カテゴリー「学問・資格」の27件の投稿

レヴィ=ストロース死去

訃報:レビストロース氏死去 構造主義の巨人

100歳だった。

私が大学生だった20年前はポスト構造主義の全盛期で、クロード・レヴィ=ストロース氏はジーンズの名前と誤解されるほどに過去の人となっていた。だから、すでに死んでいると私は思っていた。

数年前、内田樹氏の『寝ながら学ぶ構造主義』という新書を読んで、レヴィ=ストロースはまだ死んでいなかったし、構造主義ももちろん終わっていないということを知った。

今はポスト構造主義の時代といわれるが、内田氏の考えによると、構造主義が当たり前のものと考えられる時代がポスト構造主義の時代なのだという。

レヴィ=ストロースは思考のパラダイムを大きく変えてしまった。いや、いままさに変えつつある。その意味では、今後数十年間、いや数百年間は彼は我々の前から消え去ることはなさそうだ。

追悼レヴィ=ストロース (内田樹の研究室)

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教育と贈与

教育=贈与論 (内田樹の研究室)

学校教育の目的は、学ぶ側に「十分に努力したので、努力にふさわしいだけの報酬を得た」という合理的な達成感を得させることにあるのではない。
そうではなくて、そこで自分が「求めていた以上のもの」「求めていた以外のもの」を受け取ってしまったのだが、それが何であるかがよくわからないので、それを知るために、そのあと長い時間を生き、さまざまな経験を経巡らなければならなかった・・・という行程の全体をふくむものが教育なのである。

これ以上の教育論はない。

学校教育だけではなく、親の子に対する教育でも同じことが言える。

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教育:そもそも選手の能力が低ければ、よい結果はでない。

民主党・輿石東参「教員免許更新制は廃止にするよ」 | 無題ブログ

こういうところに書き込む人間は現場を理解していないバカばかりだから、読む気もしない。

座標軸をとってバランスよく考えてみよう。

X軸を教師の質、Y軸を生徒の質とする。すると4つのカテゴリーができる。

1.教師○、生徒○

2.教師○、生徒×

3.教師×、生徒○

4.教師×、生徒×

明白なのは、1が理想であるということ。でも、そういう状況はきわめてまれである。

よくあるのは2、3、4である。

意外と理解されていないのは、教育効果を高めることにおいて、教師の質と同様に生徒の質が重要であるということである。

教員がよくても、教育効果はあがらない。

(野球を例にとると、コーチの能力が高くても、選手の能力が低ければ、よい結果はでない。)

クソ教師が多すぎるとか言って文句を連中は、自分がクソ生徒であることを完全に忘れている。(お前には、まったく才能がないんだよ!)

実は、授業というものは、教師と生徒の連携で生み出されるものだ。同じ教師が同じ内容を教えるにしても、クラスによって、よい授業になることもあるし、そうではないこともある。

一人の教師を、クソ教師にしてしまうのは、実は、生徒のほうである。クソ生徒がクソ教師を作るのである。

それをすっかり忘れて、すべての責任を教師一人に押し付けようとする生徒が多いし、世間でもそれをまったく考慮に入れようとしない。子供たちが才能がないというあまりに当たり前のことを口にしてしまうと、教育について批評をする大前提を失い、自分たちの存在意義が失われてしまうのかもしれない。

根本的な問題は、実はここにあるのだろう。いくら教育を施しても効果が出ない白痴同然の子供(自分の頭で物事を考えられない子供)が増えたことを受け入れることからはじめないと、教育は時代に対応できない(「改革」や「改善」ではないよ)。

教員の免許更新制度なんて、まったく役に立たないことは、やる前からわかりきっている。そもそも、生徒のほうがダメなんだから。

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教員免許の更新制度廃止

教員免許の更新制度廃止へ 民主・輿石氏が明言  (1/2ページ) - MSN産経ニュース

 民主党の輿石東(こしいし・あずま)参院議員会長兼代表代行は12日、甲府市内で記者会見し、今年4月に導入された教員免許更新制度の廃止に向け、来年の通常国会にも教育職員免許法改正案を提出する考えを示した。教員免許更新制度は安倍晋三内閣が教育再生の目玉として導入を決めたが、民主党の有力支援団体である日本教職員組合(日教組)が強く廃止を求めてきた。政権交代により教育改革路線は一気に後退する公算が大きい。

産経新聞は、右翼だから、バカが多い。私は日教組でも左翼でもないけれど、教員免許の更新制度が教員の質の向上につながると考えるのはあまりに安易であると考えている。

手続きはわずらわしいし、その作業にあたる官僚の仕事を増やすだけだし、そのために無駄な予算がつぎ込まれる。

もっとも重要なことは、教員が子供と接する時間を今以上に奪うことになることである。

これは教育改革ではなく、教育改悪である。

教員の免許を更新するのであれば、地方公務員や国家公務員(警察官、裁判官を含む)も免許を更新しなければ筋が通らない。国立大学教授だって例外ではないだろう。

そこまで行ったら、国会議員も免許制にして、ライセンスがないと、立候補もできないようにするべきである。そうすれば漢字も読めないようなヤクザ議員は排除できる。

教師の質の低下というものが、事実とされているようであるが、昔の教師のほうがもっと質が悪かった。これは現場にいる人なら誰もが認めると思う。

現在の教師の質はきわめて高い。

昔の教師には「指導力」があるものが多かったのは事実。しかし、それは教師が暴力で生徒を押さえつけるということだった。私も膝蹴りを食らったり、ビンタを食らったことがある。子供に膝蹴りをする教師は、指導力があるといえるのか?

やんちゃな友人は、うなじをつかまれたり、教室からベランダに投げ飛ばされたりした。ああいう光景はいまだによい思い出には変わっていない。

あんなものは本当の「指導力」ではない。

いま自分の子供に、そういう教育をぜったいに受けさせたくはない。

世間の人は、教員の質ばかり問題視するが、子供たちの質のほうが、実は重要であることを忘れている。わざと忘れようとしているのではないかとすら思える。

子供たちの質が悪くなったのは、勉強ができなくても、漢字が読めなくても(字はうまい)、言葉遣いがヤクザみたいであっても、家が金持ちであれば、総理大臣になれるという状況を目の当たりにした子供たちが、勉強しなくても運があれば偉くなれるんだと勘違いしてしまったことである。正確に言えば、大人がそう勘違いさせてしまったのである。

努力しても無駄とか、どうせ勉強したって役に立たないとか、そういう現実を教えすぎてしまったのである。

教師は理想だけを教えればいい。その教師に、もっと現実を見なければだめなんだと、バカな国会議員や親たちが文句を言うもんだから、子供がスレてしまったのだ。

ともあれ、免許更新制度には、何の意味もない。廃止は当然だし、行政&税金のムダを省くことにもつながる。きわめて喜ばしいことである。

 

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最前列の右か左寄り

教師の立場から言わせていただきます。

学生が教壇のまん前に陣取って睨んでいると、教える側にとっては威圧感を感じて授業がしにくいです。

あくまで私の場合ですが、最前列か2列目で、教壇のまん前のちょっと左か右寄り(斜め45度あたり)に座っていただけると、こちらからも話しかけやすいし、視線も合わせやすいので、学生の顔も名前も覚えることができ、情がわいて成績も甘くなります。

ご参考までに。

コネタマ参加中: 学校の座席。マイ・ベスト・ポジション!を教えて

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免許更新制は廃止

民主党は日教組だから教育の現場を理解しているのではなく、自民党が官僚にコントロールされているだけのアホだから、教育現場をまったく理解せずに、混乱させていたのである。免許更新制の廃止は大変評価できる。教員免許状を持っているけれど、教員になっていない人から、更新料を支払って講習を受けなければ、免許剥奪だなんていうのはあまりに非情であろう。あまりにうれしいので、全文引用しておく。


教員養成6年制に、民主が方針 12年度導入、免許更新制は廃止(「東京新聞」)

2009年8月27日 14時02分

 民主党は27日、衆院選で政権を獲得した場合、教員免許取得に必要な大学の4年制養成課程を、2012年度から大学院2年も義務化して6年制に延 長する方針を固めた。教員の指導力向上が目的。今年4月に始まった教員免許更新制度は「教育現場の負担が大きく、効果が不透明」として新制度導入に合わせ 廃止する。免許取得前1年間の教育実習も義務付ける。

 6年制の受け皿となる「教職大学院」は09年度現在、全国に24校しかない。民主党 は、11年度までに都道府県ごとに設置した後、12年度から新制度に移行させる考え。政権獲得後1年をかけて(1)カリキュラムの策定(2)教授陣の選考 (3)教育実習受け入れ校の確保―などの準備を進める。

 教員免許更新制は「教育再生」を掲げた安倍内閣が「不適格教員」排除を念頭に導入を決めた。教員免許を有効期間10年の更新制とし、更新前に30時間以上の講習を義務付けた。しかし講習時間確保を求められ、教育現場の負担が大きいなど問題点が指摘されている。

  民主党は現職教員の質の向上策として、免許取得後8年以上の現場経験を積み、「教科指導」「生活・進路指導」「学校経営」の各分野で高い能力を持つと認定 された教員には「専門免許状」を与える制度も新設する方針。将来的には、校長や教頭などの管理職となるには学校経営の専門免許状取得を条件とする方向だ。

 民主党は、政府の無駄遣いを精査する「事業仕分け」の結果を7月に公表し「講習の効果が不透明で教員の質の向上は図れない」として免許更新制廃止を主張していた。

(共同)

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F

こんなことを暴露してよいのかわからないけれど、今学期、私が担当した授業でFを認定された者の数は60人ほど。私はそうしたくてそうしているわけではない。彼らには単位を与える要素が何もないだけである。

受講者約300人中60人だから、私は20%の学生を落としているわけである。

ここ数年、F認定率が上昇傾向にある。

今年は、受講者の半分を落としたクラスもある。白痴に近い学生がそろっているのだから仕方がない。白痴にものを覚えさせるのは、教員の力の及ばぬことである。

私の成績評価が厳しすぎるという人もいるのだろうが、実際のところ、これは大学生自身の学力の低下傾向を反映しているだけのことである。

私の問題ではなく、学生側の問題である。

まず、落とされた学生たちの答案を読むと、言語の使い方に対する意識が十分ではないことがわかる。

漢字の間違いばかりではなく、熟語そのものの使い方もどこか変だ。主語すら省かれているので、何について言及しているのか伝わってこない。他人が読んで、理解できる文章になっていない。

そもそも彼らには自分の考えを誰かに伝えたいという意識が欠如しているし、ある意見に触れたときに、自分の中に何らかの意見が生じるということがないらしい。記憶力はもとより、思考力さえないのである。

言語の機能に無自覚な人に、他人の言語である外国語を学習し、使いこなすというミラクルは起こるはずがない。

日本の英語教育の制度が悪いとか、日本語と英語は発想が違いすぎるとか、日本は英語を使わなくても生きていける環境であるのが悪いとか、そうやって責任を転嫁するのだけは以前より上手になったけれど、彼らの外国語学習を阻害する根本的な原因が言葉の使い方にあまりにも無自覚であることや、英語がしゃべれないのは自分に能力がないからであるということには気づいてくれない。

「たぶん(多分)」を50%の確率だと思い込んでいる学生が多い。私は10回以上授業中にそれを訂正するのだが、彼らはまったく聞いていないし、辞書で確認する習慣すらない。

そんなレベルの低い大学生(語義矛盾?)が多くなったのは、どうしてなのだろうか。

日本語の「もしかしたら」と「多分」の確率の違いすら知らないのだから、英語の助動詞の"may"と"will"の確率の違いすら理解できるわけがない。

そのようなレベルの学生が集まったクラスで、実践的に英語を使うなどということはとうてい不可能である。

現場の人間の立場から言わせてもらうと、日本の教育制度はたいへん優秀なものであるが、その制度を享受する側の学習者の質はきわめて悪い。

彼らの質の低さは、責任転嫁のうまさに比例している。


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カンニング

痛いニュース(ノ∀`):「子供が自殺したのは教師がカンニング追及したせい」 母親が8000万損倍請求控訴審→高裁が控訴棄却…母親「配慮ない判決」

こういう裁判を、親が恥知らずだとか、厳しく追及した教師が悪いとか、こういうことで自殺をする子どもが悪いとか、そんな低次元の話にしてしまうのは建設的ではない。

私は、高校レベルでさえも、カンニングをして及第点が取れるようなテスト(固有名詞を暗記すればそれですむようなテスト)を作っていること自体ダメなのではないかと思う。

私は大学生のために、かりに教科書や辞書をこっそり持ち込んで解こうと思っても、及第点は取れないような問題を作っている。残念ながら、できて50点だ。

私の担当の教科は英語だけれど、基本的に論述問題が多い。

文章の成り立ち(仕組み、理屈、文法)がわからないと、他人の書いた文章をまともに読解できない。だから、学生が当該文章をどれくらい深く読解できたかどうかを確かめるためには、文法的な説明をさせたり、文章の解釈をさせたり、要約を作らせたり、さらには書き手の主張に対しての自分の意見を英語または日本語で書かせるというスタイルにしている。

これならカンニングなんてしても、できるわけないでしょ。

難しい単語を暗記させるような問題は一切出さない。そんなことは自分でやればいいのである。教師が面倒を見てやるような仕事ではない。

教師がこういうスタイルの問題をつくっておけば、自殺した高校生もカンニングなんてできなかっただろうし、自殺もしなかったのかもしれない。

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試験監督

たいてい試験監督中にすることは、前の時間のテストやレポートの採点。今日もその予定。

試験監督だからと言って、じっと学生たちの一挙手一投足を観察するようなことをいまだかつてしたことがない。

じろじろ見ていたら、女性からセクハラ教師と言われてしまう可能性が高い。それでなくとも、夏なのだから、みな薄着なのだ。谷間をあらわにしているセクシーな女子学生もいるほど。

それ以外にすることといえば本を読むことだが、研究書の類ならいいけれど、雑誌や気軽なエッセイ集みたいなものだと恥ずかしくて読めない。知的レベルの低そうなものはすべてだめなのである。その意味では、新聞もダメ。

学校というところは、どういうわけかそういうものを排除する雰囲気が漂っている。

それが、かろうじて、学校を学校たらしめているゆえんであろうか。

7月30日に仕事というのは、いまだかつてなかった。もううんざりである。

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哲学

ミニ速 哲学の授業なのに「カレーの作り方」のリポートで単位認定-都城工業高等専門学校の男性教授

伝説みたいな話だけれど、本当にあるんだね。

私は設問に直接関係の無いことを書いた学生にあったことはないけれど、私がこの採点者だったならば、何も関係なく落としたであろう。

ただ、哲学の教授の気持ちもよく分かる。

哲学という字さえ書けないし、意味も知らないような連中の書いた答案にいちいち目をとおすのは明らかに時間の無駄だからである。

その学校は字が書いてあるだけましというレベルなのかもしれない。カレーのつくり方であろうがなんだろうが、字が書いてあったということで、単位を与えたのかもしれない。

あるいは、哲学とは、もともとphilosophy(知を愛すること)なのだから、カレーの作り方を学ぶということも「知ることを愛すこと」に入るとその哲学の教授は考えたのかもしれない。

だとしたら、誰にも文句は言えまい。

今回のこの問題自体が人々に哲学的に考えることを要請しているからである。

その意味では、この哲学の教授は怠慢なのではなく、立派な哲学者なのかもしれない。

いやあ、他人のことはどうでもいいけれど、テストの採点はつらいよ。

答案を読んでいると、気が狂いそうだ。

図書館から借りてきた本など読む暇もないし、もう文字さえ読みたくなくなってきている。

末期症状かな。

明日は3本試験監督。その後はそれらをすべて採点。約90人分である。

もう目が見えなくなってきた。

でも8月の最初の週に成績を出さなければならないから、のんびりうっちゃっておくことはできないのである。


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ルサンチマン

試験監督の合間に、テストの採点とレポートの評価をし、帰ってきてから成績をつける作業を行った。まだまだ仕事は終わらない。夏休みも始まらない。

数年前から多くの大学で、中途半端にアメリカの真似をして、似非セメスター制を採用し、半期で成績をつけるようなことをしている。実際、週に1回の授業を14回行って成績をつけるというのは、学生にとっても教師にとっても不都合なことが多い。教師にとっては、仕事が増えるし、学生にとっては人間的な成長(伸びしろ)を成績に加味されることがなくなるからである。

短期的な結果だけをもとしたエビデンス・ベースの評価方法というのは、もっとも教育とはかけ離れている発想である。これが採用されだしたのは小泉改革以降である。同時に、教育にビジネス・マインド競争原理がもちこまれ、それが教育環境を悪くしてしまった。現在の教育現場は忙しすぎて、教師も学生も落ち着いてじっくり勉強することができなくなっている。

単位を取得できず、再履修に回る学生の数は、10年前に比べたら、おそらく5倍から10倍にはなっているだろう。私は10年前には1クラス40名ほどのところで2,3名しか落とすことは無かったが、現在はクラスによっては半分を落とさざるを得ない。

私が悪いわけではなく、なんでもデジタルで成績を出すように求めてくる学校側と文科省が悪いのである。これを改善するには、文科省や学校側の教師への命令を無視するのがよいのだろう。だがそうすると私の首が危険にさらされるし、学校側も補助金をカットされる可能性が高まる。でもこの状況を作ってしまった責任は、国民の側にある。だから、国民が、官僚に、あんたたちは余計な仕事をするな、国立大学は独立行政法人になったのだから、独立させてくれよ、私立というのはプライベートスクールというのだから、私立大学の経営に国がいちいち口を挟まないでくれよと言って、政治家(国民の代表者)に頼んで、文科省の口にガムテープを貼ってもらうしかない。

それはさておき、学生たちのレポートを読ませてもらうと、彼らは日本の英語教育に対してぬぐいがたい不信感と反感と恨みを抱いていることを思い知らされる。

たしかに日本の英語教育には問題点はあるかもしれない。

しかし、冷静に考えてみたらわかることだが、彼らが英語をいつまでたっても使いこなせないのは、教育制度の問題だけではなく、個人の努力の問題かもしれない。むしろ、その割合のほうが高いような気がする。(できないやつほど、文句ばかり言う。)

得てして、日本人は制度が悪いなどと、お上に文句を言う癖がある。自分のふがいなさ、努力不足を棚に上げて、国が悪いと言って、しばしば「責任転嫁」をする。この「当事者意識のなさ」こそが、日本人が英語を使いこなせない根本的な理由かもしれない。

たとえば、文法を学ぶ時間を減らし、会話だけやっていれば英語ができるようになるだとか、小学校のうちから遊びながら勉強すればできるようになるとか、とんでもない勘違いを言い出す始末。それでも英語ができるようにならない人たちは、日本語は特殊だからとか、日本人は他の国の人間とは発想法が違うからということを言い訳に使い、努力をしない癖がついてしまっている。

この責任転嫁と当事者意識のなさは、日本のあらゆる部分に浸透している。なんでも役所や警察や政治家などに任せ、口は出すけれど、自分ではいっさい手を汚さない。

諸悪の根源は、なんでも「他人のせいにする」ことにあるということを、彼らが気づかないと、世の中は何にも変わらないと思う。

そうやって、お上に文句を言い続けると、喜ぶのはお上だけである。お上というのは、要するに官僚である。彼らは、文句を言われると、ああそうですかといいながら、自分たちの仕事を増やし、国民の税金を分捕る。バカな国民は、無駄にサービスが良くなれば、その分税金が増して、生活が苦しくなるということも理解しようとしない。

何でも国に任せているうちに、庶民はやせ細り、官僚ばかりが肥えていく。

そろそろ、そういう構造的な問題を、マスコミがきちんと報道して、もうお上に文句を言うのをやめようや、自分たちできることはぜんぶ自分たちでやろうやと提案していくべきである。

メタボ検診や消費者庁なんか、その最たるもの。あんなものは即刻廃止したほうがいい。

おまえら、自分の頭と体を使って考えろや。

8月30日に、政権交代が実現するのはほぼ確実だが、それによって、お上にすがる国民の依存心よりが強まってしまう可能性が高い。私はそれを危惧する。

民主党が政権をとったら、子育て支援手当てとして、子ども一人当たりひと月2.6万円(当分は1.3万円)をばら撒くらしい。我が家は、ひと月5.2万円(当分は2.6万円)の収入増になる計算だ。

短期的には助かるが、あとからそのお金は増税として持っていかれてしまうのは目に見えている。

もうそういう安易な政策はやめようや。

バカバカしい。

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アホらしい

テストの採点を終え、成績をつけ、文科省に提出する成績評価報告書&授業改善報告書を準備した。

くだらねえ。

シラバス通りにやっているか、シラバスに書いたとおりに成績をつけているか、前年度と比べて、どのように改善が行われ、それが達成されたかなどということを学生による授業評価を参照しながら書くのである。

もう何年も教えているけれど、一部の声のでかい学生の要求を飲めば、それ以外の学生の不満が生じるだけ。

授業を学生たちのいいなりになって変えていくと、結局、教育が教育ではなくなってしまう。

だから、一部の学生たちの声を聞いて「改善」などする必要はないのである。

教育はお客様のニーズやご要望に応えることを旨とするビジネスとは違い、学生たちがまだ気づいていないことを提供する。

だから学生に授業を評価させ、また教員が彼らの要求にいちいち応えて「改善」することなど、教育の定義そのものからはずれているのである。

教育とは、学ぶものがまだ気づいていないことや、数十年後に気づくかもしれないことを、こっそりと教えてやる場なのである。

現代人は、人生において大切なことはすべて、砂場ではなく、教室で学ぶ。

悪いけど、文科省の役人の勤労意欲はすべて、教員に対するルサンチマンによって備給されているのではないかと思う。

とんだ勘違い野郎たちである。

こんなわずらわしいことに時間を奪われるなんてうんざりである。

本来は、学生たちの成績評価などというのものは、将来の伸びしろを考慮して、寛大につけてやらなければならない。

しかし、成績評価の根拠を提示することを求められると、その伸びしろなどというものは、完全に無視され、結果そのものだけしか考慮に入れられない。だから、まともに成績をつけたら、学生たちの9割は落ちてしまう。気の毒だから、数字を操作して、その数を半分にとどめているが、それでも、やりすぎである。

教育においてもっとも大事なものは、いかに多くの得点をかせぐかではない。

野球でも、直接点数にはならないようなプレーを評価すべきだ。しかし、学生のプレーをすべて映像として記録しておくことは不可能である。だから、教員の印象に残ったもの、つまり将来の伸びしろを成績に反映させようとする。しかし、そんなものは客観的な根拠としては認めてもらえない。

だから、主観をいっさい排除して、ペーパーテストの得点のみを評価対象とせざるを得なくなる。

これは教育の本義とは大きく外れている。

文科省は、形になるものだけしか見ることができない。

つまるところ、連中はバカなのである。

日本の教育をだめにしている現況は、無能とマスコミに叩かれる教師ではなく、実は、文科省なのである。

この事実をマスコミは徹底的に追求して欲しい。

でも、教師を無能と見なすことからも分かるように、マスコミも相当なバカだから、救いようもない。

民主党か共産党にでも追求してもらうしかないか。

でも、連中も、相当にひどい。

大学というところは、本当にアホらしいところである。



夕方、長男をスイミングスクールに連れて行った。待っている間に、フードコートで妻はおにぎりを、次男はマックのハッピーセットを、私は夕食にキーマカレー&ナンを食べた。ナンが巨大で、まわりのお客さんにじろじろ見られてしまった。でも、図体はでかいが、中身はスカスカで、私の空腹をぜんぜん満たしてくれない。キャンペーン価格の500円だから仕方がないか。

ついでに書店で雑誌を立ち読み。無印良品の家電は数年前のモデルばかりだとかいう話や、買ってはいけないものの情報を仕入れてきた。でも冷静に考えてみると、その雑誌も信頼できるのかどうかかなり怪しいものだ。

帰りに、家族を幼稚園の前でおろして帰ってきた。今晩は、夕涼み会があったそうだ。

そういえば、見沼の通船掘では恒例の蛍の鑑賞の夕べがあった。残念ながら、幼稚園の行事を優先したため、今年は行けなかった。

昔は、田んぼの近くの小川に行くと、蛍なんて、夜空の星みたいに飛んでいたものだった。夏の雪のようだった。

でも、鑑賞会に行くと、カメラのフラッシュを光らせるバカが多くて、蛍が光らなくなってしまったり、混雑しているところを自転車で突っ込んできたり、オバちゃんたちは声を潜めて話すこともしないし、人ごみでタバコを吸う非常識なオヤジもいるし、まったく風情がない。

まあ、行かなくてよかったかな。

これは先日、洗濯機で洗ってしまった私の財布。洗濯ばさみの痕がついてしまった。

Wallet
先日、購入したホッチキス。

力を入れなくてもきちんととまるので、これはいい。

Stapler

Magazine 図書館から借りてきた雑誌と本。全部で、『暮らしの手帖』が一冊900円、『チルチンびと』が980円だから、自分で買ったら17,000円くらいになる。図書館というものはほんとうにありがたいものだ。図書館がなかったら、私は生きて行けない。

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教育

テストとレポートの採点で一日が終わった。

テストなんか本当はしたくないのだが、レポートや平常点だけでは、成績の根拠が不十分という理由(大学側は教員を信用していないのである!)で、テストをすることを大学のお偉方に強要されている。本当にうんざりする。うんざりしているのは教員だけではなく、学生たちもだろう。テストというものは双方にとってよいものではない。教育の中で最悪なものはテストだと思う。明日も採点で午前中がつぶれる予定。

日本の英語教育について書かれた学生たちの英作文を読んでいて思ったことをつらつらと書いておこうと思う。

まず、学生たちの大方の意見では、日本の英語教育は文法と読解中心だから、使えるようにならないというもの。マスコミで喧伝している意見に完全に一致している。

でも、その考え方こそが、自らを甘やかすステレオティピカルな誤ったロジックである。

学生たちの中には、インターナショナルスクールに通っていたものがいる。彼らの英語は、日本の高校で不完全ながらも文法を叩き込まれた学生に比べたら、あまりにひどい。

代名詞が欠如していたり、やたらとdoingだけのフレーズを用いたり、冠詞の使い方もわかっていなかったりする。We usesというものも出てくる。

言いたいことは伝わるけれど、バカの英語まるだしである。

あれでは会社に入って、「君は英語ができるらしいから、海外の企業からの訪問者の前で、自社製品のプレゼンをしてくれたまえ」と上司に命じられたら、かなり恥をかくだろう。

オーラル教育ばかり受けてきたために、文法がめちゃくちゃ。アメリカの小学生並みの知能ではないかと思わせる英語になっているのである。

日本の学校教育でまともに英語教育を受けてきた学生なら、ぜったいに犯さない間違いを犯す。それなのに、自分が恥をかいているのも意識できず、自分は英語ができるんだと威張っているところが悲しい。

自分が逆の立場だったらわかると思うが、学校教育をいっさい受けずに中途半端に日本語を街場で覚えたアメリカ人が、大学出のエリートたちの前で、子どものような英語を話したら、超カッコわるいではないか。

われわれは英語のネイティヴスピーカーではないことはわかりきっているのだから、不自然な英語を使わざるをえない。そういうことは先方は許容してくれる。だが、英語を侮辱しているような使い方をされると腹が立つはずだ。一部の学生たちに、そういう配慮のなさが広まっていることはたいへん憂慮すべき事態である。

このまま、バカ丸出しの英語を、外国で使われたら、日本人はバカが多いと思われてしまう。

日本人は英語が苦手だと思われているくらいのほうが、まだましである。

大学に来ても、英語を書いたりしゃべったりする時間がほとんどないということを嘆く学生たちが多い。授業はリーディングヤグラマーばかりとブツブツ文句ばかり言っている。しかし、学生たちは、そこから何も、学んでいないかのような英語しか書けない。

自分が無能さと努力不足を棚に上げておいて、自分が英語が話せないのは、大学のカリキュラムのせいにするのは間違っている。

これは「自分には落ち度はない。自分は犠牲者であって、悪いのはすべて他人である」という「父権主義」の典型的な考え方である。それこそが日本をだめにしている日本人的な「甘え」であり、外国語学習における最大の障害なのである。

もちろん、彼らの要望を受け入れ、大学のカリキュラムを改変し、発信型の学習ばかりさせることは可能である。

ただ、その場合、教員の負担があまりに大きくなるので、一クラスの人数は10人程度にし、一人の教員が持つコマ数は、一週間当たりせいぜい5つにしなければならない。

さもなければ、学生たちの作文の添削や、プレゼンの指導などに割く時間が取れない。

さらに、教員の数を増やし、給料も3倍に増やさなければなるまい。予算はどこから出るのであろうか。

さらに、そこまで学生や教員に負担をかけるのなら、学生が英語の授業で取得できる単位を、専門科目並みの4単位にすべきである。

大学側は、学生たちをひきつけるために、立派な最新設備(コンピュータなど)の整った建物の建設に余念がない。本来、教員の人件費に回すべきお金が、ゼネコンを儲けさせるために使われている。コンピュータ教室もそうである。語学学習に、コンピュータなど本来要らないのであるが、学生にパソコンをいじらせて勉強した気分に錯覚させようとしているのではないか。

大学の経営者側は、手に触れることができるものしか見る能力がない。立派な建物や、最新設備や、TOEICのスコア、就職の実績、それから著名人。彼らの視界に入るものはその程度である。

しかし、実際は、多くのまじめな学生は、自分で学び、自分で何かを達成したという充実感を学生時代に手に入れたいのである。

そのひとつが、自分で学んだことを形にすること。

そこに英語を使う余地が生まれる。

私は、すべての教員が英語で授業をすることを実現するよりも、学生たちが自分で学んだことを、英語でプレゼンするという授業を大学の英語のベースの科目にしたほうがよいのではないかと思う。教員に英語を使わせる機会を増やすより、自分たちで使う機会を増やしてもらいたがっているだから。

われわれ教員は、学生たちのことを考え、自分たちの貴重な時間を彼らのために割くことはやぶさかではない。しかし、教員の立場に立ってみればわかることだが、教員は自分の研究時間を確保し、教育に奪われる負担を減らそうと必死にならざるをえない。だいたい、労働に見合うだけの報酬をもらえていないのだから、教育に熱が入るわけがないのである。教員の給料は、不当に安すぎる。

大学のお偉方は、政治力に長けているだけのバカが多いので、そういうことがよくわかっていないようだ。

建物を立派にし、カタカナを多用した学科を新設すれば、それで学生たちはネギを背負ってやってくると思っているらしい。愚の骨頂というのはこういうことを言うのである。

彼らに大学の改革をまかせておくと、ますます学生および教員の双方にとって、居心地の悪い場所になってしまう。

教員を不当に搾取し、お金の心配ばかりさせるような状況では、教育に身が入るわけがない。

だから、私は学生たちの将来より自分たち家族の生活を優先し、心をこめずに働かざるを得ないのである。

いったい誰のための大学なのか?

ゼネコンやパソコンのメーカーを儲けさせるための大学でも、文科省の役人に威張らせるための大学でもないことを忘れてはいけない。

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想像力

金曜日は再履修のクラスがある。(今日もあった!)他の先生に落とされた学生たちを寄せ集めて英語を教えるという最悪のコースだ。

ゼロからの出発という言葉があるが、それよりひどい。まさにマイナスからの出発である。

学生たちは、単位を取得できなかったことに対する劣等感と、英語に対する長年の怨念と、なぜ自分は英語なんて学ばなければならないのかという素朴な疑問にとり憑かれている。

再履修クラスの担当を任ぜられた教師に課せられた最大の任務は、それらを払拭することである。英語がわかるようになったり、英語が好きになったりということよりも先に、英語学習に対する抵抗感を減らすことが最優先課題なのだ。

それが達成されたとしたら、残りはどうでもいいのである。

彼らに教えるべきことは、それ以外何一つないと言ってもよいかもしれない。

今日私が教えたのは、英語の時制は「過去」と「現在」しかなく、それらは互いに別世界の話なので、二つの時制の間には大きな断絶があり、それらを結びつけるために完了形というアスペクトがあるということ。

日本語では「過去」と「現在」の境目があいまいであるため、過去と現在がつながっていると勘違いしている人がいる。中学以来の根本的な誤解を指摘したつもりなのだが、再履修のクラスの学生たちは、ポカンと口を開けたまま、ただただぼんやりしている。たいていの学生はこの話をすると目を輝かすものだが、彼らの表情にはまるで変化がない。

そこで私は悟った。

おそらく彼らは英語だけではなく、他の教科も同様にできないのであろうと。

積極的に物事を解明しようとする意欲、つまり学習意欲すらないのだろう。

自分を客観視する能力もないし、自分を表現する道具だと思い込まされている言語の恐ろしい力に対しても無自覚なのだと思う(人間は言語の乗り物なのです。「利己的な遺伝子」というのが昔はやりましたが、あんな感じです)。

何のために生きているのかなどということも考えたことがないし、自分は将来何をしたいのかという目的もないのだろう。

そういう人は世の中には大勢いるので、別に問題ではないのかもしれない。

しかし、そういう人々と学習意欲のある人との差は歴然としている。

学習意欲のない人は話し相手としてつまらないし、魅力もないことのほうが多い。

その差は「想像力」だと私は思う。

Aという事象とBという事象の間に断絶を感じたとする(もちろん、その断絶を感じる能力というのが必要であることは言うまでもない)。その断絶を埋めたいという気持ちが「想像力」を突き動かす契機となる。

「想像力」がある人は、そのスキマを、さまざまな手立てを使って埋めようとする。そこに学びの喜びがある。物事を解明していくという知的好奇心である。

引いては、それが新しい物事を生み出す「創造力」につながる。

おそらく、勉強ができない人というのは、その「想像力」に大きな欠陥をもっているのだと思う。

彼らはテレビばかりひたすら受動的に見つづけ、あるいはゲームばかりやりつづけ、本を読んだり、自然を観察したりして、自分の頭で考える時間すら持たなかったのかもしれない。

彼らはこれまでの人生の中で常に「正しい答え」を与えられ続けてきたのかもしれない。

それをただひたすら受け入れていれば、よかったのかもしれない。

そんなのは、まったく、つまらない人生だと思う。死んだほうがましだ。

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親の生活と子どもの成績の関係

asahi.com(朝日新聞社):本読む親の子優秀 下位はワイドショー ベネッセ調査 - 社会

Servey

この調査の結果、「保護者の普段の行動と子どもの学力には強い関係性がある」という分析がなされている。

「成績上位の子どもの保護者は本をよく読む」。

「下位の子の親が好むのはテレビのワイドショー」。

この調査は、お茶の水女子大とベネッセ教育研究開発センターが共同で行ったもの。

真に受けてしまう人が少なからずいると思う。

注意すべきなのは、調査会社がベネッセであることである。学習教材を販売するビジネスを展開している営利目的の企業である。「もっと勉強しろ」というメッセージを流して、自分のところの教材を売ろうとしているのだから、太陽が西から昇っても、「親がバカなら、子どももバカで、親が利口なら、子どもも利口」という発想を疑うことはしないだろう。

我が家の場合、小4の長男は子どものころから本が好きで、いまは高学年の児童が読むようなけっこう難しい小説にまで手を出している。そのほかにもさまざまな入門書や科学の本なども読んでいる。図書館から借りる本の数は、一ヶ月に40冊以上。毎週10冊ずつ借りてくるのである。とてつもない読書家である。私が子どものころは、1年に1冊くらいしか本なんて読まなかった。しかも、夏休みにいやいや読んだだけ。

息子は、本を読んでいるだけではない。テレビは長時間見つづける、ニンテンドーDSのゲームは日に1時間はやっている。時間をちょろまかすこともある。

ベネッセの進研ゼミなどやらせていないし、学習塾にも通わせていない。

それでも学校の成績は上位である。

私の家には、職業柄、本が大量にある。半分は洋書。でも、読むのはもっぱら、電車の中なので、私が本を読んでいる姿を息子はほとんど見ていない。しかも、私はテレビのニュースもめったに見ない。「勉強しろ」なんてめったに言わない。たぶん言ったことはないと思う。

彼の母親は、ワイドショーやテレビドラマが大好き。本なんて年間2冊しか読まない(今年の例)。料理の本を入れても10冊以下である。でも、子どもに対しては「勉強しろ」とうるさいタイプだ。

我が家にはあまり勉強している姿を見せない父親と、本はめったに読まず、ワイドショーが好きな母親がいる。

それでも、子どもは読書家で、成績は人並み以上。

もし両親がともに世界的に有名な学者で、テレビなんてまったく見ることもなく、いつも勉強ばかりしていたら、子どもは息が詰まってしまうだろうし、ストレスで勉強が嫌いになってしまうかもしれない。

親の生活スタイルと子どもの学力には密接な関係があるという発想は、一見わかりやすいし受け入れやすいが、しかし、そこには予断がある。

常識的な分析はかえって疑ったほうがいい場合もある。

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学力

鷲田 清一「「学力テスト」をめぐってつらつら思うこと」 - 新聞案内人 :新s あらたにす(日経・朝日・読売)

 「力」といえば、多くのひとは、物事をぐいぐい推し進めることのできる力、外からの強い力にしっかりと抗うことのできる力を、おそらくは思い浮かべるであろう。
 けれどもひとびとのあいだでしかと「生きる」ために凡人に必要なのは、たぶんそういう力ではない。他人の境遇に思いをはせることができる、他人の思いに きちんと耳を傾け、受けとめる力、すぐに答えが出なくても問いを手放さずにしつこく問いつづけられる力、自分の意見が通らずとも辛抱する力、無理難題を突 きつけられてもあきらめず、へこたれもせずに解決を模索しつづけられる力、対立する意見のなかでそれらをとりまとめることのできる力、それらを身につける ことがよりいっそう大切であろう。

おっしゃるとおりでございます。

学力テストで、新しい卵と古い卵の見分け方ということを教えられた生徒が、「どちらの卵を食べるか」と問われ、黄身の平べったい古いほうを選んで誤答になったというエピソードがこのエッセイの中で紹介されている。これは、明らかに学力を問う問題ではない。

古いものから食べていくのは、生活の知恵である。「どちらが古い卵か」と「どちらを食べるか」は別の問題である。

学力を問う側の学力のなさは致命的である。

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哲学

「哲学」とは、英語ではphilosophyという。

philosophyの語源は「philo愛する+sophia知」である。

「哲学」の「哲」には、「折」という文字が含まれているが、これは「ずばりと断ち切ること」、「言動が明快に断ち切れること」を表す漢字である(『漢字源』)。

つまり、「哲学」とは、言動を明快に断ち切る学問なのである。ちなみに、この訳語は、西周(にしあまね)がつくったものである。

もし、西周がこのphilosophyを、「愛知学」としてしまったら、愛知県を研究する学問と誤解されてしまっていたかもしれない。

冗談はさておき、philosophyという言葉を、「知識」を愛するというふうに解して、断片的な知識を対象に、衒学的な用語をもてあそんで、わけのからないこと言う学問だと思っている人がいる。

本来、philosophyとは、知識という人間が知りえた結果ではなく、ものごとを知ること、つまり解明していく過程を愛する学問という意味である。

大根が、近所のスーパーでは、1本150円で売られているのに、隣町の八百屋では100円で売られているという情報や、「左」という漢字をどこから書き始めればいいのかいう知識を愛することとはまったく違うのである。

要するに、物事を解明していくことを楽しむことが「哲学」(philosophy)なのである。

このphilosophyから、数学や科学などの学問が発生していったのはご案内の通り。

だから、学問の起源を、philosophyにまでさかのぼれば、理系とか文系とか分けるのもおかしな話なのだ。

この世のすべての学問は、世界の混沌を整理し、解明しようとする行為である。

けれども人間は神ではない。すべてを解明したり、マスターすることは不可能である。そういう運命なのだ。解明しようとすればするほど、わからないことがつぎつぎと出てきてしまう。

人間は世界のマスター(主人)には永遠になれないのである。

そういうことが、物事を解明しようとすることによって、わかってくる。そうやって、知ることを愛することによって、人間は謙虚になれるのである。

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教育

私はある学生に「自分の考え方を押し付けようとしている」と言われた。そういうことは長年の教員生活の中で初めての出来事である。

教師が自分の考えを伝え、学生がそれを受け取り、自分なりに消化する。このどこが悪いのかさっぱりわからない。

教育とは、子供が持っている才能を引き出すことであるとよく言われる。educateの語源がそう教えているというのである。

ただ、正確には、duceは「引き出す」ではなく、「導く」という意味。educateの語源は「e-外へ+duce導く」である。(ちなみに、紹介する、導入するという意味のintroduceは「intro-中へ+ duce導く」である。)

だから、教育(education)とは、子供たちの持っている才能を外に引き出すだけではなく、子供たちを外の世界に導く作業を指す。

外の世界に導くためには、子供たちに、彼らがすでに持っている内側の考えをなぞっても意味はない。彼らの考えというよりも、すでに身につけてしまった先入観や偏見を外に引きずり出し、同時に、それに新たな考え、別のものの見方をぶつけてみる作業が必要なのである。

そこで、教師はひとつひとつ子供たちの思い込みを壊していく。だから、子供たちは、自分の考えを否定されている、先生は自分の考えを押し付けてくると抵抗する。

繭(コクーン)の中にい続けたいと言って駄々をこねるのである。

だからこそ、「自分の考えを押し付けてこないでください」といった学生に私は幼児性の発現を見たのだ。

子供を外へ導く作業が教育であるのなら、その「外」というのは、どういう世界のことか。

それは「成熟した世界」のことである。

「成熟」とは、当然のように自分が持っているものを無償で他人に与え、その行為に喜びを見出せることである。

自分が持っているものを与えることで、代わりに喜びをもらえることに、感謝できる人々の住む世界を、私は「成熟した世界」と呼ぶ。

わたしたち日本人の住む世界は、成熟した人たちが住む世界なのだろうか。

つねに人から何かを奪い取ることばかり考えていないだろうか。

ビジネス(business = busy-ness)?

人からお金を掠め取るのに忙しい(busy)幼稚な人たちのことをビジネスマンというのだろうか?

教育の役目は、そういう人間を少しでも減らし、成熟した人間を増やしていくことである。

いま多くの教育の現場では、学生たちに他人から奪い取ることばかりを勧め、他人に与えることの喜びを教えようとしていない。

だからこそ、「ビジネスマン」が増えてしまったのである。

こういうことを主張するのは、学生たちの人権を侵害しているというのだろうか。法的な解釈はわからないが、他人から奪い取ることに喜びを見出す人間を放置しておくほうが、はるかに人権侵害の罪にあたるだろう。

教育者というのは、後の人(followers)のことを考えてやる人のことである。

後から来る人のことを考えたら、おのずと自分たちがどうすればよいかわかるものだ。

道のごみを拾ったり、道をふさぐ障害物を取り除いて人々が通りやすくしたり、草木や花を育てて見る者の目を楽しませたり、とにかく、みんなをいい気持ちにさせてやることが大切なのだ。

「そんな考えを俺に押し付けるな、俺は俺流でやっていく、人は人だ」という考えを許した結果、利己的で威張り腐ったビジネスマンを増やしてしまったのではないか。

後からやってきた私は、上の世代を見て、それを直したいと思う。そして、後代の人間たちにその教訓を与えておきたいと思う。

どうして、それを「押し付け」とか「思想統一」というのか、私にはわからない。

現在の「北朝鮮」や明治時代から敗戦までの「日本」と同じように、父と、父に忠誠を尽くす子の擬似父子関係を国家の中で作ろうとしているわけではない。私は学生から上納金を吸い取る機構を作ろうとしているわけではない。

私は、「この命令を忠実に守らなければならない」という命令を発しているのではなく、「私の主張は世間の数ある主張のうちのひとつに過ぎないのだし、何が正しいのかは私のもわからないから、みんなは自分の頭で考えるように。同時に、自分の考えも正しいかどうか常に疑ったほうがいいよ」と言い続けている。

このどこが押し付けなのだろうか。

私に「自分の考え方を押し付けようとしている」と言ってきた学生は、あきれたことに教育学専攻の学生である。

残念ながら、彼には人を育てることは無理だろう。

教員になったとしても、マニュアル通りに、子供たちの善性を信じて、何も教え込まずに素直に育てることが大切だなどという主張に惑わされ、物事をどう考えたらいいのかわからないようなバカな子供ばかり増やすことに自分の残りの人生をささげて、成熟した大人たちの失笑をかうことになるのだろう。

まあ、彼がその程度の幼稚な人間なら、それはそれでいいだろう。私は親切な人間であっても、おせっかいな人間ではないので彼を放置しておくつもりである。

相当な遠回りをするはずだが、いずれ自分の愚かさや浅はかさに気がつくだろう。

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最高学府はバカだらけ

livedoor ニュース - 最高学府はバカだらけ この現実どうするのか (連載「大学崩壊」第1回/大学ジャーナリスト・石渡嶺司さんに聞く)

本当に久しぶりに、ニュースサイトを巡回してみた。1、2ヶ月の間、ニュースメディアを意図的に遠ざけていたので、もう完全に見出しすらきちんと読めなくなっている。文脈がつかめないのである。

その中で、ついていけそうだったのが、この記事。まあ、どうでもいい内容であることは疑いようがない。大学生の劣化は今に始まったことではないから。

驚いたのは、ここで「最高学府」という言葉を正しく使っていることである。

バカはこの「最高学府」という言葉を、東京大学だと思っているが、この著者は正しい使い方をしている。

最高学府の学生たちがバカばかりになった理由の一部は、国の政策に誤りにある。少子化が進み、学生を確保できなくなってきているのにもかかわらず、大学の数を増やして、入試を楽にしてしまった。この状況が、学生の質の低下を招いたのである。

いまさら、大学の数を半分に減らせといわれても、それはできない話だ。

ということは、大学側ができの悪い大学生をきちんと教育し直してやるしかない。

高校までの教育がほとんど機能していなかったのだから、大学がその尻拭いをせざるをえない。

それがもっとも現実的な対策だろう。

まず、大事なことは、大学生にものの考え方、世界認識の方法の基礎の基礎を教えることである。

1.小学校3年生レベルの四則(加減乗除)をきちんと理解させ、日常生活で活用できるように訓練すること。

2.小学校6年生までの漢字をきちんと書けるようにすること。同時に、語源・由来を覚えさせること。

3.現代までの日本史や世界史をおおまかに理解させること。中学3年レベルでいい。

4.英語は、基礎からやり直すこと。必ずSVOを理解させておく。基礎単語も日本語訳ではなく意味を理解させ、使いこなせるようにしておくこと。中学校3年か高校1年レベルまででいい。

5.先入観を持って印象や直感だけで物事を判断するのではなく、論理的に考える習慣をつけさせること。

6.作文の基礎を教えること。自分の考えをまとめ、わかりやすく伝える方法を教えておくこと。

7.仕上げに海外に一人旅に行かせて、苦労させること。

海外から生きて戻ってきたら、人間としてきちんとコミュニケーションを取れるようになった証拠なので、大学で勉強させる仮免許を与えてやる。

今日も、授業中に私が学生を指名したときに「教科書を忘れました」と言ったものがいた。何が言いたいのか私にはわからない。20歳そこそこの大人に対して、わざわざ「そういうときには隣の人に借りるように」と言わなければならないのが情けない。幼稚園児並みの知能なのかもしれない。彼らは自分がなんのために授業に来ているのかわからないのだろうか。それに、困ったときはお互い様だ。他人に頼ったっていいじゃないか。どうしてそういうふうに考えられないのだろうか。

以上のようなことが自然にできて初めて、人並みの人間として認められるのだが、そういうことすらできないのが多い。

大学2年生になったら、さまざまな分野(哲学、人類学、宗教学、心理学、日本文学、外国文学、芸術論、統計学、経済学、政治学、法学、科学、教育学、日本語文法、日本文化など)の日本語の文献を50冊読ませ、それ関してすべて報告書を書かせる。英語の文献は5冊読ませ、これも報告書を提出させる。

これで認められたら、初めて大学3年生に進級できる。こんなふうにでもしないと、大学は立て直せない。外国の大学と伍していけない。

でも、これは20年前私たちの世代が大学生だったときには、機能していた制度である。なぜ、いまの学生は本を読めなくなったのだろうか。悪いのは、テレビ、漫画、アニメ、ケータイ、ゲーム?

いうまでもないが、悪いのは大学ではない。教育をめぐる国の政策の誤りと、バカを放置して卒業させてきた高校までの教育の二つである。

結局、出口としての大学がなんとかこの問題を責任を持って処理しなければいけないわけだ。迷惑な話であるが、仕方がない。

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英語学習の目的

英語の教師も学生もみんな「和訳」を重視しすぎている。

和訳ができるようになることは英語学習者のほとんどにとって重要な目的ではない。和訳をすることは単なる手段である。

人はよく目的と手段を取り違える。他人がいくらその取り違いを指摘しても、まったく理解できない人もいる。

だから、私はテストには和訳は出さない。和訳は、英語が読めるようになった結果、自然にできるようになっているものである。

最初から、正確に和訳をすることばかり強調して教えていると、うまい和訳や翻訳の「方法」の勉強をしているようになってしまう。翻訳の授業なら、話は別だが、通常の英語の授業ではそこまではしなくてもよいだろう。

英語学習者の主な目的は、以下の4つ。

1)英語を(相手に聞こえるように)「声に出して」、通じるような発音で読めるようになること。
2)英文を正確に、そして深く解釈できるようになること。
3)英語の発想や構造や理解し、自分で英文を組み立てられるようになること。
4)それを実際に運用し、自分の考えや意見を表現し、相手に理解させることができるようになること。

このリストはもう少し長く伸ばすことはできるが、この辺でとどめておく。
学習者は、こういうことが重要なのであるということをよく記憶にとどめておいてほしい。

実際に英語を運用する場合、重要なのは、have, give, take, get, make, putなどの基本単語のベースとなる考え方を正しく身につけているかどうかである。

きちんと「なわばり」の意識を持っていれば、自然にhave, give, take, getは使える。

その上で、関連分野の単語を覚え、あとは自由に前置詞や副詞を組み合わせれば、おおむね自分の言いたいことは言えるようになる。

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研修

昨日は仕事の研修(全部英語)に午後から出た。午前中の部は貧血気味で遠慮させていただいた。

ある外国人教師による、成績のつけ方(grading)についてのプレゼンを面白く拝聴した。

日本の主流は、normative based evaluationだが、西洋の主流はcriteria based evaluationだという。要するに、日本型は古いというわけだ。

いつものパターンなので、眉にツバをつけておいたほうがいい。

日本型はどうしても相対評価になってしまい、クラスによって評価が変わってくるという欠点がある。西洋型は絶対評価であり、しかもクラス全員が自分たちの評価に参加できるという長所があるという。学生のプレゼンを教師一人が採点するのではなく、クラス全員が採点に加わるのである。

criteriaということなので、ポイントが明確か、内容は面白かったか、声は大きかったか、アイコンタクトがあったか、などの項目に上限5点ずつつけて総合点を出し、クラス全員の評価の平均点と、教師の採点と足して2で割り、成績を出す仕組みである。

私も10年以上前、学生に評価に加わってもらうという試みをインターネットを使って行ったことがある。それで論文を1本書かせてもらった。しかし、きわめて作業が煩雑になり、時間を奪われるだけで、たいして効果も上がらなかったので、それを限りに従来型に戻してしまった。

プレゼンターは、経験的に学生たちの評価と教師の評価には大きなずれがないことがわかっていると述べていた。意地の悪いことを言わせてもらうと、だったら、学生の評価はいらなくなってしまうだろう。

授業をつくるのは教師一人なのか、それとも学生たち全員かという違いはものすごく大きい。ただ、それぞれに長所と短所があるので、いままでの日本型のものをすべて捨て去って、西洋型を受け入れろというのはどうかと思う。この「総取替え」というパターン自体、これまでの日本人のやり方とまったく同じではないか。

わたしはその部分がどうしても受け入れられない。頭が古いのだろうか。

それから、西洋型の授業のやり方だと、1週間にさほど多くの授業はこなせない。準備や後処理が大変だからである。専任講師は、一週間に6コマ程度だからなんとかやれるかもしれないが、非常勤の場合、たいてい13コマ以上も持っているので、そのうちの10コマ程度は手を抜かないとやっていけない。そういうところもわかっていただきたい。

日本は、ノルマを達成したかどうかを重要視する。規定の量をこなしたかどうかである。しかし、西洋は、量はさほど重要ではなく、質に重きを置くのかもしれない。よくはわからないが。

最初から覚えるべきことを決めておいて、それを正しく覚えたかどうかを評価するのではなく、覚えるべきことなど最初から決まっていないのだという前提に立ち、その後の人生の中で、状況に合わせて自分で工夫し、解決策を出せる能力が身についたかどうかを大学の授業では評価するということを、プレゼンターは言いたかったのかもしれない。

だとしたら、おっしゃる通りである。

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ジョグ6K

恐らく外気温は2度前後だろう。寒いけれども、風が弱いのでなんとか耐えられる。

3日連続で走った。こういうのは久しぶりだ。明日は休足日にしようと思う。

左の大殿筋に筋肉痛があったため、走行後、腸脛靭帯まで痛むようになった。無理は禁物だ。

走行距離は昨日と同じ6キロ。今日は少しペースを上げてみた。

前半は17分15秒。

後半は16分40秒。

やはりキロ6分を切るように走ると、息が切れてしまう。

さしあたって(今後1年?)中年の私には6分ペースで十分だ。

ゆっくりでもいいから長く走れるように体力を戻さないと、月末の草加ふささらマラソンに間に合わない。とにかく怪我をしないように、無理せずにやっていこう。

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文学研究に意味があるのか

文学の研究ってどんな意味があるの? : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

文学研究に携わっている人間にとっては、これは自分たちの存在意義にかかわる重要なトピックであり、直ちに私も何か答えなければいられないという衝動に駆り立てられる。

文学を研究するのと、ただ読んでストーリーを楽しむのとはだいぶ違う。ああ、面白かったとか、つまらなかったという感想を述べても研究にはまるでならない。

文学研究というのは、基本的にはさまざまな資料をもとに、作品(作家ではない)の分析と解釈を提示することである。

ふつうに読んだだけでは見落としてしまうようなポイントを指摘し、できれば素人読者の目から分厚いうろこを一枚も二枚も剥がしてやりたいと研究者は思っている。

そういうふうに、ふつうはストーリーを追うだけではなかなかつかむことができないテクストの「秘密」(と思われるもの)を解明し、文学作品がいかに多面的で複雑に出来上がっているかということを論証するのが文学研究者の役目であると私は思う。

現実の世界も同様に、文学の中の世界と同じように、複雑で多面的に構成されている。

そういう当たり前のことを、律儀に、地味に、こつこつと、しつこく、執念深く、人々に伝え続ける作業が文学研究なんだと思う。

文学なんかどうでもいい。自分の人生には役に立たない。飯の種にもならない。

そう思っている人が圧倒的多数だろう。

文学研究というのは、自分には何の存在価値もないと内省する視点を与えているところそのものに存在価値があるといってよい。

自然科学に携わっている人の多くは、自分たちの研究は世の中の人々の役に立つという確信をもっている。その確信がなければ、彼らは生きていけない。

しかし文学研究に携わるものは、そういう確信はまったくもっていない。何の役にも立たない、愚にもつかないものかもしれないが、それはそれでいいのだ。世の中というものは、そういうものなのだと思っている。役に立つとか立たないとか、そんなふうに単純には世の中というものは割り切れないものなんだよという視点を文学に携わるものたちは、必死になって伝えようとしている。

そこに文学研究者の存在意義があるのかもしれない。

ランナーに向かって「走ることに意味があるのか」と聞いたらどう答えるか。おそらくランナーならみな嘲笑的な表情を浮かべて「別に何の意味もないよねえ」などと返答するだろう。

意味はないかもしれないが、効果はある。健康維持とかストレス発散とか達成感や充実感を得られるとか。

しかし、そんなことは些細なことである。なにより重要なのは、走ることが楽しいということだ。そして、走ることは人生を豊かにしてくれる。

文学研究もそれと同じ。

走ることも、文学を研究することも、生きることも楽しい。

文学を研究することに意味はあるのかという疑問は、生きることに意味があるのか、という疑問とまったく同じようにニヒリスティックな愚問であると、文学研究者たちは考えている。

音楽がなければ、生きる意味がないという人も数多くいる。

それと同じようなことが、文学にもいえる。

クルマは世の中を便利にしたが、人類の生活を豊かにしたのかと問われて、どれだけの自然科学に携わる人々が自信を持ってYESと答えられるだろうか。

しかし、我々は文学研究が人生を豊かにしているということを絶対の自信を持って断言できる。

文学研究は、何の役にも立たないのかもしれないが、その役割を認識している人たちの人生を確かに豊かにしてくれている。

私が意図する「豊かさ」は「多様性」や「多面性」や「複雑性」と同義であると思って欲しい。

「文学研究は何の役に立つのか」という質問はあまりに紋切り型である。そのような固定観念に一撃を与えるのが、文学研究の役割である。それによって、人々のものの見方に多様性を与えることができるのである。

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TOEICと頭のよさ

TOEICと頭のよさ : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

TOEIC900点台は、頭がいいということを示しているのかという質問。

回答者の多くは何の関係もないと述べている。まったくその通り。

私も935点取得したが、自分が頭がいいとは思っていない。

英語のネイティヴ・スピーカーならたいていは満点の990点は取れるはず。だからといって、彼らが頭がいいかといったら、そんなことはない。

頭の良さというのは、偏差値の高さとは何の関係もない。

自分がバカであるということ、自分は何も知らないということを知っているという、その一点にかかっている。

ソクラテスの言う「無知の知」である。

自分は何も知らないということを恥とは思わずに認め、そして知らないことを知りたいという好奇心に満ちているということが、頭がよいということなのである。

TOEICは受験勉強の延長で900点は取得できる。大学では、TOEIC対策ということもやっているが、教えている側の教師たちはあんなくだらないことを大学では教えたくはないと思っている。

私は、心から、TOEICの権威が下がることを望んでいる。

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難関私大 志願者減の異変

難関私大 志願者減の異変 不況のあおり 安全志向色濃く(フジサンケイ ビジネスアイ) - Yahoo!ニュース

不況のせいで、早稲慶応のような難関私大への志願者が激減。そのかわり、安全志向で中堅私大の志願者が増えているという。

中堅私大には、去年までなら浪人して難関私大に入ってしまうような学力のある学生が数多く入ってきてくれるのかな。

来年度は、教えやすくなるといいけど。

我が家もお金がないので、息子たちには国立に行ってもらいたい。埼玉大か千葉大か筑波大あたりが候補。

受験を勝ち抜くためには、教師の立場から言わせてもらうと、よい先生との幸運なめぐり合いが最も重要な要素。

いくら優れた教材を使っても、教える人がダメなら、学ぶ者の実力を引き出せない。

私に言わせると、よい教師の条件というのは、豊かなイメージを喚起させる言葉を持っていること。物事の真髄を的確に言い表す比喩をいくつも思い浮かべられる人ではなければいけない。

あるひとつのことを説明するのに、たった一つの言い方しかできない貧弱な言語能力しかない教師こそがだめな教師である。「この公式を覚えればそれでいいんだよ」では、子どもたちはものを表面的にしか理解できない。

もちろん論理的な説明能力も重要である。しかし、比喩には、それを上回る力がある。論理は頭での理解、比喩はカラダでの理解に導く。カラダで覚えたことはなかなか忘れないし、いざというときにすぐ使える状態になっている。

武道をやっているとよくわかるが、肘の角度を何度、足の位置はこうとか説明されて瞬間的に真似られる人はほとんどいない。そういうのは比喩でしか説明できないし、イメージを一瞬で把握させてくれる比喩こそもっとも効果的で合理的な説明方法なのである。

ああしろ、こうしろというアクションしか説明できない教師と、豊かなイメージを喚起させる言葉の使い手と、どちらに子どもたちは惹かれるだろうか。答えは言うまでもないだろう。

世間では、教師にとって「指導力」がもっとも大事な条件だと言われているが、そんなのは大嘘。幻想である。

世間で言う「指導力」というのは、恐喝や恫喝に近い。恐怖を与えて、自分の足元にひれ伏させる力を指導力というのである。小泉元首相は「指導力」があったと考える人も多いが、彼の発する言葉には豊かなイメージの喚起力がなかった。その点において、彼の指導力はニセモノであった。

「指導力」は、かつての体育教師の専売特許であったが、あれはもう効き目が期待できない。教師の権威は完全に地に落ちてしまったからである。

だからこそ、教師は「指導力」などに頼るのではなく、「言葉の力」に頼るべきなのである。

そういうことを自覚している教師が、すぐれた教師の大前提である。それを駆使できるかどうかはまた別の話だけれど。

息子には、そんな教師にめぐり合って欲しいと思う。めぐり合えなければ私が、そんな教師になるしかないかな。

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文学研究

知識(既知の情報)が増えすぎて研究対象を新鮮な切り口でとらえられなくなるという時期が必ずと言ってよいほど研究者には訪れる。いわゆるスランプの時期だ。

私の場合、恥ずかしいことに、このスランプの時期がかなり長く続いてしまった。ちょうど結婚と子育ての時期と重なってしまったということもある。関心が、小説と付き合うことよりも、他人と付き合うことのほうに移ってしまったのである。

だから、いまイチから勉強しなおしている。

そうしているうちに気がついたことがある。評論には、その時代、その時代によって、紋切り型のフレーズや思考パターンがあるということだ。

たいていの物事には賞味期限がある。文学研究の場合、賞味期限が過ぎてしまったものは極端に恥ずかしい。賞味期限の過ぎたものをずらっと並べてみる。

古くは、著作物には、著者のこめたたった一つのメッセージがあるので、それを読み解くのが読み手の役目であるというものもあった。

それから、主人公の行動は道徳的に(キリスト教的に)正しいのかどうかということだけを評価するものもあった。

あるいは、帝国主義批判や、ナショナリズム擁護論、もしくはコスモポリタニズム支持派的な見解から、作品の価値を認定するものもあった。

さらには、女性の描かれ方だけに着目し、フェミニズム的な観点から、許せるか許せないかを論じるというものも大流行した。

近年では、書かれたものは書き手の手を離れ、書き手の意図していないことまで表現してしまうので、それを読者は読み取ってもよいというものがある。いまなおこの考えに対する研究者たちの信頼は根強い。自分の誤読を開き直って許す裏づけを与えてしまっているところが私には許せない。

あるいは、書き手がある文体を採用したことで、その文体が物語をつむぎだしたり、歪曲したりするというのもあった。こういう物言いは格好いいかもしれないが、証明不可能なことが多く、私に言わせるとズルい。

信頼できない語り手という切り口もあった。語り手が読者を欺くのだという説である。面白いのだが、これも根拠付ける論理が不十分な気がする。

私はこれらのすべてが賞味期限切れだと思う。そう考えるがゆえに、私はスランプに陥ってしまった。いまのところ、次の一手が見当たらないのである。

たいてい、賞味期限を意識していない評論には、明確な根拠もないくせに、何某という権威がそう言っているから、私の主張は正しいのだというものになっている。冷静になって考えてみたら、説得力がない。ロラン・バルトがそう言ったからとは直接書かないが、みな一様にそういう権威に頼っている。

要するに、凡庸な研究者は、自分が骨を折って集めたデータや自分の頭がつむぎだしたロジックではなく、他人の権威に全面的に依存しているのである。

彼らの章には、他人の著作物の引用、ストックフレーズ、専門家だけにしか通じないジャーゴン、そして他人のつむぎだしたロジックに満ち溢れている。それらを差し引くと、ほとんど何も残らない。

結局、言いたいことは、「私は何某の意見に賛成です」か「私は何某の意見に反対です」のいずれかである。独自性、独創性に欠如しているのである。

恥ずかしながら、私もそういう論文ばかり書いていた。実に情けない。

何某かの考えに賛成や反対を唱えるよりも、「自分はどう読んだのか」ということを表明することに専念すること。これがもっとも重要なことである。

私の師匠はつねに「自分はどう読んだのかだけを書けばいい」と言っていた。

私は今までその言葉を十分に理解しているつもりだった。しかし、自分がまったく理解していなかったことがこの頃になってようやくわかってきた。

もちろん自分勝手な論理の読みを提示してもいいというわけではない。独自の論理を打ち出せということなのだ。

「お前はそんなことも知らないのか」と言われるのが癪で、古今東西の研究書をひたすら読む日々が続いた。そうするうちに研究対象の小説がどんどんつまらなくなり、私から遠ざかっていった。「なぜこんなことをしているのか」と自問自答に明け暮れた。

その小説を読むたびに、頭の中でストックフレーズが踊った。

自分が読んでいるというより、こんなふうに読みなさいと命じられているような気分になった。

それがイヤになったのだ。

いままでの学習履歴をすべてリセットし、最初から始めたいと私は思った。

6年以上ものブランクを経て、いまようやくすべてをリセットできたような気分になった。

本当にバカになってしまったほどだ。

上に述べたようなことを理解していると思っている研究者の多くは、作品に潜む謎の解読に血道をあげている。いわゆる謎解きである。

私はそれもイヤなのである。

結局、私がやりたいこと、興味の中心は、自分の基準に照らし合わせて、その文体はしびれるかどうかを論じることだけである。テーマ(メッセージ)はどうでもいい。書き方(書法)が重要なのである。

WhyやWhatではなく、あくまでもHowを優先したい。

なぜそうなのかなど考える必要はない。

何が書いてあるのかさっぱりわからなくても、ただしびれればいいのだ。

ただそのしびれる感覚をしびれると言うだけでは、研究とは言えない。論文にはならない。

それを文章に変換するのが私の役目だと思っている。

実は、それが一番難しい。

それはある料理の上手さを表現するのが難しいのと同じことである。ただ単に「うまい」といっても、その上手さを表現できることもある。それは表情や感情が「声」に伴うからである。しかし、書かれたものには、それがない。だからこそ、言葉での表現は難しい。

中条省平というフランス文学者が、日本文学の魅力を紹介している『小説の解剖学』という本がある。詳しくはその本を読んでもらいたいと思うが、この本の最大の魅力は、作品をきちんと紹介しているということである。英語で言えば、評者の姿勢が、あくまでもdecentなのだ。とりわけて優れているわけではないが、まずくもない。礼儀作法にかなった、慎みのある紹介の仕方なのである。

批評というものは、本来そういうものである。作品の魅力をきちんと紹介すること。

私はこれをお手本にしたい。

文学研究などというものは、それ以上でもそれ以下でもない。そんなふうにキッパリと割り切った方が潔くてよい。

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競争と教育

大阪の知事さんが、教育に競争を取り込めとうるさい。

まったく底の浅い教育論議である。

競争の是非を問うこと自体、「教育」の本筋から離れていることに彼らは気づいていないだろうか。

教育において、競争はあきらかに傍流である。教育者の一人として、競争を否定するのは間違っているとする知事さんの考えに私も与するのだが、ただ、競争と教育をセットで考えるという前提そのものが教育的ではないということだけは言っておきたい。

教育の本来の目的とは何か。

生徒に誰よりも早く、大量に覚えさせることはもちろん必要なのかもしれないが、それは彼らに知識を覚えさせるための方便にすぎない。

教育の目的というのは、既知の知識や、まだ自分の知らない知識を活用し、平和な社会を築いていくことではないのか。

競争を過剰に重視すると、他者を蹴落とすことはよいことであるという考えを押し勧めることになる可能性がある。そうなれば、他人をだまし、金品を奪うことに等しいビジネスで、私利私欲を満たすことを肯定する考えにつながってしまう。

法律家や経営者にとっては、相手をこき下ろし、叩きつぶすことが善であるのは、自明の理なのだろうが、その考えは教育にはなじまない。

教育で求められるのは、相手を蹴落とすのではなく、仲間とともに自分を高めていくことである。それは宗教(Religion)に近い。

Religionの語源は、bondやbindである。つまり、人々を結びつけること。しかし、時として人々を縛り付けることにもなってしまう。裏腹なのである。それは教育も同じこと。

教育と競争について考えるのなら、正と負の両面を見て、両者のバランスをとるという姿勢を貫かなければならない。

橋元知事がやっていることは、デベートである。これは正と負のバランスをとるのではなく、相手をただひたすら叩き潰すことだけに主眼が置かれている。

いま教育を論じるときにするべきなのは、「ディスカッション」のほうである。さまざまな意見を腑分け(dis)して、叩きつぶし(cuss)、ひとつの考えにまとめていく。

どっちが良いとか悪いとかという法律家の大好きなデベートは、世の中を良くするものではないし、本来の教育の目的からますますかけ離れていくだけである。

それがお分かりではないのは、同世代の人間として、至極残念である。

自分がはめられている枠の外側へ飛び出すこと、それを経験すること、これも教育の大きな目的のひとつである。

それがいままでできてこなかった人に、教育を語ってほしくない。

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