カテゴリー「学問・資格」の29件の投稿

開き直り

昨日一緒に走っていただいた女性に、スタート前、「何を教えてらっしゃるのですか」と聞かれたので、「英語です」と答えたら、英語ができないことの劣等感を告げられた。大好きなアーティストのコンサートに行ったら、彼女のしゃべっていることがさっぱりわからなくて、残念な気分になったとおっしゃっていた。

彼女の気持ちもわからないわけではないけれど、語学を勉強すればそういうことがわかるようになると考えるのは安易な考えだと思う。「好きなアーティストの気持ちなんて、本当にそのアーティストのことが好きなのであれば、自然に伝わってくるものですよ。人間ですから」と答えておいた。「気持ちの問題ですよ。」

人は言葉のみによって意思を伝えているわけではない。人間のコミュニケーションの中で言葉の果たす役割はたった20%程度だったとはず。

顔の表情や、口調で、しぐさや姿勢でだいたいのことはわかってしまうもの。それでいいんじゃないのかなあ。

英語を教えているなどというと、そういうことを言われて羨ましがられることも多いけれど、裁判を扱った映画なんて、最初から最後までわからないことも多い。でも、別に、私にはどうでもいいことだ。そんなものは専門外なのだから、仕方がない。日本語だって、裁判の話は難しくてよくわからないくらいだし、興味もない。

そういう高度な分野を理解できるのは、ごく一部のエリートだけ。マラソンの世界と類似しているけれど、市民ランナーはフルマラソンを2時間台の前半で走らなくったていいんだよ。一般の庶民はそんなことを気にすることはないし、目指す必要もない。

そういうところから、語学を捉え直すことも重要なのかもしれない。

語学だって、勉強だなんて思わずに、ただ楽しめばいい。

人間が言葉で意思を伝える道具とだけ見るのではなく、遊びの道具と見ると、また違った明るい世界が広がってくる。

私は後者が好きだ。

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believe in

久々の英語ネタ。

"believe in"という表現は、日本人なら、たいてい、神や宗教を信じるということを表現するときにすっと出てくるものだ。

Do you actually believe in ghosts? 
Do you believe in an afterlife?
Do you believe in God?  It depends on the time and place.

あるいは、信用するという意味でもなじみはある。

I believe in my husband. He would never betray me. とか。

でも、意外と知られていないのは、「あるものがよいことだと(無根拠に)思っている」とか「~を信条としている」という意味である。

I believe in aerobic dance.
I believe in early rising.
We believe in a liberal upbringing.
My husband doesn't believe in spending money on a new car while our old one still runs.
Our son seems to believe in spending money as fast as he earns it.
I don't believe in doing nothing but praying. God helps those who help themselves.
I don't believe in divorce. Marriage is for life, no matter what.
I believe in forgive and forget.

こういう使い方も覚えておくと良いと思う。

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レヴィ=ストロース死去

訃報:レビストロース氏死去 構造主義の巨人

100歳だった。

私が大学生だった20年前はポスト構造主義の全盛期で、クロード・レヴィ=ストロース氏はジーンズの名前と誤解されるほどに過去の人となっていた。だから、すでに死んでいると私は思っていた。

数年前、内田樹氏の『寝ながら学ぶ構造主義』という新書を読んで、レヴィ=ストロースはまだ死んでいなかったし、構造主義ももちろん終わっていないということを知った。

今はポスト構造主義の時代といわれるが、内田氏の考えによると、構造主義が当たり前のものと考えられる時代がポスト構造主義の時代なのだという。

レヴィ=ストロースは思考のパラダイムを大きく変えてしまった。いや、いままさに変えつつある。その意味では、今後数十年間、いや数百年間は彼は我々の前から消え去ることはなさそうだ。

追悼レヴィ=ストロース (内田樹の研究室)

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教育と贈与

教育=贈与論 (内田樹の研究室)

学校教育の目的は、学ぶ側に「十分に努力したので、努力にふさわしいだけの報酬を得た」という合理的な達成感を得させることにあるのではない。
そうではなくて、そこで自分が「求めていた以上のもの」「求めていた以外のもの」を受け取ってしまったのだが、それが何であるかがよくわからないので、それを知るために、そのあと長い時間を生き、さまざまな経験を経巡らなければならなかった・・・という行程の全体をふくむものが教育なのである。

これ以上の教育論はない。

学校教育だけではなく、親の子に対する教育でも同じことが言える。

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教育:そもそも選手の能力が低ければ、よい結果はでない。

民主党・輿石東参「教員免許更新制は廃止にするよ」 | 無題ブログ

こういうところに書き込む人間は現場を理解していないバカばかりだから、読む気もしない。

座標軸をとってバランスよく考えてみよう。

X軸を教師の質、Y軸を生徒の質とする。すると4つのカテゴリーができる。

1.教師○、生徒○

2.教師○、生徒×

3.教師×、生徒○

4.教師×、生徒×

明白なのは、1が理想であるということ。でも、そういう状況はきわめてまれである。

よくあるのは2、3、4である。

意外と理解されていないのは、教育効果を高めることにおいて、教師の質と同様に生徒の質が重要であるということである。

教員がよくても、教育効果はあがらない。

(野球を例にとると、コーチの能力が高くても、選手の能力が低ければ、よい結果はでない。)

クソ教師が多すぎるとか言って文句を連中は、自分がクソ生徒であることを完全に忘れている。(お前には、まったく才能がないんだよ!)

実は、授業というものは、教師と生徒の連携で生み出されるものだ。同じ教師が同じ内容を教えるにしても、クラスによって、よい授業になることもあるし、そうではないこともある。

一人の教師を、クソ教師にしてしまうのは、実は、生徒のほうである。クソ生徒がクソ教師を作るのである。

それをすっかり忘れて、すべての責任を教師一人に押し付けようとする生徒が多いし、世間でもそれをまったく考慮に入れようとしない。子供たちが才能がないというあまりに当たり前のことを口にしてしまうと、教育について批評をする大前提を失い、自分たちの存在意義が失われてしまうのかもしれない。

根本的な問題は、実はここにあるのだろう。いくら教育を施しても効果が出ない白痴同然の子供(自分の頭で物事を考えられない子供)が増えたことを受け入れることからはじめないと、教育は時代に対応できない(「改革」や「改善」ではないよ)。

教員の免許更新制度なんて、まったく役に立たないことは、やる前からわかりきっている。そもそも、生徒のほうがダメなんだから。

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教員免許の更新制度廃止

教員免許の更新制度廃止へ 民主・輿石氏が明言  (1/2ページ) - MSN産経ニュース

 民主党の輿石東(こしいし・あずま)参院議員会長兼代表代行は12日、甲府市内で記者会見し、今年4月に導入された教員免許更新制度の廃止に向け、来年の通常国会にも教育職員免許法改正案を提出する考えを示した。教員免許更新制度は安倍晋三内閣が教育再生の目玉として導入を決めたが、民主党の有力支援団体である日本教職員組合(日教組)が強く廃止を求めてきた。政権交代により教育改革路線は一気に後退する公算が大きい。

産経新聞は、右翼だから、バカが多い。私は日教組でも左翼でもないけれど、教員免許の更新制度が教員の質の向上につながると考えるのはあまりに安易であると考えている。

手続きはわずらわしいし、その作業にあたる官僚の仕事を増やすだけだし、そのために無駄な予算がつぎ込まれる。

もっとも重要なことは、教員が子供と接する時間を今以上に奪うことになることである。

これは教育改革ではなく、教育改悪である。

教員の免許を更新するのであれば、地方公務員や国家公務員(警察官、裁判官を含む)も免許を更新しなければ筋が通らない。国立大学教授だって例外ではないだろう。

そこまで行ったら、国会議員も免許制にして、ライセンスがないと、立候補もできないようにするべきである。そうすれば漢字も読めないようなヤクザ議員は排除できる。

教師の質の低下というものが、事実とされているようであるが、昔の教師のほうがもっと質が悪かった。これは現場にいる人なら誰もが認めると思う。

現在の教師の質はきわめて高い。

昔の教師には「指導力」があるものが多かったのは事実。しかし、それは教師が暴力で生徒を押さえつけるということだった。私も膝蹴りを食らったり、ビンタを食らったことがある。子供に膝蹴りをする教師は、指導力があるといえるのか?

やんちゃな友人は、うなじをつかまれたり、教室からベランダに投げ飛ばされたりした。ああいう光景はいまだによい思い出には変わっていない。

あんなものは本当の「指導力」ではない。

いま自分の子供に、そういう教育をぜったいに受けさせたくはない。

世間の人は、教員の質ばかり問題視するが、子供たちの質のほうが、実は重要であることを忘れている。わざと忘れようとしているのではないかとすら思える。

子供たちの質が悪くなったのは、勉強ができなくても、漢字が読めなくても(字はうまい)、言葉遣いがヤクザみたいであっても、家が金持ちであれば、総理大臣になれるという状況を目の当たりにした子供たちが、勉強しなくても運があれば偉くなれるんだと勘違いしてしまったことである。正確に言えば、大人がそう勘違いさせてしまったのである。

努力しても無駄とか、どうせ勉強したって役に立たないとか、そういう現実を教えすぎてしまったのである。

教師は理想だけを教えればいい。その教師に、もっと現実を見なければだめなんだと、バカな国会議員や親たちが文句を言うもんだから、子供がスレてしまったのだ。

ともあれ、免許更新制度には、何の意味もない。廃止は当然だし、行政&税金のムダを省くことにもつながる。きわめて喜ばしいことである。

 

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最前列の右か左寄り

教師の立場から言わせていただきます。

学生が教壇のまん前に陣取って睨んでいると、教える側にとっては威圧感を感じて授業がしにくいです。

あくまで私の場合ですが、最前列か2列目で、教壇のまん前のちょっと左か右寄り(斜め45度あたり)に座っていただけると、こちらからも話しかけやすいし、視線も合わせやすいので、学生の顔も名前も覚えることができ、情がわいて成績も甘くなります。

ご参考までに。

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免許更新制は廃止

民主党は日教組だから教育の現場を理解しているのではなく、自民党が官僚にコントロールされているだけのアホだから、教育現場をまったく理解せずに、混乱させていたのである。免許更新制の廃止は大変評価できる。教員免許状を持っているけれど、教員になっていない人から、更新料を支払って講習を受けなければ、免許剥奪だなんていうのはあまりに非情であろう。あまりにうれしいので、全文引用しておく。


教員養成6年制に、民主が方針 12年度導入、免許更新制は廃止(「東京新聞」)

2009年8月27日 14時02分

 民主党は27日、衆院選で政権を獲得した場合、教員免許取得に必要な大学の4年制養成課程を、2012年度から大学院2年も義務化して6年制に延 長する方針を固めた。教員の指導力向上が目的。今年4月に始まった教員免許更新制度は「教育現場の負担が大きく、効果が不透明」として新制度導入に合わせ 廃止する。免許取得前1年間の教育実習も義務付ける。

 6年制の受け皿となる「教職大学院」は09年度現在、全国に24校しかない。民主党 は、11年度までに都道府県ごとに設置した後、12年度から新制度に移行させる考え。政権獲得後1年をかけて(1)カリキュラムの策定(2)教授陣の選考 (3)教育実習受け入れ校の確保―などの準備を進める。

 教員免許更新制は「教育再生」を掲げた安倍内閣が「不適格教員」排除を念頭に導入を決めた。教員免許を有効期間10年の更新制とし、更新前に30時間以上の講習を義務付けた。しかし講習時間確保を求められ、教育現場の負担が大きいなど問題点が指摘されている。

  民主党は現職教員の質の向上策として、免許取得後8年以上の現場経験を積み、「教科指導」「生活・進路指導」「学校経営」の各分野で高い能力を持つと認定 された教員には「専門免許状」を与える制度も新設する方針。将来的には、校長や教頭などの管理職となるには学校経営の専門免許状取得を条件とする方向だ。

 民主党は、政府の無駄遣いを精査する「事業仕分け」の結果を7月に公表し「講習の効果が不透明で教員の質の向上は図れない」として免許更新制廃止を主張していた。

(共同)

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F

こんなことを暴露してよいのかわからないけれど、今学期、私が担当した授業でFを認定された者の数は60人ほど。私はそうしたくてそうしているわけではない。彼らには単位を与える要素が何もないだけである。

受講者約300人中60人だから、私は20%の学生を落としているわけである。

ここ数年、F認定率が上昇傾向にある。

今年は、受講者の半分を落としたクラスもある。白痴に近い学生がそろっているのだから仕方がない。白痴にものを覚えさせるのは、教員の力の及ばぬことである。

私の成績評価が厳しすぎるという人もいるのだろうが、実際のところ、これは大学生自身の学力の低下傾向を反映しているだけのことである。

私の問題ではなく、学生側の問題である。

まず、落とされた学生たちの答案を読むと、言語の使い方に対する意識が十分ではないことがわかる。

漢字の間違いばかりではなく、熟語そのものの使い方もどこか変だ。主語すら省かれているので、何について言及しているのか伝わってこない。他人が読んで、理解できる文章になっていない。

そもそも彼らには自分の考えを誰かに伝えたいという意識が欠如しているし、ある意見に触れたときに、自分の中に何らかの意見が生じるということがないらしい。記憶力はもとより、思考力さえないのである。

言語の機能に無自覚な人に、他人の言語である外国語を学習し、使いこなすというミラクルは起こるはずがない。

日本の英語教育の制度が悪いとか、日本語と英語は発想が違いすぎるとか、日本は英語を使わなくても生きていける環境であるのが悪いとか、そうやって責任を転嫁するのだけは以前より上手になったけれど、彼らの外国語学習を阻害する根本的な原因が言葉の使い方にあまりにも無自覚であることや、英語がしゃべれないのは自分に能力がないからであるということには気づいてくれない。

「たぶん(多分)」を50%の確率だと思い込んでいる学生が多い。私は10回以上授業中にそれを訂正するのだが、彼らはまったく聞いていないし、辞書で確認する習慣すらない。

そんなレベルの低い大学生(語義矛盾?)が多くなったのは、どうしてなのだろうか。

日本語の「もしかしたら」と「多分」の確率の違いすら知らないのだから、英語の助動詞の"may"と"will"の確率の違いすら理解できるわけがない。

そのようなレベルの学生が集まったクラスで、実践的に英語を使うなどということはとうてい不可能である。

現場の人間の立場から言わせてもらうと、日本の教育制度はたいへん優秀なものであるが、その制度を享受する側の学習者の質はきわめて悪い。

彼らの質の低さは、責任転嫁のうまさに比例している。


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カンニング

痛いニュース(ノ∀`):「子供が自殺したのは教師がカンニング追及したせい」 母親が8000万損倍請求控訴審→高裁が控訴棄却…母親「配慮ない判決」

こういう裁判を、親が恥知らずだとか、厳しく追及した教師が悪いとか、こういうことで自殺をする子どもが悪いとか、そんな低次元の話にしてしまうのは建設的ではない。

私は、高校レベルでさえも、カンニングをして及第点が取れるようなテスト(固有名詞を暗記すればそれですむようなテスト)を作っていること自体ダメなのではないかと思う。

私は大学生のために、かりに教科書や辞書をこっそり持ち込んで解こうと思っても、及第点は取れないような問題を作っている。残念ながら、できて50点だ。

私の担当の教科は英語だけれど、基本的に論述問題が多い。

文章の成り立ち(仕組み、理屈、文法)がわからないと、他人の書いた文章をまともに読解できない。だから、学生が当該文章をどれくらい深く読解できたかどうかを確かめるためには、文法的な説明をさせたり、文章の解釈をさせたり、要約を作らせたり、さらには書き手の主張に対しての自分の意見を英語または日本語で書かせるというスタイルにしている。

これならカンニングなんてしても、できるわけないでしょ。

難しい単語を暗記させるような問題は一切出さない。そんなことは自分でやればいいのである。教師が面倒を見てやるような仕事ではない。

教師がこういうスタイルの問題をつくっておけば、自殺した高校生もカンニングなんてできなかっただろうし、自殺もしなかったのかもしれない。

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