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雨の日のマラソン大会

準備する物

さいたまシティマラソンのある月曜日の午前中は、どうやら雨のようだ。

雨対策として、上のページを参考にして、以下のものもあわせて持っていくことを検討している。ザックに入りきらなければ、どれかをあきらめるつもりだけれど。

透明のレインコート、大きなゴミ袋、ワセリン、絆創膏、折り畳み傘、帰りの靴、靴下、顔拭き用タオルかウェットシート。

撥水グローブと撥水キャップは持っていないので、明日スポーツ用品店に出向いて、よさそうなものがあったら買ってこようかと思っている。

ここ数日間、雨の日にレースを走るなんて憂鬱だなと思っていたんだけれど、そうでもないかもしれないと思い直した。

どうせ走れば汗でぐじゅぐじゅになるのであるから、ウェアの上からシャワーを浴びながら走るのと同じようなものだろう。かえってさっぱりして気持ちいいかもしれない。

右脛の筋肉の張りがなかなか抜けないんだけれど、それも、抑え気味に走れば大丈夫かも。雨がアイシング効果をもつかもしれないから。

それから、雨に濡れた女性ランナーのムチムチのお姿を拝めるかも。ウェアがぴたりと体に張り付いていたり、アンダーウェアが透けて見えるのは目の保養になる。

などということを考えていたら、だんだん楽しくなってきた。

勝てる人というのは、不利な条件さえも味方につけ、その状況を楽しめる人だ。

まあ、こんなふうになんでもポジティヴに捉えて生きていこう。人生は短いんだから。

そんな話を、今日帰りに友人の中国人の先生と話していたら意気投合してしまった。彼女も数年前に癌を患った経験があるので、日々生きることを大切に考えていらっしゃるという。

ブヒー、ブヒーと毎日文句ばっかり言っている健康な人(精神的には不健康!)には、我々のように持病を抱えている人間がやたらとポジティヴなことばかり言っているのは、バカみたいに見えるのかもしれないけれど、しかしバカにならざるを得ないほど我々は追い詰められているのである。

人間はいつ死ぬかわからない。だから、私はしっかり前を見据えて生きていきたい。ゴールに到着しなくてもいい。途中で死んでしまってもいい。

そこが私の極楽浄土なのである。

いま、以下の本を読んでいる。もうすぐ読み終わるんだけれど、内田さんの本の中でもとびきり面白いので、もう一回最初から読み直すつもり。

内田樹、『日本辺境論』(新潮新書、2009/11/12)




この中に、「武道の目的は、『敵に勝つこと』ではありません。『敵を作らないこと』です」(173ページ)という文句がある。

この言葉で私の疑問が氷解した。

私が少林寺拳法の稽古に熱心に取り組んでいたときに抱いていた一番大きな疑問点は、なぜ相手の動きを察してから行動を起こさなければならないのかということであった。だいたい、そんなふうに相手が何かを仕掛けてくるかどうかを待ってから動き出しては、相手に機先を制されているのであるから、勝負としてはもうすでに負けているのである。なのに、なぜ、相手の動きを待ってから行動を起こせと教えるのか。

これを伝えるのに師は、相手の動きが定まれば、急激な方向転換はできない。だから、それに対応できるというロジックを採用する。しかし、そんなのウソではないか。目にも留まらぬスピードで攻撃してくる相手の動きを瞬間的に察知し、それに対応してその裏をかく反撃をするというのは、どだい無理な話である。

内田先生は、そのような論法に依拠しない。

敵というものを倒すのであれば、その敵には、「私」というものも含まれてしまう。それを示すためには、よく「自分との戦い」であるという表現が採用される。そうすると、究極的には、自分で自分を倒さなければならなくなる。これは「自殺」と一緒である。

一方、敵を作らない究極の状態を志向すれば、自分も相手も敵として対立関係におかれてはいない。つまり、入力があってから出力が生じるというタイムラグすらない。これは入力と出力が同時に生起している状態である。完全に相手と一体化し、共生し、融和した状態なのである。これを会得するのが武道の目的であると内田先生は言う。

人は過酷な状況に置かれたとき、あらゆるものを味方につけて生きていくしかない。冒険家なら、誰しも言うことである。

冒険家は不利な状況さえも、敵に回すことなく、それを活かそうとする。それがうまくいったときに、一つのひとつの山を越えているのである。

いやあ、だんだん楽しくなってきた。

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