感じがする。

銀板カメラのときもそうだったが、重いと、持ち歩かなくなってしまうものだ。

帰りに、コンデジのコーナーも見ておいた。

リコーのCX-1をいじってみたら、これはすごい。1センチマクロに驚愕。私が撮りたいのは、本当はマクロなのだということに、気がついた。

このカメラは同時に、200ミリ望遠がレンズ交換なしにできるのである。

しかも、価格コムでの価格はたった27,000円。

画素数は1000万。液晶もきれいである。

おもちゃとしてほしくなった。

柳生真吾さん デジカメは世界を知るための道具(1/1) - 有名人のお宝カメラ - 極める - [どらく]
価格.comマガジン - 特集069 高級コンパクトデジカメ

結局、何を買ったらよいのかさっぱりわからなくなった。

一番バランスがよいのは、キヤノンのEOSなんだけれどね。

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朝ラン8K

朝7時出発。久しぶりに、気持ちよく走れた。

走行距離は8キロ。

走行時間は39分27秒。

1キロ5分ペース。

1年前は1キロ6分が限界だったから、目を見張る進歩である。

来年までに1キロ4分台後半を目指そうかな。

以前よくお見かけしていたようなランナーたちと久しぶりに再会できた。

みなさん、時間をずらして走られていたようだ。そりゃそうだ。昼間は、暑いもんなあ。

ロイヤル通販のねり漆喰を注文。また暇を見て、階段の壁の塗り残しに塗ろうと思う。

イーバンク銀行に振込みがあったので、マクロミルを解約した。

イーバンク銀行はサービスが年々悪くなって、8月には最悪になる。口座を持っていても意味がないので、近々解約する。できれば今日やってしまおうと思う。

楽天KCカードも7月ごろ解約する予定。

いらないものはどんどん捨てよう。

今日は休日なので、妻とデート。どこへ行こうかな。

ついでに金曜日も休み。

金曜日からスポーツオーソリティで15%引きのセールが始まる。このチャンスを利用して、久しぶりにランニングシューズを買おうと思う。

今度はミズノにしてみようか、それともニューバランスか。

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ダイエット

なぜ「夏に向けて」なのか?

海やプールなどで水着を着る機会が増えるから?

そもそも、夏に向けてダイエットしたほうがいい体型の人というのは、一年中ダイエットしていたほうがいいと思うけれどね。

ぶよぶよの体型の人の水着姿は、男でも女でも私は見たくないので、なるべく水辺には近づかないでいただきたい。

プールなんて行くと、ぜい肉の浮き袋をつけた60~70代の熟女たちが一所懸命に歩いている。あまり見た目が美しくない。

ちなみに、「ダイエット」とは、基本的に、食事(diet)のこと。

「ダイエット」とは、食事をコントロールしながら体調や体型を管理することであって、必ずしも贅肉を減らす痩身法(slimming)とは違うので、要注意。

このごろ、私はまったく食事制限をしていないので、1センチほど腹囲が増えた気がする。寝る前に腹直筋を鍛えないとだめかな。私もまた「夏に向けて」、割れた腹筋を取り戻そうか。

とは言うものの、数週間前に、水着の上のシャツを買ったばかり。男といえども、上半身裸は恥ずかしいし、太陽光線と女性の視線に対して無防備だ。それに、腕と顔が日焼けしているのに、それ以外が白いのも目立って恥ずかしい。

私の問題は、ダイエットより、日焼けかも。

日本での豚インフルエンザの感染者が193人になった。中には、1歳の子どもいる。

世界では1万人を超えた。死者数は80人。

休校は、大阪府と兵庫県だけでなく、京都、奈良、和歌山、岡山を含めた計6府県に増えた。

もし感染が拡大し、関東の学校もシャットダウンするようなことがあれば、その場合は、夏休みが短くなってしまう。8月の最初の週まで授業があるという事態も想定される。場合によればお盆に入る可能性もある。そうなったら、最悪だ。個人的な理由で、休講しよう。暑いのは耐えられないから。

休講といえば、再来週の土曜日に、長男の小学校で運動会がある。去年も仕事で出られなかった。子どもがかわいそうなので、今年は仕事を休んで子どもの勇姿を見に行こう。よさこいソーランを踊るのだそうだ。妻はPTAの役員なので、次男の面倒を見る人が誰もいなくなってしまう。だから、休講にせざるを得ないのである。私はビデオ係&カメラ係になる予定。

コネタマ参加中: 夏に向けて、ダイエットする?

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字幕派

字幕か吹き替えかのいずれかを選ばねばならなかったとしたら、私は断然、字幕を選ぶ。

英語の場合だったら、シナリオに目を通してから、字幕なしで見るのが理想だね。

見るなら、映像もシナリオもしっかり読み解きたいタイプ。

映画の話はここまで。ここからは英作文の話。

英作文の授業で、「英作文というのは、基本的に作文の授業なので、高校の国語の時間のように作文指導をします」と言ったら、唖然としている学生がちらほらいた。

英作文というのは、和文英訳のことだと思いこんでいる学生には衝撃的だったかも。

先日、「なぜ私(たち)は英語を学ばなければならないか」という題で作文を書いてもらった。

ある学生は、授業で教師に当てられたら恥ずかしいので、勉強せざるを得ないと書いた。大学生とは思えない知的レベルの低さを露呈しているだが、こどものように純真でかわいいかもしれない。

また別の学生は、海外に行ったときに、英語が使えないと道すら聞けないし、英語ができれば、世界の人たちのいろんなことが話せると書いた。

前者は英語を受動的に学んでいるタイプの典型で、後者は積極的に学んでいるタイプの典型だ。

しかし、いずれも土台は同じ。両者ともに、目的意識が決定的に欠如している。

海外に行ったら、向こうの人と話したいというのは一見優等生的な意見のように思えるけれど、自分(たち)の考えの中で特に何を伝えたいのか、あるいは、向こうの人たちから何を吸収したいのか、という具体的なことを想定していないことには難がある。

特に、自分から伝えたいことがあることが重要だ。教えてもらうことばかりではなく、教えてやることがなければ、先方はありがたく迎え入れてくれない。

ただ、道に迷ったときに道の聞き方を知っていればいい、あるいは物が買えればいいという程度なら、わざわざ大学にきてまで英語を学ばなくてもよい。中学校3年までの勉強でことが足りているはず。

作文の話に戻すが、外国に行ったときに英語を話すと便利だからというのなら、「なぜ外国に行かない人まで、英語を勉強させられているのか」という反論には、その答え方では応じられない。

他者からの反論を想定していない発言は、外敵に対して無防備で、警戒心がなく、思慮の浅い、甘ったれた人格、つまり島国根性を表出してしまっている。そういうことに対して無自覚のままいままで生きてきてしまったことは大きな問題である。

作文というのは、読み手との戦いである。相手をどう屈服させるか、感心させるか、納得させるかが重要なのである。言葉を使うというのは、つねにそういうものである。母語であろうと、外国語であろうと同じである。

英語で作文をするのが英作文の授業の基本。正確な英文をつくることと、説得力のある作文を書くことと、どっちが重要かといったら、明らかに後者である。

下手な英語でも、内容があれば、読む価値がある。まともな英語でも、取るに足らない内容なら、読む価値がない。

また、わき道にそれてしまうが、お許し願いたい。

「バイリンガル」と自称するものたちの多くは、圧倒的にバカであることをいままで私はずいぶん思い知らされてきた。だから、バイリンガルであると威張っている人は、信用しないことにしている。

もちろん、バイリンガルだけではなく、英語のネイティヴ・スピーカーだって同じである。

人によるのである。That depends on the individual.

日本語のネイティヴ・スピーカーだって、話のつまらない人もいるし、バカもいるように、英語のネイティヴスピーカーだって、話のつまらない人だっているし、バカだってたくさんいる。当たり前である。

私はバイリンガルだと威張っている人間は大嫌いである。

だいたい「バイリンガル」という言葉の定義が論理的に正確ではないし、そのことに無自覚なことが気に入らないのである。

たとえば、日本語のできる聾唖者は、言葉を話せないけれど、日本語の読み書きも聞き取りもできる。だからといって、彼らは日本語を使えない人であるとは誰も思っていない。

そういう人でもモノリンガルな人間である。だったら、その上、外国語が上手にしゃべれなくても、さほど不自由なく読み書きや聞き取りができるのであれば、これは立派なバイリンガルであろう。まさか異論はあるまい。

ならば、私だって、十分にバイリンガルである。もちろん、映画俳優のように流暢に話すことはできない。でも、二ヶ国語を十分に解す人間である。

自分は「バイリンガル」であると威張っている人は、たいていろくな作文ができない。どっちの言語でもまともに文章をつづれない。

モノリンガルの人間より、はるかに能力が低いこともよくある。

自分の周りで、バイリンガルを気取っている人たちの会話に耳を済ませてみたら、彼らはたいていバカであることがよくわかる。日本語の母語話者が、日本語で話している内容を、英語にしている状況を想定してもらえばわかるが、英語を話しているからと言って、けっして知的レベルは高くないのである。当たり前でしょ?

ちなみに、映画の台詞は、あらかじめつくられたものだから、わりとまともな感じに思えるけれど、即興でしゃべっている俳優さんの言葉遣いはかなりひどい。稚拙だし、文法的にも間違いが多いし、論理的じゃなかったり、めちゃくちゃなスタイルでしゃべる人も多い。

そういうのを知っておくと、だいぶ自信がつく。

彼らよりはるかに収入は少ないけれど、自分のほうがはるかに知的レベルがずっと上だなあ、とか。

なんか、とりとめもない話になってしまったなあ。

このごろ疲れているみたい。さっき風呂場で体を洗っているときに、急に鼻血がたれてきて、手が鮮血に染まって驚いた。

早く寝よう。


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何も信頼できない時代

テレビ業界の不況はこれからが本番。

CMの効果も期待されているほど高くなく、視聴者の印象に残るCMはほとんどないという。

ということは、スポンサーからの宣伝費がいまよりも削減されることは目に見えている。

その影響を真っ先にこうむるのは、タレントさんのギャラ。

次に高すぎる社員の給料。

無駄に作られているお笑い番組やクイズ番組も多いので、そういうものは真っ先に削られるだろう。子どものアニメも、同じようなカードバトルものがあまりに多すぎるので、それも打ち切られるはず。

報道番組も、視聴率が期待できない、まともなものは消え去り、主婦が無駄に見ているような知的レベルの低いものだけが残るのだろう。「はなまるマーケット」とか。

結局は、消費につながるような番組だけが残り、テレビと広告の関係がよりいっそう強化されていき、情報の信頼性、公平性はますます低下していくのだろう。

では、テレビに代わるメディアとして、何が一番信頼できるかという問題が残る。

ラジオ? インターネット? 新聞? 本? 雑誌? 口コミ?

どれもこれも信頼できない。

これからは、どんなことであっても安易に信用できない、混沌とした時代に突入するのかもしれない。「かもしれない」のである。

サイモンとガーファンクルの映像を発見。シンプルだけれど、良質な番組である。昔はみんな、こんな感じだった。いまでも、これで十分だ。

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迷惑な話

新型インフルエンザの感染者が163人にまで増えた。昨日の夕方の段階では130人だった。

どんどんどんどん増えていく。

昨日、私は花粉症と風邪の症状を抑えるためにマスクを着用して出勤したが、私が乗った車両にはマスクを着用しているのは私以外一人もいなかった。

さすがに気恥ずかしくなって、帰りはマスクははずしてきた。

洟をかみすぎて、鼻がカサカサになってしまった。

昨夜は、急性副鼻腔炎を起こして、顔面の右側が痛くて寝られなかった。夜中の2時に、どうしても我慢できなくなって、鎮痛剤を服用してようやく寝ることができた。

顔の痛みは治まったが、鼻水が止まらない。

のどの方は、大丈夫である。

今日は休まず仕事に出られそうだ。

新型インフルエンザが、関東に拡大してしまったら、休みたくないのに休まざるを得なくなってしまうはずだから、いまのうちにしっかり授業をしておかなくちゃ。

我が家の軒下に、燕が1週間ほど前から、巣をつくろうと狙っている。私は、家やクルマが泥や糞で汚されるのがいやなので、つくりかけの巣を何度も掃除しているのだが、一向に効き目がない。

100円ショップで買ったゴムの蛇を、釣り糸でつないで、ベランダからぶら下げているのだが、それもどうやら効き目がないらしい。

今朝は、水をつかってきれいに泥を流し、さらにトイレの消臭剤でニオイをたっぷりつけてみた。何か、もっと嫌なニオイのスプレーがあれば、それを使うところなのだが、我が家には見当たらないので、その場しのぎでやってみた。

先日、母と電話で話をしたら、幸運をもたらしてくれるのだから、なにか工夫をして、巣作りをさせてやったほうがいいんじゃないかといわれた。

でも、幸運をもたらしてくれるというのは迷信だからねえ。

燕は害虫を食べてくれるから、農作物を守ってくれる存在として燕の巣作りを農家の人が歓迎したというところが起源なんだと思う。我が家には確かに小虫が多い。隣家の庭先に汚い水槽があって、その中にボウフラがわいているらしく、緑の蚊がよく飛んでいるのである。まったく迷惑な話である。


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Ben Folds Five

Ben Folds Five の音楽は、私のランニングのお供、通勤電車のお供です。

Philosophy - Ben Folds Five

ピアノのイントロもいいし、このコーラスのパートもいいなあ。
これを聴くと、がんばれる。

Go ahead you can
laugh all you want
I got my philosophy
keeps my feet on the ground
and I trust it like the ground
and that's why my philosophy(my phil-)
it keeps me walking when I'm falling down(o-so-phy)

Still Fighting itのこのコーラスの部分もいい。

everybody knows
it hurts to grow up
and everybody does
and so weird to be back here
let me tell you what
the years go on and
we're still fighting it

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尾籠な話

昼休み、私は同僚の先生(たち)と教職員食堂で食事をします。

その際に、いろんな話題について話すのですが、みなさん、職業柄、あちこちに話題が振れるのを嫌うので、たいていひとつのトピックをじっくり深めるようなスタイルになります。

ひとつの話題が煮詰まらないと、次のトピックに行かないので、安心してゆっくり会話ができるのです。

食事が終わり、食器を返却口に戻し、食堂の出口を出ると、話題をわき道に逸らしてしまうので食事中に触れることができなかった傍流の話題に少し触れます。

きちんと「余白」がとってあるのです。

このスタイルが、なんともいえず心地よくて好きなんですよね。

ふつうの人たちの会話の中には、メインとサブが混在しているもので、それぞれの思いつきで会話がさえぎられ、会話の流れが滞り、結論に達する前に、違う話題に変わってしまっていることが多く、ストレスがたまるものです。

われわれの会話ではメインとサブがきっちり分かれており、われわれはひとつの話題にきちんと結論を出す努力をします。

これを「議論」というのでしょう。

何度も、ここで書いたことがありますが、「議論」とは英語のdiscussionの訳語です。

dis-は分離、cuss-は叩くを意味するので、各人の考えや意見を分離し、整理し、叩いて混ぜて統一見解、つまりひとつの結論を導き出す作業のことをdiscussionというのです。

これが、われわれの会話では可能なのです。

この種の会話の後には、カタルシスが得られます。出すべきものを出し切った、すっきりした気分になります。

その後に訪れる「余白」の時間は、お尻を拭く時間のようなものかもしれません。

尾籠(びろう)なたとえですみません。でも、食べたら、出さなきゃいけませんからね。

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手間

Swine fluの感染者が累計で130人になったという。今朝は96人だったはず。どんどん飛び火していく。来週あたりは関東にも広まって、学校が休校となる可能性も出てきた。休んだからと言って、感染の拡大は防ぐことはむずかしいけれども。

本日の授業の終わりに、「来週は休校になっているかもしれませんが、また生きて会えますようにお祈りしております」と述べて退室した。学生に苦笑された。

まだ大阪、神戸あたりだから関東では危機感はないけれど、箱根の山を越えるのも時間の問題だろう。

さて、今朝のどが痛いと報告したが、なんとか声をつぶさず授業を3コマこなしてきた。でも、今晩の少林寺の稽古は出るか出まいか悩んでいる。気合を出す練習なんてしたら、明日は授業にいけなくなってしまうから。

授業といえば、LLのアシスタントのお姉さんに、「先生の授業、マジで勉強になります。授業中、仕事を忘れてメモを取っているくらいです」とお褒めの言葉をいただいた。

このごろ、褒めていただくことが増えて、なんか変な気持ちになることがある。私なんぞ、褒める余地のない人間だと思ってこれまで生きてきたんだけれど、どうも私にも少しはよいところがあるようだ。心外(?)だなあ。

お褒めの言葉の後に、「先生は本を書かれているんですか?」という質問が続いた。

「そんなに偉い人間ではないので、書かせてもらっておりませんよ」と返事をしたら、「授業で教えてらっしゃるようなことを本にすると面白いですよ。私が何かお手伝いしましょうか」といわれた。

まあ、原稿を書くのはいいけれど、同じような趣旨で二の矢、三の矢をつげないから、一発屋になってしまいそうだ。それが嫌なのである。

でも、英語の勉強本は、一冊あれば十分かもしれないな。

私の夢は、子どもが大きくなって、英語に興味を持ったときに、いちいち学生に教えてやるように教えてやるのは面倒だし、お互い気恥ずかしいだろうから、「わからなかったら、ほら、これを読んでおけよ」といって自分の書いた本をプレゼントするということ。この一瞬のために、本を書いてもいいと思う。

私が英語を通して学んできた「ものの見方・考え方」を、子どもに伝えることができたら、ホントいつ死んでもいいくらいだ。

私の書きたいことは、どこにでもあるような、こうすれば英語学習はうまくいく、よくわかるという類の安易なマニュアル本じゃなく、哲学的・文学的・宗教的・人類学的・心理学的な内容の英語学習本である。「わかること」と「わからないこと」の境目が明確になるようなタイプの本。

まあ、それは夢の夢。

夢といえば、カメラ。

一眼レフのデジカメを買うくらいなら、比較的簡単に実現できる。

ちなみに、近頃、誰でも持っているコンパクトデジカメというのは、パンフォーカスを基本にしている。ケータイ電話のカメラも同じである。

パンフォーカスの画像・映像というのは、すべての場所に焦点が当たっているというもの。これは人間の目には、人工的で奇妙な印象を与える。

オーソン・ウェルズ監督の『第三の男』という映画を解説しながら、亡くなった映画評論家の淀川長春さんが、パンフォーカスの映像を生まれて初めて見たときの衝撃をテレビで語っているのを昔、見たことがある。

それくらい、パンフォーカスというのは不自然で、衝撃的なのである。みんなそういうことを忘れているんじゃないかと思う。

そのパンフォーカスがデファクト・スタンダードのコンデジというのは、だからこそ、異常なのである。私はあの絵柄を見て、納得ができない。

人間というものは、物事を遠近法で見ている。焦点は一点に定められると、それ以外はすべて背景となり、ぼんやりしてしまう。それが統一感と奥行きを生み、物事を立体的してくれる。

逆に、すべてに均一に焦点が当たっている映像は、物事をわかりにくくしてしまう。この写真の中で何がもっとも大事なのか、これは何を訴えようとしているのか、ということが、あいまいになって、見る側にストレスを与えるのである。

「わかること」と「わからないこと」が明確にすることだけが、その種のストレスを取り除いてくれる。

糸井さんが、「今日のダーリン」の中で、「手間」をかけることが大事で、手間を省くと、そのスキマに何かが入り込んでしまうと書いている。

おっしゃるとおりですよ。

甘栗の皮やみかんの皮をむく行為が、甘栗やみかんを食べる行為の一部であるはずなのに、その手間を省くと、時間の節約にはなるけれども、味気なくなってしまう。そういうことに、少しずつ人々が気づいてきていると思う。

手間を惜しんで、英語を学ぶ。手間を惜しんで、写真を撮る。手間を惜しんで、甘栗を食べる。

どれもこれも、つまらない。

手間というのは、目的を達成するための過程である。その過程があってこその楽しみ。

学んで使うことだけが楽しいのではなく、学ぶ過程のほうがずっと楽しいのである。

撮った後の写真を見ることと、シャッターを半押ししながら構図を考えて写真を撮ことのどっちが楽しいか?

缶詰のみかんをスプーンですくって食べるのと、コタツでテレビを見ながらみかんの皮をむいて食べることと、どっちが楽しいか?

言うまでもない。

私は、こういう手間をかけることの楽しさを大切にしたい。

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風邪?

数日続いていた花粉症(ブタクサ?)の症状に、風邪が加わったらしい。

のどが砂漠化している。この状況で、大きな声を張り上げると、一発でのどがつぶれる。

今日は仕事に出るつもりだが、無理はしないことにした。できるだけ、声を惜しむ。

我々の商売は、声が出ないと仕事にならない。

もし、声がつぶれたら、明日はゆっくり休ませてもらう。

内田樹先生 によると、豚インフルエンザの影響で、神戸の街は人通りも少なく、先生の勤めておられる大学も、感染者はまだ出ていないけれども、休校が決まったそうである。

感染のスピードも高まっている。

感染者の数が昨日の20人から96人に増えた。関西から関東へ感染が拡大するのも時間の問題だろう。

先生は、日本では高校生や大学生ばかりがかかるのは不思議だと書いている。そういえばそうだ。きれいな環境の中で、純粋培養されているからか? 「はしか」の大流行のときも、大学生が圧倒的に多かった。あれとは状況が違うけれども。

ついでに、先生は、授業時間数確保について文科省がしつこく指導をすることについても揶揄している。溜飲が下がる。

大学の授業時間が文科省の指導で年間24コマから28コマに増やされたことを世間の人はほとんど知らない。学生のスケジュールも教員のスケジュールもよりタイトになってしまった。

語学の場合は、4コマ分増えても大したことはないかもしれないが、専門科目の4コマ分というのは、教師側にはあまりに負担が大きい。

授業時間を増やして、教師が教える時間を増やすのではなく、逆に、授業時間を減らして、調べ物などの自主学習の時間を増やすように制度を変えていかないと、大学生は自分で学んでいくという「学びの姿勢」(=生きる力)をますます失ってしまうだろう。

アメリカの大学は1週間に5コマしかない。一方の、日本はその3倍。この差はきわめて大きい。

日本の学生たちは、他人との議論を避け、お上にはたてつかないという、受動的な発想しかできなくなる理由がよくわかるだろう。

それにしても、忌まわしき風邪。

今日は、マスクをして電車で出勤するしかないか。

毎日新聞社による調査によると、麻生さんより鳩山さんに首相になってもらいたいと考える人が多いことがわかったそうだ。とはいえ、本当に政権交代なんてあるのだろうか、かなり疑問に思う。

Shusho

昨日の早朝テレビをつけたら、アメリカの政府関係者が、日本の民主党政権の誕生を望んでいると話していた。日本とアメリカの関係は、長年付き添った夫婦のようなもので、レストランに行っても、無言で食べるような状態がしばらく続いてきた。

お互い民主党政権になれば、新婚夫婦のように、活発な会話が行われて、お互いにとってもよいだろうというのである。

ずばり、その通り!

選挙といえば、川口市長選。現職の市長が再選を果たし、4期目に突入。

予想通りの結果だった。

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昼ラン6K

このごろ長い距離を走らないので、長い距離を走れなくなってきた。

家にいても暇なので、お昼ごはんの腹ごなしに走ってきた。

往路は15分41秒(追い風)。
復路は14分51秒(向かい風)。

風が強く、帰りはきつかった。
でも、追い風で楽に走れた往路のほうが1分も遅いのはなぜ?

3時半頃、家族が戻ってきた。ちいさな子どもが二人いると、うるさくて仕方がない。

ところが、にぎやかなほうが、勉強に集中できるのはなぜだろうか。

土曜日には、アクアラインを通って、海ほたると横浜中華街へ行っておいしいものを食べてきたそうだ。

土曜日は朝から私は仕事だった。

ひがむわけではないが、私も贅沢させてもらうよ、という気分になってきた。

「へそくりで、一眼レフカメラを買おうかな」と妻に話したら、「いらないんじゃない。いまのコンパクトデジカメで十分だと思う。重いと持ち運ぶのが大変だし。それにへそくりってだまって使うもので、みんなの前でしゃべってしまったら、へそくりじゃないんじゃないの?」ときっぱりと言われてしまった。

そりゃ、そうだ。おっしゃる通りでございます。

でもね。

蔵書を売って貯めたお金と、財布からこっそり抜いて貯金箱に入れておいたへそくりが、キヤノンのEOS Kiss x2を買ってもお釣りがくるほど貯まっているのである。

妻には、もう少し少ない額を申告しておいたが、実はもっとある。

それに、ケータイ電話を解約したので、今年だけで3万円近く浮く。

さらに、光ファイバーの料金が、昨年の10月から2千円値下げになり、そのキャッシュバックもあるし、今後一年間でも2万4千円分浮く計算だ。

4月中は電車を利用せずに自転車通勤をしたので、5000円ほど浮いている。

いつもひと月1万円分くらいは使っていた本代もいまはゼロだ。

デジカメを買うには十分すぎるほどのお金を貯めている。

カタログを見ながらよくよく考えたら、ニコンのD40は、今後5年以上使い続けるには、少し心許ない気がしてきた。

トータルバランスのよいキヤノンのEOS Kiss x2にどんどん傾いてきている。

今月末の土曜日には長男の運動会がある。翌日の日曜日には、私と長男は少林寺拳法の県大会で演武を披露する。翌週の日曜日は県大会である。

イベントが目白押し。やはり、いま買うべきだと思う。

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再び、家電量販店へ

本日もまた家電量販店へ偵察。

LUMIX G1というカメラに目が留まった。小さくて軽いので、おそらく妻にも使いやすいと思う。これなら気軽に持ち出せそうだ。価格コムでは58,560円。でも、しっくりこない。

店員さんのおすすめは、キヤノンのEOS Kiss x2。価格コムでは72,989円。店頭価格は忘れたが、大差はない。

ニコンなら、D60 ダブルズームキット。ポイント還元で66,000円ほど。価格コムでは65,090円。これも大差はない。画素数は1000万。

D40も展示されていた。手で持った感じはわりといい。店頭にはダブルズームキットの在庫はなかった。価格コムでは、ダブルズームキットIIは59,600円。

D40もD60もレンズのほうに、手ブレ補正機能がついているので、手ブレの心配はないといわれた。

ちなみに、母はキヤノンのデジ一を使っている。写真教室に通い、撮影会に行ったり、写真展に出展して、定年後の人生を満喫している。

なんだか、そういうのを見ていると、うらやましくなってくる。

ふと思ったんだけれど、D40のボディだけを買って、タムロンの交換用レンズ(AFモーター内蔵)をつけるというのもいいかも。そうすれば、レンズ交換の手間が省ける。合計52,000円くらいか。でも手ブレ補正はついていないらしい。

私は、以前ペンタックスのMZ-3というフィルム式の一眼レフを使っていた。レンズはシグマ。でも、肩身が狭かったなあ。やはり、純正がいいや。

楽天で調べていたら、D40が5万円で買える。しかも、シルバーだ。

【楽天市場】ニコン一眼レフデジタルカメラD40【土日も即納/新品】ダブルズームキット シルバー:アイウィル イズミヤ

私には子どものころからやりたかったことがある。

自転車、釣り、キャンプ、山登り、カヌー、写真、少林寺拳法、楽器。

私がまだやっていないことは、カヌーと楽器。これを数年以内に、実現したい。


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デジタル一眼レフカメラ

デジタル一眼レフカメラというのは、英語でsingle-lens reflex cameraというそうだ。

それはそうと、カメラについていろんな情報を仕入れているうちに、どれもこれもみな長所あるし短所もあるということがわかってきた。どんなものでも長所と短所があるのはふつうだから別に驚かないけれども。

ニコンのD40も手ブレ補正がないので、室内で使うときは、明るいレンズで撮らないとピンボケになってしまうという。

キヤノンのEOS X2は安くなってきたとはいえ、キャッシュバックキャンペーンが終わってしまったので、数ヶ月前に買った人たちよりも1万円分余計に支払わないといけない。連写のスピードも遅く、不良品も多いらしい。

調べているいるうちに、だんだん面倒くさくなってきた。

だいたいこういうときには、経験上、一目惚れを選ぶのが正解ということが多い。

多分、私が買うべきなのは、ニコンのD40 ダブルズームキットIIだろう。

600万画素というのは、かなり時代遅れな感じがするけれど、拡大してもA4サイズ止まりなのだから、それで十分だろう。あまりファイルのサイズが大きいと、パソコンの処理スピードがついていかないので、かえって不便になることを、1000万画素のコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)でたっぷり経験している。

それから、家の中で人間を撮影する機会なんて、考えてみたらさほどない。

食べ物やモノならば撮影するけれど、動かないのだから、手ブレの心配はない。それで手ブレをするなら、私の手が震えているだけだ。

ソニーなら、α200 ダブルズームキット。ソニーはイメージが悪いせいで、4万円台前半の投売り状態。でも、カメラ自体はよいものだという。そういうのもいいねえ。

みんなが、バカにしているもののほうがかえって愛着がわいたりするものだし。

一眼レフカメラで撮影した写真というのは、奥行きがある。

コンデジの場合、その奥行きがないので、全体的にのっぺりとしていて、どうも自分の目で見たときの印象とだいぶ違っている。私はこの立体感のなさに違和感を感じる。

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砂糖が溶けるには誰も待たなくてはならない:『言語表現法講義』その2

この本の後半に、豚の解剖のエピソードが出てくる。

ある小学校教師が、授業で児童の前で生きた豚を殺して解剖し、豚肉はどんなふうに人々の口に入るのかを示したという話を受けて、大学の先生たちが次々にこのおぞましい授業を擁護する発言をする。

ところが、そこに出席していた学生がそれを聞き猛然と怒りだし、そういうことは絶対に許せないと主張する。それは、性教育といって、子どもたちの目の前で大人の男女にセックスをさせ、子どものつくり方を見せるのと同じことだというのである。

知りたいという欲求すらないのに、こういうことはあらかじめ知っておく必要があるのだと無理やり子どもたちに高飛車な態度で押し付けるのは傲慢きわまりないと、著者の加藤典洋さんは、この学生を擁護する立場に立つ。

遠回りでもいいから、本人が納得するやり方でやらせてやることが大切なのであって、そういうやり方ではないとけっしてわからないことというものがある。この考えを加藤さんはデカルトの『方法序説』から学んだと告白している。

デカルトは、森の中で道に迷ったときには、ひとつの方向を間違いと知りつつでも、途中で変えることなく、どこまでも歩くのがいいと書いた(238)。

ふつうの人は、「森に迷わないように羅針盤を持っていけ」と、万が一の事態に備えることが大事なのだと言う。いわゆる「転ばぬ先の杖」という考えである。

この効率的なやり方が、日本の戦後民主主義といわれるものの足腰を大きく弱めたと加藤さんは鋭く指摘する。

本人が納得しなきゃ、何もはじまりません。転ばぬ先の杖、なんてつまらない考えです。転んだ後の杖こそ、大事なのではないでしょうか(195)。

しかし、効率的ではないが、何の知識もない状態で、ゼロからはじめることのほうが大事なんだ。

緊急事態が起こる前に備えておくのが重要なのではなく、それが起こってからどう対処するかに力点を置く生き方・考え方に、加藤さんは強い共感を示す。

先には、砂糖が溶けるのには誰も待たなくてはならない、といいましたが、砂糖でなくとも、人が生きる経験のなかには、無駄だとわかっていても、答えがわかっていても、その答えを一人一人が転んで、つっかえて、手にする、そのことに意味の全量がある、ということが沢山あります。決して早回しできないものがある、それが文章を書く時に、遅れの問題として現れてくるものの、一番深いところにある本質でしょう(195)。

次の発言も面白い。

文章を書くというのは、変わったゲームなんです。相手を育て、自分を負かすまでに強くし、その自分より強い相手に立ち向かい、自分も強くなる、そういうゲームです。相手を強くできない人は、自分も強くなれません(178)。

軽々しく、そして傲慢に、「こういう考え方はよくわかる」なんて言えないけれど、わかる気がするなあ。

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ネギと豆腐の味噌汁

夕食にネギと豆腐の味噌汁をつくる。

今晩も留守番なので、自分の分だけ作ればいい。おのずと、つくり方もぞんざいになる。

亡くなった土井勝さんに叱られそうだ。

洗い物を増やしたくないので、まな板なんて使わない。

左手でネギをひっつかみ、右手には包丁を持つ。

介錯係の侍のように、ネギの首をバッタバッタと斬り落とし、煮えたぎる鍋の中に放り込んでいく。

首の皮が分厚くて、皮一枚でつながっている往生際の悪いやつは、手で引っ張って切り落とす。

時折、ネギがあらぬところへ飛んで行き、壁に頭をぶつける。勢いあまって床に転がり落ちた哀れなやつも拾い上げ、洗わずにお湯の中に投げ込んでしまう。煮沸殺菌だ。

ネギの次は豆腐だ。

手のひらの上で賽の目に切った豆腐を、どさっと落とし入れる。文句をつける家人もいないので、さいころはやや大きめに。

狭い風呂に大勢の客を一気に詰め込もうとしたので、入り損ねる間抜けなやつも出てくる。そういうところは人間界と同じである。気の毒なので、ひっつかんで仲間にいれてやる。

どうせ食べるのは自分ひとり。こまかいことは気にしない。ネギなんて少々火が通っていなくても、かまいやしない。

いつもの通り、律儀に火を止めてから、お玉を使って味噌を入れる。これもちょっと多めに。

かき回すものが手元にないので、包丁に代打を頼む。歯の先っぽがお玉とこすれて、いやな周波数を出しやがる。急に寒気がしてくる。

気にせず、カキュッ、カキュッとかき回す。

これでめでたく完成。

だし入り味噌なので、だしの心配はご無用。

今晩は、お椀なんて気取ったものではなく、ひと回り大きくて深めのカフェボウルによそってみる。誰も見てやしないんだから、いいじゃないか。

よそってみると、考えことに忙しくて、ご飯茶碗に味噌汁を誤って入れてしまったような間の抜けた雰囲気になる。だからといって、食欲が減退するわけではない。30分前からの空腹感は、どうにも抑えられそうにない。

ふわりと立ち上る湯気の上から、貝割れ大根を刻んでパラパラと振りかけようと思ったけれど、すでにエネルギー切れ。さっきの寒気で、体の芯から冷えてしまった。もういいや。まな板も使いたくないし。

そこで気がついた。

ご飯を炊くのを忘れていた。味噌汁といえば、ご飯じゃないか。

うっかりしていた。

仕方がない。

今晩は、パンの残りで、済ませよう。(おお、見事な、五七五だ!)

パンと味噌汁かあ。

モダンな和洋折衷だな。

誰も見ていないのだから、まあいいか。

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おめでたい話

今晩もひとりの夕食を楽しみながら、ニュースでも見よう思ってテレビをつけたら、口のひん曲がった、だみ声のおっさんが何やら、民主党の代表選について偉そうにしゃべっている映像が流れ出した。

飯がまずくなるので、すぐに電源を切った。

首相だから偉そうにしていていいのかもしれないけれど、なんか虫が好かないんだよね。まだ首相やってたんだ、という気がした。

あのおっさんの何が嫌いかといえば、声の周波数が耳障りなことと、口がひん曲がっていることと、話し方が下品なことと、他人を見下したような言い方をすることである。

あれで育ちがよいというのだから、にわかには信じられない。

新しく民主党の代表になった鳩山さんの育ちのよさは、あのおっさんに比べると、いやみがない分、インパクトがかなり薄い。彼のことを嫌いな人も少ないだろうが、逆に好きな人も少ないだろう。

鳩山さんが代表になったせいで、民主党の頼りなさは、さらに増したように思える。

まあ、政権を担当するのは、民主党か、あるいは自民党かなどという瑣末的な問題は、政治家にとっては重大な関心事かもしれないが、国民にはどうでもいいことだ。

やっぱり政治家同士で喧嘩なんかしているより、挙党一致で国を建て直さないといけないんじゃないかな。

Diplomacy in love, life and work | The Japan Times Online

『ジャパン・タイムズ』に、こんな記事が掲載されていた。ラトビアの外交官と日本の小学校の女性教師が結婚するというおめでたい話。

その新郎のOlegsさんが、こういうことを述べていた。

Olegs: It's better to put our different opinions on the table. The important thing is to find a middle way and understand each other.

対立した意見は、テーブルの上に乗せたほうがいい。大事なことは、中道をさぐり、お互いを理解することだ。

さすがに外交官である。

それに比べて、日本の政治家たちはみんな、おめでたい人ばかりである。まったく、どうかしている。

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カメラ・電子辞書・ネットブック

昨日、都内某所のカメラ屋を偵察した。

お目当てのニコンD40は、考えてみれば当たり前だが、展示されていなかった。生産中止になってしばらくたっているのだから、商品の入れ替わりのより激しい大型店に置いてあるはずがない。D60すらなかった。その代わりに、ニコンのコーナーには玄人好みの高級機ばかりが置かれていた。どれもこれもずしりと重たい。私には手が出せない。

キヤノンとペンタックスだけは、手ごろな価格のものが展示されていた。ペンタックスは、女性でも気軽に持ち歩けそうなくらい軽い。でも筐体がやや安っぽい。

キヤノンのEOS Kissのほうが私好みかな。

パナソニックの一眼レフは、本体は軽いけれども、レンズは重いので、手で持ったときのバランスがあまりに悪い。お尻が軽くて、頭が重たい人間がいたら、しょっちゅう道端で転んでしまうだろうな。そんなカメラとは付き合いたくない。

う~む。

でも、カメラといえば、ニコン。ニコンといえば、カメラだ。

Is that your Nicon?

と、木村拓哉が、外人さんに質問されるCMがあったっけ。

海外では、ナイコンとも呼ばれることがあるのかと、あれで初めて知った。

私の父親も、昔、ニコンにあこがれて、ニコマットという廉価なカメラを使っていた。親の敵を取るためにも、ニコンがいいなあ。

ネットブックも気になったので見てきた。やっぱりミニマムなものっていい! 使いもしない機能やソフトがてんこ盛りの、チャラチャラしたパソコンの時代は終わったな。テレビみたいに完全にコモディティ化している。あとは、スイッチを入れたらすぐ使えるようになってほしいだけ。

電子辞書の進化も目を見張るものがある。液晶が鮮明で、明るすぎる屋外でも、暗すぎる室内でも見やすそうなものが数年前から発売されていることは知っていた。実際に見てみると、やはりいい。わたくし愛用の電子辞書は今年で三歳。これが壊れるようなことがあれば、すぐにでもほしいが、まさか三年でお陀仏ということもないだろうから、しばらく買う予定はない。

英語系が充実しているタイプだと、研究社の『大英和』、『大和英』、『リーダーズ』、『リーダーズプラス』、小学館の『ランダムハウス』、大修館の『ジーニアス大英和』が入ったものも出ている。英語系研究者垂涎の驚愕の全部入りである。よだれがたらたら出てしまう。

それを持っている友人に先日いじらせてもらった。パソコンにUSBで接続して、パソコンから操作することもできるのだそうだ。パソコン用にわざわざ別の辞書を買わなくてもいいということになるのだろう。

だったら、最初からネットブックと電子辞書をひとつにしたものを販売してくれないかなと思う。

二つは、いらないべ。

 

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『言語表現法講義』

まだ半分しか読んでいないが、書く経験を通じて、誠実に自分と向き合うことがいかに大切さかということを十分に教えてもらった気がする。付箋の数は20枚に上った。いくつか拾ってみる。

ものを書く人というのは、頭がいいから書くんじゃない。考えるために書かなければいけないという面倒なサイクルを自分の身体に引き込んでしまった人が、考えるために書くのである(12)。

 クレー射撃ってあるでしょう? お皿みたいな標的を銃で狙って撃つ競技。あれ、飛んでいるクレーを狙ったってぜったい当たりっこないですよね。その少し先を狙わなきゃいけない。その、運動感。文章を書く、というのは、相手のいることですから、一つの運動、あのバスケットボールと同じスポーツ、なんです(35)。

書くことの基本は「自分にしか書けないことを、誰にでもわかるように書く」こと(20)。

推敲には二つある。ひとつは他人の目になって見直すこと。もうひとつは自分の見方(味方)になって、自分を擁護する推敲(53)。

(前略)言葉の大きな可能性の源泉なんじゃないでしょうか。言葉が、言葉を話せない、というもどかしさ、不自由さ、不完全さをもまた、自分の「正会員」としているということが(92)。

大雑把な大河を横切る小川になれ(75あたり)。美辞麗句で逃げるな。

芥川は、自分との会話を続けて文間を詰めていった。それは読み手の息を詰まらせる。これが芥川の文間の浅さである(96)。文の生き生きとした感じは、スキマ(文間)が生み出す。

 よく皆さんは国際化だというので外国語をおぼえないと、と言いますが、外国語をおぼえるというのは、結局不自由なものとしての言葉とのつきあいがはじまる、ということです。だんだん不自由じゃなくなることは、むろんめざされるべきですが、言葉が不自由だというそのプロセスの状態も、実はそれ自体が一つの『正会員』としての言葉の経験なのです。

 日本語にとっても、これは一つの経験でしょう。日本語は、戦争前に、台湾、朝鮮半島を実質的に植民地化した時に、不自由な言語、他民族言語、外国語として現れましたが、戦争が終わったら、急に単一民族国家と言われ始めるのと同時に、純粋な国語として再登場します。でも、ここ何年かは、外国人労働者の流入などもあり、再び外国語としての日本語という新鮮な経験の波をあびています(94)。

(ある考えを思いつくというのは、)自分の中に社会が入ってくるということなんです。

 もしもわれわれが一人だけで生活しているとしたら、われわれは言葉なんてもつことはない。言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入りこんできたことで、内面化された会話です(103)。

 先に僕たちは、「自分」を押さえ、それを「他人」にどうわかりやすく書くか、というように考えたのですが、自分で実際に書こうとして、わかることがある。白紙の前に立つと、自分って何にも考えていない、頼りにならない、ということにはじめて気づくんです。ああ、なんて自分って空っぽなんだろう、そう思いませんでしたか? 僕はよくそう思う。それが書く場合の最初の感慨です。

 書く前は、考えた通りに書けばいいんだ、とか、自分の考えをそのまま書けばいいんだ、とか、言われもし、自分でもそんなふうに思っているのですが、実際に白い紙の前に自分を置くと、話が全然違うことに気づく。(中略)あるとばかり思っていた自分というものが、よく眼を凝らしてみると一つの空っぽな空間にすぎないことに気づかされる。書くということが、実は、その空っぽの部屋にヨソから来るものを招き入れること、考えるということが、そのヨソから来るものと対話することなんだというと、へんな話だと思うのですが、実際にやってみると、その通りだ、とわかるのです。(中略)余り考えないうちは、自分というものがとてもはっきりあるような気がする。でも、自分ってまともに考えると、こころもとなくなる。でも、そのこころもとなさを、一度は突っ切らないと、書けない(103-04)。

 印象派とそれ以前の絵の違いは、色から光へ、とよく言われますが、ぼくに言わせると、それは表面的な見方で、この変化は、自分の考えを書く、から、ヨソから来るもので書く、への違いなんじゃないか。ここに、はじめて、ヨソからくるもの、いわば他者、他在の関与ということが出てくるんじゃないか。そう思います(112)。

自分は何の当事者なのか。第三者として、第三者の問題の当事者なのだ(後略)(128)

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ニコン D40 ダブルズームキットII

D40

価格.com - ニコン D40 ダブルズームキットII のクチコミ掲示板

価格.comでユーザーの満足度がもっとも高いカメラは、ニコンD40 ダブルズームキットIIだそうだ。

画素数は600万だし、バリアングル液晶モニターもない、シンプルなカメラだけど、人気があるのには何かわけがあるのだろう。

今日、仕事に行く途中、家電量販店に立ち寄って、触ってみようかな。

もうメーカーは生産を終了して、いま売られているのは在庫のみらしい。

これの次の機種がもうすぐ出るのかもしれない。もう少し待ったほうがいいのかなあ。

それにしても、みなさんが撮影した写真がどれもこれもきれいで驚いてしまう。コンパクトデジカメではあんな写真はぜったいに撮れませんから。

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朝ラン6K

いつもより早く7時40頃家を出た。

往路は16分11秒。
復路は14分58秒。

足が重いので、きっと上半身も重いのだろう。

1ヶ月前より1キロ体重が増えているから。

脛の筋肉がこわばっているので、思うように足が前に出ない。

疲労がたまっているのだろう。日曜日まで運動しないことにした。

朝の空気は新鮮で、ひんやり冷たくて乾いていた。

汗をかいてもたちまち乾いてしまい、体にシャツが張り付かない。走るのには最高の朝だった。

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割り勘派

割り勘派でした。相方はそれを望んでいました。

結婚してからは、我が家は私ひとりの稼ぎで生計を立てていますので、もちろん割り勘にはできません。

割り勘をする男性を馬鹿にしたり批判する女性が世の中には大勢いるらしいですが、いずれ扶養家族になることを勘定に入れたら、割り勘にすべきですよ。

女性だからと言っておごってもらうのが当然みたいなことを言う、ずうずうしい人は大嫌いですね。


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草食系

Blurring the boundaries | The Japan Times Online

草食系男子が増えているという話を取り上げている。

この現象は戦争のない時代が60年続いたため、兵士のような男っぽい男が必要とされなくなっていることと連動しているらしい。徴兵制のあるお隣の韓国では、そんな現象は起きていない。日本では平和な江戸時代にも似たようなことがあったので、この現象はマクロで見れば奇異なことではないのだという。男が女を演じる歌舞伎があるくらいだし。

だいたい日本人というのは、西洋人のようにプレデター的な肉食動物ではないのだから、当然といえば当然かもしれない。

本来、日本人は対決を好まない。「和をもって尊しとなす」だからね。

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テレビとネット

朝食を食べながらまたテレビをつけたら、テレビ東京の「モーニングサテライト」が放送されていた。その中で、インターネットで検索されるキーワードの3割はテレビ関連。それをビジネスにしたワイヤーアクションというベンチャー企業が紹介されていた。

社員たちはずっとテレビを見ながら、放送の内容で消費につながりそうなことをパソコンを使って片っ端からメモしていく。

その情報をさまざまな会社に切り売りして利益を上げているのだそうだ。

価格.comもそのひとつ。

価格.com - テレビ紹介情報 [テレビ番組で紹介されたお店や商品の情報]

面白いことを考える人がいるものだ。

その会社はテレビからネットへ誘導するだけではなく、いずれはネットからテレビへという動きも導入したいのだそうだ。

きっと彼らは好きなことをやって、お金を稼いでいるのだろう。いいねえ、そういうのは。

久しぶりに、価格.comのサイトを訪れたら、ずっと下のほうにこういう特集があることを発見した。

価格.comマガジン - 特集069 高級コンパクトデジカメ

高級機とはいえ、値段は2年前の安物のデジカメと同じ価格。たった3~4万で買える。

画像サンプルを見ると、みな一様に美しい。プロなら、こんな写真が撮れるんだと感心する。

しかし、いざ素人が撮るとあんなふうに、透き通った印象のある写真は撮れるものではない。

素人でもプロのように撮れるカメラってないのかなあ。

やはりデジタル一眼レフ買おうか。

(あ、消費に誘導されてしまっている!)

ちなみに、TSUTAYAが価格.comの株式を20%取得して、筆頭株主になったそうだ。あの会社も今後どんな展開を見せるかけっこう楽しみだね。

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調理師免許

強いて挙げるならば、調理師免許と大型車の免許かな。

住宅街に、知る人ぞ知ると形容されるくらい小さい小料理屋を開くのもいいな。

あるいは、田舎の路線バスの運転手なんてのものんびりしていていいけど。

大型の免許があれば、副業として、重機を動かして、ATMも強奪できる(笑)

でも本音を言えば、両方ともいらない。

資格なんてなくたって、料理は楽しめるし、路線バスにだって乗れるんだから。


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5-6

私が一番好きな時間帯は、早朝の5時から6時の間。

まだ、家族の誰も目を覚ましていないときに、ひとりで起きだして、コーヒーを淹れて、人通りの少ない街路をのんびりと眺めながら、自家製のパンを食べていると、今日もがんばるぞという気持ちになってきます。

ちなみに、嫌いなのは、ラッシュアワーの時間帯。

ラッシュアワーは人を人ではなくしてしまいます。

私はそういう生活がどうしても受け入れられなかったので、会社勤めを選びませんでした。



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期日前投票

今日は自転車通勤。帰りは強い向かい風に抗いながら走ったので、目に土ほこりが入ったり、虫やポリ袋や街路樹の枝や胞子やらが顔に当たって、けっこう痛い思いをしました。

そのせいか、なんだか、やる気がうせてしまっています。けっこう私は打たれ弱いんですよ。

帰宅後、夕食の買出しに行くついでに、市役所の支所に期日前投票に行ってきました。川口市では、今週末に市長選挙と市会議員の補欠選挙があるのですが、妻が実家に帰る用事があるので投票にいけません。仕方がないので、妻にくっついていって私も期日前投票をしてきました。われながら、まじめですね。

盛り上がりにかける選挙なので、投票率も低く、現市長が再選され4期目に突入することが予想されます。

今年も日本は何のChangeもしないと思います。

夕食後、子どもがテレビをつけたときに、ある大学で、正社員と非正規雇用者の生涯賃金の差をわかりやすく示すために、3億円と1億円の札束を見せて、自分の大学の学生たちに、正社員として就職することを促す活動が行われているという報告が報道されていました。

いまの学生は頭が単純だから、その札束の差を見て、正社員になりたがるはずです。でも、実際、世の中をじっくりと落ち着いて眺めてみれば、正社員でも解雇されたり、大きな会社も倒産しているということに、そして正社員になったからと言って、将来が保障されたわけではないということに気がつかないわけがないでしょう。

ぜったいに、正社員のほうがお得かといったら、どうかわかりませんよ。

仕事や人生の満足度なんかもあるわけですし、一概に生涯賃金だけで、仕事を選ぶのはどうかと思いますね。

数年前までは、起業を促すようなことを大学側はしていたはずです。いまはそういう夢を見ることは流行らないんでしょうかね。

今年も日本は何のChangeもしないのは、間違いないですね。

夢を見ることが許されない時代なのかなあ。

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裁判員制度

今朝、NHKのニュースを見ていたら、21日から始まる裁判員制度に関する調査で、制度自体必要ないと考えている人の割合が、前回の調査よりも大幅に増えて、7割にも及んでいると報告されていた。

この結果は私の実感とも符合している。

この制度の根幹にあるのは、社会を維持する秩序の形成を、一部のエリートだけではなく、法律の知識のとぼしい一般人にも担ってもらおうという理念なのだろう。それが民主主義の前提であるからである。

しかし、本来民主主義を享受しているはずの日本人の間ではそのような意識の高まりはまったく見られない。

そんな他人任せな国民性なんだから、「世界の民主国家の中でも裁判員制度のようなものがないのは日本だけだ」とか外国と比較されて言われても、何が問題なのであるかさっぱりわからず、ひたすら抵抗を感じるだけであろう。

グローバルスタンダードに合わせるべしという考え方も一理あるけれども、この制度を推し進めている原動力は、やはり法律家たちのプロ意識の欠如と自信のなさ、一般の人々の中にあるプロに対する敬意や信頼のなさを反映したものであるように私には思える。

多くの国民が、私たちの社会を維持するための秩序は、自分たちの手で作るんだという意識をもつようにならなければ、裁判員制度は上滑りの形だけの制度になって、一般の人々の生活を脅かすだけのものになってしまうだろう。

これは、「何事もお上に任せておけば間違いない」と長年思い込んできた(思い込まされてきた)、お上に忠実な日本人が支払わなければならなくなったツケなのかもしれない。

まずこういう制度を導入することを考えるのであれば、初等教育の制度から徐々に変えていき、圧制から自分たちの手で自分たちを解放したという意識を強く有した民主主義国家を形成していかないと、裁判員制度というものは根付かないと思う。

現行の道徳教育のような、印象論だけで物事を判断するというレベルの議論をするのに慣れさせられてきた人には、裁判員となったときに、きちんと論理的かつ冷静に感情に左右されずに、他人の生き死を判断できるという自信は持てない。

日本人が論理的思考に慣れていないというのは紛れもない事実である。そのような人々によって、裁かれる被告の身にもなってみてくれ。あるいは、被害者の側の身にもなってくれ。

残念ながら、この制度はいずれ近いうちに、大きく見直さねばならなくなるだろう。

論理的に物事を突き詰めて考えることに慣れていないエリートが、同様に、論理的に物事を突き詰めて考えることに慣れていない一般人に向かって、裁判員制度を押し付けても、いずれ破綻するのは目に見えている。

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マクラ

だいたい授業の冒頭に学生たちに向かって何か話すことにしている。

ネタはその日に読む予定の内容に関係のあることである場合もあるし、まったく関係のないこともある。

関係があるようなことであれば、落語のマクラというか小説の伏線のような機能を果たし、学生たちの納得の度合いが高まるんじゃないかと勝手に思っている。

関係がなかったとしても、私は欧米人の書いた英語を読みながら、自分の頭をつくってきたので、どこかでどういうわけかつながってしまう。だから、結局のところ、不思議なことに、そのコース全体のマクラになってしまうのである。

次の回のマクラであったり、数ヵ月後のマクラであったり、いろいろだが。

今日は何を話そうか、と考えてはいるんだけれど、たいてい思いつかない。

で、授業が始まると、急にネタが浮かぶ。

奇妙なものである。

で、今日は何を話そうか。

いつものように何も浮かばない。

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気合

気合の入れ方を初めて教えていただいた。

のどを脱力して声門を開いたまま、腹筋を使って、肺にたまった空気を勢いよく押し出すのである。

私は、大きな声を出そうとするあまり、逆に声門を絞ってしまっていたのである。だから、気合を入れると声が通らなくなる。

今晩は、できるだけ気合を入れながら、通して演武の稽古をした。

私も息子も相手の攻撃を待っている間や、自分が攻撃する前に、ボクサーのように手を小刻みに動かす癖がある。これは少林寺の場合好まれないのだそうだ。落ち着いて、相手を観察する余裕を見せるべしとのこと。

それから、いままで開き退りで下がっていたのだが、十字足退りで下がるほうが、ぐるりと回りやすいので、お互いにそれで統一することにした。

間合いは、私が息子に攻撃する場合は遠く、息子が私に攻撃する場合は近くなるように、お互いが(もしくは私が)調整する。

燕返の際、私は右足を猫足立ちすることを忘れがちなので、それに注意。中段突のときに、腹の底から「あ!」と気合を入れる。上段突のときは、「ん!」と入れたほうが、リズムが取れていいかも(と息子からのアドバイス)。回し蹴りのときにまた、「あ!」と気合。

小手抜の際、攻者の私は、守者(息子)の裏拳をまず左手でかわしてから、左足を下げながら、右手で中段逆突を下受する。その後、右手で上受し、十字受で蹴りを跳ね除け、「あ!」と気合を入れながら蹴り返し、十字足退り。そうすれば、そのままの構えで押小手に移行できる。

押小手のときには、手首を下から握られて押し込まれた形になるのだが、息子には難しいので、私が押されたような形にもっていく。手のひら側を自分に向ける。手刀を入れるときに「あ!」と気合。相手が子どもなので閂は形だけにして、水月を蹴るときに、蹴りやすいようにある程度間合いを取って、「あ!」と気合を入れながら蹴った後、一瞬動きを止めてから、引き下がるようにすると格好がよくなる。

下受蹴は中段突のときに「あ!」と気合。息子の裏拳を受けるときに、左足を下げて、右手で上受け。中段突は、左手で下受し、十字受してから、「あ!」と気合を入れて蹴り返し、十字足退り。

袖抜は、そのままの右前中段構え。手刀で「あ!」と気合、袖抜き、一歩踏み込んで「ん!」と気合を入れながら、裏拳。息子が対応できるように一呼吸おいて、気合を入れて「あ!」と中段突。「ん!」と気合を入れながら上段突。手を落として、金的をガードしつつ、「あ!」と気合を入れて回し蹴りし、十字足退り。

構えをかえて、左前中段構えになる。その後は、逆小手。息子に逆小手をきめられたら、床を叩いて、攻撃をやめるタイミングを伝える。その後は、守者(息子)の突き、払い、攻者(私)の受身へと続き、結手構え、合掌礼で閉める。

実際の演武の際には、これを流れるように、かつメリハリをつけ、1分30秒から2分以内に収めなければならない。

お互いに対する甘えは許されない。間違っても、間違ってないふりをしなけれならない。

もし万が一気合を忘れても、気合を忘れたことさえ忘れなければならない。

"Practice makes perfect."

まさに、練習あるのみ。

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aczog

aczogという私のニックネームは、何の意味もありません。

私の造語です。

というのは、正確にはウソで、本当はパスワード自動生成ソフトを使ってつくったものです。3つほどつくってみて、その中から選びました。

子音が3つつながり、その後母音が来て、gで終わると、英語っぽい感じがしますが、英語の辞書を調べてみても、見当たらないはずです。

偶然ですが、音が悪童、悪がきのわんぱく小僧を思わせるところがあるので、けっこう気に入っています。「悪僧」です。悪い僧侶?

「悪殺ぐ」なら、悪を懲らしめる正義の味方みたい。

そういう趣味は私には毛頭ありませんけれどね。

そういえば、私は子どものころ、『あらいぐまラスカル』というアニメが好きでした。母親に頼んで、夏休みの読書感想文用にと本を買ってもらったこともあるほどです。

大学時代だったと思いますが、英語の教科書を読んでいて、このラスカルは、rascal(悪漢、ごろつき、やくざもの、腕白小僧)だということを知って、めまいを覚えた記憶があります。

あらいぐまというのは、食べものを洗って食べるところがかわいらしく思えるのですが、本当は獰猛で危険な動物ですから、ラスカルというニックネームは彼にふさわしいものだったわけです。

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デジ一がほしい

久しぶりに、物欲が沸いてきました。

デジタル一眼レフカメラがほしくなったのです。

キャノンでもニコンでもソニーでもペンタックスでもパナソニックでもいいですが、プロみたいに使いこなす技術も必要もないので、シンプルな機能しかついていないもので十分です。

価格は純正レンズを入れて5万円程度で。

サイズが大きく持ち運ぶのが嫌になるようなものは、ダメ。

何がいいんでしょうねえ。

と、いろいろ情報を求めているときが一番楽しいんですよね、これが。

デジタルビデオカメラって、けっこう使う機会も少ないし、使いにくいものです。

子どもの運動会や発表会にはいいんですけれど、別に動いているところを撮る必要がない場合は、デジカメのほうが便利。写真のほうが、あとから見返すのも楽だし。

でもコンパクトデジカメは、映りが悪いし、性能が悪いのでピンボケが多くなってしまいます。

しかも、妻が小学校のPTAの広報の委員になって、写真を撮ることを任されたらしいのです。私のコンパクトデジカメではあまりにひどい写真しか取れません。

ということで、一眼レフがほしくなったわけです。

10年前、長男が生まれたころは、アナログの一眼レフでよく撮影していました。確かにいい写真が撮れるので、写真を撮るのが楽しかったですね。

いろいろとブログを見て回っていると、写真を楽しんでいる人が多いですね。

私もぜひとも楽しみたくなりました。

いろいろ調べてみたら、ソニーのα200あたりがよいらしいですね。でも生産完了とのこと。在庫一掃セールとかで安いものを手に入れられるチャンスかも。

ニコンならD40あたりかな。

とにかく、女性でも気軽に持ち歩けるタイプのものがいいですね。

ひかりoneネット(光ファイバー回線)の契約を2年単位にすると安くなるというので、電話で申し込んだ。2年後の2011年の5月に解約すれば、違約金は取られないけれども、途中で解約すると9000円ほどとられてしまうらしい。一ヶ月あたり2000円ほど安くなるし、10月までさかのぼって、8000円ほどキャッシュバックがあるというので、4ヶ月使えば元が取れる。

あらたに、NTTのフレッツ光にするか、あるいはプロバイダーだけ替えて安くしようかと考えたけれど、いろいろ手続きが面倒だし、メールアドレスをまた替えるのもいやなので、このまま契約続行ということにした。

昼間、図書館へ行って予約していた本を借り、先週作った妻のメガネを妻と一緒にとりに宮原のステラタウンに行った。妻がメガネを受け取りに行っている間に、コロンビアで帽子を見ていたら、店員さんが話しかけてきた。いろいろオススメしてもらったけれども、これならいつもかぶっていたいと思えるようなものが見当たらなかったので、いさぎよく買うのをやめにした。ハットかキャップのいずれかを、いずれどこかのアウトレットモールに行ったときにでも買うことにしよう。帽子をかぶるのは、たいてい暑さよけなので、蒸れないものを選びたい。

帰りにイトーヨーカドーでパンを買って、ランチは車の中で二人で分け合って食べた。夫婦でシェアするのっていいね。

次男が幼稚園の行事で遠足に行っているというので、帰りに現地の公園に行ってみたら、すでに帰ってしまったらしく、会えなかった。残念だった。

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政権交代?

一日10分程度ですけれど、このごろまたテレビのニュースを見るようになりました。

豚インフルエンザの一件が気になるからです。

まあ、私の予想では99%の確率で日本での感染の拡大は見られないだろうなと思います。

メディアでは、いまはそんなことより、民主党の代表選挙で盛り上がっているように見えます。

もちろん世間の人たちは、ほとんど何の関係もないので、傍観しているだけですが。

ところで、政権交代は実現するのでしょうかねえ。

自民党は老獪だし、しぶといですから、そう簡単には民主党に政権を譲らないと思いますけど。

でも、もしドラマチックな政権交代があったとしたら、ニュース的には面白いので、私はまたときどきテレビを見るようになるかもしれませんね。

いまは、やはりニュースを見ていても、まったくワクワクしませんね。

10分以上は集中力が弱ってきて見ていられません。

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どっちも好き

私はうどんもそばも大好きです。

今年から、八王子駅の立ち食い蕎麦屋のうどんが太くてコシのあるものに変わりました。

立ち食いといえども、侮れません。

我が家の近所は蕎麦屋だらけです。埼玉は秩父があるから、蕎麦屋が多いのかもしれません。

いつも思うんですが、どこの店も、一人前の量が少なすぎる気がします。

ざるを2枚頼むと、足も腹も出てしまうから、仕方なく1枚で我慢していますが、いつも物足りないという気分になります。

後生ですから、あと20%くらいは増量してくださいよ。

コネタマ参加中: “うどん”と“そば”、好きなのはどっち?

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朝ラン10K

往路は27分15秒。
復路は25分57秒。

いつも思うけれど、もう少し早く起きて走ったほうがいい。できれば7時出発、8時帰宅。8時以降は暑くてたまらん。

汗が噴出して、それだけで疲れる。

バックパックにドリンクを入れて、ストローで吸いながら走る人がいるけれど、夏はああいうのを背負って走ろうかな。

ゼリー飲料1個ではまったく足りない。

入念にストレッチをしてから走ったので、今日はどこにも痛みは出なかった。でもこのごろからだが少し重たい気がする。スピードが出ない。暑いからだろうか。

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パシリ

ほぼ日刊イトイ新聞 のダーリンコラムで糸井重里さんが、昨日、「世の中が、みんなパシリになってるんじゃないか?」と書いたことで、だいぶ反響があったらしい。

私はその文章を読んでいなかったので、それが具体的にどういう内容か正確にはわからない。

世間の人々が「使い走り」になり、誰かのために自分の時間を切り売りして忙しく働くようになったのは大昔からあったことだと思う。マルクスは、工場で自分が作ったものであるにもかかわらず、自分が作った気がしなくなるような状況を「疎外」(Alienation)と呼んだ。手工業の時代とは違って、大量生産の時代は、自分の創意工夫をまったく活かすことができないのある。

最近は、その傾向がより高まって、昔より自分のために使う時間を取りにくくなってきたり、自分が自分をコントロールしているという意識が薄れてきているのかもしれない。

あまり、お客様本位ということばかり考えていると、自分を見失って、「『人間』の部分が、悲鳴をあげはじめ」ちゃうよ、と糸井さんは言いたいのだろう。

近頃は、顧客満足度を競いあって、うちが一位を獲得したというようなことを企業だけではなく、大学までやっている。就職のお世話がナンバーワンの大学はうちだ、とか。

そういうことばかりやっていると本筋を見失うよ、というメッセージを、私は糸井さんの言葉から受け取った。

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『正しい保健体育』

福岡伸一先生がおっしゃっているように、男性というものは、デファクト・スタンダードである女性をカスタマイズして作り出された、縦糸と横糸を結ぶための生殖用の性であるから、男性の頭の中は、身もふたもない言い方だが、基本的にエロでいっぱいである。

だから、男性の本業はエロなことを考えること。だが、男がこの本業に専念していると、社会が維持できなくなってしまう。それを防ぐために学校教育があるのだと、みうらじゅん氏は言う。

この社会を支配するのは、「平等」という観念である。この思想は、もてない男という弱者を差別せず、彼らと共存するために生まれたものである。

そして、この平等な社会を守るために「義務教育」があるのである。

だから、義務教育で性教育を行うのは本来矛盾していると、みうらじゅん氏は言い切る。

たいへん洞察力に富んだ意見であると思う。

ここまでが最初の数ページの要約。

残りは、大爆笑の連続で、電車の中でなんてけっして読めない本である。

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『だれか、ふつうを教えてくれ』

「共生」なんて言葉が流行しているけれど、そんな言葉を安易に使うのはよろしくない。健常者と障害者がいっしょに暮すなんてそんなに簡単なことではないよと、障害者の側から諭しているのがこの本。

「共生」を実現するためには、設備のバリアフリー化に莫大なコストもかかるし、それを誰が負担するのかという問題もある。

さらに大きな問題は、健常者の障害者に対するステレオティピカルな思い込みを捨て去ってもらう必要があることである。

たとえば、弱視の人と、全盲の人のどちらが、障害が軽いかと問われたら、健常者の多くは、弱視の人と答えるはずである。ところが、弱視の人は、一見したところ障害がない人とかわりがないので、障害者とみなされないことも多く、サポートされないこともあり、全盲の人より不便を強いられることもあるという。また、わずかに光を感知できるゆえに、大きな文字なら認識できるので、点字を学習してこなかった人もいる。だから、障害者と言っても一様ではなく、バナナとリンゴくらいの差があるのである。

だいたい、「ふつう」とか「健常者」という基準さえ絶対的なものではない。それを人々に認識してもらうのはきわめて困難なことである。

もし「共生」を実現するというのであれば、一人ひとりが自分の知識を絶対的に正しいものであると考えないで、あくまでも参考として利用するといった柔軟な姿勢を涵養することが重要である。

「自分にはわかっていないことがあるんだ」ということをつねに意識しておくことが大切なのである。

でも、そんなことって、口で言うのは簡単だけれど、なかなかできるものではないんだよね。

少なくとも、私は「共生」なんていう安っぽい言葉を安易に使わないことにしたい。

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『古代の音』

ことばによって、世界は創造され、形成されていく。ことばの「こと」は「言」であるとともに、「事」でもあり、さらに「異」でも、「殊」でもある。原初の状態をことばが切り裂き、そこにおびただしい事物が生み出される。その事物は、一つ一つが特殊なものとして、一つ一つ異なるものとして立ち現れる。ことばは事物を引き裂くばかりではなく、引き裂かれた事物を再びつなぎとめ、一つの全体を組織する。事物はことばによって結ばれ、生命力を与えられる。組織は、一つ一つの事物が連動するものとして、その有機的な全体を開いていく。「ことわり」とは、その全体を貫いてはたらく秩序原理を指している(13-14)。

これが日本語の「こと」から導き出される宇宙観であるとするなら、われわれの祖先の驚異的な言語能力に驚嘆せざるをえない。

「語る」の「かた」は「型」に由来し、一定の型に強いて押しはめて語ることを「かたる」という。そのような定型的な構成のうちに語られるものを「物語」という(37)。

笑いは、神を楽しませるもの。人々が神の和らぐ姿に共感するときに笑いが生じる。「たのし」は「手伸し(たのし)」に出ることばで、神に向かい、手を伸ばして舞う所作が神をいたく楽しませるのだろう(82)。



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大いにけっこう

大学の授業でも、5月の連休明けは、どっと出席者が減る傾向がある。7月の期末テストの前に少し増えるのは笑える。小心者め!

GWがフィルターのような機能を果たしていて、やる気がある学生と、ない学生をふるいわけて、やる気のない学生を排除してくれるので私は助かっている。

教員側にとっては、無目的に授業に出席し、あくびをしたり、居眠りをしている学生を見る機会が減るのだから、たいへんありがたい。

5月病。大いにけっこうだね。

5月病を乗り越えられない人なんて、どうでもいい。さっさと消えてしまえ。そんなやつらなんて、面倒見切れないよ。


コネタマ参加中: 五月病、どうやって乗り切る?

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『14歳からの仕事道』

この本で語られていることは、仕事である程度経験をつんだ人間ならば、誰しも納得できる意見ばかりだと思う。

・いまは思い込みができない時代。
・わけがわからないことから逃げないことが大切。
・やりたいことは自分で見つけるものではなく、出会うもの。
・即戦力は役に立たない。
・安定を求めてはならない。
・「がんばれ」「忙しい」「ふつう」という言葉を使わない。
・壁にぶつかったら乗り越えようとしてはいけない。壁の前でウロウロせよ。
・専門性や個性を身につけるには時間がかかる。
・学校にいる間は、人の話を聴く練習をし、聴き上手になるべし。
・どんな質問にも答えられるように準備しておく。賛成意見と反対意見の両方を用意しておくこと。理由は3つあると言え。
・不完全な人間が人間を評価するのだから、正確に評価されることはありえないと心得るべし。
・異質な人たちとうすく、ゆるやかな人間関係(ウィークタイズ)を築けるようにしておいたほうがチャンスをつかめる可能性が高まる。
・矛盾した言い方だが、ちゃんといい加減に生きろ。




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教育と農業

この一週間もたいへんでした (内田樹の研究室)

ウチダ先生は、以下のように書いている。

世の中には「市場に委ねてはならないもの」が存在する。
教育はその一つであるが、農業もそうである。

私はこの意見に全面的に賛成する。

ウチダ先生は、例のごとく、いろいろと小難しいことを述べているが、要するに、教育も農業も、武器なのであるから、他人任せにしてはいけないということだと私は勝手に解釈している。

武器を他の国に作ってもらい、それをお金を出して、使わせもらうというのは、本当はおかしなことである。

いまは、アメリカから武器(戦闘機なども)の多くを購入しているが、本来、武器というものは、自分たちが自分たちの財産を守るために、自分たちの手でつくり、活用するものである。

本来、軍事というものは、「お金を払えば何でも買える」という発想が通じない世界である。

相手の国がどんなすごい武器を持っているのかがわからなければ、そう簡単に戦争などできない。それが抑止力になる。武器というものは、戦うためにあるのではなく、戦わないために活用するものである。

だから、その意味では、外国から武器を仕入れるという発想はあまりに奇妙で受け入れがたい。

武器は、物質的なものに限らない。優秀な人材も武器になることは言うまでもない。

その人材を育てるための食糧も武器と考えてよい。

そういう食糧を、外国から仕入れるほうが安上がりなんだから、日本は農業を外国に任せて、違う産業にリソースを傾注しておけばいいというのは、実は「平和ボケ」の発想なのである。

都会の住民は、がめつい農民に、農作物を不当な値段で買わされ、ぼられているということを主張し続けている人がいる。グローバリズム万歳の方々である。彼らの主張にも一理ある。

グローバル経済を構築することで、実際に戦争ができないようにするという効果も確かにあるからである。

しかし、一方で、あらゆる資源を自給自足できる国家は、他国と相互依存関係の中でしか生きていけない国よりも、突出して強くなれる。フランスなどはそちらを目指しているように思える。

グローバリズムは平和な世界を補強するという効果もあるが、しかし、それとは裏腹に、自給自足できる国を強大なものにする力もある。

日本が他国の奴隷になることなく、決意をもって伍していこうとするのであれば、教育や農業を市場経済に任せるのではなく、国民総意のもとに首尾一貫した理念をつくり、その理念に沿った国づくりをしていくべきなのだろうと思う。

ことさらに不安を煽りたくはないけれども、さもないと、日本は外国の奴隷に成り下がってしまうかもしれない。

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朝ラン6K

往路は、16分47秒。
復路は、14分48秒。

同じ3キロなのに、どうして2分も差が出てくるのか不思議。

前半、右脚のひざ裏が痛かったので、ゆっくり走って様子を見ていた。折り返し地点でストレッチをしたら、後半楽になった。

右脚のほうが左脚より筋肉が硬い。前はそういうことはなかったから、走るようになって、筋肉が右脚のほうにより多くついているのかもしれない。

筋肉がつくと、どうしても体が硬くなる。ストレッチを入念に行って、体をやわらかくすることを心がけよう。

冬になると、筋肉が硬くなり、怪我が多くなる。その予防をいまから講じておこう。

驚いたことに、友人がロードバイクを手放して、MTBを新たに購入した。

土手を、MTBで走るのが快感なんだという。

世間では、ロードバイクのほうが圧倒的に流行している。荒川のサイクリングロードのあたりなど、外国メーカーの高級バイクに乗って、バイク用のスーツとヘルメットで武装した男女がこれ見よがしに走っている。

あれを見ると、たしかに格好いいと思う。

でも、友人は年齢とともに、スピードを出すことに興味を失ってきたらしい。

私もスピードを出すことは好きではないので、その気持ちはよくわかる。

どこだったか、埼玉の西部にも、マウンテンバイクを借りて、山の中を走れるコースがあったはず。今度私もMTBに挑戦してみようかな。

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快適さ

現在の大学教育というのは、建築業者や電機屋さんを儲けさせることと同義になっているように思える。

LLの時間は、いまコンピュータを使っていろんなことができるようになっていて、黒板(ホワイトボード)を使わなくても、画面に直接文字を書き込んで、センターモニターに映すことも可能になっている。そのほかにも、さまざまな便利な機能が用意されているらしい。アシスタントの方に教えていただいて驚いた。

しかし、私は使わないし、使いたくない。

基本は、語学の授業は、教科書と辞書とカセットテープでいいと思っている。映像はなくてもいい。

教室だって、最新設備の整ったものではなく、天井が落ちてきそうなボロボロの教室でいいと思っている。

大学側は、DVDやインターネットが使えるような最新設備を整えることが学生のためになると思っているし、またそれによって、入学生を増やすことができると考えているらしいんだけれど、何が大切なのかということを忘れているように思える。

なんだか、違和感を感じるんだよね。

LLの時間でも、語学を勉強しているんだか、パソコンの授業をしているんだかときどきわからなくなる。学生も、大学側が思うほど、コンピューター・スキルが高いわけではないので、操作に戸惑ってばかりである。

世の中が便利になればなるほど、快適に暮らすことができるようになるというのは幻想なのではないかと思う。

「快適さ」を感じることのは、実は人によってだいぶ違う。

使いこなせる道具に囲まれている人は快適なのだろうが、それが使いこなせないという状況にある人にとっては、道具に振り回されている感じがして不快きわまりない。

道具はシンプルでいい。大事なのは、道具を使いこなすことではなく、その道具を使って何をつくるかである。

英語の勉強では、相手に何を伝え、相手から何を受け取るかを学習の中心にすえなければ、何も学んだことにはならない。

方々の大学では莫大なお金をかけて、最新設備の整った校舎を作っている。

しかし、それまでの校舎が使い物にならないというわけではない。まだまだ使える建物であった。

新たに建物をつくるお金を、人件費に回すことができれば、われわれ教員は、もっと充実した授業が行えるのは確実である。

教員の給料を薄給にとどめておいて、建物だけ立派にするというのが、日本型教育の典型である。

リソースは、建物ではなく、人材だろう?

建築業者や電機屋さんを儲けさせるのが、大学教育なのか?

私の言いたいことは、それだけである。

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無意識

ほぼ日刊イトイ新聞の中で、糸井さんはまた今日もいいことを書いている。

無意識にできていることについて、
そうとうに、ありがたがってもいいんじゃないか。

糸井さんは、右手の親指をぶつけて爪が割れてしまったそうだ。

ふだん何の気なしにすり抜けられるようなところでも、疲れているときには、感覚が鈍って、車幅感覚ならぬ、身幅感覚が狂って、どこかにぶつかることがある。

そういう無意識にできてしまう能力に感謝しようという考えはどこかで聞いた感じがする。

と思ったら、今晩の少林寺拳法の稽古のときに、道院長が子どもたちに対してそんな法話をしていたのを思い出した。「内臓さん、ありがとう」といって体をいたわることが大切なんだよ。病は気からと昔から言うとおりだって。

自分の体をいたわるということは、自分の体と対話することである。私は走り始める前までそういうことをしたことがなかった。でも、いまは走りながらいつも自分の体の各パーツに、「大丈夫か? そろそろやめようか? もうちょっといける?」などと問いかけている。

今晩は、息子との演武の細かい点を、道場長&道院長にチェックしてもらった。気合を入れるポイントや、下がり方の間違いがわかった。こういうのが無意識にできるようになるためには、相当な時間がかかる。大会は半月後。自宅でも親子で練習しないといけない。

息子は目に見えてうまくなる。驚くほど、上達のスピードが早い。さすが子どもだね。


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学力

鷲田 清一「「学力テスト」をめぐってつらつら思うこと」 - 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)

 「力」といえば、多くのひとは、物事をぐいぐい推し進めることのできる力、外からの強い力にしっかりと抗うことのできる力を、おそらくは思い浮かべるであろう。
 けれどもひとびとのあいだでしかと「生きる」ために凡人に必要なのは、たぶんそういう力ではない。他人の境遇に思いをはせることができる、他人の思いに きちんと耳を傾け、受けとめる力、すぐに答えが出なくても問いを手放さずにしつこく問いつづけられる力、自分の意見が通らずとも辛抱する力、無理難題を突 きつけられてもあきらめず、へこたれもせずに解決を模索しつづけられる力、対立する意見のなかでそれらをとりまとめることのできる力、それらを身につける ことがよりいっそう大切であろう。

おっしゃるとおりでございます。

学力テストで、新しい卵と古い卵の見分け方ということを教えられた生徒が、「どちらの卵を食べるか」と問われ、黄身の平べったい古いほうを選んで誤答になったというエピソードがこのエッセイの中で紹介されている。これは、明らかに学力を問う問題ではない。

古いものから食べていくのは、生活の知恵である。「どちらが古い卵か」と「どちらを食べるか」は別の問題である。

学力を問う側の学力のなさは致命的である。

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こんなふうになりたい

Imawano fans bid farewell to 'Japan's King of Rock' | The Japan Times Online

清志郎さんの葬儀で、ある人がこう語ったという。

"Without Kiyoshiro, I wouldn't have been what I am today — everything from my lifestyle to the way I look at things"

自分が死んだときに、こんなふうに誰かに言われたら、現世に心残りなく成仏できると思う。

いい言葉、見つけた!

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『家を出る日のために』

「私たちは何も持っていない」という冒頭の言葉は衝撃的である。

物質的には、前の世代よりも多くのものを手にしているが、受け継ぐべきものを持っていない。つまり、それは暮らしの土台(伝統)である。

私たちは暮らしの「土台」(伝統)を、この3世代の間に失ってしまってきている。それを取り戻そうとして、おばあちゃんの知恵や、昭和30年代のブームが起こっている。

しかし、そんなことをしても私たちの「土台」は取り戻せない。それは現実逃避かもしれないと著者の辰巳さんは警告する。

その上で、経済や政治の都合で流される情報に惑わされず、自分たちの頭と体を使い、自分たちにしっくりする生活を見つけ、それを土台として、次世代に受け継いでいけばいいという。

この本は、われわれに現実をしっかりと見つめよというメッセージを伝えてくれている好著である。

かつて、辰巳さんは「自分の考えを人に押し付けてはいけない、共感してもらえる人を一人でも増やしていくことが大切だ」と陳健一さんに言われたという。いい言葉である。だが、共感だけでは足りない。体感も必要だ。それをつなげる作業が重要なのだと気づき、いま家事教室を開いているという。

巻末に、一人前になるための家事のしかたに関する問題が掲載されている。題して「家出テスト」。米の炊き方、味噌汁の作り方、洗濯物と布団の干し方、やけどのときの対処の仕方、情報の集め方などについて、答えるという形式。

辰巳さんの体験談を読むと、一人暮らしをはじめたばかりのことを思い出して、ちょっとじーんとするところもあった。

思い返してみると、一人暮らし(の「さびしさや解放感」(185)は私のベースになっているように思える。

谷川俊太郎さんからの質問「何が一番嫌ですか」にたいして、「電車に乗ること。不機嫌な人のそばにいること。聞きたくない音楽を聞くこと。自分が侵されること。」と回答している。

これも体感的に共感できる。

他人に対して配慮のない、自分のやり方を押し付けてくる人々の中で、伍していくことをいやおうなく強制される空間が、通勤電車の中である。私もそういう空間から早く解放されたい。



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母の日

昼間、暑いさなかに上尾丸山公園にピクニック。気温は28度を超えていた。

帰宅後、母の日ということで、長男といっしょにハンバーグステーキをつくった。

びっくりなハンバーグソース by 銀姐 [クックパッド]

上記サイトを参考に、ソースも手作り。ピーチネクターのかわりに、ブルーベリージャムとストロベリージャムを使った。

ハンバーグに塩を少々入れすぎてしょっぱかったけれど、おかげでご飯が進んだ。

作っている最中も、食べている間も、汗がたらたらで、もうへとへと。

今日は早く寝よう。


Hamburgsteak

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朝ラン10K

朝8時前だというのに、もう気温が23、4度で、暑い。湿度が低いので日陰はすずしいのだが、それでも汗が大量に出る。汗にまみれたシャツが体に張り付いて気持ちが悪い。

往路は27分45秒。
復路は25分10秒。

最後の2キロは、つらかったなあ。きちんと水分を取らないとダメだね。今日は、ゼリー飲料だけしかもって行かなかったが、今度はきちんと500mlのペットボトル飲料を持参しよう。

それと、もう少し早く起きて、日差しがきつくなる前に出発しよう。

妻はお弁当の用意をしている。これから、公園に出かけるというのだ。暑いのになあ。

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もったいない ラボ

MOTTAINAI Lab(もったいない ラボ):研究員ブログ:野口健

野口健さんによると、富士山の5合目以上のゴミはみんなの努力でかなりなくなってきたが、西表島に隣国から漂着するゴミは増えるばかり。処理をするにも、設備が整っていなかったり、人口が少ないために財政難で、ゴミ処理ができない。だれかにスポンサーにでもなってもわらないとどうしようもないのだそうだ。

しかし、こういうゴミ拾いというのは、よい活動だね。

私も自分の家の周りはつねに雑草もはやさないようにしておいて、隣の家の前であってもひとつでもゴミが落ちていたら拾うようにしている。

富士山とか西表島なんて、わたしには簡単に行ける所ではないので、まずは自分の足元からきれいにしていこうと思っている。

日本人の多くは、自然と触れ合うといっても、みんなクルマで点と点を結ぶような移動しかしていない。そうではなく、欧米のように、「親子で付近の山に登るか、渓流を下るか、自然の中で遊ぶ」のがいいと野口さんは勧めている。キャンプだって日常生活の延長にある、身近な遊びにすぎない。

そうやって自然と触れ合うと、感覚が研ぎ澄まされ、考え方がシンプルになり、「自分のやりたいこと、忘れていたこと、やるべきことなどが山にいるとはっきりわかってくる。自分の考えやスタンスにブレは ないかと。そういう感覚を取り戻すため、年に1、2回は必ずそういう時間を作るようにしている。ヒマラヤという場所に里帰りすることで、私自身の原点を確 認できるような気がする」と野口さんは書く。

実に、いいねえ、そういう考え方。

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ごんぎつね

新美南吉の『ごんぎつね』の紙芝居を図書館で借りた。

新美南吉、『ごん狐』(「青空文庫」)

昨日は、私が次男に読んでやったが、今日再度読むようにリクエストされたので、代わりに長男に読んでもらった。

読み終わった後、いつものように私は長男に感想を聞いてみた。

もちろん、そんな質問をしても、まともな感想など出てくるわけがない。

たいてい国語の授業では、ごんや兵十の気持ちを考えるということを子どもたちに徹底して行わせるようだ。

たとえばこんな感じ。

4年国語「ごんぎつね」もくじ

これを見ると、実に面倒で、無益なことをするものだと感心する。いやらしいねえ。

「ごんと兵十、悪いのはどっちか?」を考えるなんてあまりにひどすぎる。

こんな問題の設定自体が間違っているのではないかという議論をするほうがよっぽど有益だ。しかし、そんな議論をしてはいけないことが前提になっているのだから、かなり問題が多い。

だいたい、ごんも兵十もどっちも悪いといえば悪いし、同時にどっちも悪くないといえば悪くないんだよ。

人生経験をつまないと、こういうことはよくわからないと思うので、私から息子に感想を述べてやった。

「お父さんが感じたのは、こんなふうに自分の思いが相手に伝わらないこと(ミスコミュニケーション)って、よくあることだなってこと。お母さんによかれと思ってやってあげたことが、かえって気分を害させてしまうなんてしょっちゅうだからね。」

家事の手伝いをしようと思って食器洗浄機を使おうとすると脇で見張っていて、機械を稼動するのに十分な数の皿を、きれいに並べたかどうかをいちいち確認する。ものすごく気分が悪くなるので、だから、私は食器洗浄機は一切使わない。

「私が人間というのは、そういう愚かな生き物なんだよ。もちろん狐は擬人化したものだから、人間だと思ってもいいんだよ。」

世の中には、こんなミスコミュニケーションが満ち溢れている。いくら言葉を尽くしても本当の気持ちを通じさせることができないことがよくあるんだということを、自分たちの体験に照らし合わせて子どもたちが大雑把につかめればそれでいいんじゃないかと思う。

あるいは、かなり視野を大きくして、人間と動物(自然界の人間以外の生き物)の関係をあらわしていると解釈するのも面白いかもしれない。ときには、動物たちは人間に迷惑をかけるけれども、人間の生活を助けてくれる存在である。そういうことの比喩なのかもしれないなどという大胆な解釈も、子どもたちから出てくるかもしれない。

あとは、所詮、フィクションなんだから、テクニックの分析でもしていればいい。

こういう言葉遣いをしているから、読者としての我々は引き込まれていくんだとか、この表現が振るっているとか、この間(ま)がいいねとか、この場面があるから次の場面が引き立つんだよねとか。

多くの学校でやっているのかもしれないけれど、これをアレンジした芝居を自分たち書いて、自分たち自身で演じてみて、ごんや兵十の気持ちを体で理解する作業をするのもいい。

教師がむりやりでっちあげた質問を子どもたちにぶつけて、誘導尋問するように、道徳的な読み方をするように仕向けるのは、よくないと思う。作品の世界を狭くし、子どもたちの世界観を狭くし、ものごとをきちんと考えたり感じることをつまらなくするだけだから。

何事も開かれた解釈が重要なんだからね。

さらに付け加えると、不自然な点を発見するという試みも面白い。

まずタイトルの『ごんぎつね』はなぜ「きつねのごん」ではないのか。このタイトルは英語のGon the Foxを思わせるが、なぜ、そんなタイトルにしたのだろうか。

さらに違和感を感じるのは、最後にごんを火縄銃で撃ち殺した後に兵十がはく、「ごん、お

前(まい)だったのか。いつも栗をくれたのは」というせりふである。

このせりふからは、兵十は「ごん」のことをよく知っていたし、ごんという名前で呼んでいたということがわかる。

ここからは明らかに、きつねが擬人化されていることがわかる。もしかしたら、もとは村の厄介者の、いたずら好きの人間をあらわしているのかもしれない。

それから、この物語を語り手はどの位置から語っているのかというところに着目するのもいい。

そうすると、状況を全部知っていた語り手がどうして、ふたりの誤解を解く努力をしなかったのかという疑問もわく。となると、ごんと兵十のどっちが悪いのかではなく、一番悪いのはもしかしたら語り手かもしれないなどという妙な意見も出てくる可能性もある。

もちろん、青空文庫のほうで確認すればわかるが、これは新美南吉が 「小さいときに、村の茂平(もへい)というおじいさんからきいたお話」ということになっている。

だから、後から、おそらく狐と兵十はこう考えていたんではないかと推測し、物語として再構成したのであるから、語り手には責任はないのであるが。

こういうふうにいろいろといじくっていると、いろんな角度から物事を捉えることができるんだということがわかる。それだけで、十分じゃないのかな。

繰り返すが、大事なのは、解釈を開いていくこと。

 

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哲学

「哲学」とは、英語ではphilosophyという。

philosophyの語源は「philo愛する+sophia知」である。

「哲学」の「哲」には、「折」という文字が含まれているが、これは「ずばりと断ち切ること」、「言動が明快に断ち切れること」を表す漢字である(『漢字源』)。

つまり、「哲学」とは、言動を明快に断ち切る学問なのである。ちなみに、この訳語は、西周(にしあまね)がつくったものである。

もし、西周がこのphilosophyを、「愛知学」としてしまったら、愛知県を研究する学問と誤解されてしまっていたかもしれない。

冗談はさておき、philosophyという言葉を、「知識」を愛するというふうに解して、断片的な知識を対象に、衒学的な用語をもてあそんで、わけのからないこと言う学問だと思っている人がいる。

本来、philosophyとは、知識という人間が知りえた結果ではなく、ものごとを知ること、つまり解明していく過程を愛する学問という意味である。

大根が、近所のスーパーでは、1本150円で売られているのに、隣町の八百屋では100円で売られているという情報や、「左」という漢字をどこから書き始めればいいのかいう知識を愛することとはまったく違うのである。

要するに、物事を解明していくことを楽しむことが「哲学」(philosophy)なのである。

このphilosophyから、数学や科学などの学問が発生していったのはご案内の通り。

だから、学問の起源を、philosophyにまでさかのぼれば、理系とか文系とか分けるのもおかしな話なのだ。

この世のすべての学問は、世界の混沌を整理し、解明しようとする行為である。

けれども人間は神ではない。すべてを解明したり、マスターすることは不可能である。そういう運命なのだ。解明しようとすればするほど、わからないことがつぎつぎと出てきてしまう。

人間は世界のマスター(主人)には永遠になれないのである。

そういうことが、物事を解明しようとすることによって、わかってくる。そうやって、知ることを愛することによって、人間は謙虚になれるのである。

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『神さまがくれた漢字たち』

ここここで取り上げた本と同じ趣向の本である。だが、子供向けのシリーズにしては、言葉遣いが難しいかもしれない。

王は唯一、神と交わり、神と通ずる資格がある。その資格をもつもののみが、民衆から絶大な信頼と尊敬を集めることができる。漢字は、その特権を保証するためにつくられたものであると考えるのが、白川漢字学の大前提である。

とりわけ有名なのは、漢字の「口」という部分をサイと呼ばれる容れ物と解釈する点である。その箱は、その中に祈りの文を収めて、神にメッセージを届けるためのものであるとするところから、白川漢字学の神と漢字をめぐる物語が説き起こされる。

詳しいことは、本書を読んでいただきたいが、ほんの一部を参考までに取り上げておく。

「欲」という漢字は、「欠」と「八」と「八」と「口」で構成されている。「欠」は、口を開けている人をかたどったもの。人は神を仰ぎ見て、サイ(口)を供えて、その到来を待ち焦がれる。この期待を「欲」という。「八」がふたつ重なっている部分は、神からの波動を示している。

悦の旧字体は「悅」であるが、これも同じ意味の神からの波動を表す「八」が使われている。「兄」はサイ(口)を掲げることが許された人物である。その人のもとに、神から波動が送られてくる。その神の訪れを確信したときの心(りっしんべん)の動き、つまり至福の感情が「悦」なのである。

「音」という字は、サイ(口)に横線が引かれている。これも神の訪れを告げる、幽(かす)かな響きを示したものと察せられる。ひょっとすると、「訪れ」とは、「音擦れ」のことであったかもしれない。神は、暗闇の中で「音」のみを響かせ、その存在の証をのぞかせる。ゆえに、そのくらやみの聖域を「闇」というのである(66-67)。

サイ(口)の霊力を倍増させる試みを「習」という。祈りの文を収めるサイ(口)の上から、鳥の羽でいくどもいくども擦りつづけ、それに強い刺激を与える。それに反応して、サイ(口)はその機能を高めていく。よって、対象に対して、くりかえし働きかけることによって、そこに潜在する霊力を抽き出す無限の営みのことを、「習」というのである(69)。

きわめて興味深い、深遠な話である。

少林寺拳法では、「武」という漢字は「戈(ほこ)」を止めること、つまり戈(か)による武力行使を抑止することと教えられているが、この俗説を流布したのは許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』なんだそうだ。白川漢字学によれば、「止」は足のことであり、戈をもって勇ましく進軍するさまをあらわしていると考えるのが自然だという。私もそうだと思う(157-58)。

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『演劇は道具だ』

著者の宮沢章夫さんは元「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の演出家で、現早稲田大学客員教授。

宮沢さんは、すべては見ることから始まると言い、徹底して観察することの重要性をうたっている。この姿勢は「物事への接し方の基本」であるということを演劇を通じて学んだのだという。

冒頭の21ページあたりで、「くわしいことは後回しにします」と、丁寧に説明する作業をはしょり、これからヒントだけを残していくかもしれないということを述べている。

いろいろやっていくうちに、あとでわかることがある。

私も近頃、こういう言葉遣いをしている。「いまは説明しません。振り返ってみたときに、いずれ必ずわかるときが来るものです。それを待ちましょう」、と。

「しっかり自分の目で観察し、きちんと自分の頭を使って考えていれば、いろんなことが見えてくるものです。」

正解はひとつではない。教師やだれかが教えてくれた答えだけが、信じられる答えではない。

こういうことを知っているかどうかで、自分の人生を楽しくできるかどうかが決まってくるのだろう。

だんだん物事がわかっていく過程を味わうことこそが重要なのであって、わかってしまうことや、到達する結論のほうが優先的に重要なのではないと思う。

そういえば、養老先生もそんなことをおっしゃっていたな。




ああ、今日もまた朝早くから、仕事。働いて生きていくのは、骨が折れます。

まあ、それもまたよし。

追記:どうでもいいことだけれど、宮沢さんは「人間」というのは中国語で「世間」を指すと書いておられるが、中国人の先生に伺ったところ、反対語は黄泉の国のことで、つまり、人間とは人が生きている間のことを指すそうだ。

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素直

ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次 のコラムに、糸井さんは、『LIFE なんでもない日、おめでとう!のごはん。』のレシピどおり、だまされたと思って、きちんと計量スプーンで計って、自分なりの工夫などやめて、つくってみることを勧めている。そうすると、新しい体験に「出合う」んですよね、と書いている。

なんか、わかる気がする。

自分の固定観念や思い込みや個性などというものを捨てて、頭の中を真っ白にして、ひとに言われたとおりに忠実にやってみる。そうすると、いままで体験したことのないような世界に出会うことがある。

だんだん年齢を重ねると、素直な気持ちを忘れて、頑固になっていくから、人の言うことをきかなくなっていく。そういうのが、さまざまなものに出会うチャンスを狭め、味わえたかもしれない楽しみを減らすことになるのだろう。

できの悪い学生と接していると、みんなそんな連中ばかりである。かたくなに自分の殻を閉ざしている。

一方、頭のよい学生というのは、みな素直に私の言うことを受け入れて、私の言葉ひとつひとつに反応し、顔を輝かせる。

実に不思議である。

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『バカなおとなにならない脳』

すでに頭の中にイメージがあって、それが外部から説明してもらうと、「比例関係」が生じる。そういう脳の働きが「わかる」という体験なのだという(20)。これはよくわかる。

だからこそ、いくら言葉を尽くして説明しても、理解してもらえないという事態が起こるわけだ。それは私の頭が悪いのではなく、説明を受ける側に、私の伝えたいことを理解する素地がまだできていないということを示しているのである。

寝るということは、たまったゴミを片付けることなのだという。部屋を掃除すると、秩序正しくなるけれども、ゴミ箱の中はエントロピーが高くなる。それと似ていて、世界を秩序立てて整理しようとするのが意識活動だとすると、そのせいでゴミがたまる。だから、そのゴミを片付けるのが眠るという活動なのだ(49)。早く寝なくちゃ。

「こころはどこにあるのか」という質問には、その質問自体が間違っていて、心はある場所にあるのではなく、働きそのものなのであると養老さんは答えている。「運動」はどこにあるのかという質問と同じでナンセンスなんだという(75)。

どうせ汚れるんだから部屋を掃除しないという発想は、どうせおなかがすくんだから食べない、どうせ死ぬんだからいま死ね、というのと同じ屁理屈にすぎない(133)。そういう屁理屈を言う人は、プロセスそのものに価値を見出すということをせず、結論ばかり求めたがる。そういう風に考えているとちっとも生きやすくならないと養老さんは警告する(145)。

 そもそも考えるということは、ものごとを整理することなんです。で、整理できたら楽になるんです、ぼくは。あんまり考えていない人は、もっと手前で整理することが負担になって、ものごとをゴチャゴチャのままで、楽なところで安定しているだけのことです。でもそれにいいとか悪いとか言ったってしかたない(146-47)。

ほんと、そうですよねえ。

昔の人は、少なくとも、わからないことがあるということを前提にしてものを考える謙虚さがあった。現代社会って、現に都会に住んでいると、くまなく光が当たっている。で、影がないということから、理性でわからないことはないという暗黙の信仰が、知らず知らずのうちに生まれる。それか逆に、暗い部分だけを見て、暗い暗いと言ってみたりね。でも、はじじまら明暗、両方あるんだ。(中略)人間がなんでもできるんだと思ったら、大まちがいなんです。おとなが自然を根こそぎにしてきた結果、こういう発想が出てきてしまうんですよ(210)。

まったく、おっしゃるとおりです。

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『気分はもう、裁判長』

著者はいわずと知れた、裁判傍聴人の北尾トロ氏。

北尾さんによれば、国民の権利として傍聴が許されているのは、「密室に関係者だけが集まって強引な裁判を行わないように、司法が、”国民に開かれた裁判”を目指しているから」(173)であるという。

その延長線上に、もうじき始まる裁判員制度がある。北尾さんによれば、裁判に一般の人が参加しないのは、世界でも珍しいらしい。そういうものなんですかねえ。

まあ、「裁判」という、面倒で苦しみの多い手続きを擬似的にでも経験すれば、そう簡単には犯罪に手を染めることはできないという意識を人々に与え、犯罪の抑止に貢献してくれるかもしれない。

そういうメリットはあるのかもしれないが、個人的に、裁判員になるのはいやだなあ。



先ほど、ランチを食べながらNHKの教育テレビの育児番組を見ていたら、人間には3つの場所が必要であるという話があった。

ひとつめは、家庭。
ふたつめは、社会。
みっつめは、好きな場所。

「好きな場所」というのは、要するに、社会的なしがらみなどから自分を解放できる場所のこと。社会的な肩書きも、家庭の中での役割もいっさい関係なく、ただひとりの生身の人間として生きられる場所、もしくは、そんなふうに自分を解放して他の人と付き合える環境のことである。(養老先生にとっては、虫がいっぱいいる自然の中がそんな場所だという。)

そういう場所は、どんな人にも必ず必要であると私は思う。

人間の心の豊かさというのは、そういう場所があってこそ、育まれるものなのだろう。

犯罪を犯す人たちの多くは、もしかしたら、そういう場所を持つことができなかった人なのかもしれない。

心の豊かな人を育てるのは教育者の役目だと思うから、積極的に引き受けていくつもりだけれど、裁判員のように心の貧しい人に制裁を加えながら、その後に、社会復帰するためのお手伝いをするという仕事は私には少々荷が重いように思える。

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『オヤジ国憲法でいこう!』

細かい話は抜きにして、ちょっとここは響いた。

 強い者って、実はけっこう、すぐに滅びるのである。
 あんがい、弱いとされている存在が、がんばってしまうものなのだ。
 たとえば昔、その時代では最高に強かったはずの恐竜はいまでは滅んでしまってけど、ネズミの祖先なんて、したたかに生き残って進化して現在にいたる、といったように、だ。
 人類も弱いから生きていけるわけである。
 「ちょっとうまくいっていないこと」を排除して、ただただ機能的になっていくことって、いきものに限らず、意外と、ダメになっていくのである(143)。

友達や家族や愛は一生ものではないという考えも素敵。真理も正義もひとつじゃない。

大切なのは、挨拶をすること。「自分は怪しいものではないですよ」と回りに告知するために挨拶はあるわけだから、挨拶をすると、世界中どこでも生きやすくなる。これはオヤジの知恵だね。


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『生き抜くための数学入門』

数学というものは、現実にはないものを頭の中に存在させ、リアルに感じるものである。

その見えない抽象的なものを見る方法は、詩や禅など他にもいろいろあるが、数学は、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有できる論理体系である。そこに著者は魅力を感じているのだと言う。

こうして、見えないものを見て、「だから」、「どうして」、「どうなる」を論理的に考えることができなければ、この社会の中で幸せになれる確率は相当に低い。それは現代社会が、情報量と選択肢の多い民主主義社会だからと著者は述べている(57)。傾聴に値する言葉である。

いつも書くけれども、これはすべての教科に当てはまる。英語も理科も社会も国語もみんな、そのような論理的な思考(著者の言葉を借りれば「数学的な構え」)を身につけ、ハッピーになるために学んでいる。

この基本的な「目的」を忘れてしまい、学校の勉強が、期末テストでよい点を取ったり、大学受験で有名大学に入学するための「手段」となってしまっているのが、きわめて残念である。

目的と手段を取り違える人間は、愚かである。

1万円札で1億円をそろえると、10キロ、1兆円だと10万キロ、つまり100トンもあるという(79)。すごいね。



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『「悪いこと」したらどうなる?』

悪いことをしたら、被害者も、加害者も、被害者の家族も、加害者の家族も、周囲の人たちも苦しむのである。

私の近所で昨年殺人事件があった。私の家にも刑事さんがちょくちょく訪れ、事件の手がかりを探して事情聴取をした。

もちろん私は殺人犯ではない。しかし、なんだか、刑事にいろんな質問をされているうちに、自分が犯罪者候補として見られているのではないかという不思議な気持ちになってきた。気分が悪くなった。もちろん刑事さんたちは、そんなつもりで私に当日の様子を確認したわけではないのもわかっている。しかし、私も不快な思いをたっぷりさせられた。

犯罪者は若い女性を殺害した。その男は、私がよく利用するスーパーのATMに立ち寄り、防犯カメラの記録に顔の映像が残されていた。そのATMを利用するたびに、私はあの殺人事件を思い出す。

彼は、1審判決を不服として、控訴している。

彼の家族はおそらくそれまで住んでいたアパートには住めないから、逃げるように引越しをし、子どもたちも苗字を母親の旧姓に替えて、いままでの友達と引き裂かれるように別れ、転校して、ひっそりとどこかで暮らしていると思う。

父親が人を殺したという事実は、子どもの心の奥深くに大きな傷を残す。子どもだけではない。犯罪を犯した父親にかかわるすべての人々の心に深い傷を残した。

もう、だれもハッピーにはなれない。一生、忌まわしい記憶に付きまとわれながら、生きていかねばならない。

家族や親戚はつねに、周りの人から、あそこの家の父親は、人殺しなんだよと陰でうわさされることに耐えなければならない。

また、そんなふうにうわさをする側も、彼らを共同体に受け入れていかなければならない。

悪いことをしたら、どうなるか?

とにかく、だれも得をするようなことはないのである。

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『ハッピーになれる算数』

算数の授業でハッピーになるためには、いや、算数を通じて、子どもがハッピーな大人になるためには、「仕組み」を理解する必要があると著者はいう。おっしゃるとおりでございます。

仕組みさえわかれば、公式の成り立ちがわかるし、数百もの公式を丸暗記しなくても、あるいはそんな公式に頼らなくても、そこから自分なりに応用して問題を解くことができるようになる。しかし、その仕組みがわかるようになるには、時間がかかる。

これは何も算数に限ったことではない。どの教科でも、仕組みを理解することが重要なのである。

先生たちは受験を念頭においているので、時間の節約を優先して、ものの考え方や仕組みを教えることをどんどん省略し、とにかく公式を覚えろ、知っているイディオムと単語を増やせ、年号を覚えろと機械的に丸暗記させようとする。

だから、勉強嫌いが増えるのである。

教育評論家や専門家や素人の中には、英語を受験科目からはずせば、日本人は英語ができるようになるはずだと主張するものがいる。

ならば、数学をはずしてくれれば、日本人はもっと数学が得意になるはずだ。

理科も社会もすべて受験科目からはずせば、日本人は、すべての教科が得意になるはず。

論理的に正しいでしょう?

でも、そんなことをしたら、日本人はすべての教科が苦手になってしまうだろう。

ということは、英語を受験科目からはずせば、みな英語ができるようになるという前提が間違っていたということだ。

これは数式でどう書けばいいのだろうか。

そんなふうに短絡的に考えるのではなく、ゆっくり時間をかけて、ものの仕組みを根本から教えるようにするというのが、「ゆとり教育」の根幹だったはず。

なんだか、最近の教育をめぐる傾向は、再び昔の因習に逆戻りしている気がする。

最後に、著者はこの本を通じて学んできたことは、「仕組みを考え、理解できるような体質を作る」(194)こととまとめ、さらにハッピーになる能力を獲得するための具体的なポイントを以下のように列挙している。

1.議論をするまえに、前提となっていることを書き出せること。
2.前提はだれにでもわかるように簡潔に書くこと。
3.議論を進めるときには、「お告げがあった」とか「○○さんが言ったから」とか「ふつうにそうじゃん」という非論理的なことは言わないこと。
4.なにかを主張するときには、理由をわかりやすい言葉できちんと説明すること。
5.議論はあっちこっちに行かずに、順序よく進めること。
6.結論はきちんと書く。
7.自分が主張したこと(式、証明、議論)を冷静に第三者の視点から見直すこと。

こういうことは算数に限らず、人生のすべてに活かすことができる。

円周率とは、円周が直径の何倍になっているかを表したもの。こういう定義さえわからないのに、円周率が3.14ではなく、3なんて教えられたら、国が滅びますよねなんてことを言う人がいるのが笑える。

円周率が2より大きいこと、3より大きいこと、4より小さいことを証明する部分がとりわけ興味深かった。私はそんなふうに教えられた記憶がないので、けっこう新鮮だった。


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『コドモであり続けるためのスキル』

わたしが好き好んで読む類の本ではないけれど、心に響くところがあった。

「コドモであり続ける」ことは、「次の世代のことを考える」ことと、ぜんぜん矛盾しないんだね。それは、「だって、コドモだもーん」と「義務」や「責任」を放棄するのではなくて、「おとな」とは違ったかたちで、「誰かのために何かをする」ということを、負っていくこと、でもあるんじゃないかな(239-40)。

わかったような、わからないような、妙な文章だけれど、まあ、いいか。

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主語と目的語と宗教の話

よく授業中にする話。

日本語を母語とする話者には、主語と目的語という観念が理解できず、自動詞と他動詞の区別がつかない人がいる。

そういう人にはsubjectとobjectを解体して説明してやる。

共通する語幹の"-ject"は「投げる」の意、"sub-"は「下へ」で、"ob-"は「~に対して」の意。

ということは、subjectは「下へ投げられたもの」(「下へ投げるもの」ではないことはあとでわかりますよ)、objectは「それに対してぶつけられたもの」ということである。

subjectは日本語では「主語」と訳されるが、「主」とは言っても、あくまでも下に投げられているのである。これは、上で主語を投げるものがいるということを示している。つまり、それはユダヤ=キリスト教的な世界観では、絶対神Godである。

この宗教観に則って考えれば、この世界を(神に与えられた)「言葉」で表現するためには、主語や目的語の上に立って、鳥のように上から見下ろさなければならないということがわかる。

こういう鳥瞰や俯瞰ができるようになれば、おのずと主語と目的語という関係が理解できるようになるはずである。

subjectは主語以外にも、名詞では主題、対象、被写体、被験者、臣下・臣民、学科・科目などと訳され、形容詞では、「~に支配されている、かかりやすい」という訳がある。

これらの訳語からも、subjectは、主語と訳されても、上に立って威張っているものではないことがわかるはずである。

ユダヤ=キリスト教的世界観では、神=造物主がこの世のすべての存在をゼロから造り、言葉(ロゴス)を人間に与えたということになっている。(「はじめに言葉ありき」だから、神が作ったかどうかわからないけれど。)人間は、神の前に投げ出された卑小な存在に過ぎない。

人間がいくら威張っていても、その上には、絶対的な権力を行使する神がいて、うぬぼれた人間どもを厳しく戒める。傲慢な人間が神の領域に不敬にも近 づこうとすると、人間を突き落とすのが神の役目である。不幸に襲われてばかりいる人間が、神に救いを求めても、神は一切答えてくれない。さらに不幸をもたらすこ とさえある。それが神なのである。

人間が言葉と知能をもって、世界のすべてを解き明かし、言葉で説明尽くそうとしても、どうしてもできないことが次々と発見される。それは、神が思い上がった人間を地面に叩きつけているからである。

こういう考え方を中心に人々が結束を固めているのが西洋社会である。それが彼らにとっての宗教(religion)である。religionの語源はbond / bindである。人々の絆となるものである同時に、人々の自由を奪い縛り付けるものでもある。そう考えれば、彼らにとって無宗教の人間がどれだけ恐ろしい人間かを想像するのはきわめて容易である。

こういう世界観・宗教観をもった人たちの言語とは対照的に、日本語の話者は、神と対峙するような世界観をもっていない。すべて、神も人間も動物も虫も植物もクソも味噌も自然の中に取り込まれているような意識で暮らしている。

「富士山が見える」を英語に訳せと命じられて、即座に"I see Mt.Fuji."と口をついて出る人はどのくらいいるだろうか。

日本語では、私という主語がほとんど消えてしまい、富士山だけが画面いっぱいに大写しになっている。私は風景の中に溶け込んでしまって、認識されることがない。

ところが、英語を含めた西洋語の場合、自分(主語)が意識され、次に富士山(目的語)が意識され、その二つの関係を動詞(述語)で表現するという作業が行われている。

これをするには、自分自身を上から俯瞰し、客体視できなければならない。

日本語では、ことさら自分を客体視する必要はない。だからこそ、自動詞と他動詞の観念そのものが理解できないのであろう。

要するに、英語が使えるようになるには、英語的な世界観をいったん受け入れてみる柔軟性がなければならないということである。

それができないのに、ことさら知っている単語やイディオムの数を増やしたり、発音を磨くだけでは使い物にならないのである。

私見だが、学校ではまず、西洋の宗教観や世界観を先に教えるべきだと思う。

たとえ宗教観や世界観が同じでも、ミスコミュニケーションはつきまとう。人間に与えられた言語というものは、世界を正確に表現する道具にはいまだなり得ていないからである。おそらく永遠になりえないだろう。私が「うれしい」という気持ちをあらわすときに、「うれしい」という言葉では自分の感情を正確に伝えることができない。

人間は、どんな言語や技術をもってしても、世界と和解することは不可能である。

人間というのは、そういう愚かで卑小な生き物である。けれども、さまざまなもの、ありあわせのものを活用して自分たちの生活を便利で豊かにする能力を持っている優れた生き物でもある。

人間は、バカだけれどエラいのである。そこが面白いのだと私は思う。

英語に関して言えば、文型などの統語法を教えるときに、まずこういう世界観と宗教観を教えておき、さらに名詞の6種類の扱い方、動詞の扱い方(時制+アスペクト)を教え、ついでに前置詞のイメージ論を教えておけば、あとは簡単だろう。

これまでの英語教育は、受験を乗り越えるために時間の節約を優先し、知っている単語やイディオムの数を増やすことばかり考えていた。だから、建築で言えば、土台がぐらぐらなのである。それを哲学や思想的な面から補強し、しっかりした土台にしていくことが、大学教育においては必須の課題であると思う。

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弁当

開けたフタを、閉めなおしたくなったお弁当などというものの記憶は私にはありません。

海苔でLOVEなんていう文字が書いてあったり、錦糸卵でハートマークをつくっていたりというのは、私の場合は一度もありませんでした。最近はママたちの間でキャラ弁が流行しているらしいけれど、本当に暇なんだね。

そういえば昔、母が作ってくれたお弁当のごはんが片寄ってぎゅっと硬くしまっていたのは、見栄えが悪かったな。さすがにそれ以降、弁当箱を小さいものに替えてもらいましたよ。

新婚時代の数ヶ月は、妻は私のためにお弁当をつくってくれたこともありましたが、いまはそんなことはありえません

万が一、つくってくれなんて頼んだら、きっと冷凍食品がぎっしりつまったお弁当になるでしょうね。

そんなんじゃ、さびしいですよ。それこそ、フタを開ける気にすらならない。


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甲乙つけがたい

どの月や季節が好きかって聞かれても、簡単には答えられない。

花粉症の3月も好きだし、じめじめした梅雨時の6月も好きだし、寝苦しい8月も好きだし、コートの襟を立てなきゃならない12月も好きである。

梅の香り漂う春も好きだし、新緑に覆われる若々しい初夏も好きだし、アクティヴになれる夏も好きだし、人生を想う秋も好きだし、春が待ち遠しい寒い冬も好きである。

今日のほぼ日刊イトイ新聞 のコラムで、糸井さんは嫌いじゃないものを増やしたほうがいいと提案している。そのほうがチャンスも楽しみも増えるからである。いたずらに、自分の人生を狭めてしまうのはもったいない。

だいたい恋愛でもそうだけれど、わざわざ「嫌い」だと口にするのは、実際のところ「好き」ということが言えないもどかしさを表現しているということもあるわけである。

私だって、上に挙げた月や季節は好きだけれど、嫌いなところもある。嫌なところもあるけれど、いいところも必ずある。

人間は、自分が思っている以上に複雑な生き物である。だから、人には必ず好き嫌いがあるものであるという前提は単なる思い込みであると思う。

ところで、この「あなたの好きな季節は何月」という質問は日本語が変ではないか。

季節=月ではないのだから。マスメディアの人、大丈夫?

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煮豆(朝ラン6K)

我が家で自家製しちゃうものは、煮豆。

圧力鍋を買ったので、黒豆、白花豆、大豆の五目煮など、これまで試してきました。妻には白花豆が好評でした。

それ以外は、煮豚。圧力鍋を使うと、簡単にできますよ。

パンも自家製。朝食は、たいてい私は、自分でホームベーカリーで焼いた天然酵母パンやドライイーストのパンを食べています。安上がりだし、焼きたてが食べられるのが魅力。いろんなものを混ぜて工夫するのも楽しいです。黒ゴマや白ゴマや胡桃やアーモンドを混ぜたり、蜂蜜やメイプルシロップを加えたり、コーヒーパンや紅茶パンや抹茶パンにしたり、日替わりで楽しめます。安上がりな娯楽ですね。

今朝も、朝ラン。右足のすねの筋肉がやや硬くなっているので、無理せず、6キロにとどめました。

往路復路とも、キロ6分ペース。息切れなどまったくしない、ゆっくりペースです。本当にゆっくりですよ。

しかし、このペースは、歩く速さの2倍。

たいてい不動産屋では、徒歩1分を80メートルで換算していますが、10分で800メートル。1キロで12分の計算になるます。

10キロ1時間で走る人は、歩けば2時間もかかってしまうのです。フルマラソンを4時間半で走れる人は、全部歩いたら、8時間以上かかってしまいます。そう考えると、おそくても長時間走り続けられるランナーというのはすごいですよ。

なんてことを、今日は走りながら考えていました。

たまには私も計算をすることもあるのです。

帰宅後、郵便局へ行って荷物を送り、帰りにせんべい屋さんに立ち寄り、1枚168円もする高級なせんべいを2枚買って、さらにスーパーでコーヒーとヨーグルトと冷凍食品を購入。

これから図書館へ行ってまたまた本を借りて、さらにコンビニに行って自動車税の支払いも済ませてくる予定。

さきほど、この文章を書いている途中に玄関のブザーが鳴ったので、出てみると、エホバの証人のひとがいつもの雑誌をもって立っていました。

タイトルを見ると、「学生のストレス」。昼間から家にいるような人はみな学生だと思っているのでしょうか。

私は来年40才になる立派なオヤジですよ。

もちろん、私はそんな雑誌を読む習慣はないので、丁重にお引取り願いました。

私はキリスト教というものに一定の敬意を払っています。その敬意はエホバの証人の方たちとは、大きく異なるものです。彼らは、おそらく、心のよりどころとしてキリスト教を信仰しているのでしょうが、私はそういうものを宗教には求めません。ポリシーみたいなものを持ってしまうと、それに縛られるだけで、身動きが取れなくなるのが恐ろしいのです。

キリスト教というのは、本来、造物主という絶対神がいて、その絶対神は何も教えてくれないし、いくらお願いをしても聞き入れてくれない存在です。そういう神を自分たちの頭の上に据えているということが、人間どもをつけ上がらせないためにも重要なことであり、それがキリスト教の存在意義であると思います。

いまのキリスト教の信者というのは、そういうことを忘れて、自分たちの信仰こそが唯一絶対なものであると無邪気に信じてしまっています。神を信じれば、自分には悪いことが起こらない。神を信じさえすれば、世界が破滅しても、自分だけは救われる。そんなふうに考えることはもっとも愚かなことだと思うし、本来のキリスト教の精神とはかけはなれていると思うところなんですよ。

煮豆とまったく関係のない話で、申し訳ありません。


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佃祭

物事は、コントラスト(比較対照)によって捉えたり、表現することが大切である。

1週間前に、古今亭志ん朝さんの「佃祭」を聴きなおした。柳家権太楼さんのよりずっといい。

なぜか。

権太楼さんは、マクラでも話しているが、主人公のおじさんの奥さんが、嫉妬深くて嫌なおばさんなんだけれど、そのおばさんが嫌いだから省いてしまったという。

志ん朝さんは、そこを省かず、教わったとおりにできるだけ忠実に演じている。

おばさんが出てくる場面は2か所ほど。

そのおばさんが出てくるか、出てこないかで、こんなにも違いが出るのかと思った。

嫌な女と言っても、落語の中の話だから、殺人鬼とかではなく、せいぜい嫉妬深い女とか口が悪いとか、その程度のかわいらしいものである。

いささか性根の悪い人物と、本当に心の優しい人物とを並べることによって、お互いの性格の色合いを引き立たせるという効果が生じる。

そういう比較対照というテクニックは、落語に限らず、あらゆる場面で活用することができる。

何かを主張をする際に、偏りを廃してバランスを持たせたり、説得力を持たせたり、物事を捉えるときにはパースペクティヴを広くできたり。

積極的に、コントラストを活用すれば、奥行きをもった世界観を構築できるのである。

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『「美しい」ってなんだろう?』

美術作品は、「作品」であると同時に「商品」であり、その境界線はあいまいであると森村さんは言う。しかし、美術の世界の基本は、お金に換算できない作品をつくることである(198)。

これは美術に限らず、あらゆる人間の活動に当てはまることだと私は思う。

どんな本でも、必ず読んでおく価値のあるところというものがある。それが多ければ多いほどコストパフォーマンスが高いと感じることができる。だが、このコストパフォーマンスに、本の値段が比例しているわけではない。むしろ、その逆ということも多い。それに読んでよかったと思えるのは、読者ひとりひとりの主観であり、客観的に判断できるようなものではない。

美術という言葉には「美」という文字が含まれている。この「美しさ」という言葉が、近頃めっきり使われなくなり、評価されなくなったと森村さんは嘆く。代わりに、「かわいい」、「きれい」、「かっこういい」ばかり使われる。しかし、「美しい」としかいえないような場面がある。

それを読者にわかってもらうために森村さんの提示するのは、1930年代の不況下のアメリカの子どもの墓の写真。墓石すらない。それを目にする人の口から、「かわいい」、「きれい」、「かっこういい」などという言葉は軽薄な出てくることはないはずである。

美術家という職業はこういうものを対象とする仕事なのだ。

森村さんは、美術家なのに、美術作品を見ても、どこがよいのかよくわからないことがあると正直に告白している。私も長年そう思ってきた。

たいてい、美術作品を理解するためには、「見る」、「知る」、「作る」という工程をたどればいいらしい。しかし、森村さんはそれでも理解できなかったという。そこで思いついたのが「なる」。自分が美術作品になってしまうという荒業に出たわけだ。森村さんは、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ、ゴッホの自画像、マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン、ヴィヴィアン・リーから、果てはゴッホの「ひまわり」やセザンヌの静物画のりんごにすらなってしまった。

そこでわかったのが、頭を真っ白にして、自分が感じることに素直に答えればいいのだということ。何か変だなあというところを感じること。

それを森村さんは、「わかるとは、絵のなかにふしぎをみいだすおどろきのことである」(52)と要約している。

この不思議を解き明かしていくときに、これまでに学んだ知識が役に立ってくるのである。

とにかく、偉い先生の見方だけが正しいわけでも、重要なわけでもない。優先すべきなのは、まずひとりひとりがどう感じるかのほうである。

この本は、頭だけではなく、自分の体を通して理解することを唱導する身体的美術論であると言っても過言ではない。

いやあ、この本は、コストパフォーマンスが高いですよ。

最後にもうひとつ。

ひとりの人間の中には、じつにたくさんの可能性がひそんでいる。それのタネをできるだけさがしだし、みつめなおし、どのタネを育てていくかをじっくり考える。そういう行為を勉強というのであると、メキシコの画家フリーダ・カーロから学んだこととして、森村さんは書いている(228)。


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何か質問ありますか?

「よりみちパンセ」シリーズの本を立て続けに読んでいる。

一部の本には巻末に詩人の谷川俊太郎さんからの4つの質問と、それに対する著者の回答が載っている。

谷川さんからの質問は次の四つ。

1.「何がいちばん大切ですか?」
2.「誰がいちばん好きですか?」
3.「何がいちばんいやですか?」
4.「死んだらどこへ行きますか?」

わたしならどう答えようか。気の利いたことを言いたいので、今回は保留。

誰かに何か質問してもらい、それに対して懸命に真摯に答えようと努力するのは自分の頭脳を活性化するよいトレーニングになると思う。ニンテンドーDSで頭の体操をしたり、どうでもいい友人とメールを交換したり、人生を豊かにはしてくれないような本を無駄に読むより、こういう質問集を常に持ち歩いて、ひまなときに答えるという暇つぶしをしたほうがはるかに有意義な一日が過ごせそうだ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 谷川俊太郎質問箱

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読書好きの長男

長男は大の読書好き。図書館に行くとたいてい10冊以上の本を借りてくる。子どもの本だからサイズも大きいし、重たい。それらをだいたい1日か2日で読みきってしまう。

たいていは物語が多い。近頃は、4年生にしてはとっつきにくそうな翻訳モノも読んでいる。字が小さく、老眼にはきつい。

私が小学校4年生のころは、友達と外で野球をしたりサッカーをしたりして遊んでばかりでいて、まったく本など読まなかったから、彼我の差を感じる。読書感想文なんて、本も読まずに、親に書いてもらったくらいだ。

このごろは入門書の類にも目覚めて、ブラックホールとか地震とか発明とか、理科系の本にも手を出すようになった。いやあ、すごいねえ。

ときどき会話の中に、「異常気象」というもったいぶった言葉も混ぜてくるので、驚いてしまう。いったいどこでそんな言葉をおぼえてくるのよ。

ちょっと警告の意味もこめて、こんなふうに言ってみた。

「異常なんてことを気安く言うけれど、何が正常で、何が異常かなんて、簡単にはわからないじゃないか。時代によっても、地域によっても、「異常」の定義は変わるものなんだからね。フランスの哲学者のミシェル・フーコーが、そういうことをばっちり解き明かしたんだ。フーコーはスキンヘッドで格好いいんだよ。」

なんでも「異常気象」だとかいっていれば、何か言った気になっているのも、実はどんな物事でも正しいことと間違ったことが明確に分けられると信じていたころの古臭い考えに基づいているんだよ。学校の道徳教育なんて、その際たるもの。もう、サイテー。

日本のマスコミの人たちは、頭の中が暗黒の中世から一歩も出てないんだ。そんな連中の作っているテレビ番組を毎日何時間も見ていたら、本当にバカになっちゃうよ。

要するに、バカというのは、視野狭窄という病にかかった人のこと。

視野狭窄とは、第三者の視点に立って、自分や自分の常識を疑えない病気だよ。

若いころに、大量にいろんな本を読むと、偏見にとらわれない広い視野を身につけられる。

あるいは逆に、本が嫌いな人なら、一切本を読まないほうが、ひょっとしたら偏見がない人間に育つかもしれない。

一方、範囲の狭い偏った読書経験は、偏見と思い込みでできた人間をつくってしまうような気がする。

息子には、偏った読書にならないように、濫読をぜひともすすめたい。

今度は、みうらじゅんの『ただしい保健体育』でもオススメしておこうか。まだ早すぎるかな。

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お金&詩

午前中、妻のメガネを作りにステラタウンの眼鏡市場に行ってきた。出来上がりは来週の水曜日。最短25分で引き渡せるとポスターに書いてあったが、小さな文字で「一部レンズは除外」と書き込まれていた。どうして、そこまでしてすべてのレンズの在庫をおいておかないという事実を隠そうとするのだろうか、どこのメガネ屋も。ほとんどの消費者は知っている事実なのに、こんなミスリーディングな広告は規制してほしいな。

あるコンビニのATMの看板には、「一部の銀行を除きすべての銀行が利用できます」と書かれている。"all but some" っていうこと? おかしいよ、そんな言い方。それじゃすべてではないだろうが。

auの光ファイバーのちらしも変だよ。詳細は省くけれど、またまた、だまされたって感じ。

イトーヨーカドーで、男性用水着の上を買った。最近は、炎天下のプールで男性が上半身をさらすことが徐々に減ってきている。日焼けは肌にしみを作ったり、皮膚がんを引き起こしたりするかもしれない。いずれにせよ、あとでやけどで痛い思いをするから、上着を着用するほうがいい。

私は痩せているので、あばら骨が見えているし、日焼けをしている腕と、それ以外の肌の白さのコントラストが激しいので、上体を人前でさらすのは恥ずかしいというのも上着を買った理由である。

帰宅後、雨の中、子どもたちをつれて近所を散歩。寒かったけれど、いろんなところに新しく家が建っていることを発見した。何年か前に、住宅見学会で家の中にあがらせてもらったところがどんなふうに経年変化しているかも観察できた。

図書館に西原理恵子の本を予約したら、すでに300件以上の予約が入っていた。これでは読めるのは半年後かも。図書館で借りて読むより、立ち読みしたほうが早そうだ。

もちろん、お金があるというのはよいことである。適度にないと、生きるのがつらくなるからね。でもお金に縛られて身動きできないのもいや。あんまりお金のことを考えないで暮らせるような状態が一番幸せなのかもしれない。



「詩とは何か?」 そう聞かれても答えようがない。実物を見せて、読んでもらって、これが詩ですということをわかってもらうしかないというのが、谷川さんの答え。おっしゃるとおりでございます。

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『いのちの食べかた』

牛や豚を屠殺する場所は東京都の場合、芝浦にあって、働く人は民間業者ではなく、東京都に所属する公務員であるということを初めて知った。その多くは、もともと被差別部落出身の人たちである。

この本の前半には、牛や豚を殺し、おいしい肉を手に入れる方法が克明に書かれている。これを読んで、牛や豚がかわいそうだから、食べないことにしようと思っても、もう遅い。

彼らは食材としてだけではなく、薬を作るためにも利用されているのである。

人間というのは、生態系の中で下位の生き物に依存して生きていることを思い出させてくれる好著である。

ウサギの数え方は一羽二羽だが、これは江戸時代に動物の肉を食してはならないという禁制がたびたび出されたが、それをかいくぐって食べるために鳥のように扱ったからなのだそうだ。イノシシは牡丹、馬は桜肉、鹿は紅葉というのもその名残(71)。

著者の森達也氏は、知ることが大切であるということを力説する。メディアは誰も傷つけたくないからという理由で差別の問題を隠蔽するが、差別というのは事実を知らない人たちによって作られていく。

森氏は伊丹万作が「だまされることの責任」を指摘したことに触れている。たとえば戦争にしても、だました人と、だまされた人がいて初めて引き起こされる。だました側も悪いが、だまされた側も悪い。ここでいうだまされた側というのは、事実を知ろうとしなかった人のことである。

差別の問題も戦争の問題も根本は同じ。知ることが大切だということである。

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『建築バカボンド』

ひとつのものごとを極めている人というのは、不思議なことに、言うことがきわめてよく似ている。

自分のものを人に貸したり、人のものを自分が借りたり、そんなことのすべてが、コミュニケーションだと思っています(151)。

自分にもよくて、他人にもなにかいいことがある可能性が高いことやものを考える(153)。

あまりにも基本的であたりまえのことを疑ってみること。それによって固定観念の呪縛から逃れることが、大きな豊かさをもたらす秘訣だとぼくは考えています(224)。

自分が持っているものになにかいいものがあるとしたら、それはさらけ出してどんどん使ってもらうほうがいいと思う。あと、あんまり信念とか持たないほうがいいのかもしれないよね。ヘタに持っちゃうとそれを守ろうとして、建て主にスタイルを押しつけちゃうのはやだよね。そのつどそのつど、いまあることにしっかり向き合えなくなったらダメだと思う(206)。

もしかすると、話すために家をつくるんじゃないかって気もする。建築って、目標がはっきりしているでしょう。みんなで話し合いながら、それを目指していく。ときにそれぞれの立場や役割がいれかわったりしながらね。ぼくの思う人間のいちばんの豊かさ、贅沢さって、人と話すことで、建築にかぎらず、それをもとめていんないろんなことをしてるんじゃないかな、って思うときがある(210-11)。

日本で「リスペクト」といえば、「尊重」や「尊敬」というふうにだけとらえられていますが、オシムは「すべてを客観的に見通すこと」「客観的な価値を見極めること」だと言っています。相手の力を過小評価することも過大評価することもなく、きちんと評価するということ。そうしなければ自分の歯を折ることになる、とも言います。相手がなにができてなにができないのかを判断して、客観的に見通さなくてはいけない、ということです(216-17)。

オシム:日本では誰も求められた以上のことを試そうとしない。これが私のノルマだと考え、そのノルマを満たしてしまったら、他のことは他人が引き受ければいいと考えている。サッカーではそれでは駄目なのだ(218)。


この本を読んで、ひとつ大きな疑問が氷解した。

建築家の設計する家というのは、よくテレビで紹介されたり、雑誌に掲載されているけれど、どれを見ても住みにくそうだと思っていた。

それは建て主たちだけに住みやすいようにつくられているからであって、建築家たちは万人にとって住みやすい家をつくることを目指しているわけではないからなのだ。

ちなみに、我が家は建売住宅。この本の著者の家も実は建売だそうだ。私の義理の弟(年上だけれど)は、1級建築士。いつか自分で家を設計して住みたいかと聞いたら、建売のほうがいいという答えが返ってきた。紺屋の白袴みたい。

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仲良くしよう。

ほぼ日刊イトイ新聞のコラムに糸井重里さんは、こどもの本当のお願いは、「おもちゃがほしい」でも、「おいしいものが食べられますように」でもなく、「おとうさんとおかあさんが、仲よくいられますように」なのだと書いている。

おっしゃるとおりでございます。私も子供のころ、そんな風に考えていたっけ。

夫婦喧嘩は犬も食わない。こどもにとっても迷惑千万な話。

仮面夫婦だろうがなんだろうが、こどもの前では仲良いところを演じるのが親の仕事かもしれない。

こどもの日は、おとなが日ごろの悪行を反省し、罪滅ぼしをするための日みたい。本当に、いつもろくなことしていないし。子どもたち、いつも申し訳ありません。

こどもの日に限らず、ふだんから、自分がこどものころに親にしてもらいたかったことを思い出して、自分のこどもを楽しませてやらねば。

1月1日から5月5日までの累積走行距離は、427.5K。1か月平均100K走っていることになる。よくがんばっている。たまには自分をほめてやろう。

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不況、節約、豚インフルエンザ

Language shows the resurgence of being kechi | The Japan Times Online

「節約」という言葉は、節制と約束をつめたもので、徳川家康の座右の銘だったという。家康の影響がこんなところにもあったのか。

ショージ・カオリさんも書いている通り、日本人の多くは未曾有の不況のさなかに、鬱になったり悲観的になるどころか、よりいっそうエナジェティックになっている("[F]ar from being depressed or pessimistic, many of us here in Japan actually feel more energized.")。

不思議なことに、どこへ行っても混雑ばかり。物が売れて仕方がないのではないか。

豚インフルエンザのアンケートがJapan Timesにあったので、私も投票してみた。

もちろんメディアは騒ぎすぎ("I think there's too much hysteria in the media. ")に一票。

私と同意見の人が全体の51%。

残りの49%は、何らかの形で心配している人たちということになる。質問の仕方が悪いために、意見が分散しているように思えるが、同意見であることには変わりはない。

彼らは、自分だけはなんとしてでも生き残りたいという気持ちが強いのかもしれない。彼らは、自分の人生に対して相当満足しているのだろう。満足していなければ、早く豚インフルエンザが蔓延して、みんなと一緒に死にたいとペシミスティックに考えるはずだから。

やはり不況というのは、メディアと金融業界が作ったウソなのかもしれない。

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こどもの日(朝ラン10K)

こどもの日なので、長男と一緒に朝ラン10K。

むろん、子供に10Kを走らせるのは無理なので、彼のほうは自転車。

往路は28分44秒。
復路は26分15秒。

折り返し地点にしている公園で、アグリフェスタが開催されていた。会場の前には出店が10店舗以上並び、会場では農産物を売るテントがずらり。朝9時半だというのに、大勢の客でにぎわっていた。

われわれは所持金20円(ジュース代のお釣り)なので、何も買えずにそのまま帰ってきた。

途中の川で、コイがバシャバシャと水しぶきを上げて川登りをしているところに出くわした。

本物の「鯉のぼり」である。昔の人は、これを見て、子供たちが、コイのように力強く生きて行ってほしいと祈願したのだろう。

帰宅後、秩父土産のそばを茹でて11時にランチ。

昼ごろ、夕食の買出しがてら、近所の和菓子屋に柏餅と団子を買いに出かけた。その店に入るのは今回が初めて。商品の陳列ケースの奥の部屋で、おじいさんがせっせと柏餅を作っていた。

ああいうものは手間のものだから、スーパーに並んでいるような商品の2倍以上の値段になる。しかし、期待通りスーパーで売られているようなものよりはるかに満足度が高かった。

夕食づくりを任されたので、ひき肉カレーを作るための材料をスーパーにて調達。彩りを考えてオクラを上にのせることにした。妻の希望を考慮して、カロリーとコストを制限するために、鳥ひき肉を入れる。カレー作りは長男に手伝ってもらう予定。子供の日だからね。

子供には、いろんな体験をさせてあげよう。

意外に簡単、こどもの日の「柏餅」レシピ! - [和菓子]All About

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柳葉敏郎さん

朝食時に、久しぶりにテレビをつけたら、NHKで俳優の柳葉敏郎さんのインタビューが放送されていた。

ちらりと一部を見ただけなのだけれど、3点印象に残った。

ひとつは、彼は故郷の秋田に帰った理由のひとつとして、自分の父親にしてもらいたかったことを自分の子供たちにするためだという話。その気持ちはよくわかる。

私はいろんなことを父親に教えてもらった記憶はない。友達と遊んでいればいろんなことを覚えるだろうという考えの人だから、父親は特別何も教えてくれなかった。

私はいろんなことを子供に体験させ、自分とは違う文化をもつ人間を受け入れることに苦労を感じないように、幅広い、バランス感覚のよい、ものの考え方を身につけてもらいたいと思っている。そのためにいろんなことを一緒にしたり、私の考えを伝えるようにしている。

2つ目。やんちゃな近所の子供を大声で叱ったとき、柳葉さんはその子供の気持ちを落としておくだけではなく、最後に少し持ち上げてやったという体験を話していた。大人はたいてい自分の主張が正しいからといって、その主張を言いっぱなしにしてしまう。しかし、子供にも子供の言い分がある。「まあ、今回のことは大目に見てやるから、気を落とすな。またうちの子供と仲良く遊んでな」と、その子供の人格と、やった行為とを切り離してやる。これで子供の気分はさっぱりする。こういうことはなかなかできるものではない。

3つ目。柳葉さんは地域の子供を対象にソフトテニス教室を行っているのだそうだ。自分の積み重ねてきた経験を、後代に伝えていくという行為は、人間が人間として生きていくためには欠かせないものであると私も思う。私も教師だから、そう思うのだろうか。

柳葉さんは、よい年のとり方をしているようだ。年齢とともに深みのある演技ができるようになっていく方だと思った。(私はドラマを見ないので、よくわからないけれど。)

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彩湖BBQ & 羽生

午前中、彩湖公園に行き、バーベキュー。小型の折りたたみ式グリルで、おにぎり、鶏肉、牛肉、しいたけ、フランクフルト、つくね、フライドポテトを炭火焼にして食した。

利便性を考慮に入れ、焼き串を使ったものばかりを選んだのは大正解だった。

鶏肉は、安い胸肉を小さく切ってあらかじめ串に刺しておいた。それをあぶって、焼き鳥のたれをからめて、またさらに焼く。たれのこげるニオイが香ばしい。そんじょそこらの焼き鳥屋の焼き鳥よりはるかにうまかった。

炭火の周りは暑くて汗がだらだら出たが、公園を吹きぬける風がすずしかった。

反省点: 下に敷くマットは、キャンプ用の表面にアルミが張ってあるもの。光を反射して、まぶしい上に、より強く日に焼けてしまうという欠点があることを発見。

いったん帰宅後、荷物を片付け、そのまま羽生にあるさいたま水族館へ。天気がよいので気分もよくなって急に予定を入れてしまったのである。

水族館に展示されているのは淡水魚ばかりなのに、館内は超満員。みんな考えることは同じなのであるということを改めて実感した。

通りをはさんだ、キャッセ羽生で、名物の「いがまんじゅう」とみそまんじゅうをおやつに食べた。

羽生のあたりだと、栃木に近いせいか、栃木弁を話す人がけっこういた。

夕食はイオンモール羽生にて。私はハンバーグ定食。我が家の近所には、5か所のジャスコがあるので、別にわざわざ行くほどの事もないのだが、一応参考までに見てきた。金太郎飴のように、店舗も商品も全国一律というのが、なんだかさびしい。

日本中が、同質の文化になりつつあるのかな。

帰りの車の中で、久喜菖蒲公園あたりで打ち上げられていた花火を思いがけなく見ることができた。子供たちは大喜びだった。

帰宅は8時半。休日の一日を有効に活用できた。

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答え

世の中の人気者は、私が「正解」を知っていると威張っている人である。

こうすればいい、ああすればいい、と。

私のマネをすれば、異性にモテるというところから始まって、「終身雇用を見直せ」、「早婚のすすめ」、「レバレッジなんたらかんたら」等々まで多岐にわたる。

どうして、そういうことを言うモデルや評論家が人気者になれるのか私にはわからない。

まず、第一に、彼らが正解であると主張する答えが正解であるという保証は確実にない

それがはずれだったとしても当人が責任を取って、切腹をすることもあるまい。

切腹を覚悟で発言しているのなら、私はその人を信用できるが、所詮、狭い環境の中で数十年を生きてきただけのひとりの人間の考えることである。絶対的な正解を知っているわけがないだろう。

外資系という広い世界の中で働いてきましたなどと、どうしてそんなに威張っていられるのか。外資系の会社だって、人類の長い歴史や、宇宙から見たら、ごくごく狭い世界である。

占い師の類もそうだ。占いが外れて切腹した人はいるか? 予言が外れても、弁解をせずに、とんずらするパターンが圧倒的に多い。もしくは私がその占いが当たらないように願っていたから、当たらなかったのだと、なんの根拠もないことを言う始末。

我々は世界の主人になれるわけではない。我々は「神」ではないのだから、世界をマスターするなんてことはありえない。

ならば、謙虚に、控えめに、つつましく生きるというのが、人間のとるべき姿勢である。

「私は正解を知っている、私だけが正解を知っている」と威張っている人に、「はずれたら切腹しますか?」と聞きまわる役に、私はなろうと思う。

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水泳

今年の夏こそ、泳げるようになろうと思っている。

息子はだらだらと2年以上スイミングスクールに通っているが一向に泳げるようにならない。

彼は私以上に泳げるようになりたいという気持ちが強い。

しかし、私同様に息継ぎができないので、25メートルを泳ぎきれないのである。

今年こそ息継ぎを覚えて25メートルを泳ぎきろうと息子と約束をした。

できなかったことができるようになるという経験ほど人間に自信をつけてくれるものはない。

私もそういう経験をして、自分にもっと自信をつけたい。

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忌野清志郎さん

忌野清志郎さんが5月2日に亡くなったというニュースをたった今知った。死因はがん性リンパ管症。

私が自転車に乗るようになったのは、清志郎さんの影響も大きい。

ショックで何も言えない。

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せどり

せどりブログ オークションの鷹

「せどり」とは、古本屋をめぐって売れそうな本を安く仕入れ、それをオークションやアマゾンマーケットプレイスで売りさばビジネス。

アマゾンの場合、1冊105円で仕入れた文庫本を1円で売っても、1冊につき送料340円が振り込まれるので、クロネコメール便で80円ほどで送れば、梱包材の費用を差し引くと、120円くらいの儲けになるわけである。

この調子で、ひと月に100冊売れば、1.2万円ほどの収入になる。

まったく地味な商いである。

私は某所にあるブックオフによく足を運ぶのだが、身なりの悪い人たちが、持参した大きなボストンバッグに本を片っ端から詰めていくのを時折見かける。男性もいるし、女性もいる。

彼らが「せどり」で暮らしている「セドラー」なのだろう。

せどりな生活

せどり 初心者のノウハウ:ど素人からのせどり

せどりの法則

セドラーは、古書店に足を運び、その場でケータイで価格をチェックし、売れそうな本を仕入れていくらしい。頭の中に売れそうな本のリストがあるわけではないようだ。

ひと月あたり30万円~100万円も稼ぐ人がいるという。

そうなると、本業以上の収入になる人も出てくるし、確定申告もしなくちゃいけない。

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朝ラン10K

往路は29分06秒。
復路は26分03秒。

休みの日なんだからと自分に言い聞かせながら、あせらずに、ゆっくり走った。

路上にホームレスの老人が足を投げ出して、家財道具に頭をもたれて寝ていた。右足には泥で真っ黒になった靴下を履いている。かかとには大きな穴がぽっかりと口を開けている。左足は裸足。そこだけ肌の色の白さが目立つ。

顔は大地のようにどす黒く日に焼けており、その大地を真っ黒な髭が雑草のように覆っている。破れて擦り切れたシャツには土ぼこりと垢がしっかりとこびりつき、微生物に分解されて土に帰っていく寸前に見える。

家財道具は、スタック式のプラスティックのケースが5つ。中には何も入っていない。拾った空き缶をそのケースに入れて運び、それを売って日銭を稼いで暮らしているのだろう。

老人は仰向けになって口をぽかりと開け、じっと目を閉じている。どんな夢を見ているのだろうか。

その様子を見ていて、下着や靴下くらいなら、我が家には有り余っているから、いくらかでも差し上げたいような気分になった。お金は持っていかなかったので、喜捨はできなかったが、もし持っていたら、いくらかでも置いていきたい心持ちになった。

どんなに数多くの落語を聴いてみても、あんなふうに気の毒なホームレスが出てくることはない。これが「貧困」というものなのだろう。

帰宅後、家族で私が発見した趣味のよい駄菓子屋へ行ってみた。我が家から1.5Kほどのところにある。自転車だとゆっくり走って7、8分。残念ながら、戸が閉まっていて、中に入れない。GWだから、店主もゆっくり羽を伸ばして休みたいのかもしれない。

仕方がないので、長男がちょくちょく遊びにいく方の駄菓子屋に向かった。店の前に自転車を止めて中に入ると、やさしい感じのおばあさんが店番をしている。

私の父親の実家も、昔、菓子屋&アイスキャンデー屋だったので、店のつくりが似ていて、懐かしさを覚えた。商品が陳列されているのは、ひんやりした土間。並べ方も、ショッピングモールに入っているいまどきの駄菓子屋のようにはお洒落ではないところがいい。ビンのコーラの自動販売機も置かれている。おそらく寂れた温泉街に行けばありそうな古いゲーム機も7、8台置いてある。

息子はなじみの店に友達を連れて行くような感じで、「おじゃましまーす」などといいながら、おばあさんに挨拶をする。

その態度を見て、私はウキウキしてしまい、子供に10円のよっちゃんイカをおごってもらった。くじを引いたら、長男も次男もコーラが当たった。

その足で、私が目をつけておいた天然酵母のパン屋を目指した。到着すると、店の窓ガラスに「3日から16日まで休業します」と書かれた貼り紙。

GWは個人営業のお店はどこもかしこも休みばかりである。気候もいいので、みんなのんびりしたいんだろうな。

それもまたよし。

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探し物

なくしたものを探しているとき、なかなか見つからないということがよくある。

探し物は、懸命に探しているうちは見つからないものである。

たいてい探していないときに、ふとどこかから出てきたりする。

学生たちに目標は何ですかと聞くと、驚いたことに、半分はだいたい将来こういう分野で仕事をしたいというのが決まっている。

残りの半分は、大学生活の中で、それを探そうと思いますと答える。

学生時代の自分は後者だった。

目標も探し物と一緒で、探しているうちはなかなか見つかるものではない。

ひとから仕事を頼まれたり、いろんなことをしているうちに、自分がやりたいととってこれだったのか、というのがわかってくる。私は最初からやりたいことなどわからなかった。

そんなに世の中は、わかりやすくできていない。

私たちがときどきものをなくして、なかなか見つからないという経験をするのは、そういう世界のわかりにくさを、誰かが教えてくれようとしているからかもしれない。

探し物をしていると、なくしたことすら忘れていたものが出てくることがある。

あれはどうしてなのだろうか。

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教育

私はある学生に「自分の考え方を押し付けようとしている」と言われた。そういうことは長年の教員生活の中で初めての出来事である。

教師が自分の考えを伝え、学生がそれを受け取り、自分なりに消化する。このどこが悪いのかさっぱりわからない。

教育とは、子供が持っている才能を引き出すことであるとよく言われる。educateの語源がそう教えているというのである。

ただ、正確には、duceは「引き出す」ではなく、「導く」という意味。educateの語源は「e-外へ+duce導く」である。(ちなみに、紹介する、導入するという意味のintroduceは「intro-中へ+ duce導く」である。)

だから、教育(education)とは、子供たちの持っている才能を外に引き出すだけではなく、子供たちを外の世界に導く作業を指す。

外の世界に導くためには、子供たちに、彼らがすでに持っている内側の考えをなぞっても意味はない。彼らの考えというよりも、すでに身につけてしまった先入観や偏見を外に引きずり出し、同時に、それに新たな考え、別のものの見方をぶつけてみる作業が必要なのである。

そこで、教師はひとつひとつ子供たちの思い込みを壊していく。だから、子供たちは、自分の考えを否定されている、先生は自分の考えを押し付けてくると抵抗する。

繭(コクーン)の中にい続けたいと言って駄々をこねるのである。

だからこそ、「自分の考えを押し付けてこないでください」といった学生に私は幼児性の発現を見たのだ。

子供を外へ導く作業が教育であるのなら、その「外」というのは、どういう世界のことか。

それは「成熟した世界」のことである。

「成熟」とは、当然のように自分が持っているものを無償で他人に与え、その行為に喜びを見出せることである。

自分が持っているものを与えることで、代わりに喜びをもらえることに、感謝できる人々の住む世界を、私は「成熟した世界」と呼ぶ。

わたしたち日本人の住む世界は、成熟した人たちが住む世界なのだろうか。

つねに人から何かを奪い取ることばかり考えていないだろうか。

ビジネス(business = busy-ness)?

人からお金を掠め取るのに忙しい(busy)幼稚な人たちのことをビジネスマンというのだろうか?

教育の役目は、そういう人間を少しでも減らし、成熟した人間を増やしていくことである。

いま多くの教育の現場では、学生たちに他人から奪い取ることばかりを勧め、他人に与えることの喜びを教えようとしていない。

だからこそ、「ビジネスマン」が増えてしまったのである。

こういうことを主張するのは、学生たちの人権を侵害しているというのだろうか。法的な解釈はわからないが、他人から奪い取ることに喜びを見出す人間を放置しておくほうが、はるかに人権侵害の罪にあたるだろう。

教育者というのは、後の人(followers)のことを考えてやる人のことである。

後から来る人のことを考えたら、おのずと自分たちがどうすればよいかわかるものだ。

道のごみを拾ったり、道をふさぐ障害物を取り除いて人々が通りやすくしたり、草木や花を育てて見る者の目を楽しませたり、とにかく、みんなをいい気持ちにさせてやることが大切なのだ。

「そんな考えを俺に押し付けるな、俺は俺流でやっていく、人は人だ」という考えを許した結果、利己的で威張り腐ったビジネスマンを増やしてしまったのではないか。

後からやってきた私は、上の世代を見て、それを直したいと思う。そして、後代の人間たちにその教訓を与えておきたいと思う。

どうして、それを「押し付け」とか「思想統一」というのか、私にはわからない。

現在の「北朝鮮」や明治時代から敗戦までの「日本」と同じように、父と、父に忠誠を尽くす子の擬似父子関係を国家の中で作ろうとしているわけではない。私は学生から上納金を吸い取る機構を作ろうとしているわけではない。

私は、「この命令を忠実に守らなければならない」という命令を発しているのではなく、「私の主張は世間の数ある主張のうちのひとつに過ぎないのだし、何が正しいのかは私のもわからないから、みんなは自分の頭で考えるように。同時に、自分の考えも正しいかどうか常に疑ったほうがいいよ」と言い続けている。

このどこが押し付けなのだろうか。

私に「自分の考え方を押し付けようとしている」と言ってきた学生は、あきれたことに教育学専攻の学生である。

残念ながら、彼には人を育てることは無理だろう。

教員になったとしても、マニュアル通りに、子供たちの善性を信じて、何も教え込まずに素直に育てることが大切だなどという主張に惑わされ、物事をどう考えたらいいのかわからないようなバカな子供ばかり増やすことに自分の残りの人生をささげて、成熟した大人たちの失笑をかうことになるのだろう。

まあ、彼がその程度の幼稚な人間なら、それはそれでいいだろう。私は親切な人間であっても、おせっかいな人間ではないので彼を放置しておくつもりである。

相当な遠回りをするはずだが、いずれ自分の愚かさや浅はかさに気がつくだろう。

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最高学府はバカだらけ

livedoor ニュース - 最高学府はバカだらけ この現実どうするのか (連載「大学崩壊」第1回/大学ジャーナリスト・石渡嶺司さんに聞く)

本当に久しぶりに、ニュースサイトを巡回してみた。1、2ヶ月の間、ニュースメディアを意図的に遠ざけていたので、もう完全に見出しすらきちんと読めなくなっている。文脈がつかめないのである。

その中で、ついていけそうだったのが、この記事。まあ、どうでもいい内容であることは疑いようがない。大学生の劣化は今に始まったことではないから。

驚いたのは、ここで「最高学府」という言葉を正しく使っていることである。

バカはこの「最高学府」という言葉を、東京大学だと思っているが、この著者は正しい使い方をしている。

最高学府の学生たちがバカばかりになった理由の一部は、国の政策に誤りにある。少子化が進み、学生を確保できなくなってきているのにもかかわらず、大学の数を増やして、入試を楽にしてしまった。この状況が、学生の質の低下を招いたのである。

いまさら、大学の数を半分に減らせといわれても、それはできない話だ。

ということは、大学側ができの悪い大学生をきちんと教育し直してやるしかない。

高校までの教育がほとんど機能していなかったのだから、大学がその尻拭いをせざるをえない。

それがもっとも現実的な対策だろう。

まず、大事なことは、大学生にものの考え方、世界認識の方法の基礎の基礎を教えることである。

1.小学校3年生レベルの四則(加減乗除)をきちんと理解させ、日常生活で活用できるように訓練すること。

2.小学校6年生までの漢字をきちんと書けるようにすること。同時に、語源・由来を覚えさせること。

3.現代までの日本史や世界史をおおまかに理解させること。中学3年レベルでいい。

4.英語は、基礎からやり直すこと。必ずSVOを理解させておく。基礎単語も日本語訳ではなく意味を理解させ、使いこなせるようにしておくこと。中学校3年か高校1年レベルまででいい。

5.先入観を持って印象や直感だけで物事を判断するのではなく、論理的に考える習慣をつけさせること。

6.作文の基礎を教えること。自分の考えをまとめ、わかりやすく伝える方法を教えておくこと。

7.仕上げに海外に一人旅に行かせて、苦労させること。

海外から生きて戻ってきたら、人間としてきちんとコミュニケーションを取れるようになった証拠なので、大学で勉強させる仮免許を与えてやる。

今日も、授業中に私が学生を指名したときに「教科書を忘れました」と言ったものがいた。何が言いたいのか私にはわからない。20歳そこそこの大人に対して、わざわざ「そういうときには隣の人に借りるように」と言わなければならないのが情けない。幼稚園児並みの知能なのかもしれない。彼らは自分がなんのために授業に来ているのかわからないのだろうか。それに、困ったときはお互い様だ。他人に頼ったっていいじゃないか。どうしてそういうふうに考えられないのだろうか。

以上のようなことが自然にできて初めて、人並みの人間として認められるのだが、そういうことすらできないのが多い。

大学2年生になったら、さまざまな分野(哲学、人類学、宗教学、心理学、日本文学、外国文学、芸術論、統計学、経済学、政治学、法学、科学、教育学、日本語文法、日本文化など)の日本語の文献を50冊読ませ、それ関してすべて報告書を書かせる。英語の文献は5冊読ませ、これも報告書を提出させる。

これで認められたら、初めて大学3年生に進級できる。こんなふうにでもしないと、大学は立て直せない。外国の大学と伍していけない。

でも、これは20年前私たちの世代が大学生だったときには、機能していた制度である。なぜ、いまの学生は本を読めなくなったのだろうか。悪いのは、テレビ、漫画、アニメ、ケータイ、ゲーム?

いうまでもないが、悪いのは大学ではない。教育をめぐる国の政策の誤りと、バカを放置して卒業させてきた高校までの教育の二つである。

結局、出口としての大学がなんとかこの問題を責任を持って処理しなければいけないわけだ。迷惑な話であるが、仕方がない。

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説明の仕方

昨日、長男が社会科の授業の一環で近くの消防署を見学した。帰ってきて、私にどういうことを学んだのかを説明してくれた。

その説明が、小学4年生しては、あまりによくできているので驚いた。あれが大学生のプレゼンだったら、100点を差し上げたいところである。

まず、社会科見学で消防署を見学したという大きな話からはじめ、消防署の構造を上から順に軽く説明する。その上で、見取り図を聞き手に把握させておいて、上から順番に詳細を述べていく。さらに、自分たちがあらかじめ用意していた質問に、消防署の係りの説明によって、どう疑問が解消したかをひとつひとつ丁寧に説明していく。そして、もっとも印象的だったことを振り返って述べてくれた。

もう、感心した。

私は、子供がちいさいうちから、その日にあったことを子供に説明させてきた。最初のころは、細かい話から始まってしまうので、何が言いたいのかさっぱりわからず、要するに何がどうしたのということを確認せざるを得なかった。

さらに、ときどき、「たとえば」「なぜ」など、足りない情報を補足してもらう質問を入れていった。

この前、「たとえば?」と聞いたら、「聞くと思っていたよ」なんて言われてしまった。

聞き手が何を欲しているのかをその都度考えながら、説明をしていくという意識は本当に大切なことである。

息子は日に日に成長していく。頼もしい限りである。



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英語学習の目的

英語の教師も学生もみんな「和訳」を重視しすぎている。

和訳ができるようになることは英語学習者のほとんどにとって重要な目的ではない。和訳をすることは単なる手段である。

人はよく目的と手段を取り違える。他人がいくらその取り違いを指摘しても、まったく理解できない人もいる。

だから、私はテストには和訳は出さない。和訳は、英語が読めるようになった結果、自然にできるようになっているものである。

最初から、正確に和訳をすることばかり強調して教えていると、うまい和訳や翻訳の「方法」の勉強をしているようになってしまう。翻訳の授業なら、話は別だが、通常の英語の授業ではそこまではしなくてもよいだろう。

英語学習者の主な目的は、以下の4つ。

1)英語を(相手に聞こえるように)「声に出して」、通じるような発音で読めるようになること。
2)英文を正確に、そして深く解釈できるようになること。
3)英語の発想や構造や理解し、自分で英文を組み立てられるようになること。
4)それを実際に運用し、自分の考えや意見を表現し、相手に理解させることができるようになること。

このリストはもう少し長く伸ばすことはできるが、この辺でとどめておく。
学習者は、こういうことが重要なのであるということをよく記憶にとどめておいてほしい。

実際に英語を運用する場合、重要なのは、have, give, take, get, make, putなどの基本単語のベースとなる考え方を正しく身につけているかどうかである。

きちんと「なわばり」の意識を持っていれば、自然にhave, give, take, getは使える。

その上で、関連分野の単語を覚え、あとは自由に前置詞や副詞を組み合わせれば、おおむね自分の言いたいことは言えるようになる。

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のどが痛い。

授業中に、のどが痛くなった。張り切りすぎなのかも。あるいは風邪?

今日はメーデー(May day)、つまり労働者の日。同僚のカナダ人の先生に、このことばの由来を知っているかどうか質問してみた。

少し考えてから、"Help me!"という回答。

You're right!

フランス語で、私を助けて(M'aidez)に音が似ているので、May dayというようになったらしい。

彼の実家はケベックではなく、アメリカに国境に近い町なので、フランス語を使うチャンスがまったくなかったらしく、日本人が英語が苦手であるのと同じように、フランス語が苦手なんだそうだ。

予想通り、「GWの予定は?」と聞かれたので、「近所をぶらぶら散歩したり、走ったり、自転車でサイクリングくらいですかね。でも、一日バーベキューをしようと思っています」と用意していた原稿を読むように答えた。

「ガスボンベを使うのか」と聞かれたので、「チャコール(炭)ですよ。折りたたみ式の小さなグリルを買ったので、それを抱えていきます。豚インフルエンザが怖いので、焼くのは鶏肉。つまり「やきとり」にしておきますよ。お金もかからないしね」と言ったら、笑われた。

そこで真顔になって、「Swine fluって何?」なんてことを聞かれた。彼一流のジョークである。

そういえば、彼には私はメディアに触れないようにしていると話していたんだっけ。でも、そういう情報は、テレビや新聞に触れなくても、どこからともなく伝わってくるものである。

これも人づてに聞いた話だが、例の横浜の高校生は、新型インフルエンザではなかったという。

メディアは、新型インフルエンザの話題で持ちきりらしいが、人々の関心にこたえてインフルエンザの特集をすれば、視聴率もあがって企業からの広告費も増えるかもしれないし、非常食やマスクなどの商品の売り上げに貢献できるし、いいこと尽くめというわけである。しかし、迷惑なのは養豚業者やそれに関連する企業のほうだ。

牛肉の次は、鶏肉、その次は豚肉か。

そんなことばかり言っていたら、食べる肉がなくなってしまう。そろそろお祭り騒ぎはやめにしたほうがいいんじゃないのかな。

よくわからないけれど、このごろ我が家の夕食に並ぶのは豚肉ばかり。価格が安くなっているからかもしれない。今晩も、豚汁に冷しゃぶだった。たいへんおいしくいただきました。

もしかして、こんなに豚肉ばかり私に食べさせるのは、妻が私を毒殺しようとしているからだろうか。あるいは私の薄給に思い悩んで、一家心中でも考えているのだろうか?

のどが痛いのは、もしかして?

もちろん、ジョーク、ジョーク。

I'm just kidding.

今日も、当ブログに来てくださってありがとうございます。

それから、アマゾンマーケットプレイス経由で、本や辞書をこれまでに注文してくださった方々、そしてこれから注文してくださるかもしれない方々、心から感謝いたします。

C3fitパフォーマンスロングタイツというのが発売されるらしい(30’sの美ジョギングさんからの情報)。まったく新しいタイプのコンプレッションタイツなんだそうだ。価格は、9,975円。ワコールのCW-Xより5000円も安いので、手を出しやすいかも。やっぱり、タイツって、格好いいだよね。

学生に、「今日は調子が悪かったので、8キロだけ走ってきました」といったら、驚かれた。というか、ドン引き。

8キロって大した距離ではないと平気で言えるのは、ランナーの感覚なのだということを改めて感じた。走らない人には、仕事の前に8Kも走るとは、超人なんじゃないかと思えるらしい。本当は全然ダメダメなランナーなんですけどね。

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テレビ離れ

TBS 視聴率低迷でピンチ! ココログニュース:@nifty

4月の番組改編で、TBSの視聴率が下がっているという。この状況はどのテレビ局も同じだろう。

視聴率低迷の主な原因は番組改編ではなく、番組の内容の質の低下にあるのではないかと私は思う。

私はまったくテレビを見ていないので、これは単なる私の思い込みに過ぎないけれど、けっこう当たっているとひそかに自負している。

テレビを見ていると、水増し、宣伝、誤情報、煽りがやたらに目立つ。

いうなれば、一流の旅館に宿泊してみたら、スタッフがみな低賃金で雇った学生バイトみたいだったようなもの。とにかくサービスが劣悪なのである。

お箸をもってきてといったら、食事が終わるころにようやく持ってきたり、コップの水が塩素くさかったり、料理が88円のカップラーメンよりもまずかったり、スタッフの口の利き方が雑だったり乱暴だったり、風呂も故障してお湯が出なかったり、部屋の壁にはゴキブリやテントウムシが這い回っていたり、布団にはノミやダニがたっぷりだったりという具合である。しまいには、よりよいサービスを受けたければ、さらに追加料金がかかりますなどとと言われる。

視聴者は、何のためにそんなに不快な思いをしてまで、テレビを見なければならないのか、さっぱりわからなってきている。(これは、ファミレスでも同じである。)

そんなふうに耐えがたきに耐えることで、明るい未来が開けるとは思えない。

ならば、テレビの電源を切ったほうが、家計も部屋も明るくなる。

そういうわけで、テレビ離れが進んでいるのだろう。

この状況が続けば、いずれ巨大メディアが滅びるときが来るはずである。

それでもよいし、むしろそのほうがよいと私は思っている。

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新型インフルエンザ

ネットのニュースを数十日ぶりに見てみた。

毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、The Guardianの順。

もちろん一面のヘッドラインのみ。記事にはまったく目を通さなかったので、内容はよくわからないが、新型インフルエンザの文字が踊っているのに気がついた。

横浜に住む一人の高校生が新型インフルエンザに感染した疑いがあるというヘッドラインが日本の新聞にはあった。

The Guardianのトップ記事はイギリスでも一人感染の疑いというもの。

万が一新型インフルエンザで自分が死んでしまったときのために、GWはどこにも出かけず、用事は近所で済ませて、遺された家族が苦労しないように、きちんと身辺整理をしておこう。

こういう伝染病の広がりは、人間の驕りに対する自然から警告のメッセージであると受け取る知能のある人は、世界にはどれくらいいるのだろうか。

人間は何でも自分たちの能力で解決できると思い込んでいる。世の中のあらゆるものは人間の知能で解明できる。人間は自然の支配者になれる。神の領域に近づけると思っている。

しかし、それは永遠に不可能である。

聖書には、そういう人間に対する警告として、バベルの塔の話がある。あれを思い出してほしい。

人間は、世界と和解することは不可能なのである。いくら言葉をつくしても、自分の思いすら相手に理解してもらえない。言葉では、自分の気持ちを正確に相手に届けることすらできない。

人間は言葉をマスターすることはできない。言葉の主人になることはできない。自然を言葉であますことなく表現することもできない。

科学は自然現象をすべて解明することもできない。地震の予知すらできない。

人間は自然を完全に征服することも、自然の支配者(マスター)にもなれない。

人間は自然の前では、か弱い存在なのである。それを知らずに生きている知能の低い動物に過ぎない。

ときどき、伝染病が流行し、自然は傲慢な人間に警告を発する。にもかかわらず、人間はそのメッセージをきちんと受け取る能力を徐々に失ってきている。

情けないと思う。

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朝ラン8K

4月の月間走行距離は93.5K。

一回に走る距離が短かったので、100キロを超えられなかった。

走った日は13日。

今朝は、給水休憩なしで8K。息切れしないようにゆっくり走った。

走行時間は43分12秒。1K6分弱のペースだった。

走りながら、いろんなことを考えた。そのうちの二つは思い出せる。

ひとつは、高校生たちが、道を空けないことについて。

もうひとつは実用・実践・実戦というものの考え方について。

高校生ばかりではないが、後ろからクルマや自転車、ジョガーが来ているのに、まったくどけようとせず、我が物顔で道を占有している人が多い。

周りに対する配慮が欠けているのだろう。つねに頭の中は自分のことだけでいっぱいで、周りの人間の立場に立てないから、無防備なのである。うしろから、暴走自動車が突っ込んでも、連中は自分が轢かれて死んだことにも気がつかないかもしれない。

警戒心と思いやりは連動している。警戒心がないというのは、思いやりがないということでもある。逆に、思いやりがなさは警戒心のなさを反映している。

ここからは、もうひとつのほう。

世間一般に、実用的なもの、実践的なもの、実戦的なものを重んじる傾向が強い。

しかし、世の中にあるもののすべては、その人が自分で使って何かの役に立てている限り、実用的・実践的・実戦的なものばかりである。

私は人を気絶させる術を心得ている。しかし、実際には使えないし、使わない。そんなことを習っても意味がないのだろうか。そうではない。

知っているということで、心の余裕や自信が出てくる。

それでいいわけだ。

あらゆる知識や技術はその意味では、実用的で、実践的で、実戦的である。

そうではないものを探すほうが難しい。

ある人が、「これは使い物にならない」といったとしても、その人の想像力の及ぶ範囲、あるいは生活環境の中での話であり、ほかの国や文化や職業の人間には、大いに役に立つものであることもある。

世界には、一概に、役に立つものと、役に立たないものの2種類があるとはいえないのである。

そういう基本的なものの考え方がわからない人間が、実用的なもの、実践的なもの、実戦的なものを求めるのであろう。

実際に何らかの形で自分が使っている限り実用的であり、自分が役に立てていないと思っていても役に立っていることもあり、自分にとっては役に立っていないかもしれないけれども、ほかの人には役に立っていることもある。自分の視野を2倍、3倍にすれば、そういうこともおのずとわかるはず。

なんてことを、走りながら考えていた。

ずいぶん、私も偉くなったものだ。

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アートの意味

日本人は、artの意味を知っていて、アートという言葉を使っているんだろうか。

そもそも、artは技術・技巧のこと。そういう技術を使った作品もアートになる。日本語で言えば、工芸品もアート。匠がつくった茶碗やお椀もアートなのだ。

「芸術は爆発だ」(by 岡本太郎)のイメージが強すぎるのかもしれないが、日本では、アートといえば、わけのわからないものというイメージが定着してしまっている。だが、それはとんだ勘違いである。

アートの考え方をひっくり返した人たちの中で、私が好きなアーティストは3人。ピカソ、
マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホルである。

デュシャンの「泉」という作品はただ小便器をひっくり返しただけという衝撃的なもの。彼は、画家でなので、人が現在進行形で動いているところを2次元の画面に写し取るという試みもしている。これもまた面白い。

ウォーホルは既成のイメージ(マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーなのどの有名人やキャンベルスープの缶などの有名な製品)を大量にシルクスクリーンで複製し、有名になった。Repetition makes reputation(繰り返せば有名になる)という言葉がよく知られている。

ピカソは、きちんと技術に裏づけされている画家であるが、その完成されすぎた技術を駆使した作品を作るのは粋ではないと考えたのだろう。そこから逸脱し、最終的には無垢な子供のような作品を次々に発表していった。武道で言う「守・破・離」の「離」という達人の領域にまで達してしまったアーティストである。

アートというのは、まずは人間のもつ技術・技巧という具体的なものから始まり、考え方そのものをひっくり返すような抽象的なものへと発展してきている。

現在は、抽象的なものばかりがアートとして見られているが、それは違うということを一言言っておきたい。

技術に裏付けられた匠の手から生み出される茶碗でもアートと呼ぶことができるのである。

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ヴァーチャル二日酔いからの目覚め

今朝も5時起き。

昨日とは違って、ヴァーチャル二日酔いから覚めて、アタマが冴えている。

仕事は午後からなので、ストレス解消のために、また朝ランしてこよう。

今、たまっていた仕事を片っ端から片付けているところ。エクセルで学生の名簿を作る作業もまだ残っている。

これが面倒なんだけれど、どうしてこういう作業を教員一人ひとりにまかせるのかわからない。

なんか、ずっとここの所、ボヤキっぱなしな気がする。

精神衛生上、まずいですな。

機嫌が悪い人は、自分で悪運を呼び寄せているところがあるから、気をつけなくちゃ。

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