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『にっぽん釣りの旅』

朝日出版社のeeclubのメールマガジンにあったジョーク。

ここに半分水の入っているコップがあります。

To the optimist, the glass is half full.

To the pessimist, the glass is half empty.

To the engineer, the glass is twice as big as it needs to be.

私はこれを見ると、実際は(actually)エンジニアの見方に近いのかもしれない。「必要な大きさの2杯ある」という冷静な見方は私好みである。

出掛けに、NHKの『にっぽん釣りの旅』という番組を見た。

火曜日は仕事に行く直前に早めの昼飯を食べながらテレビをつける。すると、この番組がやっているので、ついつい見入ってしまう。

番組のパターンはだいたいいつも同じである。

まず、素人(同然)の釣り人に、名人が一通り指南をし、その後、二人は競争するかのように釣りを始める。当然だが、先に名人が大きな魚を釣り上げ、師匠の面目が保たれる。

弟子はそれに奮起する。師匠は一旦その場を離れ、弟子に自由に釣りをさせる。弟子は弟子なりに相当な苦労をし、最後に狙いの魚を釣り上げ、「釣りってこんなに楽しいものなんだ」とか、「マジ、釣りにはまったぜ!」などという歓声をあげる。弟子は師匠の(最初はわからなかった)高度な技能を正当に評価できるようになるまで成長する。二人はともに達成感と充実感に酔いしれる。師匠は「もうお前には教えることはない」と言い残し、弟子の独立を認め、去っていく。

完全に、師匠と弟子のパターン化された物語が出来上がっているので、安心して見られる。まるで『水戸黄門』のようである。これは、日本の教育のクラシカルなスタイルである。それを認識しながら見ている釣り好きの視聴者はニッポンにどれくらいの数いるのだろうか。この番組は、総合テレビで放送されているけれど、多分に教育的な番組である。


先日図書館から借りてきたこの『ビリーはもうすぐ 1ねんせい』(ローレンス・アンホールト /カサリン・アンホールト 、岩波書店)という絵本も、やはり巣立ちの本である。幼稚園児の息子が何度も繰り返し読むようにせがむので、私もストーリーをほとんど覚えてしまったくらい。

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胸を張って

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寒い日こそ胸をはって歩きましょう。それだけでとてもおしゃれに見えるものです。せっかくおしゃれをしても、背中を丸めてしまったら意味がありません。

『暮らしのヒント集』(暮しの手帖社、2009年)より。


寒くなってきましたね。コートが手放せない季節になりました。

私のコートは5年前に買ったもの。だいぶ色があせてきました。年賀状の家族写真を撮るたびに、毎年同じコートになってしまっています。「また、同じコート? コートも買えないくらい貧乏なの?」と思われてしまいそうで、ほんとうにどうにかしたいものです。

衣服代に回せるお金がほとんどないので、なかなかコートまで手に届きません。

でも、今度、ビジネス用の黒のコートを買う決意をしました。おしゃれなやつね。デフレですから(?)。

コートの上に、トレイルランニング用のザックを背負って胸を張って自信たっぷりに歩こうと思います。

できるだけまっすぐに、颯爽と。

よーし、仕事へ行ってくるぞ!

うー、寒い。


 

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妻で十分満足

年齢だけで、恋愛対象を絞りこむのはけっこう難しいかもしれません。

強いて言えば、下は10歳、上は5歳くらいまでなら射程距離に入っているかな。

私が教えている大学生は20歳あたり。私が来年40歳になるので、とうとうダブルスコアです。

彼女たちが恋愛対象になるかと言ったら、人のよってはなるかもしれないけれど、心がときめくというような経験はここ数年とんとないですね。

妹にしては年が離れすぎているし、娘というには年齢が少々近いし、中途半端な感じです。

来年40歳になる私から見ると、30歳くらいから45歳くらいまでが丁度良いところかもしれません。

残念ながら、私は結婚しているので、これから恋愛をするようなことはまずないでしょうね。

いまの妻で十分満足していますし。

ブログネタ: 恋愛対象になる年齢差はいくつまで?参加数

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Person in need

カナダ人の友人(大学非常勤講師)が来年仕事の一部を失うことが決まってしょげていた。年間200万円程の収入減になるからである。彼も家族持ちで小さな子どもが3人もいる。一番下はまだ1歳か2歳。経済的には相当な大打撃である。

彼は1ヶ月間友人のつてを使って代わりの仕事を探したが見つからなかったという。

私も何人かの日本人の友人に聞いてみたが、見つけてあげることができなかった。しかし、昨日たまたま別の友人に聞いてみたところ、彼には当てがあるとのこと。さっそくふたりをメールで引き合わせた。

その大学の偏差値はきわめて低いので、学生のモーティヴェーションもほとんどない。授業中に、「先生! 俺、急に歌を歌いたくなってしまったんだけれど、マイク貸してもらえませんか?」などという学生がいるくらいだ。

毎年毎年、半期で職場を去る外国人講師が出てくるようなきつい職場である。

私も超底辺校(高校)で教えたことがあるので、その雰囲気は手にとるようによくわかる。

彼らは大人や教師に対する「敵意」(hostility)と、他校の生徒に対する「劣等感」(sense of inferiority)のコングロマリット(conglomerate)であった。

敵意と劣等感という強力なネガティヴ要素は、周りのものだけではなく、彼ら自身をも蝕んでいく。その圧倒的な力は、私の手には負えなかった。私の言葉遣いはしだいにヤクザのように荒っぽくなって、周りから人が変わったと言われるようになった。結局、精神を病み(ノイローゼかな?)、体を壊し、2年半で職場を離れざるをえなかった。

彼らの人生より、明らかに私の命のほうが大切だ。人生は楽しむためのもの。誰だって苦しむために生まれてきたわけではない。

報いのない苦労は、他人にお金を払ってでも、譲ってしまった方がいい。

だれとでもうまくやっていける能力を高めることがこの時代では必須と言われる。

しかし、誰とでも仲良くなんてできっこない。誰とでも結婚なんてできないのと同じように。

直感を鋭くして、ぜったいに仲良くできないことがわかる相手の視界には入らないようにする能力を身につけることもまた重要なのだ。

しかし、私の友人の場合、そうも言っていられない。働かなければ、子供を養えない。

どんなにつらい仕事でもやっていかざるをえない。

何もないよりはましというわけだ。It's better than nothing.

彼に来年代わりの仕事が見つかることを期待している。

こんな私でも、困っている人の役に立てたら、うれしい。

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きょうはあしたのたんじょうび

「ジングルベール ジングルベール すずがなる きょうはあしたのたんじょうび いぇーい」

4歳の次男が、風呂場で急に歌いだした。

今日は明日の誕生日?

しばらく考えてから、「なんで?」と聞いてみたら、「それはヒ・ミ・ツ」だって。

たしかに、今日は明日の誕生日だ。当たっている。

さすがに彼は私の子供だ。ポジティヴ・シンキングの塊である。

このごろ私はポジティヴ・シンキングずいている。

走るようになったからというのもある。運動をすると、たいていは前向きになるものだ。

もう一方で、これはネガティヴ・シンキングの塊である妻に対する「毒消し」という意味もある。

見れば見るほど、「妻」という字は「毒」という字に似てくる。

結婚してしばらくすると、妻は本性を出して、どんどんネガティヴな人間になっていった。その毒に汚染され、私は身も心もやつれ果て、やる気も失って、最後は本当に病に倒れてしまった。それから、私は自分自身の中のネガティヴなところが、他のネガティヴな要素に触れたときに、自分を破壊してしまうのだという認識を強くした。

同時に、ネガティヴなものに対する免疫もついた。ネガティヴなものを信用しなくなった。

ネガティヴな人は、一見、知性的に見える。彼らは世の中の悪に対する嗅覚がするどいし、巧みな言葉を駆使して不平不満を表現するのに長けているからである。

それと比較したら、ポジティヴな人間はまるでバカだ。

しかし、それは間違いである。

実は、自分の生活が保証されているからこそ、人はネガティヴなことが言えるのである。何があっても対岸の火事。本当に、世の中がどんどん悪くなるなどと思っているならば、悲観して死んでしまうはずである。だが、彼らは決して自殺しない。だから、彼らは知性的で、ずるがしこいのである。自分が言っていることを信用もしていない嘘つきなのだ。そんな人間を信用できるだろうか。

自分の生活や生命になんの保証もない状況におかれているときには、ネガティヴなことを考えていたら、ぜったいにサバイバルできない。冒険家は、つねにポジティヴである。彼らはぜったいにうまくいくと信じている。もちろんそれは自分に嘘をついていることになるから、彼らも同様に嘘つきである事は確かである。

しかし、彼らはその嘘ゆえに、冒険を安々と達成してしまう。

嘘も方便である。ついて良い嘘もあるし、悪い嘘もある。

ネガティヴな人間は、ただ、自分を知性的に見せ、他人をだますだけではなく、他人を凹ませる凶悪犯である。彼らの嘘は悪い嘘だ。

ポジティヴな人間のつく嘘には毒はない。彼らの吐く嘘は人々を楽しませてくれる。嘘で偉業を達成するポジティヴ・シンキングな人を私は尊敬する。

私もそういう嘘つきになりたい。

私の子どもが言うとおり、今日は明日が生まれる日だ。

こんなに素晴らしくポジティヴな歌詞を私は知らない。子供は天才だね。




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子供は奴隷じゃない。

子供もつ必要ない 若者の6割 ココログニュース:@nifty

私は二児の父親である。私にとって子供は自分を幸せにしてくれるありがたい存在である。彼らがいなければ、毎年のように海外旅行にも行けるし、ホテルのレストランで贅沢なフランス料理だって食べられるだろう。

けれども、どんなに気落ちしていても、彼らの無邪気な笑顔は必ず私をハッピーにしてくれるし、贅沢な料理ではなくても、彼らと一緒に食べているだけでおいしい料理になる。

生きていてよかったと思える。

日本で急速に進行している少子化について語るときに、子供という存在を国の財産(要するに、借金の返済者)とか、労働力とか、消費者とかという経済的な観点で捉えている強烈な違和感を感じる。

あるいは、金のなる木に育てようとする、しみったれた親の考えも受け入れがたい。子供は、買っても当たらないけれど、買わなきゃ当たらない「宝くじ」じゃないだろう。

あるいはまた、子供は公共交通の発達した都会におけるクルマのように、見栄で持つような動産でもない。国の財産でも、親の財産でもない。

子供はまず自分の人生を楽しむために生まれてくる。子供にはそう思わせてやりたい。国家や会社や親の利益のために働かされる奴隷じゃない。

彼らが自分自身以外の者に役立つのは、あくまでも副次的なことである。

そのついでのことばかりがクローズアップされて論議されることに私は拭いがたい違和感を感じる。

子供はお金で買うことができるような奴隷じゃない。

経済学や政治的な視点から、少子化問題を論じる方法は、もうとっくに限界に達してしまっているし、なんの解決にもならないと思う。

子供が近くにいることに幸せを感じられない人たちがいくらそんな論議をしても何も始まらないだろう。

 

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ポジティブシンキング

ポジティブシンキング

上記はポジティヴシンキングの名言を集めた興味深いサイトである。

私が気に入ったものをいくつか引用しておく。

「人は、変化(チェンジ)を与えるだけで幸せになることがある。そして、ほとんどの場合、赤ん坊が必要とするのはそれ、つまりおむつを換えること(チェンジ)だけである。」

「骨董品とガラクタとの違いは、誰が誰に何を売っているかによる。」

「人からほめられることで退屈した人は一人もいない。」

「真の会話の精神とは、他の人の意見を覆すことにではなく、それを土台にして正しい結論を築きあげることにある。」

昨日、子どもが「ドラえもん」(録画?)を見ていた。のび太がジャイアンの良いところを懸命に探していた。ジャイアンの良いところは結局なんだったか憶えていないけれど、私は子どもたちにジャイアンの良いところは「元気が良いところ」と即答した。

次男が気に入って何度も見ていた番組では、ジャイアンはみんなのためにディナーショーを開くという話だった。

彼は自分の大好物をすべて混ぜ合わせら、さぞかしおいしい料理ができるだろうと考えて、いろんなものを鍋に入れて煮込む。

のび太たち、友達はみなそれが強烈にまずいことを知っているので迷惑がっている。クラスメートは全員ディナーショーに出たくない。スネ夫は海外旅行に行こうと親に泣いて頼むし、別のクラスメートはかき氷を大量に食べて病気になってしまったりする。

強烈にまずい食事を食べさせられた上に、強烈に下手なうたをも聞かされたら、もう死んでしまうとみんなが思っている。

そういうところが、ジャイアンの自分勝手なところだし、周りの人々の気持ちが読めないところだけれど、しかし、彼にはみんなを楽しませてやろうという気持ちがある。

それもまたジャイアンの良いところかもしれない。

こんなふうにポジティヴに考えたって、損をすることはまずないと思う。

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使いたくなく言葉

使いたくない言葉はいろいろあるけれど、自分にその権利もないのに、他人に命令するような言葉遣いはいやだし、反対に他人からも命令されたくない。

さきほど、「~は許せない」という強い表現を目にした。これはかなり傲慢な言い方で、見ていて嫌な気分になった。

「~すべきだ」や「~はいかがなものか」も威張り腐っている感じがするので使いたくない。

英語では、「すべき」に当たる助動詞はshouldだが、これは神の命令である。ちなみにwillは自分の意思。

「すべき」などと言われると、「おまえは、神か?」と聞き返したくなる。

「しなければならない」もできるだけ避けたい。

そんなにしなければならないことばかり増やされても、それらを片付ける時間もエネルギーもなかなか捻出できないしね。

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「妻」という字が「毒」に見える

「障がい者」新名称は必要? ココログニュース:@nifty

「妻」という字が「毒」に見えるという、ある落語家のくすぐりがある。

これは真理をついている。

妻だって、毒になる可能性はある。

同様に(?)、だれでも何かの機会に障碍者になる可能性はある。

わたしだって、転んで足が不自由になるかもしれないし、病気で目が見えなくなってしまうかもしれない。

いつそうなるかわからない。

重要なのは、そういうことになる可能性は、だれにでもあるということを認識することである。

自分は健康だからといって、威張っているやつは、心が不健康である。

その不健康さを自覚していれば、人間は他人に優しくできる。

他人に優しくできない人は、弱い人である。

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トータリティ

「次の2つの選択肢から正しいものを選べ」という質問をする人が多い。私も自分で作る試験問題の中ではよくそういう問題を出すから他人のことは言えないのかもしれない。

けれど、質問者は、自分がなぜその2択に絞ったのかを説明できるのだろうか。

テストの場合、それができるから、選択肢が作れるのだけれど、恋愛のような状況で、重視するのは顔か性格かなんてことを問題にすることは、そもそもありえないのではないか。

こういう発想は、恋愛をしたことがない人が立てる質問である。

質問者は、顔が「外見」で性格が「中身」というつもりでいるのかもしれない。

しかし、明らかに顔は外見の一部にすぎない。

人生がその人の顔をつくるというのであれば、顔も性格の一部である。

人は、相手の持っているオーラのようなもの惹かれるわけで、男だったら相手の女性の顔やおっぱいとか、お尻や腰のクビレやふくらはぎやふとももとか足首とかの、パーツごとの魅力の高低をいちいち10点満点で査定しているわけではない。

あくまでも、重要なのはオーラなのだ。つまり、肉体も、性格も、思考の癖も、嗜好も、しぐさも、口癖も、相づちの仕方も、視線の置き方も、歩き方も、食べ方も、話し方も、なにもかもが重要な要素の一つなのである。トータリティである。

恋愛においてだけではないが、AかBかいずれかを選択しなさいというのは、実際は物理の実験と同じで、仮想空間の中での話であり、現実的な質問ではない。

この質問に乗っかって、「やっぱり顔ですよ、いやいや性格が一番です」などと言っている人は、学校のテストのスタイルに疑問をいだいたことのないお利口さんか、もしくはものを深く考えられないお馬鹿さんなのでしょう。

「車を選ぶときに、価格で選びますか、それともデザインですか、性能ですか、メーカーですか、評判ですか、安全性ですか」と聞かれても、私には「全部です」としか答えることができない。「この中でどれを最も重視しますか」と聞かれても、「すべてを最も重視します」としか答えられない。

好きという感情は、対象の欠点さえも魅力的に思えてしまうことである。

ビジネス的な発想に毒されている人には、アンケートを通じて、ものごとの重要度や優先順位が把握できると思っているのかもしれないが、アナログな動物である人間には、そんな優先順位なんかつけられないし、いちいちつけていない。

12月は大掃除の季節です。

あなたは台所と風呂場のどちらを先に掃除したいですか? その理由を述べなさい。

 ---どっちもきれいだから、ふだん掃除しない窓を先に掃除することにします。

あるいは、

 ---仕事が忙しいので、掃除をするならお正月にでもしますよ。

こういう答えの方が、ふつうじゃないのかな。

「恋人選び」という言い方自体、恋人を商品として捉えていることを表している。

質問者の人にとって、恋人は、選択肢のうちの一つ、選べる商品のうちの一つなんですね。

私は、恋人を選んだ経験もないし、いまの妻を選んだという意識もありません。

なんだかよくわからないうちに、好きになってしまっただけ。

そういうのが人間なんじゃないですか?

恋人を選ぶなんていう発想は、私の頭からは一切出てきません。

結婚斡旋所の類に登録して、履歴書と顔写真で、結婚相手を決めようなんて考えている人は、ビジネスや戦争の用語を使って、恋愛することに抵抗を感じていないようです。

あれが不思議でたまりません。

本来、恋愛に、ビジネスや戦争の考え方はなじまないと思いますがねえ。

最近は、こういう考えをわかってくれる人が少ない気がします。

残念なことです。

ブログネタ: 顔と性格、恋人選びで重視するのはどっち?参加数

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