カテゴリー「書籍・雑誌」の134件の投稿

『しゅくだい』


いつも寝る前にこどもに絵本を読んでと頼まれる。昨夜、息子はこの本を持ってきた。

学校でだっこの宿題を出されたこどもたちが、翌日、すっきりした表情で登校するという話である。

抱っこっていいねって気分にさせてくれる。

この本には英語版"My homework Assignment"もある。



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田野隆太郎、『オヤバカちゃん。 』



田野隆太郎、『オヤバカちゃん。 』(ピエブックス、2009/10/10)

これも書店で見かけた本。見ているうちに笑いがこみ上げてきた。

私の撮る写真はスナップばかりなので、このごろ飽きてきたところ。

合成写真はかなり魅力的だなあ。

ここ数年、ありきたりの年賀状ばかりなので、今年はあっと驚かせるような技を使ってみようかな。


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石田ゆうすけ、『いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉』



石田ゆうすけ、『いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉』

この本は、7年半もかけて自転車で世界旅行した著者が主観をもとに世界一だと思うものを列挙したものである。

著者(ちなみに私と同い年! われわれは世界にあこがれた最後の世代らしい!)は、方々で講演活動をしているようだが、講演のためのネタ本としてよく仕上がっている。

文章もいい。

例として、ワースト3のベトナムのトイレを紹介しているくだりを引用しよう。

 ある田舎町の安宿に泊まったときのことだ。
 その宿は、学校の運動場みたいな広場に建っていた。老朽化が激しく、ドアや窓などは隙間だらけ。シャワーなどはもちろんない。それはまあいい。問題はトイレだ。
 ないのだ。
 「―!?」
 「ないんだよ」
 宿のオヤジは申し訳なさそうに答えた。 
 「じゃあ、どうすりゃいいの!?」
 オヤジは建物の裏手に広がる草むらを指差した。半信半疑で行ってみると、いろんな色形のものがごろごろ転がっていて、壮絶な眺めであった(75ページ)。

「―!?」が実によく効いている。こういう表現はなかなか思いつくものではない。

何はともあれ、楽しい本なので読んでみてくだされ。


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平山修一『美しい国ブータン』



著者はブータン王国を「何もないけれど何でもある国」と称する。

ブータン人の持ち物は少ない。男性は民族衣装のゴを着ている。これはドテラみたいなものであるが、どこかに寝るときには、ゴの帯を緩めて寝巻きにして寝てしまう。こんなふうに彼らは、なければないでなんとかしてしまう。これは彼らがものに縛られてはいない証拠である。先進国の人間から見れば、彼らは物質的に貧しいように思えるかもしれない。しかし、彼らはそれで満足している。足るを知っているのである(知足!)。

彼らはつねにポジティヴ思考であり、失敗をくよくよせず、自信を持って生きている。人間関係が膠着すれば、巧みな話術で和やかにしてみせようとする。そうしなければ狭い共同体の中では安楽に生きていけないからである。

先進国側の人間は、発展途上国の人間は経済的に貧しくて、不幸であり、ものを知らないので、彼らにものを教えてやらなければならないと思い込んでいる。(欧米人の日本人に対する姿勢にもそれが見られる!)

ところがどっこい、ものを知らないのは、先進国側の人間のほうである。彼らの考え方・生き方に触れると、彼らから教わることはあまりに多いことに気づき、衝撃を受けるのだ。

苛酷な自然環境で生きていると、お互いに助け合って生きざるをえない。けれども、何でも他人に頼るだけではだめだし、自分の失敗を他人のせいにばかりすることもできない(日本では、グチばかりこねている人が多いが、彼らは経済的に安定して裕福に暮らしているからだろう)。

途上国は、何事も自己責任の世界だ。そういう生活を送っていると、つべこべ文句を言っても何事も始まらない、やるだけやって運を天に任せようというう風に鍛えられてくる。実に、さっぱりしている。

私もそういう潔い生き方を目指したい。

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『ランニング生活』

台風が接近しているせいで今日は朝から冷たい雨。自転車通勤もできないし、ランニングも無理。今日は運動はせずに、休足と栄養補給に徹するしかない。ランチはから揚げ定食。夕食はカレーライスだ。

電車通勤だったので、久しぶりに本屋を2軒ハシゴした。

谷川真理プロデュースの『ランニング生活』という雑誌が創刊されたというので、遅ればせながら見に行ってみた。

となりには『ランニング・クリール』という雑誌が置かれていたが、その中身のなさにがっくり。ひどい雑誌だ。

それより200円ほど高いだけで、こっちにはやる気を出させてくれるような内容がぎっしり。創刊号だし、記念に1冊買っておこう。ランニング初心者の妻も読むかもしれないし。ということで、チェックアウト(もちろんレジのこと)に直行。880円でした。


Running_life

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『やった。』


4年3ヶ月かけて自転車で世界を一周するという過酷な旅で著者が得た最大のものは、感謝の気持ちであった。

旅が終わったあとに、彼はこのように書いている。

 日本でお礼や報告活動に回る中、自分1人で何一つできないことを、あらためて実感する。人は生かされていること、感謝の気持ちが物事をポジティブに動かすこと、ごく当たり前に挨拶やお礼という行為が幸運を導くこと、いい面を信じていれば、人も物事も厚意を向けてくれること。
 旅の間と同様に、これらのことを日本の生活でも再認識している。(221-222ページ)

 生きることは、人や自然を味方につけることに思える。それには自分の役割を知り、感謝の気持ちをもって、自分の力量や個性を生かすことだと思う。そうすることによって勘が冴え、危険を予知でき、奇跡のような助けが来た。すべてを自分で解決しなくてはならなかったのは事実だが、次第に自分の力というよりは、「サムシング・グレート」(大いなる意思)のようなものに動かされている気になったものだ。1人でできるかと思った時期もあったが、とんでもない思い上がりだった。(223-224ページ)

 4年3カ月は夢のように過ぎた。つらい思い出など一つもない。地球上の人々と大自然が味方してくれた。1人なのに1人じゃない。すべてのものが愛おしくなるような感動に包まれた。そして学んだことは「感謝」である。できないことをするのではなく、できること見つけ、それを精いっぱいするというシンプルなことだった。(225ページ)

旅の中でも、彼は素敵な言葉を綴っている。こういう文句を読むと、涙が出そうになる。

 ベトナム北部の山岳地帯は、走っていればいつか着く、といった他人任せの生易しいところではなく、本当に祈ったり願ったりしないと走れない。決して自分の力だけで進むことはできない。人の助けはもちろんのこと、天候、運、タイミング、そして神の思し召しがあってはじめて進めるところだった。(131ページ)

 走っている時は1人で、誰にも迷惑をかけていないと思っていたが、実際は多くの人の心を心配させ、見守ってもらっていた。見返りを期待しない親切は、骨身にしみる。
 こういう厳しい環境では、人は助け合って生きるしかない。しかしそれは、人の厚意に甘えるということではなく、あくまで自立が前提となる。でなければ、人を助けることはおろか、自分の命さえ守ることができない。アラスカの人は本当に自立していて、実際は何でも自分でできる。(146ページ)

最後に、面白い話(117ページを参照)を紹介しておきたい。

彼が世界中を旅をしていて感じたことは、男性は女性にはかなわないということである(同感!)。

アフリカでは、人の行き来の少ない奥地に旅人が訪れると、村で一番美しく気立てのよい娘をあてがわれる。よその血を入れて、子孫の免疫を強化しようとするのだ。しかも、生まれてきた子どもは誰の子どもであるかなど関係なく大切に育てられるのだという。

別の本で読んだことだが、同じことが山岳地帯の国ブータン王国にも当てはまる。ブータンはフリーセックスの国で、離婚する人が多いらしい。これも血が濃くなることを避けるための女性の知恵なのだろう。女性というのは、本当にたくましい。


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『幸福王国ブータンの智恵』


国民総幸福度(GNH)を政策化している国ブータンから学ぶものは多い。

ブータンという国は、教育費、医療費が無料であるという。

国民の教育(頭脳)と医療(身体)にかかる費用を無料にするというのも、ブータンが国民を大切にしている証拠。

このいずれも国家を維持するための土台として欠かせない。

彼らは国民を大切にしない、国はいずれ滅びることをよく知っている。

日本の場合、消費主義に洗脳され、国民は国を構成するメンバーとしてではなく、消費者としてしか見られていない。新聞の紙面をにぎわしているのは、つねにお金の話ばかりであることからもわかるように、重視されるのは経済ばかり。「もっと、もっと」を常に追求している。一方で、国の根幹である医療と教育はあまりにも軽視されている。

日本人が将来の生き方を学ばなければならないのは、西洋からではなく、実はアジアの小国からかもしれない。

ブータン人は外国に行くと、日本人に間違えられるという。そういわれてみれば中国人より、われわれの顔立ちに近い。年長者に対する礼儀を重んじるところも日本人に実によく似ている。



この本もブータンを知るのに便利な本である。

著者の平山氏は、井上信一氏の本を引用し、このような公式を示している。

幸せ=財 / 欲望

一般に、分子の「財」を大きくすることによって幸せになろうとするのが欧米式であるとすれば、分母の「欲望」を小さくしようとするのが東洋式・仏教式であるという(53ページ)。

情報が多いと、それだけ消費欲が刺激されるので、不幸になるとも書いている。

足るを知る。

これこそが、人類にとっての幸せの公式なのだろう。




これは第4代国王の王妃(4人のうちの最年長)が書いた本である。ちなみに、いまの国王は第5代である。さすがに王妃。美人である。

日本の仏教大学で行った講演が最後に収められている。

 今日もっとも重要な課題は、西洋的政治・経済の理論と仏教的洞察との溝を埋めることです。仏教の活力と仏教社会の将来は、仏教の理想をどのようにして社会の進むべき方向あるいは取るべき選択に肯定的に反映することができるか否かにかかっています(245)。

こういう太い方針を国民全体で共有できる国はたしかに幸せだと思う。

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『九里徳泰の冒険人類学』


冒険の進化を、九里さんは6段階に整理している。

1.進化に貢献した時代。二足歩行とか、火を使うといった源初的なもの。
2.歩いて獲物を求めて人類が拡散した時代
3.地理的探検の時代。地図のなかったこと。
4.植民地主義的侵略の時代
5.(侵略ではない)組織での冒険の時代。国威発揚の意図のもと、組織をバックアップした物量作戦が主流。
6.個人の冒険の時代。個人の能力の限界を極める行為が主要視されはじめた。

マスコミを通じて表にも出ず、記録としても認められないようなスタイルの冒険も数多くある。そういう冒険は個人の存在意義の追求にかかわっている。いままさにそのようなスタイルの冒険が重要なのである。

カヤッカーのエド・ジレットは、「美しい冒険」と「醜い冒険」の二種類があるという。美しい冒険とは、できるだけシンプルで自由なスタイルで、お金をかけずに、自分の力だけで行うチャレンジである。冒険で大儲けするなんてことは無粋の極みなのだ。

冒険をめぐる対談の終わり近くで、中沢新一氏がこう述べている。「『本当の冒険』とは、自分を消費していく、捨てていく、そういう消費ですね。母親から離れて、自分という個をつくることでしょう」(220頁)。

彼はこれが冒険の真の意味であるという。同感。

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『チベット高原自転車ひとり旅』


この本を読むと中国、チベット、ネパールの擬似冒険ができる。第2章では、冬のチベットを「片付ける」ために中央大学サイクリング部のメンバー5人とチームを作って中国から自転車を持ち込もうとするが、中国では制度が変わって旅行者に対する規制が厳しくなっていることを知る。

逮捕されて日本に強制退去を命じられたら一巻の終わりなので、目立たないように隊を小規模にして、それぞれがいろんな方向から自転車旅行をするという計画に変更せざるをえなくなる。そのときでも、九里さんは、チベットひとり旅の経験者の貫禄を見せ付ける。

垢と埃で真っ黒になりながら、旅で覚えた中国語を駆使し、その都度、チベット人の不利をしたり、漢人のふりをしたりして、彼は関門をすり抜けていく。

日本人が忘れていたたくましさを思い出させてくれる本である。

20年前の中国の実態、つまり共産主義というのは、当時から中国には存在していなかったということもよくわかる。

九里さんは、チェックポイントを抜けていくときに、たびたび軍用トラックを利用している。そのときに、トラックのドライバーは九里さんに車代を要求する。民泊するときも、宿泊代を取られることも多い。

ものを買ったり、食堂で食事を取ろうとすれば、必ず連中はふっかけてくる。そうやって儲けたお金はみな彼らの懐に入る。これは紛うことなき資本主義である。

つまり、中華人民共和国の実態は、共産党の一党独裁&軍事政権なのであり、共産主義とはいっさい関係がない。それは20年後の今も変わっていない。


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『ブータン自転車旅行』

Butan

冒険家の九里徳泰さんが奥様の林美砂さんとともに秘境ブータン王国をトレッキング&MTB旅行を敢行した記録。

この本もまた九里さんの他の多くの本と同様に絶版になっている。出版が14年前だから仕方がないのだろうか。

旅行会社勤務の奥様の綴る文章もまた素人とは思えないほどよく書けている。冒険は人を芸術家にするのかもしれない。

GNPならぬ、GNH(Gross National Happiness 国民総幸福度)で有名なブータン王国をシャングリラ(理想郷)のように捉える人に対して、お二人は釘を刺している。そこがこの本の肝だ。

彼らはブータンで出会う外国人がよそよそしく、よその国を旅したときとは違って、自分たちを視野に入れないようにしているのに気づく。その傾向は特に白人に顕著だという。これは、彼らが自分たちの勝手な理想をブータンに押し付けているせいであり、だからこそ西洋文明の下に暮らしている日本人がそこにいることを認めたがらないのだろうと推測している。

また、ブータンを旅した人たちは口々に人々が親切で自然豊かですばらしいところだったと言うけれど、彼らはそんな国で、宿代や食事代、荷馬代などを何度もぼられている。

そういう経験を正直に記すことで、我々の浅はかな幻想を打ち砕いてくれる。

それにしても、旅の終盤に喧嘩をしながらも、ご主人に健気についていく奥様が愛おしくなる。

私の妻はこんな旅についてきてくれるだろうか。かなり疑問である。

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能天気な老人たち

『希望を捨てる勇気』発売 - 池田信夫 blog についたコメントが面白い。

・若い→エネルギーがある→自分で考える力が残っている→先を考えて暗くなる

・年配→欲が少なくなってきた→将来も少なくなってきた→あまり頭を使わなくなってきた→明るい

自民党、産経新聞、読売新聞は、成長戦略、成長戦略と喧しい。彼らは耄碌しており、想像力がないから、そんな能天気なことがいえるのか。よくわかったぞ!

目が覚めた! よし、これから仕事へ行ってくる。

世間では3連休だが、私の休みは日曜日だけ。

「また恨み節が始まった」などとは言わないでくれたまえ。

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『結果を出す人」はノートに何を書いているのか』


ノートテイキングってやはり大事だと思う。

学校でやっていることは、すべて大人になって、自分でお金を稼ぐようになったときに役に立つことばかり。年を経るにつれ、それがだんだんわかってくる。人生に必要なことは砂場だけで学べるものではない。

ふだん授業を受けて、先生が黒板に書いたことばかりではなく、先生が言ったことをノートに書く。

そして、自分が学んだことを、整理して、他人に正確に伝えられるようになること。

これが勉強の極意である。

教材、題材は何であれ、まずこの処理能力を日常的に訓練し、維持していくことが大切。

独創力を磨くのはその次の段階である。


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九里徳泰、『 MTB(マウンテンバイク)ツーリング全技術』

九里徳泰、『 MTB(マウンテンバイク)ツーリング全技術』(山海堂、1997/11、ISBN-13: 978-4381102492)




この本でもっとも重要な記述は「第1章 旅の計画」の冒頭にある以下の部分だと思う。まったくそのとおりだと思うので、そのまま引用させていただくことにする。

宿かテントか。

 行く場所を決めたら、次はどんな旅をするか?を考える。それも自分の勝手で良い。でもあえて言うならば、テントで寝たほうが絶対に気持ち良いし、舗装路よりも山のなかのダート道のほうがどれだけ気持ち良いか! テントのすばらしさは、大地との一体感である。旅をしたという実感が自分の背中を通してじかに体に刻み込まれるのだ。
 ほかにも旅の仕方はある。例えば、宿に泊まりながら、舗装路で長距離を走る旅。僕も南米のチリという南北に4000㎞という細長い国を旅したとき、宿に泊まりながら舗装路を毎日150㎞近く走った。しかし、走りだして2週間ほどで嫌になり、キャンプをしてしまった。宿に泊まり、シャワーを浴びて、レストランで食事。たしかに快適な旅だが、毎日同じことの繰り返し。レールに乗せられてしまったようでつまらない。南米などでは治安の理由で宿に泊まることも多いが、旅そのものがつまらなくなる。

単独かグループか。

 自信をつけるためならば、ふたりや3人で行くよりも単独行のほうが100倍良い。もちろん気心の知れた友達と一緒に出かけるのも楽しいが、お互いの「頼りの構造」が旅をだいなしにする。ひとりで不安で潰れそうな心をもって道を切り開いていく。それが旅の核心だ。ひとり旅は人生の糧となり、ターニング・ポイントにすらなる可能性があるが、グループの旅はただの思い出作り、レジャーになりかねない。
 もしそれでもふたり以上で旅をするというのなら、ひとつアドバイスをしよう。仲が良い友人である必要はまったくない。それよりもひとりひとりが独立した意見を持ち、もし仮にそのグループが分裂してもひとりで走っていける状態であることが大切だ。そうでないとグループを組んでも、デメリットのほうが多い。お互いの不出来具合を慰め合うのが関の山だ。自立したひとりのサイクリストであることが、旅の大前提なのだ(83-84)。




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石川弘樹、『トレイルランニングを楽しむ』


今日も仕事。土曜日に働くというのは、ほんとうにイヤだね。

電車の中で、この 『トレイルランニングを楽しむ』をちびりちびりと読んでいる。石川弘樹さんにとって、トレイルランニングは遊びで、クロスカントリーはトレーニング&レースという位置づけなんだそうだ。

日本は急峻な山が多いから、トレイルランニングというのは、登山者が歩くところを脚力に任せて走るだけのスポーツだと私は思っていた。ところが、「トレイル」(獣道)というくらいだから、なだからなハイキングコースを自然を楽しみながら走るのが基本。高い山を登って下りてくるのではないのだそうだ。

これなら私にもできそうだ。

ただ、これから道具(シューズ、ウェア、ザック)をそろえるには、お金がかかる。最低でも3、4万円は必要だろう。私もいつかやってみたいと思う。

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隠居

Yokoo
天才芸術家の横尾忠則氏の著作を立て続けに読んでいる。

宣言好きの横尾氏は、今回、「隠居宣言」を発した。

彼によると、隠居というのは、世間を捨てて隠者になることではなく、俗世間にいながらにして、やりたくないことはできるだけやらず、おのれの体が命ずるままにやりたいことだけを自由にやっていくことだという。

横尾氏は、「隠居」という言葉をラディカルに捉えているのだけれど、私はもともと横尾氏の言うような隠居生活を実践しているので、取り立てて目新しさを感じなかった。

もちろん横尾氏の本だから、印象的な文章は多数あり、隠居に興味のない人も読む価値はある。そのうちのただひとつだけ取り上げると、割腹自殺した三島由紀夫氏のエピソードがもっとも秀逸であった。

三島由紀夫は自分には無意識はないと日ごろ口にしていた。私は大学生のときに、三島の著作を読んで、その言葉の理解に苦しんだ思い出がある。

横尾氏によると、それはこういうことなのだそうだ。肉体と精神がシンクロナイズして、肉体の命ずるがままに行動する。すると、意識と無意識の境が消滅してしまう。

たしかに、ランナーならランニングハイのような状態で、その感覚を感じたことはあると思う。横尾氏は、三島の言わんとしたのは、そういうことなのだと解釈している。

この本を読んで、私は長年の疑問が解けた気がする。

一方の『病の神様』では、横尾氏は、自分の克服してきた数々の病に関するエピソードを妄想すれすれの文章でつづっている。この本でももっとも印象に残ったのもまた三島由紀夫に関する逸話である。

横尾氏は、動脈血栓になって足の先が黒ずんできてしまい、両足切断の危機にさらされた。しかし、急ぎの仕事のため三島由紀夫に「足は俺が治してやる」と言われ、呼びつけられる。直後、市谷の自衛隊で割腹自殺をする。横尾氏はその激烈なショックで奇跡的に歩けるようになって、動脈血栓が消えてしまったのだという。

こういう発想こそが、横尾氏の唱える「芸術の生活化」なのかもしれない。

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『テレビは見てはいけない』


この人は胡散臭い人である。英語学習に関する本は読んではいけない。

「テレビは見てはいけない」なんて、当たり前すぎる。

何か、あやしい。

テレビといえば、我が家の壊れた32インチ液晶テレビ。やはり修理してもらおうかと考えている。

新品に買い換えれば、エコポイントがついて、割安でより大きいテレビが買える。

しかし、壊れてからの1ヶ月間、我が家のテレビの利用状況をよく観察していたら、テレビを見ているのは子供ばかり。

妻も私も見る時間は相当に少ない。

子供たちにわざわざ高級なテレビをプレゼントし、さらに視聴時間を増やす意味がわからない。

そうすると、我が家の場合、「エコポイント」を利用することができなくなる。

エコポイントは、国民の税金を投入したもの。それを取り戻す機会をみすみす失うことになる。しかし、修理すれば数年は使えるはずだから、買い換えるのはもったいない。次に壊れる頃には、エコポイント分くらいは価格が下がっているかもしれない。

このエコポイント。やはりエコではない。

これを利用して、さらに大型のテレビを買ってしまう家庭が多く、消費電力が増えてしまって、CO2の排出量の削減につながっていないらしい。

ただの景気対策のくせに、エコなんて言うんじゃないよ。

使えるものは、使い切る。これこそ、エコ。

騙されてはいけない。

 

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『温泉主義』




本書に収録されている24作品は、横尾さん夫婦が訪れた温泉をモチーフにしたものである。

この本を一言で要約するのは難しいが、真ん中あたりまで読んでいるうちに、それらがいかにして書かれたのかということを作家自身が説明してくれたものだと思えばよいのかもしれないと思いついた。

横尾さんもすでに70歳。どうみても70歳の老人には見えないが、ご夫婦は早くも金婚式を迎えられたというのも驚きである。

この本の中には「10代返り」という言葉が時々出てくる。年をとると、子供に近づいていくというが、横尾さんの作品は、天才ピカソがそうであったように、子供の感性に戻っていっているようである。


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代表質問

内田樹氏は村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を、「身体能力の低下に合わせて自我を組み替えて、機能が下がっていく自分自身の身体との対話からきわめて豊かな人間的知見を引き出していく」ところが見事であると述べている。

どうして体力の衰えを日々感じている私がこの本に魅力を感じて2度も読み返し、しかも英語版まで読んでしまったのか、やっと理解できた。この本は「修行して能力が上がっていくにつれて、人間的に成長してゆく」、きわめてまれな「修行話の逆」(299)だからなのである。

話は一気に飛躍する。

海外のメディアが、日本の政権交代についてとんちんかんなことばかり言っていると日本のメディアが盛んに報道しているのが気になる。彼らがわざとしか思えないほど歪んだ報道に徹しているのはわけがありそうだ。

まず、彼らが土建国家からの脱却については無関心なのは不思議である。公共事業の削減によって、財政を健全化しようとしていることがもっとも重要なことなのに、あえて無視している。アメリカやヨーロッパにとって何のデメリットがないからかもしれない。

一方、「東アジア共同圏」の構築や「友愛外交」について、特にアメリカが酷評しているのは、アメリカにとって日本がアジアと仲が悪い状態になっていたほうが、日本を(軍事的に)統治しやすいので、あえて仲を悪くさせるためである。

鳩山氏の、中国重視の姿勢(彼が田中真紀子を取り込んだの理由はそこにある)や、平和主義的な外交手法を批判するだけの学者や評論家や政治家の多くは、アメリカの思う壺だ。かつてのブッシュ政権下のアメリカの意向に沿っただけの連中が自分たちのことを「保守」と自認する資格はない。彼らこそが売国奴である。

以前、内田樹氏はこれと似たような知見を述べていたのを記憶している。だんだん彼の思い描くシナリオが実現しようとしているように思える。

北朝鮮は日本の政権交代について、きわめて客観的に報道したという。

彼らにとって日本が外敵にならなければ、韓国との統合の可能性は高まってくる。その可能性が高まってきたのだから、ことさら日本との関係を悪化させるのは、彼らにとって何のメリットもないのである。

もし南北統一が実現すれば、アメリカのアジアでの存在価値が下がってしまう。だからこそ、アメリカは、さまざまな形で、日本とアジアとの関係を悪化させようと画策するのである。我々はアメリカの思い通りになってはいけない。

ついでにいうと、自民党は近いうちに解党すると思う。

小泉純一郎元首相は、自民党をぶっ壊すと言い放ったが、そのときすでに壊れていたのである。アメリカのポチになること以外存在意義がなかったからである。

彼らはもう立ち直れないだろう。

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山登りとダッチオーブンの本

山登りとダッチオーブンの本を買った。

Yamanobori

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柴田元幸、『代表質問 16のインタビュー』


『村上春樹にご用心』を出版したばかりの内田樹氏へのインタビューが収録されている。

内田氏は、自分も文学研究者だから弟子やファンの立場からアプローチするのはタブーであるということがわかっているけれど、客観的・中立的に上から目線で書こうとしても、相手のスケールが大きすぎて手が出せないということがある。そういうときは、土下座して「すみません。秘密を教えてください」とにじり寄っていくしかないと述べている。

けだし名言である。

たしかに、作家のほうがはるかに上なのに、一介の研究者が上から目線で語りつくそうとするところに、文学研究のつまらなさがある。


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『はじめよう!少林寺拳法』

『はじめよう!少林寺拳法』(ベースボールマガジン、2009年08月)


アマゾンのブックレビューでは、モデルの技が未熟だとして酷評されているが、1級までの技が網羅されているので、未熟な私には大いに参考になる。

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『センス・オブ・ジャンク・スタイル』

本の中で紹介されている塩山奈央さん(豆料理研究家、パタンナー、リメイカー)の言葉が印象的だった。バブルの時代はものがありあまっていた。

「私が薄いコートを着て実家に帰れば、すぐにダウンを買ってくれる。なんでも与えてもらったから、今はもういらないって思うんですよね。いいと思う最低限のものしか持ちたくない。鍋ひとつでも、姿が美しいか? 使って楽しいか? 丈夫で長持ちするか? って、つきつめます。」

その気持ちよくわかる。

あるもので工夫する。なかったら自分で作る。壊れたら自分で修理する。古いものを愛着を持って大事に使う。そして次の世代に受け渡す。

人類はそんなふうに暮らしてきた。これが当たり前なのであって、今のように壊れたら捨てる(捨てざるを得ない)というライフスタイルが異常なのである。


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『とっても心地いい!シンプルひとり暮らし』



私が一人暮らしをはじめるときに、田舎の両親があれもこれもといろいろ買い揃えてくれた。

炊飯器、鍋一式、フライパン、お皿5枚以上、ラーメン用のどんぶり2つ、ヤカン、コップ数客、箸数膳、包丁1本、砥石、まな板、お玉、フライ返し、急須、お椀、魔法瓶、食器棚、布団と枕2セット、座布団、コタツ、テレビ、テレビ台、洗濯機、バケツ、掃除機、ほうき、ちりとりなどなど。

いま思い出してみて、一人暮らしをはじめるのに、これらすべてを買い揃えておかなければならなかったのだろうかと思う。第一、ワンルームのアパートにはそれらをすべて収納する場所がない。

来客用の皿やコップや丼や箸など、一人暮らしをしていた間にはただの一度も使わなかった。いまだに残っているものは、砥石とラーメン用丼だけ。あとはみな処分した。

これ以外にも、親戚のおばさんは、すきやき用の鍋とてんぷら鍋までくれた。男の一人暮らしで、すきやきやてんぷらなんてやるか? 

まったくお笑いである。

大平さんは、一人暮らしを始める人のために、必要最低限より3割少ないところからはじめて、徐々に買い足していけばいいとアドバイスしている。これはいいアドバイスである。

実際、一人の人間が生きていく際に、必要なものはさほど多くはない。旅行かばんひとつ分の荷物で十分なのである。

一人暮らしの楽しみというのは、ものがないところから、いろいろと工夫して、自分で自分の生活を作っていくことだ。最初から、あれこれとあてがわれて「こんなふうに使いなさい」などと親なんかに言われたくはないのである。

こういう本を読むと、なんだか無性にものを捨てたくなる。

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『家事場のバカぢから』


今日は『家事場のバカぢから』も読んだ。バスタオルはいらない。大き目のフェイスタオルで十分だというアイデアは、私も妻に伝えたことがある。しかし、無視された。

洗濯物が増えるから、やたらに着替えないでとうるさく言うくせに、バスタオルは大きいのがいいらしい。矛盾してるよ。

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『世界でたったひとつのわが家』


大平一枝、『世界でたったひとつのわが家』(講談社)。

アドバイスで大いに同感できたのは、次の5つ。

1.家を建てるときに一見意味のなさそうに見える棚を作っておくこと。通常、模様替えなどというものはそう簡単にできるものではないが、そういう棚があれば手軽に飾りを楽しめる。

2.部屋を大きく取らずに、小部屋を設けておくこと。日本人だからだろうか、だだっ広い空間は落ち着かない。

3.窓は小さく、壁は大きく。窓が大きいと家具も置けないし、ものが飾れない。結露もひどい。

4.食器洗浄機は大型のものを設置しておくこと。5人家族用の据え置き型のものは容量が小さすぎて、鍋やフライパンは洗えない。一番洗いたくない鍋類を自分で洗わざるをえないのは苦痛。

5.靴は年間一足主義。もちろん現実的には無理だけれど、少ない数の靴を履きつぶすのがいい。服もジャストサイズでワンシーズンで捨てる。そうすれば収納の苦労が少し減る。

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『続 いい家は無垢の木と漆喰で建てる』

学生の答案を読んでいたら、あるエッセイに対する自分の意見を書けという問題に対して、「いろいろ勉強になりました」と書いてきたものが2枚あった。

小学生の作文以下である。きっと知的レベルが相当に低いのだろう。

あなた(学生)が学んだその「いろいろ」を、わたし(教師)は聞きたいのであって、「いろいろ勉強になりました」というおおざっぱな感想を聞きたいのではないことをよくわかっていないようである。

これでは、何かを学んだということを一切示すことはできないし、これから生きていくための「学ぶ力」なんて養えない。

こんなテストごときで、自分の学習能力のなさを披瀝してしまうというのは恥である。

たいてい、私が「いろいろ勉強になりました」という感想を述べるとき、99%は「くだらなすぎて参考にならなかった」という意味である。学生たちもそういう意味で、「いろいろ勉強になりました」と書いたのだろうか。まあ、そういう知性すら彼らにはないのだろう。

朝っぱらから、『続 いい家は無垢の木と漆喰で建てる』という本を読んだ。斜め読みであるけれど。

この本の冒頭で、人は誰でも思い込みがあるが、そういうものを修正しようと書かれている。たいへん良い考えである。

思い込みのひとつに集成材は無垢材より強いというものがある。

無垢の杉の角材(死に節あり)とホワイトウッドの集成材の強度を比べると、一般に信じられているほどには集成材は強くないという実験結果が出たという。これは国が発表しているデータと矛盾する。

これに対する国の反論はないのであろうか。これを無視する官僚というのは、恐ろしい。

24時間換気システムの矛盾の話も面白かった。

高気密高断熱をうたう住宅に大きな穴を開け、電気を使って強制的に2時間で空気を交換させる仕組みのどこが高気密なのだという。気密性が高いのなら、石油由来の成分を使う新建材や壁紙ではなく、有害物質を一切出す心配のない無垢材と漆喰を使って、家を建てればいいのではないかという。まったくその通りである。しかし、役人は、住む人が、新建材の家具を買ってくるのだから、24時間換気システムを導入しないと、ホルムアルデヒド等の有害物質が充満してしまうという。しかし、それは個人の問題であって、家の問題とは切り離すべきだし、国が関与する問題ではないだろう。

さらには、24時間換気システムをめぐる利権もあるのだろう。怖いねえ。

近ごろエコ住宅というのがはやっているらしいが、その家で使われている建材は、木屑を石油系の接着剤で固めただけのものだそうだ。ゴミを再利用するという意味ではエコかもしれないが、廃棄物になって燃やされるときには有害物質が大量に放出されてしまう。それではちっともエコではないだろう。

この本を読んで、住宅に関しても問題点が多いことを教えられた。

なんでも「規制」すればいいってもいう問題じゃないね。規制をかければかけるほど、この国は悪くなっていく気がする。

気になったので、アマゾンで評価を見たら、星印が1つ。相当に低いではないか。

レビューアーによると、この本は強烈な思い込みと偏見で書かれているというのである。

どっちの思い込みのほうが強いのだろうか。

なんだかさっぱりわからなくなった。

世の中って、いつもこんなものだよね。

 

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『デジカメ撮影のネタ帳』

リコーのCX-1を買ってから写真をまじめに撮るようになった。でも、なかなかうまく撮影できないのをもどかしく感じている。

そこで、お勉強。

うまく撮れないのには、いくつか理由がある。

ひとつは光の当たる角度を意識していなかったこと。光の明るさ(強さ)は意識してはいたけれど、屋外の太陽の照りつける中では液晶画面を見て露出を確認するのはきわめて難しい。

もうひとつは、構図。西洋では縦撮りはポートレイト、横撮りはランドスケープというらしいが、私はこれまでずっとランドスケープを多用していた。これが人物をうまく撮影できないひとつの理由だったのだろう。必ずしも、足から頭まで全身を写すことは必要なく、膝上(ニーショット)や胸から上(バストショット)で十分である。

三つ目は、余白と被写体のバランス。花などの撮影では、真ん中に被写体をすえてしまうと、「日の丸」といわれて馬鹿にされるらしい。これは私の母親から教わった知識。それと水平に撮るのが基本。

そういうことを意識しながらテレビを「観る」と、さすがに、プロのカメラマンは瞬間的に最適な構図を見つけ出しているのがわかる。何気なく、見ている風景も構図ひとつで大きく変わるものだ。

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『シンプル族の反乱』

ようやく今日で授業は終わり。

残りはテストの試験監督とレポートの回収だけ。出講日は残り4日。

あまりに外が暑いので、仕事帰りにしばらく本屋で涼んでいたら、この本が目に留まった。


もちろん私のことだから、内容を読まずに目次の一部を見て、読んだつもりになって帰ってきた。

アマゾンで検索してみようと思って、タイトルを思い出そうとしたら、「三浦」と「シンプル」しか思い出せない。でも、それだけを手がかりに検索ができるなんてインターネットは便利だなあ。

ラベリング好きの著者は、性懲りもなく、今回は「シンプル族」という名称を考え出したらしい。

ネーミングがかなりダサい。

私も「シンプル族」の一味かもしれない。

高級車になんかまったく興味はないし、ブランド物も、海外旅行も興味がない。テレビもほとんど見ないし、ラジオも聞かないし、新聞も購読していない。ユニクロではあまり買い物をしないけれど、ジャスコやイトーヨーカドーの製品で満足している。

食べ物に関しては、フランス料理より、卵かけご飯と納豆ときゅうりの漬物と梅干と豆腐と味噌汁があればいいと思っている。ハンバーガーやラーメンや回転寿司より、蕎麦のほうが好き。

だからといって、私を含めシンプルが好きな人たちは、何かに対して「反乱」なんてしようと思っていない。それが生き方や志向としてナチュラルだと思っているから、ただそうしているだけである。

シンプルを好む人間たちが「氾濫」していることは確かだが、「反乱」なんか意図していない。

そもそも、謀反を起こすほどの敵など、この世には存在していないと思っているくらいなのだ。それくらい物事を単純に考えている。

だから、これはミニマムな生活を志向する我々側の問題ではなく、自分たちの利益に貢献しない劣等な「消費者」である我々を敵視する彼ら側の問題なのだろう。

いずれ私は企業の利益に貢献しないし、国家に税金すら納めない人間になることを願っている。

もちろん、努力しなくても、死ねば、だれでもそうなれるけれどね。

誰かにつくってもらったものをひたすら消費するだけの生活より、自分で苦労して作ったり、丹精こめて誰かが自分の代わりに作ってくれたものを大事にするような生活にあこがれているだけ。

昔から人々はそうやって生きてきた。大量生産大量消費の時代こそが異常だったわけで、いまのシンプル・ミニマム志向のほうが明らかに自然だし、当たり前なことだと思う。

投資(財テク?)にも興味はない。

最近、図書館へ行くと、以下のような雑誌を手にとってベンチで読んでしまう。

ていねいな暮らしを楽しむ雑誌|天然生活

暮しの手帖社 - 雑誌『暮しの手帖』、別冊、単行本の発売情報

でも、買わない。

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柴田元幸、高橋源一郎、『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』

タイトルを見ると、実用的な本のように思えるが、実際は、書き方も、読み方も、訳し方もほとんど書かれていない。二人は、小説とは何か、アメリカとは何か、アメリカ文学とは何か、ニッポンの小説とは何か、という問題を問い続けている。

とくに記憶に残ったのは、翻訳について触れた柴田さんのこの発言。

日本語の小説とは違う日本語の使い方に触れてそれが楽しいというふうに思ってもらえればそれはもう万々歳ですね。もちろん逆に日本語の使い方が変だからいやって言う人もいるわけです。僕もテレビの吹き替えとかは嫌いで、「あの喋り方は日本語にはないだろう」って思うけど、同じように翻訳文体にアレルギーを示す人がいても不思議ではないですね(98-99)。

私も、「あの喋り方は日本語にはないだろう」と思うタイプ。

英語の授業で学生に日本語に訳させているときに、会話文を扱うと、いつもそんな感じになって気持ちが悪い。

「あなたは元気に見える」とか、「彼はアメリカに行くつもりだ」とか。

一般に翻訳調と言って軽蔑される類の訳し方である。こんなふうに訳すのは昔からあったのかもしれない。

そんなふうに訳す学生は、訳しながら気持ち悪いと思わないのか、私はいまだに不思議に思う。おもしろいとも思っていないし、おかしいとも思っていないのであれば、彼らの頭がおかしいのか、私の言語感覚のほうが現代人とずれてしまっているのかのいずれかであろう。



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池田清彦、『他人と深く関わらずに生きるには』

車も来ないのに赤信号で待つのは日本人くらいだと20年以上も前に聞いたことがある。

それ以来、歩いているときは信号を忠実に守るような馬鹿なまねはせず、自分の判断で横断するようになった。子連れでも、ときどきジェイウォーク(jay walk: カケスのようにすたすたと道路を横断すること)もする。

青信号を横断中に轢かれるバカもいる。

青信号だからといって安心して横断するのではなく、怪しい車が近づいてきたときは、生き延びるために渡ってはいけない。

学校の先生は勉強を教えるのが仕事だけれど、能力の欠如している生徒ややる気のない生徒を勉強好きに変えることは不可能である。

勉強ができない生徒をできるようにするのがよい教師だという物語にはまっている人が多いが、それは間違い。生徒自身が自ら努力しないと、勉強なんてできるようにはならない。自己責任である。

よい生徒は、先生によく質問をするというのも間違い。よい生徒は、自分で調べられることは調べて、それでもわからないところを、お手数をおかけしますが、教えていただけないでしょうかと来るべきなのである。

教師の手を煩わせないで、勉強ができる生徒が、本当によい生徒なのである。

いずれもパターナリズム(おせっかい主義)を唾棄すべきものと考える池田さんらしい発言である。

池田さんは自分が死んだとき、それまで散々他の動物を食べてきたことにたいする贖罪として、他の動物に自分の死体を食べさせてやりたいと考えているという。船に乗ってわざわざ沖に乗り出して海に散骨するよりよいアイデアかもしれない。

死ぬとハエが飛んでくる。シデムシがやってくる。カラスが飛んできて、目玉をつつく。あらかた食われた屍は、コブスジコガネやカツオブシムシに食われて、骸骨となって残るのだそうだ。

化石燃料を燃やさないという意味において、エコ・フレンドリーな死に方(死体処理法)だと思う。

こういうの流行らないかな。

でも、ものの本で読んだことがあるけれど、奈良時代くらいまでは、この風景は日常的だった。道端によく屍が腐っていたそうだ。

石油が枯渇したあかつきには、再びこれが日常になるのかもしれない。いいねえ。


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池田清彦、『楽しく生きるのに努力はいらない』

自分で稼いだお金は自分で手に入れたものだから、どうしようと勝手だが、自分の命は授かったもので、自分の力で手に入れたものではないのだから、勝手に自殺してはいけない。理屈だね。

臓器移植も、ドナー側はボランティアの精神に突き動かされているのかもしれないが、医者が儲かる仕組みに貢献するだけ。

実際問題、死刑囚や犯罪人はドナーにはなれても、レシピエントにはなれない。これは、ヒューマニズムの精神に反する行為である。

ドナーカードを持って嬉々としている人は、頭を冷やしてよく考えるべきだろう。

あなたが死んでも、私が死んでも、代わりはいくらでもいる。臓器移植などせず、潔く死ぬべきだ。

そうやって、うだうだ生きていること自体、下品である。

80歳以降で癌になっても、手術などせず、野垂れ死んだほうがいいとのこと。

おっしゃる通りかもしれない。


 

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池田清彦、『すこしの努力で「できる子」をつくる』

勉強は、「読み・書き・そろばん」をきっちり教えることが基本。さもないと、後伸びが期待できない。

教える必要のないものは、教える必要がない。たとえば、幼児のうちから英会話を習わせること。たいていはお金と時間の無駄になる。バイリンガルに育てるなら、小学校の高学年からでもいい。それまでは母語の言語能力を身につけさせること。

子どもの能力以上のことは要求しない。

躾は、言葉ではなく、親の態度で子どもに無意識に刷り込むこと。

全能感を身につけさせてはいけない。大切なのは、正義ではなく、後ろめたさと寛容さを育ていること。

ざっとこんな感じだろうか。


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明石康、『サムライと英語』

サムライは、「忠」と「孝」との板ばさみにあった場合、迷わず「忠」を選ぶものだと新渡戸稲造は『武士道』に書いている。その「忠」は必ずしも天皇崇拝だったり、国家権力への忠誠だったりするのではなく、個人的なものより、公的なものを優先するという崇高な意識である。その「忠」の意識が、戦後、日本を復興させた原動力だったのだろうと、明石さんは書いている。

この本を読みながら、来年度の授業では、新渡戸稲造の『武士道』や、岡倉天心の『茶の本』や、川端康成の小説の翻訳を行ったサイデンステッカーや、ドナルド・キーンの本をテキストにすることのもいいなと思った。村上春樹のエッセイの英訳を名前を伏せて読むのもいい。

頭の軟弱な学生を相手にした、軟弱なテキストが横行している現在、ややハードな教材を使って、彼らの頭に刺激を与えてやるのもいいかもしれない。

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『デジカメに1000万画素はいらない』

たしかに、昔の200万画素のデジカメのほうが印刷したときの色彩が自然でキレイだったし、手ブレも少なかった。A4程度に引き伸ばしても、十分見られた。

著者によると、画素数を無理に上げると、色がつぶれるというのが、その原因だという。

さもありなん。



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『幸田文のマッチ箱』



 ばたばたとはじめると、待ったとやられた。「はたきの房を短くしたのは何の為だ、軽いのは何の為だ。第一、おまえの目はどこを見ている、埃はどこにある、はたきのどこが障子のどこへあたるのだ。それにあの音は何だ。学校には音楽の時間があるだろう、いい声で唄うばかりが能じゃない、いやな音を無くすことも大事なのだ。あんなにばたばたやって見ろ、意地の悪い姑さんなら敵討がはじまったよって駆け出すかも知れない。はたきをかけるのに広告はいらない。物事は何でもいつの間にこのしごとができたかというように際立たないのがいい。」ことばは機嫌をとるような優しさと、毬(いが)のような痛さをまぜて、父の口を飛び出して来る。もともと感情の強い子なのである。このくらいあおられれば恐れ・まどいを集めて感情は反抗に燃える。意地悪親爺めと思っている。「ふむ、おこったな、できもしない癖におこるやつを慢心外道という。」外道にならない前にあっさり教えてくれろと、不敵な不平が盛りあがる。私ははたきを握りしめて、一しょう懸命に踏んばっている。「いいか、おれがやって見せるから見ていなさい。」房のさきは的確に障子の桟に触れて、軽快なリズミカルな音を立てた。何十年も前にしたであろう習練は、さすがであった。技法と道理の正しさは、まっ直(すぐ)に心に通じる大道であった。かなわなかった。感情の反撥はくすぶっていたが、従順ならざるを得ない。しかし、私の手に移るとはたきは障子の桟に触れずに、紙にさわった。房のさきを使いたいと思うと力が余って、ぴしりぴしりという鋭敏過ぎる破壊的な音を立てる。わが手ながら勘の悪さにむしゃくしゃするところを父は「お嬢さん痛いよう」とからかい、紙が泣いていると云った(91-92)。

第5章「露伴の躾」の中で、この文章を引いて、村松さんは「その滑稽は、少女を相手に真向上段から正論を振りおろす、露伴の生真面目さと、その太刀筋に右往左往する自分を面白がりつつ、父の凄さをみつめ直している幸田文の文章から生じているにちがいない」(93)と控えめに分析している。

私は、幸田文のこの文章を何度読み返したか思い出せない。「軽快」な「リズム」に、落語のような滑稽感がまじる不思議な文章の手触りに、一発でやられてしまったのだ。この本の中で、ふたたびこの文章に出会い、私は思わず知らず紙に乗ったインクの凸凹を指の腹でなでてしまった。

私の幸田文体験はこれにとどまっていた。だが、この本は幸田文のもっと深い部分を教えてくれる。「結婚と性」と題する第7章に、私は打ちのめされた。幸田文という人は、これほどの筆力のあった作家だったのかと改めて思い知らされた。

 それからだった。ひた闘いにたたかった。物ががらがらと落ちた。何でもへ足で突っ張り、手で突っ張った。歯も爪もぎしぎしして、むちゃくちゃに抵抗した。腕が捻じ上げられて、ふっ、ふっと息がちぎれる痛さだった。あっちもこっちも痛くされた。痛いからもっと夢中で暴れる。暴れて着物はいよいよ引ん剥ける。裸なんぞ何でもありはしない。裸! とおもう一瞬のことである。たとえ裸と裸がどんなに搦みあおうと、もうどうで大したことはないのである。けれども裸の皮膚のも一つ内側には、私のなまというものがある。皮膚は洗えば落ちるが、なまはなまだから浸みてしまう。浸みるなまに比べれば浸みない皮膚の価値なんか何程のこともない、今まだ全く保たれているその私のなまが、金輪際彼はいやだとがんばり通している。ただそれだけなのだ。なまという平生は身体の機関の一つにすぎないものが、この場合私の心に直結しているものだった。二つとは欲ばらない、一つだけのこと、――この男にはいやだという一つだけの心であった。
 夫がコートのまま、立ったまま、「よせよ、おい、よせよ」と云っていた。彼が私を棄てて、すっと立った。半ズボンが膝のびじょうまで裏がえしになって落ちてい、それをずっとたくしあげると悠々と無言で出て行った。狭い入り口に立った夫とすすれに通って(155-56)。

露伴もいいのだが、娘の文も物凄い。

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『わたしの整理術』


著者の一人である茂木健一郎氏は「『脳』整理法」という文章の中で、「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を紹介している。

たとえば、新聞を読んでいたら、興味を引かれる本の広告に目が留まる。その本を探しに書店に行くと、折りたたみ自転車の特集を組んだ雑誌を見つけ、そこで勧められていた自転車を1週間後に買うことになる。このような形で偶然、意味のある情報に接する能力をセレンディピティと言う。

これは、「脳が、『ここまでが自分の領域』と囲い込まれた空間の中だけで機能しているのではなく、無限定でオープンな世界に開かれていて、初めて成立する」(25)ものである。セレンディピティにあふれたプロセスこそ、彼の脳は「整理」とみなしているらしいと茂木氏は書く。

一体何を整理しているのかというと、つまり、自分の脳の中の情報、自分と世界の関わり方、自分の脳の志向する方向を「整理」しているような気がする。そのような「脳」整理にくらべれば、本の整頓とか、書類の整理とか、そういうことはどうでもイイ、どちらかと言えば、副次的なことだ(25-26)。

押入れの整理をしていると、昔の写真が出てくる。それを見ていると、旧友の名前を思い出す。その名前をネットで検索すると、自分の仕事に関係のある職業についている人間だとわかる。そこで連絡を取り合い…。

押入れの整理はいっこうにはかどらないが、こういうふうに自分の脳や自分の暮らす世界は整理されていく。

このセレンディピティは、獲物を狩る肉食動物にとっても重要な才能であろう。きっとあっちのほうに行けば、獲物がいるはず。そういう直感がなければ、生きていけないのが肉食動物である。

人間も、同じ能力が必要である。この人物と密接な関係を保っておけば、なんらかの形で恩恵を受けるはず。この本を読んでおいたほうが、自分の人生に役に立たせることができるだろうとか。

セレンディピティか、いい言葉を知った。この言葉で、私の脳が少し整理されたような気がする。

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『英語でスラスラ話すための自分事典』

200の質問事項について自問自答していくと自分のことがわかるようになり(=自分事典が作られる)、英語を話すための神経回路が作られていくという。

たいていの英作文の授業で実践されているようなことだと思うが、ネーミングがうまい。

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気枯れ

「穢れ」とは「気枯れ」のことである。

出産後に家族でお宮参りに行ったり、葬式の後に塩をまくのは、枯れてしまった気の力を再び高めるため。

いま私の気は完全に枯れてしまっている。

神社へ行ったほうがよいのかなあ。

「衣食住」の衣が一等最初に来るのは、身につけるものが大切だからという意味。身につけるものというのはもちろん衣服だけではない。身につける言葉、礼儀作法、躾などもそれに含まれるのだそうだ。

「目からうろこ」である。

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『彩色江戸物売図絵』

江戸の物売りたちの150の姿がすべてカラーで収録してある。きわめて興味深い。

七夕の竹売りとか、朝顔売りとか、キリギリス売りとかよく知られているかもしれないが、ゆで卵売りなどもあったことを初めて知った。

狐の飴売りは、売り子は狐の格好をして、飴が売れると狐踊りを踊って見せたという。

ある時期から、物を売るには店舗を持つのが常識となった。だが、店などなくても物は売れる。物売りというのは貧しい庶民の商いだったのである。

現代では、インターネットの空間の中にそれが復活していると言ってよいのかもしれない。

一方、物貰いにも面白いのがいた。

幽霊などに扮し芝居を見せてお金をもらうのだ。

托鉢の僧侶が猫のお面をかぶっているというのもあったそうだ。

こういうものを見ると、不況だ不況だといって騒ぐのも知恵がないという気がする。

人間は頭を使わないとダメだよなあ。


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『今日からデジカメ写真がうまくなる』

ズームを広角(W)にして被写体に近づいて写すと、遠近感が強調され、形がゆがむ。

ズームを望遠(T)にして、少し離れた位置から撮影すると、形がキレイに写る。

だから、見た目どおり、プロポーションよく、プロのように写したければ、望遠で撮影するのがいい。さらに背景もぼけて、被写体を目立たせることができる。

これはよいアドバイスだ。

被写体がすべて写らなくてもいい。画面からはみ出る部分があってもよいと割り切ることというアドバイスは、実によい。あまり律儀に、すべてを写そうなどと考えるのはよくないのである。いらないものは、省略せよ。

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ピントは、オランダ語のbrundpunktに由来する言葉。brundは「燃える」とか「焦げる」、punktは「点」である。日本語にすれば、焦点である。このpunktがなまってピントとなったそうだ。参考になるねえ。

また、デジカメは、実物の色を忠実に写すのではなく、実物よりキレイに見える色に写すように作られている。記憶色や期待色に近い色に再現するのだそうだ。

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『デジカメ時代の写真術』

なんとなくわかってはいたが、まだ術にはなりきれていない状態だったものが、誰かに言葉にしてもらえると、自分の中で明確になって、技術として確立するということがあるが、著者のアドバイスはそういうタイプのものである。

1)いつも全身を写そうとするな、上半身のみだっていい。

2)自然の中で人物を写す場合、カメラを高く掲げて見下ろすようにとると収まりがいい。

3)あえてシルエットで残すのも乙なものだ。

4)アホ写真を残せ。

5)背景を入れて人物を写すときは、広角にして人物に近寄れ。

6)見せたいもの(主役)を意識し、それ以外の余計なものは省略せよ。

7)絵になる構図を探せ。(いい絵や写真を見て勉強しろ。)

8)街中でスナップ写真を撮る場合は、カメラを構える前に構図を決めよ。風景に溶け込め。

9)アルバムを作るために、鳥瞰したり、虫瞰したりしてメリハリをつけること。

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柳生博、生和寛、『柳生博の庭園作法』

『森と暮らす、森に学ぶ』の最新版のような感じの本である。

柳生さんの言葉を、生和寛さんが編集したような本になっているので、まとまりがいい。

掲載されている写真には、息子さんの柳生真吾さんの撮られたものも使われているようだ。

この本にもめまいがするほど素晴らしい知見が含まれている。ぜひとも引用しておきたい。

アンモナイトや恐竜が絶滅する。それは自然の摂理だ。いまの絶滅は百パーセント人間の活動による。それをどうとめるか。生き物にどこまで思いをはせることができるか。現代ではそれがいちばんの知性であり教養だが、いちにもににも絶滅を止めなくてはならない。人間が戦争するのはよい。人間同士が憎しみ合って殺し合う。これはしかたがない。人のひとりやふたり殺したっていいんだ。生き物の種が滅びるのに比べたらどうってことない。すべての生きものは進化の頂点にたっている。その生きものが人間の活動で絶滅するなんて馬鹿な話があってたまるか。そういう激しい思想を持っていなければ生きものの絶滅をとめることはできない(35)。

たしかに、こんなことは軟弱なテレビではぜったいに言えない。

日本野鳥の会の会長に就任したときのこと。記者が質問した。『意見が対立したらどうしますか?』。答える。『徹底的に話し合います』。あったりまえの応答だ。記者もそう感じただろう。『それでもなお対立したらどうしますか』。ここからが独自である。間髪を入れず『奥さんと話します』と答える。記者もこんどはホウと思ったに違いない。重ねて質問した。『それでも対立したら?』。さあ、次の答えの予想がつきますか? 柳生翁はいった。『その人の子どもと話します』。日本野鳥の会という生きものに関わる団体での会見であることを考えると、これ以上の応答があるとは思えない(36)。

もう、人生の師匠と勝手に呼ばせていただくことにした。

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『八ヶ岳倶楽部 森と暮らす、森に学ぶ』

柳生博、『八ヶ岳倶楽部 森と暮らす、森に学ぶ』。

1994年の出版だから、15年前の本になる。当時、八ヶ岳に住み続けて18年目だったというから、今はもう33年目になっている。

柳生さんは39歳の駆け出しの俳優で、年収は350万円。子どもは4年生と幼稚園生の二人。いまの私と境遇が似ている。八ヶ岳に荒れた土地を買い、自分たちで庭(雑木林)を造り、家を建て、パブリックスペースとしてのギャラリー&レストランを併設する。その体験から彼はさまざまなものを学び、また作り出していく。

俳優さんの書いた一種の伝記本だからと思って、私はあまり期待していなかった。

彼は自らを造園家と呼ぶ。しかし、彼の作り出すものは、庭、雑木林、里山だけにとどまらない。彼はひとつのコミュニティーを作りあげていくのである。そのすばらしい生き方に圧倒されてしまった。

今年の夏は、清里に立ち寄りながら、八ヶ岳倶楽部を最終目的地として行くことにした。思い入れたっぷりに書く八ヶ岳というところがどんなところなのか、ぜひこの目で確認してみたい。

 教育、というと、どうしても今の世の中、ある種、義務のような響きを持ってしまうけれど、そうじゃなくて、本当は学んだり、勉強したり、教えたりということって、すごく楽しいことだと思います。現に、この清里を開拓したポール・ラッシュが、僕らの先輩たちを教育してくれたおかげで、今の素晴らしい清里があるのですから。

 僕らの先人たち、またそういう教養を持った人たちから、何かを学ぶ、時には、植物や動物たちから学ぶ。そうやって学んでいく楽しさに、実際に行動するという労働が伴う、というのが、ポール・ラッシュさんから学んだことであり、僕のコンセプトにもなっているのです(50-51)。

 僕は、いろいろなことを、いろいろな物の立場で考えられることこそ、「教養」だと思います。それは、人であり、動物や植物であり、海や川であり、土であり、そういう物の身になって考えられるように勉強しなくちゃいけないな、と思うのです(124)。

寄せ植えって何が素敵かっていうと、生き物全部が共生しているというか、競争してるんだな。それで、そこにひとつの生態系みたいなのが出来てくるじゃない。で、淘汰されていったり、はびこるものが出てきたり。でも、じゃあ、ずっとはびこってるかというと、そうじゃなくて次の年にはまた変わるしな(157)。

私の大学時代の1年先輩の女性は、八ヶ岳の魅力に取りつかれて、夫婦で移住してしまった。私にも、もしかしたら、そんなことが起こるかもしれない。

な~んてね。

八ヶ岳倶楽部公式ホームページ

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『デジカメ散策のすすめ』

Rimg0016 柳生真吾さんは、「写真とはそれが作品になるのではなく、絵柄の向こうに撮った自分が見えてきたり、僕たちの生活や環境などをあらためて考えさせてくれる何かが伝わったりすることが大切なのだ」(49)と書いています。

まったくおっしゃる通りだと思います

肉眼ではなく、デジカメを通して見るからこそ見えてくるものがある。

そういうことでしょう。

真吾さんがリコーのGX200やニコンD200で撮られた素敵な写真も豊富に掲載されていて、たいへん楽しい本です。

実は、私がリコーのCX-1を購入したのは、実は真吾さんの影響もあります。ファインダーを覗かないといけない一眼レフだと、地面すれすれのところは撮影できませんが、コンパクトカメラなら、地面から小さな花を見上げることも可能です。

今度そういう写真を撮影してみたくなりました。


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『柳生真吾のがんばらないガーデニング』

Gardening

この本を読んでいたら、久しぶりに土いじりがしたくなった。

花壇の植物が野生化してきているので、少し手を入れ、さっぱりさせた。

大きな黒い毛虫も見つけることができた。さっそくハサミでちょん切ってゴミ袋行き。ナメクジも2匹昇天してもらった。すまん。

窓の花台のコンテナの松葉菊も5年目なので、どうも根っこが張りすぎて、枝も木のようになってしまい、みすぼらしい。

かわいそうだが、思い切って、切り刻んで処分することにした。これまた、すまん。

花台がある2階の窓下は強烈な西日があたる場所なので、本来植物にとってはよくない環境である。

しかし、そこに花があるだけで、我が家が華やぐ。

いずれ近いうちにまた何か夏の日差しにも負けない植物を見つけてきて育てたい。

でも、ガーデニングをあまり「がんばらない」ことにした。

放っておいても、勝手に育つようなものしか育てないのが理想だと思う。

この本のウリはもしかしたらコンテナガーデンかもしれない。

組み合わせなんて面倒なことは考えず、いろんな植物を寄せ集めて、配色と背の高さだけを考えて植える。あとは植物たちがライバル心を燃やして、勝手に育ってくれるという。まさに野生のまま。

ガーデニングなんて、そんなものでいいんだよなあ。

そういうことを教えてくれる好著である。

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柳生博と和暦倶楽部、『和暦で暮らそう』

「旧暦」は飛鳥時代に中国より伝来したもので、月の動きで日付を、太陽の動きで季節を測る「太陰太陽暦」である。

一方、「和暦(われき)」とは、「旧暦」が伝来する以前にあったと推定される日本独特の自然暦、農事暦、祭事暦である。

この本の目的は、借り物の「旧暦」とは違う「和暦」の存在を掘り起こし、わたしたちの「和の心」の源流を遡ることである。

近年、日本の年中行事のルーツをすべて、古代中国の伝説や習俗、陰陽道信仰、仏教縁起などに求めて説明するような安易な「はじめに大陸ありき」の説が紹介されることが多いが、著者たちはその説をきっぱりと打ち捨て、大陸文化との接触以前に育まれてきたはずのミステリアスな文化を探り当てようとする。

まったくチャレンジングでアメイジングな研究である。

中沢新一、折口信夫、柳田國男らの研究が好きな人にはオススメの一冊だ。

たしかに、著者たちが指摘するように、漢字を読み解くだけでは、わたしたちの和の心は解明できない。日本語で使われる漢字というのは大和言葉に無理やり当てはめたものであり、もともとの大和言葉の意味とはズレがある。そのズレに無自覚な人が近頃あまりに多いように思えるので、そんな人たちにはこういう本を(死ぬまでには)読んでいただきたいと思う。

栃木県に「日光」という観光地がある。その日光の由来はご存知だろうか。

あそこには、男体山という別名を持つ二荒山(ふたらさん)という山がある。その「二荒」を「にこう」と音読みし、それに「日光」と当て字をしたのである。もともとの「ふたら」の由来は何なのだろうか。当て字によって消されてしまったその由来は杳(よう)として知れない。この本は、そのような失われてしまった道を辿るような試みと考えてもらってよい。知的好奇心を駆り立てられる魅惑的な研究に思えてはこないだろうか。

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ガーデニングの本

借りてきた本です。わかりにくいですが、一番奥の本に焦点を当てています。

Books

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アマゾン

アマゾンマーケットプレイスに出品していた本のほとんどを引き上げた。

あらかた売れそうなものは売れてしまった。

残っているのは、よほどのマニアではないと買わないようなものばかり。

しばらくビジネスはやめて、押入れの中に寝かせておこう。

今日は雨降り。走りにいけない。

自治会の運動会も午後からの開催になると放送があった。雨が上がったとしても、小学校の運動場はぬかるんでいて開催は無理かも。

 

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砂糖が溶けるには誰も待たなくてはならない:『言語表現法講義』その2

この本の後半に、豚の解剖のエピソードが出てくる。

ある小学校教師が、授業で児童の前で生きた豚を殺して解剖し、豚肉はどんなふうに人々の口に入るのかを示したという話を受けて、大学の先生たちが次々にこのおぞましい授業を擁護する発言をする。

ところが、そこに出席していた学生がそれを聞き猛然と怒りだし、そういうことは絶対に許せないと主張する。それは、性教育といって、子どもたちの目の前で大人の男女にセックスをさせ、子どものつくり方を見せるのと同じことだというのである。

知りたいという欲求すらないのに、こういうことはあらかじめ知っておく必要があるのだと無理やり子どもたちに高飛車な態度で押し付けるのは傲慢きわまりないと、著者の加藤典洋さんは、この学生を擁護する立場に立つ。

遠回りでもいいから、本人が納得するやり方でやらせてやることが大切なのであって、そういうやり方ではないとけっしてわからないことというものがある。この考えを加藤さんはデカルトの『方法序説』から学んだと告白している。

デカルトは、森の中で道に迷ったときには、ひとつの方向を間違いと知りつつでも、途中で変えることなく、どこまでも歩くのがいいと書いた(238)。

ふつうの人は、「森に迷わないように羅針盤を持っていけ」と、万が一の事態に備えることが大事なのだと言う。いわゆる「転ばぬ先の杖」という考えである。

この効率的なやり方が、日本の戦後民主主義といわれるものの足腰を大きく弱めたと加藤さんは鋭く指摘する。

本人が納得しなきゃ、何もはじまりません。転ばぬ先の杖、なんてつまらない考えです。転んだ後の杖こそ、大事なのではないでしょうか(195)。

しかし、効率的ではないが、何の知識もない状態で、ゼロからはじめることのほうが大事なんだ。

緊急事態が起こる前に備えておくのが重要なのではなく、それが起こってからどう対処するかに力点を置く生き方・考え方に、加藤さんは強い共感を示す。

先には、砂糖が溶けるのには誰も待たなくてはならない、といいましたが、砂糖でなくとも、人が生きる経験のなかには、無駄だとわかっていても、答えがわかっていても、その答えを一人一人が転んで、つっかえて、手にする、そのことに意味の全量がある、ということが沢山あります。決して早回しできないものがある、それが文章を書く時に、遅れの問題として現れてくるものの、一番深いところにある本質でしょう(195)。

次の発言も面白い。

文章を書くというのは、変わったゲームなんです。相手を育て、自分を負かすまでに強くし、その自分より強い相手に立ち向かい、自分も強くなる、そういうゲームです。相手を強くできない人は、自分も強くなれません(178)。

軽々しく、そして傲慢に、「こういう考え方はよくわかる」なんて言えないけれど、わかる気がするなあ。

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『言語表現法講義』

まだ半分しか読んでいないが、書く経験を通じて、誠実に自分と向き合うことがいかに大切さかということを十分に教えてもらった気がする。付箋の数は20枚に上った。いくつか拾ってみる。

ものを書く人というのは、頭がいいから書くんじゃない。考えるために書かなければいけないという面倒なサイクルを自分の身体に引き込んでしまった人が、考えるために書くのである(12)。

 クレー射撃ってあるでしょう? お皿みたいな標的を銃で狙って撃つ競技。あれ、飛んでいるクレーを狙ったってぜったい当たりっこないですよね。その少し先を狙わなきゃいけない。その、運動感。文章を書く、というのは、相手のいることですから、一つの運動、あのバスケットボールと同じスポーツ、なんです(35)。

書くことの基本は「自分にしか書けないことを、誰にでもわかるように書く」こと(20)。

推敲には二つある。ひとつは他人の目になって見直すこと。もうひとつは自分の見方(味方)になって、自分を擁護する推敲(53)。

(前略)言葉の大きな可能性の源泉なんじゃないでしょうか。言葉が、言葉を話せない、というもどかしさ、不自由さ、不完全さをもまた、自分の「正会員」としているということが(92)。

大雑把な大河を横切る小川になれ(75あたり)。美辞麗句で逃げるな。

芥川は、自分との会話を続けて文間を詰めていった。それは読み手の息を詰まらせる。これが芥川の文間の浅さである(96)。文の生き生きとした感じは、スキマ(文間)が生み出す。

 よく皆さんは国際化だというので外国語をおぼえないと、と言いますが、外国語をおぼえるというのは、結局不自由なものとしての言葉とのつきあいがはじまる、ということです。だんだん不自由じゃなくなることは、むろんめざされるべきですが、言葉が不自由だというそのプロセスの状態も、実はそれ自体が一つの『正会員』としての言葉の経験なのです。

 日本語にとっても、これは一つの経験でしょう。日本語は、戦争前に、台湾、朝鮮半島を実質的に植民地化した時に、不自由な言語、他民族言語、外国語として現れましたが、戦争が終わったら、急に単一民族国家と言われ始めるのと同時に、純粋な国語として再登場します。でも、ここ何年かは、外国人労働者の流入などもあり、再び外国語としての日本語という新鮮な経験の波をあびています(94)。

(ある考えを思いつくというのは、)自分の中に社会が入ってくるということなんです。

 もしもわれわれが一人だけで生活しているとしたら、われわれは言葉なんてもつことはない。言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入りこんできたことで、内面化された会話です(103)。

 先に僕たちは、「自分」を押さえ、それを「他人」にどうわかりやすく書くか、というように考えたのですが、自分で実際に書こうとして、わかることがある。白紙の前に立つと、自分って何にも考えていない、頼りにならない、ということにはじめて気づくんです。ああ、なんて自分って空っぽなんだろう、そう思いませんでしたか? 僕はよくそう思う。それが書く場合の最初の感慨です。

 書く前は、考えた通りに書けばいいんだ、とか、自分の考えをそのまま書けばいいんだ、とか、言われもし、自分でもそんなふうに思っているのですが、実際に白い紙の前に自分を置くと、話が全然違うことに気づく。(中略)あるとばかり思っていた自分というものが、よく眼を凝らしてみると一つの空っぽな空間にすぎないことに気づかされる。書くということが、実は、その空っぽの部屋にヨソから来るものを招き入れること、考えるということが、そのヨソから来るものと対話することなんだというと、へんな話だと思うのですが、実際にやってみると、その通りだ、とわかるのです。(中略)余り考えないうちは、自分というものがとてもはっきりあるような気がする。でも、自分ってまともに考えると、こころもとなくなる。でも、そのこころもとなさを、一度は突っ切らないと、書けない(103-04)。

 印象派とそれ以前の絵の違いは、色から光へ、とよく言われますが、ぼくに言わせると、それは表面的な見方で、この変化は、自分の考えを書く、から、ヨソから来るもので書く、への違いなんじゃないか。ここに、はじめて、ヨソからくるもの、いわば他者、他在の関与ということが出てくるんじゃないか。そう思います(112)。

自分は何の当事者なのか。第三者として、第三者の問題の当事者なのだ(後略)(128)

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『正しい保健体育』

福岡伸一先生がおっしゃっているように、男性というものは、デファクト・スタンダードである女性をカスタマイズして作り出された、縦糸と横糸を結ぶための生殖用の性であるから、男性の頭の中は、身もふたもない言い方だが、基本的にエロでいっぱいである。

だから、男性の本業はエロなことを考えること。だが、男がこの本業に専念していると、社会が維持できなくなってしまう。それを防ぐために学校教育があるのだと、みうらじゅん氏は言う。

この社会を支配するのは、「平等」という観念である。この思想は、もてない男という弱者を差別せず、彼らと共存するために生まれたものである。

そして、この平等な社会を守るために「義務教育」があるのである。

だから、義務教育で性教育を行うのは本来矛盾していると、みうらじゅん氏は言い切る。

たいへん洞察力に富んだ意見であると思う。

ここまでが最初の数ページの要約。

残りは、大爆笑の連続で、電車の中でなんてけっして読めない本である。

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『だれか、ふつうを教えてくれ』

「共生」なんて言葉が流行しているけれど、そんな言葉を安易に使うのはよろしくない。健常者と障害者がいっしょに暮すなんてそんなに簡単なことではないよと、障害者の側から諭しているのがこの本。

「共生」を実現するためには、設備のバリアフリー化に莫大なコストもかかるし、それを誰が負担するのかという問題もある。

さらに大きな問題は、健常者の障害者に対するステレオティピカルな思い込みを捨て去ってもらう必要があることである。

たとえば、弱視の人と、全盲の人のどちらが、障害が軽いかと問われたら、健常者の多くは、弱視の人と答えるはずである。ところが、弱視の人は、一見したところ障害がない人とかわりがないので、障害者とみなされないことも多く、サポートされないこともあり、全盲の人より不便を強いられることもあるという。また、わずかに光を感知できるゆえに、大きな文字なら認識できるので、点字を学習してこなかった人もいる。だから、障害者と言っても一様ではなく、バナナとリンゴくらいの差があるのである。

だいたい、「ふつう」とか「健常者」という基準さえ絶対的なものではない。それを人々に認識してもらうのはきわめて困難なことである。

もし「共生」を実現するというのであれば、一人ひとりが自分の知識を絶対的に正しいものであると考えないで、あくまでも参考として利用するといった柔軟な姿勢を涵養することが重要である。

「自分にはわかっていないことがあるんだ」ということをつねに意識しておくことが大切なのである。

でも、そんなことって、口で言うのは簡単だけれど、なかなかできるものではないんだよね。

少なくとも、私は「共生」なんていう安っぽい言葉を安易に使わないことにしたい。

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『古代の音』

ことばによって、世界は創造され、形成されていく。ことばの「こと」は「言」であるとともに、「事」でもあり、さらに「異」でも、「殊」でもある。原初の状態をことばが切り裂き、そこにおびただしい事物が生み出される。その事物は、一つ一つが特殊なものとして、一つ一つ異なるものとして立ち現れる。ことばは事物を引き裂くばかりではなく、引き裂かれた事物を再びつなぎとめ、一つの全体を組織する。事物はことばによって結ばれ、生命力を与えられる。組織は、一つ一つの事物が連動するものとして、その有機的な全体を開いていく。「ことわり」とは、その全体を貫いてはたらく秩序原理を指している(13-14)。

これが日本語の「こと」から導き出される宇宙観であるとするなら、われわれの祖先の驚異的な言語能力に驚嘆せざるをえない。

「語る」の「かた」は「型」に由来し、一定の型に強いて押しはめて語ることを「かたる」という。そのような定型的な構成のうちに語られるものを「物語」という(37)。

笑いは、神を楽しませるもの。人々が神の和らぐ姿に共感するときに笑いが生じる。「たのし」は「手伸し(たのし)」に出ることばで、神に向かい、手を伸ばして舞う所作が神をいたく楽しませるのだろう(82)。



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『14歳からの仕事道』

この本で語られていることは、仕事である程度経験をつんだ人間ならば、誰しも納得できる意見ばかりだと思う。

・いまは思い込みができない時代。
・わけがわからないことから逃げないことが大切。
・やりたいことは自分で見つけるものではなく、出会うもの。
・即戦力は役に立たない。
・安定を求めてはならない。
・「がんばれ」「忙しい」「ふつう」という言葉を使わない。
・壁にぶつかったら乗り越えようとしてはいけない。壁の前でウロウロせよ。
・専門性や個性を身につけるには時間がかかる。
・学校にいる間は、人の話を聴く練習をし、聴き上手になるべし。
・どんな質問にも答えられるように準備しておく。賛成意見と反対意見の両方を用意しておくこと。理由は3つあると言え。
・不完全な人間が人間を評価するのだから、正確に評価されることはありえないと心得るべし。
・異質な人たちとうすく、ゆるやかな人間関係(ウィークタイズ)を築けるようにしておいたほうがチャンスをつかめる可能性が高まる。
・矛盾した言い方だが、ちゃんといい加減に生きろ。




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『家を出る日のために』

「私たちは何も持っていない」という冒頭の言葉は衝撃的である。

物質的には、前の世代よりも多くのものを手にしているが、受け継ぐべきものを持っていない。つまり、それは暮らしの土台(伝統)である。

私たちは暮らしの「土台」(伝統)を、この3世代の間に失ってしまってきている。それを取り戻そうとして、おばあちゃんの知恵や、昭和30年代のブームが起こっている。

しかし、そんなことをしても私たちの「土台」は取り戻せない。それは現実逃避かもしれないと著者の辰巳さんは警告する。

その上で、経済や政治の都合で流される情報に惑わされず、自分たちの頭と体を使い、自分たちにしっくりする生活を見つけ、それを土台として、次世代に受け継いでいけばいいという。

この本は、われわれに現実をしっかりと見つめよというメッセージを伝えてくれている好著である。

かつて、辰巳さんは「自分の考えを人に押し付けてはいけない、共感してもらえる人を一人でも増やしていくことが大切だ」と陳健一さんに言われたという。いい言葉である。だが、共感だけでは足りない。体感も必要だ。それをつなげる作業が重要なのだと気づき、いま家事教室を開いているという。

巻末に、一人前になるための家事のしかたに関する問題が掲載されている。題して「家出テスト」。米の炊き方、味噌汁の作り方、洗濯物と布団の干し方、やけどのときの対処の仕方、情報の集め方などについて、答えるという形式。

辰巳さんの体験談を読むと、一人暮らしをはじめたばかりのことを思い出して、ちょっとじーんとするところもあった。

思い返してみると、一人暮らし(の「さびしさや解放感」(185)は私のベースになっているように思える。

谷川俊太郎さんからの質問「何が一番嫌ですか」にたいして、「電車に乗ること。不機嫌な人のそばにいること。聞きたくない音楽を聞くこと。自分が侵されること。」と回答している。

これも体感的に共感できる。

他人に対して配慮のない、自分のやり方を押し付けてくる人々の中で、伍していくことをいやおうなく強制される空間が、通勤電車の中である。私もそういう空間から早く解放されたい。



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『神さまがくれた漢字たち』

ここここで取り上げた本と同じ趣向の本である。だが、子供向けのシリーズにしては、言葉遣いが難しいかもしれない。

王は唯一、神と交わり、神と通ずる資格がある。その資格をもつもののみが、民衆から絶大な信頼と尊敬を集めることができる。漢字は、その特権を保証するためにつくられたものであると考えるのが、白川漢字学の大前提である。

とりわけ有名なのは、漢字の「口」という部分をサイと呼ばれる容れ物と解釈する点である。その箱は、その中に祈りの文を収めて、神にメッセージを届けるためのものであるとするところから、白川漢字学の神と漢字をめぐる物語が説き起こされる。

詳しいことは、本書を読んでいただきたいが、ほんの一部を参考までに取り上げておく。

「欲」という漢字は、「欠」と「八」と「八」と「口」で構成されている。「欠」は、口を開けている人をかたどったもの。人は神を仰ぎ見て、サイ(口)を供えて、その到来を待ち焦がれる。この期待を「欲」という。「八」がふたつ重なっている部分は、神からの波動を示している。

悦の旧字体は「悅」であるが、これも同じ意味の神からの波動を表す「八」が使われている。「兄」はサイ(口)を掲げることが許された人物である。その人のもとに、神から波動が送られてくる。その神の訪れを確信したときの心(りっしんべん)の動き、つまり至福の感情が「悦」なのである。

「音」という字は、サイ(口)に横線が引かれている。これも神の訪れを告げる、幽(かす)かな響きを示したものと察せられる。ひょっとすると、「訪れ」とは、「音擦れ」のことであったかもしれない。神は、暗闇の中で「音」のみを響かせ、その存在の証をのぞかせる。ゆえに、そのくらやみの聖域を「闇」というのである(66-67)。

サイ(口)の霊力を倍増させる試みを「習」という。祈りの文を収めるサイ(口)の上から、鳥の羽でいくどもいくども擦りつづけ、それに強い刺激を与える。それに反応して、サイ(口)はその機能を高めていく。よって、対象に対して、くりかえし働きかけることによって、そこに潜在する霊力を抽き出す無限の営みのことを、「習」というのである(69)。

きわめて興味深い、深遠な話である。

少林寺拳法では、「武」という漢字は「戈(ほこ)」を止めること、つまり戈(か)による武力行使を抑止することと教えられているが、この俗説を流布したのは許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』なんだそうだ。白川漢字学によれば、「止」は足のことであり、戈をもって勇ましく進軍するさまをあらわしていると考えるのが自然だという。私もそうだと思う(157-58)。

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『演劇は道具だ』

著者の宮沢章夫さんは元「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の演出家で、現早稲田大学客員教授。

宮沢さんは、すべては見ることから始まると言い、徹底して観察することの重要性をうたっている。この姿勢は「物事への接し方の基本」であるということを演劇を通じて学んだのだという。

冒頭の21ページあたりで、「くわしいことは後回しにします」と、丁寧に説明する作業をはしょり、これからヒントだけを残していくかもしれないということを述べている。

いろいろやっていくうちに、あとでわかることがある。

私も近頃、こういう言葉遣いをしている。「いまは説明しません。振り返ってみたときに、いずれ必ずわかるときが来るものです。それを待ちましょう」、と。

「しっかり自分の目で観察し、きちんと自分の頭を使って考えていれば、いろんなことが見えてくるものです。」

正解はひとつではない。教師やだれかが教えてくれた答えだけが、信じられる答えではない。

こういうことを知っているかどうかで、自分の人生を楽しくできるかどうかが決まってくるのだろう。

だんだん物事がわかっていく過程を味わうことこそが重要なのであって、わかってしまうことや、到達する結論のほうが優先的に重要なのではないと思う。

そういえば、養老先生もそんなことをおっしゃっていたな。




ああ、今日もまた朝早くから、仕事。働いて生きていくのは、骨が折れます。

まあ、それもまたよし。

追記:どうでもいいことだけれど、宮沢さんは「人間」というのは中国語で「世間」を指すと書いておられるが、中国人の先生に伺ったところ、反対語は黄泉の国のことで、つまり、人間とは人が生きている間のことを指すそうだ。

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『バカなおとなにならない脳』

すでに頭の中にイメージがあって、それが外部から説明してもらうと、「比例関係」が生じる。そういう脳の働きが「わかる」という体験なのだという(20)。これはよくわかる。

だからこそ、いくら言葉を尽くして説明しても、理解してもらえないという事態が起こるわけだ。それは私の頭が悪いのではなく、説明を受ける側に、私の伝えたいことを理解する素地がまだできていないということを示しているのである。

寝るということは、たまったゴミを片付けることなのだという。部屋を掃除すると、秩序正しくなるけれども、ゴミ箱の中はエントロピーが高くなる。それと似ていて、世界を秩序立てて整理しようとするのが意識活動だとすると、そのせいでゴミがたまる。だから、そのゴミを片付けるのが眠るという活動なのだ(49)。早く寝なくちゃ。

「こころはどこにあるのか」という質問には、その質問自体が間違っていて、心はある場所にあるのではなく、働きそのものなのであると養老さんは答えている。「運動」はどこにあるのかという質問と同じでナンセンスなんだという(75)。

どうせ汚れるんだから部屋を掃除しないという発想は、どうせおなかがすくんだから食べない、どうせ死ぬんだからいま死ね、というのと同じ屁理屈にすぎない(133)。そういう屁理屈を言う人は、プロセスそのものに価値を見出すということをせず、結論ばかり求めたがる。そういう風に考えているとちっとも生きやすくならないと養老さんは警告する(145)。

 そもそも考えるということは、ものごとを整理することなんです。で、整理できたら楽になるんです、ぼくは。あんまり考えていない人は、もっと手前で整理することが負担になって、ものごとをゴチャゴチャのままで、楽なところで安定しているだけのことです。でもそれにいいとか悪いとか言ったってしかたない(146-47)。

ほんと、そうですよねえ。

昔の人は、少なくとも、わからないことがあるということを前提にしてものを考える謙虚さがあった。現代社会って、現に都会に住んでいると、くまなく光が当たっている。で、影がないということから、理性でわからないことはないという暗黙の信仰が、知らず知らずのうちに生まれる。それか逆に、暗い部分だけを見て、暗い暗いと言ってみたりね。でも、はじじまら明暗、両方あるんだ。(中略)人間がなんでもできるんだと思ったら、大まちがいなんです。おとなが自然を根こそぎにしてきた結果、こういう発想が出てきてしまうんですよ(210)。

まったく、おっしゃるとおりです。

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『気分はもう、裁判長』

著者はいわずと知れた、裁判傍聴人の北尾トロ氏。

北尾さんによれば、国民の権利として傍聴が許されているのは、「密室に関係者だけが集まって強引な裁判を行わないように、司法が、”国民に開かれた裁判”を目指しているから」(173)であるという。

その延長線上に、もうじき始まる裁判員制度がある。北尾さんによれば、裁判に一般の人が参加しないのは、世界でも珍しいらしい。そういうものなんですかねえ。

まあ、「裁判」という、面倒で苦しみの多い手続きを擬似的にでも経験すれば、そう簡単には犯罪に手を染めることはできないという意識を人々に与え、犯罪の抑止に貢献してくれるかもしれない。

そういうメリットはあるのかもしれないが、個人的に、裁判員になるのはいやだなあ。



先ほど、ランチを食べながらNHKの教育テレビの育児番組を見ていたら、人間には3つの場所が必要であるという話があった。

ひとつめは、家庭。
ふたつめは、社会。
みっつめは、好きな場所。

「好きな場所」というのは、要するに、社会的なしがらみなどから自分を解放できる場所のこと。社会的な肩書きも、家庭の中での役割もいっさい関係なく、ただひとりの生身の人間として生きられる場所、もしくは、そんなふうに自分を解放して他の人と付き合える環境のことである。(養老先生にとっては、虫がいっぱいいる自然の中がそんな場所だという。)

そういう場所は、どんな人にも必ず必要であると私は思う。

人間の心の豊かさというのは、そういう場所があってこそ、育まれるものなのだろう。

犯罪を犯す人たちの多くは、もしかしたら、そういう場所を持つことができなかった人なのかもしれない。

心の豊かな人を育てるのは教育者の役目だと思うから、積極的に引き受けていくつもりだけれど、裁判員のように心の貧しい人に制裁を加えながら、その後に、社会復帰するためのお手伝いをするという仕事は私には少々荷が重いように思える。

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『オヤジ国憲法でいこう!』

細かい話は抜きにして、ちょっとここは響いた。

 強い者って、実はけっこう、すぐに滅びるのである。
 あんがい、弱いとされている存在が、がんばってしまうものなのだ。
 たとえば昔、その時代では最高に強かったはずの恐竜はいまでは滅んでしまってけど、ネズミの祖先なんて、したたかに生き残って進化して現在にいたる、といったように、だ。
 人類も弱いから生きていけるわけである。
 「ちょっとうまくいっていないこと」を排除して、ただただ機能的になっていくことって、いきものに限らず、意外と、ダメになっていくのである(143)。

友達や家族や愛は一生ものではないという考えも素敵。真理も正義もひとつじゃない。

大切なのは、挨拶をすること。「自分は怪しいものではないですよ」と回りに告知するために挨拶はあるわけだから、挨拶をすると、世界中どこでも生きやすくなる。これはオヤジの知恵だね。


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『生き抜くための数学入門』

数学というものは、現実にはないものを頭の中に存在させ、リアルに感じるものである。

その見えない抽象的なものを見る方法は、詩や禅など他にもいろいろあるが、数学は、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有できる論理体系である。そこに著者は魅力を感じているのだと言う。

こうして、見えないものを見て、「だから」、「どうして」、「どうなる」を論理的に考えることができなければ、この社会の中で幸せになれる確率は相当に低い。それは現代社会が、情報量と選択肢の多い民主主義社会だからと著者は述べている(57)。傾聴に値する言葉である。

いつも書くけれども、これはすべての教科に当てはまる。英語も理科も社会も国語もみんな、そのような論理的な思考(著者の言葉を借りれば「数学的な構え」)を身につけ、ハッピーになるために学んでいる。

この基本的な「目的」を忘れてしまい、学校の勉強が、期末テストでよい点を取ったり、大学受験で有名大学に入学するための「手段」となってしまっているのが、きわめて残念である。

目的と手段を取り違える人間は、愚かである。

1万円札で1億円をそろえると、10キロ、1兆円だと10万キロ、つまり100トンもあるという(79)。すごいね。



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『「悪いこと」したらどうなる?』

悪いことをしたら、被害者も、加害者も、被害者の家族も、加害者の家族も、周囲の人たちも苦しむのである。

私の近所で昨年殺人事件があった。私の家にも刑事さんがちょくちょく訪れ、事件の手がかりを探して事情聴取をした。

もちろん私は殺人犯ではない。しかし、なんだか、刑事にいろんな質問をされているうちに、自分が犯罪者候補として見られているのではないかという不思議な気持ちになってきた。気分が悪くなった。もちろん刑事さんたちは、そんなつもりで私に当日の様子を確認したわけではないのもわかっている。しかし、私も不快な思いをたっぷりさせられた。

犯罪者は若い女性を殺害した。その男は、私がよく利用するスーパーのATMに立ち寄り、防犯カメラの記録に顔の映像が残されていた。そのATMを利用するたびに、私はあの殺人事件を思い出す。

彼は、1審判決を不服として、控訴している。

彼の家族はおそらくそれまで住んでいたアパートには住めないから、逃げるように引越しをし、子どもたちも苗字を母親の旧姓に替えて、いままでの友達と引き裂かれるように別れ、転校して、ひっそりとどこかで暮らしていると思う。

父親が人を殺したという事実は、子どもの心の奥深くに大きな傷を残す。子どもだけではない。犯罪を犯した父親にかかわるすべての人々の心に深い傷を残した。

もう、だれもハッピーにはなれない。一生、忌まわしい記憶に付きまとわれながら、生きていかねばならない。

家族や親戚はつねに、周りの人から、あそこの家の父親は、人殺しなんだよと陰でうわさされることに耐えなければならない。

また、そんなふうにうわさをする側も、彼らを共同体に受け入れていかなければならない。

悪いことをしたら、どうなるか?

とにかく、だれも得をするようなことはないのである。

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『ハッピーになれる算数』

算数の授業でハッピーになるためには、いや、算数を通じて、子どもがハッピーな大人になるためには、「仕組み」を理解する必要があると著者はいう。おっしゃるとおりでございます。

仕組みさえわかれば、公式の成り立ちがわかるし、数百もの公式を丸暗記しなくても、あるいはそんな公式に頼らなくても、そこから自分なりに応用して問題を解くことができるようになる。しかし、その仕組みがわかるようになるには、時間がかかる。

これは何も算数に限ったことではない。どの教科でも、仕組みを理解することが重要なのである。

先生たちは受験を念頭においているので、時間の節約を優先して、ものの考え方や仕組みを教えることをどんどん省略し、とにかく公式を覚えろ、知っているイディオムと単語を増やせ、年号を覚えろと機械的に丸暗記させようとする。

だから、勉強嫌いが増えるのである。

教育評論家や専門家や素人の中には、英語を受験科目からはずせば、日本人は英語ができるようになるはずだと主張するものがいる。

ならば、数学をはずしてくれれば、日本人はもっと数学が得意になるはずだ。

理科も社会もすべて受験科目からはずせば、日本人は、すべての教科が得意になるはず。

論理的に正しいでしょう?

でも、そんなことをしたら、日本人はすべての教科が苦手になってしまうだろう。

ということは、英語を受験科目からはずせば、みな英語ができるようになるという前提が間違っていたということだ。

これは数式でどう書けばいいのだろうか。

そんなふうに短絡的に考えるのではなく、ゆっくり時間をかけて、ものの仕組みを根本から教えるようにするというのが、「ゆとり教育」の根幹だったはず。

なんだか、最近の教育をめぐる傾向は、再び昔の因習に逆戻りしている気がする。

最後に、著者はこの本を通じて学んできたことは、「仕組みを考え、理解できるような体質を作る」(194)こととまとめ、さらにハッピーになる能力を獲得するための具体的なポイントを以下のように列挙している。

1.議論をするまえに、前提となっていることを書き出せること。
2.前提はだれにでもわかるように簡潔に書くこと。
3.議論を進めるときには、「お告げがあった」とか「○○さんが言ったから」とか「ふつうにそうじゃん」という非論理的なことは言わないこと。
4.なにかを主張するときには、理由をわかりやすい言葉できちんと説明すること。
5.議論はあっちこっちに行かずに、順序よく進めること。
6.結論はきちんと書く。
7.自分が主張したこと(式、証明、議論)を冷静に第三者の視点から見直すこと。

こういうことは算数に限らず、人生のすべてに活かすことができる。

円周率とは、円周が直径の何倍になっているかを表したもの。こういう定義さえわからないのに、円周率が3.14ではなく、3なんて教えられたら、国が滅びますよねなんてことを言う人がいるのが笑える。

円周率が2より大きいこと、3より大きいこと、4より小さいことを証明する部分がとりわけ興味深かった。私はそんなふうに教えられた記憶がないので、けっこう新鮮だった。


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『コドモであり続けるためのスキル』

わたしが好き好んで読む類の本ではないけれど、心に響くところがあった。

「コドモであり続ける」ことは、「次の世代のことを考える」ことと、ぜんぜん矛盾しないんだね。それは、「だって、コドモだもーん」と「義務」や「責任」を放棄するのではなくて、「おとな」とは違ったかたちで、「誰かのために何かをする」ということを、負っていくこと、でもあるんじゃないかな(239-40)。

わかったような、わからないような、妙な文章だけれど、まあ、いいか。

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『「美しい」ってなんだろう?』

美術作品は、「作品」であると同時に「商品」であり、その境界線はあいまいであると森村さんは言う。しかし、美術の世界の基本は、お金に換算できない作品をつくることである(198)。

これは美術に限らず、あらゆる人間の活動に当てはまることだと私は思う。

どんな本でも、必ず読んでおく価値のあるところというものがある。それが多ければ多いほどコストパフォーマンスが高いと感じることができる。だが、このコストパフォーマンスに、本の値段が比例しているわけではない。むしろ、その逆ということも多い。それに読んでよかったと思えるのは、読者ひとりひとりの主観であり、客観的に判断できるようなものではない。

美術という言葉には「美」という文字が含まれている。この「美しさ」という言葉が、近頃めっきり使われなくなり、評価されなくなったと森村さんは嘆く。代わりに、「かわいい」、「きれい」、「かっこういい」ばかり使われる。しかし、「美しい」としかいえないような場面がある。

それを読者にわかってもらうために森村さんの提示するのは、1930年代の不況下のアメリカの子どもの墓の写真。墓石すらない。それを目にする人の口から、「かわいい」、「きれい」、「かっこういい」などという言葉は軽薄な出てくることはないはずである。

美術家という職業はこういうものを対象とする仕事なのだ。

森村さんは、美術家なのに、美術作品を見ても、どこがよいのかよくわからないことがあると正直に告白している。私も長年そう思ってきた。

たいてい、美術作品を理解するためには、「見る」、「知る」、「作る」という工程をたどればいいらしい。しかし、森村さんはそれでも理解できなかったという。そこで思いついたのが「なる」。自分が美術作品になってしまうという荒業に出たわけだ。森村さんは、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ、ゴッホの自画像、マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン、ヴィヴィアン・リーから、果てはゴッホの「ひまわり」やセザンヌの静物画のりんごにすらなってしまった。

そこでわかったのが、頭を真っ白にして、自分が感じることに素直に答えればいいのだということ。何か変だなあというところを感じること。

それを森村さんは、「わかるとは、絵のなかにふしぎをみいだすおどろきのことである」(52)と要約している。

この不思議を解き明かしていくときに、これまでに学んだ知識が役に立ってくるのである。

とにかく、偉い先生の見方だけが正しいわけでも、重要なわけでもない。優先すべきなのは、まずひとりひとりがどう感じるかのほうである。

この本は、頭だけではなく、自分の体を通して理解することを唱導する身体的美術論であると言っても過言ではない。

いやあ、この本は、コストパフォーマンスが高いですよ。

最後にもうひとつ。

ひとりの人間の中には、じつにたくさんの可能性がひそんでいる。それのタネをできるだけさがしだし、みつめなおし、どのタネを育てていくかをじっくり考える。そういう行為を勉強というのであると、メキシコの画家フリーダ・カーロから学んだこととして、森村さんは書いている(228)。


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お金&詩

午前中、妻のメガネを作りにステラタウンの眼鏡市場に行ってきた。出来上がりは来週の水曜日。最短25分で引き渡せるとポスターに書いてあったが、小さな文字で「一部レンズは除外」と書き込まれていた。どうして、そこまでしてすべてのレンズの在庫をおいておかないという事実を隠そうとするのだろうか、どこのメガネ屋も。ほとんどの消費者は知っている事実なのに、こんなミスリーディングな広告は規制してほしいな。

あるコンビニのATMの看板には、「一部の銀行を除きすべての銀行が利用できます」と書かれている。"all but some" っていうこと? おかしいよ、そんな言い方。それじゃすべてではないだろうが。

auの光ファイバーのちらしも変だよ。詳細は省くけれど、またまた、だまされたって感じ。

イトーヨーカドーで、男性用水着の上を買った。最近は、炎天下のプールで男性が上半身をさらすことが徐々に減ってきている。日焼けは肌にしみを作ったり、皮膚がんを引き起こしたりするかもしれない。いずれにせよ、あとでやけどで痛い思いをするから、上着を着用するほうがいい。

私は痩せているので、あばら骨が見えているし、日焼けをしている腕と、それ以外の肌の白さのコントラストが激しいので、上体を人前でさらすのは恥ずかしいというのも上着を買った理由である。

帰宅後、雨の中、子どもたちをつれて近所を散歩。寒かったけれど、いろんなところに新しく家が建っていることを発見した。何年か前に、住宅見学会で家の中にあがらせてもらったところがどんなふうに経年変化しているかも観察できた。

図書館に西原理恵子の本を予約したら、すでに300件以上の予約が入っていた。これでは読めるのは半年後かも。図書館で借りて読むより、立ち読みしたほうが早そうだ。

もちろん、お金があるというのはよいことである。適度にないと、生きるのがつらくなるからね。でもお金に縛られて身動きできないのもいや。あんまりお金のことを考えないで暮らせるような状態が一番幸せなのかもしれない。



「詩とは何か?」 そう聞かれても答えようがない。実物を見せて、読んでもらって、これが詩ですということをわかってもらうしかないというのが、谷川さんの答え。おっしゃるとおりでございます。

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『建築バカボンド』

ひとつのものごとを極めている人というのは、不思議なことに、言うことがきわめてよく似ている。

自分のものを人に貸したり、人のものを自分が借りたり、そんなことのすべてが、コミュニケーションだと思っています(151)。

自分にもよくて、他人にもなにかいいことがある可能性が高いことやものを考える(153)。

あまりにも基本的であたりまえのことを疑ってみること。それによって固定観念の呪縛から逃れることが、大きな豊かさをもたらす秘訣だとぼくは考えています(224)。

自分が持っているものになにかいいものがあるとしたら、それはさらけ出してどんどん使ってもらうほうがいいと思う。あと、あんまり信念とか持たないほうがいいのかもしれないよね。ヘタに持っちゃうとそれを守ろうとして、建て主にスタイルを押しつけちゃうのはやだよね。そのつどそのつど、いまあることにしっかり向き合えなくなったらダメだと思う(206)。

もしかすると、話すために家をつくるんじゃないかって気もする。建築って、目標がはっきりしているでしょう。みんなで話し合いながら、それを目指していく。ときにそれぞれの立場や役割がいれかわったりしながらね。ぼくの思う人間のいちばんの豊かさ、贅沢さって、人と話すことで、建築にかぎらず、それをもとめていんないろんなことをしてるんじゃないかな、って思うときがある(210-11)。

日本で「リスペクト」といえば、「尊重」や「尊敬」というふうにだけとらえられていますが、オシムは「すべてを客観的に見通すこと」「客観的な価値を見極めること」だと言っています。相手の力を過小評価することも過大評価することもなく、きちんと評価するということ。そうしなければ自分の歯を折ることになる、とも言います。相手がなにができてなにができないのかを判断して、客観的に見通さなくてはいけない、ということです(216-17)。

オシム:日本では誰も求められた以上のことを試そうとしない。これが私のノルマだと考え、そのノルマを満たしてしまったら、他のことは他人が引き受ければいいと考えている。サッカーではそれでは駄目なのだ(218)。


この本を読んで、ひとつ大きな疑問が氷解した。

建築家の設計する家というのは、よくテレビで紹介されたり、雑誌に掲載されているけれど、どれを見ても住みにくそうだと思っていた。

それは建て主たちだけに住みやすいようにつくられているからであって、建築家たちは万人にとって住みやすい家をつくることを目指しているわけではないからなのだ。

ちなみに、我が家は建売住宅。この本の著者の家も実は建売だそうだ。私の義理の弟(年上だけれど)は、1級建築士。いつか自分で家を設計して住みたいかと聞いたら、建売のほうがいいという答えが返ってきた。紺屋の白袴みたい。

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『決定版 英語エッセイ・ライティング』

『決定版 英語エッセイ・ライティング』という本がある。これは英語のエッセイの書き方がまったくわからない人にオススメの本である。

日本語のエッセイというのは、理由や例などの具体的な詳細から書き始めるので英語圏の人間にはわかりにくい文章になる。そういうことを教えたにもかかわらず、日本語的な発想を押し通す学生が今日もいた。要するに、アタマが硬すぎるのである。

武道の世界では「守・破・離」という考え方がある。

私はまず相手方(教師、師匠)の言うことを聞いて、それに合わせ、師の格をマスターする。これが「守」である。

その後、自分なりの創意工夫を加え、そこから少しずつ逸脱していく。これはが「破」である。「離」は、いままで学んだこと、身につけたものから自由になるということである。ここからはもう完全に達人の域である。普通の人には到達できない世界なので、われわれ凡人には縁のない世界である。

まずは、みんなのレベルでは「守」が大切なのだと口をすっぱくして教えているのに、学生たちにはなかなか理解してもらえない。どうしても人の真似ができずに、自己流でなんとかやっつけようとしてしまう。

まずは自分を捨てろ。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」だ。

ちょっと違うかな。



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『究極の英語学習法』

私が出品していた本に注文が入った。これは非常によい本である。

私の英語の授業では、これと同じトレーニング方法を用いている。

英語を英語として理解できるようになるためには、その英文が発想された過程を順番通りに追いかけながら、頭の中に英語のイメージを再現する訓練が必要である。

たいていの英語の授業では、和訳と内容理解の確認で終わりというパターンが多い。もしくは、かんたんなスキットを教室内で覚えて、練習するだけである。この本で実況中継してくれているようなトレーニング方法を採用している授業は少ない。だから、英語脳ができないのである。

この本は、読めば、とたんに英語が理解できるという類の、営利目的でつくられたインチキ本ではない。このトレーニング方法で、たくさんの英文を読んでいるうちに、英語の頭ができていくものだということを教えてくれるたいへん貴重な本なのである。

こういう親切な本にはなかなかめぐり合えない。



今日のコネタマのランキングは、27位から25位に上昇していた。

でも、上がったら、落ちるだけ。

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面白そうな新刊

しばら本屋に行っていないうちに、いろいろ面白そうな新刊が出ていました。

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ゆうメール&クロネコメール便

3月にアマゾンマーケットプレイスに蔵書の一部を出品してから、本日までに11冊売ることができた。

しかし、まだ112冊も残っている。

昨日も仕事から帰ってきてから郵便局に行き、注文品の発送手続きをした。ここ1週間で3度も足を運んだので、美人の局員さんたちと顔なじみになってしまった。おふたりとも左指に指輪をはめていたので、とうに売却済みらしい。

ゆうメールだと、250gまでが210円、500gまでが290円、1kgまでが340円、それを超えると450円になる。

クロネコメール便だと、A4サイズまでの大きさで、重さが2kgを超えず、厚みが2cmまでなら160円。B4サイズだと240円。だから、厚みが2cmを超えなければ、ゆうメールよりお得だ。

梱包材や封筒にも余計なお金をかけないように注意が必要だ。こういうサイドビジネスも、けっこう大変である。

昨日、大学のキャンパスですれ違った某有名ノンフィクション作家は、お連れさんとの話の中で「あの本を図書館に全部寄贈しようかと思っているんです」などと話していた。

さすがに太っ腹だ。

成功した人生を歩んでいる方なら、私のように自分の血を抜いて売るようなことはせず、「寄贈」という発想しか思い浮かばないのだろう。

もし私が金持ちなら、チェーンではない小さな塾をひとつ建てて、近所の子供たちに寺子屋のようなスタイルで勉強を教えたいと考えている。

もっと大きな夢を言えば、貧しい外国に学校を建て、世界の中でサバイバルする方法と人生を楽しむ方法をみんなで一緒に考えるようなこともしてみたい。

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出品している書籍

4月18日現在(5月7日改訂)、私がアマゾンに出品している書籍の一覧です。都合により、一部除外しております。

本本堂未刊行図書目録―書物の地平線 (1984年) (週刊本〈6〉) [古書] by 坂本 龍一

シェイクスピア―言語・欲望・貨幣 by イーグルトン,テリー; Eagleton,Terry; 洋一, 大橋

D.H.ロレンス―その生涯と作品 (1975年) (UL双書) [古書] by T.スレイド; 山下 主一郎

村木道彦歌集 (1979年) (現代歌人文庫〈23〉) [古書] by 村木 道彦

長田弘詩集 (1968年) (現代詩文庫〈13〉) [古書] by 長田 弘

見えない隣人 (1976年) [古書] by 鈴木 志郎康

ダブル・バインドを超えて by 彰, 浅田

On Lies Secrets & Silence (Paper) by Rich, A

Paroles [French] [マスマーケット] by Prevert, Jacques

Roman Poems (Pocket Poets Series) [ペーパーバック] by Pasolini, Pier

The God Squad by Doyle, Paddy

詩の本〈1〉詩の原理 (1974年) [古書]

重力の虹〈2〉 (文学の冒険) by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 芳明, 越川; 泰樹, 佐伯; 達郎, 植野; 秀明, 幡山

重力の虹〈1〉 (文学の冒険シリーズ) by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 芳明, 越川; 泰樹, 佐伯; 達郎, 植野; 秀明, 幡山

ヴェルレーヌの余白に by 征夫, 辻

「イリヤ」からの脱出を求めて―エマニュエル・レヴィナス論 (フマニタス選書) by 龍男, 谷口

ア・プーク イズ ヒア by バロウズ,ウィリアム・S.; Burroughs,William S.; 隆昭, 飯田

レヴィナスの思想―希望の揺籃 by 正人, 合田

「だれでもないもの」の「抵抗」―パウル・ツェランと詩(ことば) [単行本] by 兀歩, 界

授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ) by イヨネスコ,ウージェーヌ; Ionesco,Eugene; 正, 諏訪; 光一, 木村; 輝臣, 大久保

シルヴィア・プラス詩集 (1976年) [古書] by 皆見 昭

星に唄おう [単行本] by 杞一, 高階

不死の人 (1968年) (新しい世界の短編) [古書] by ホルヘ・ルイス・ボルヘス; 土岐 恒二

バフォメット by ピエール・クロソウスキー; 俊明, 小島

記号と事件―1972‐1990年の対話 by ドゥルーズ,ジル; Deleuze,Gilles; 寛, 宮林

自我の行方 (岸田秀コレクション) by 秀, 岸田; 誠一, 八木

指導力の豊かな先生 [単行本] by 敦, 宗内

日本詩人全集〈第32〉明治・大正詩集 (1969年) [古書]

現代日本名詩集大成〈第1〉 (1960年) [古書]

シベリア夢幻―零下59度のツンドラを行く by 誠, 椎名

新しい仏文解釈法 増訂 [単行本] by 山田原 実; 島田 実

ビート読本―ビート・ジェネレーション 60年代アメリカン・カルチャーへのパスポート (現代詩手帖特集版)

20世紀 イギリス文学研究必携 by 謙一, 羽矢; 正純, 虎岩

日本語キーワード英語表現辞典〈名詞編〉―日本語の発想で引けて英語表現が豊かになる

記憶の宿る場所―エズラ・パウンドと20世紀の詩 [単行本] by 恒二, 土岐; 実英, 児玉

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) [単行本(ソフトカバー)] by スピヴァク,G.C.; 忠男, 上村

チャールズ・オルスン詩集 (アメリカ現代詩共同訳詩シリーズ (2)) [単行本] by チャールズ・オルスン; 太郎, 北村; 成吉, 原

ロバート・ブライ詩集 (アメリカ現代詩共同訳詩シリーズ) [単行本] by ブライ,ロバート; Bly,Robert; 俊太郎, 谷川; 寿夫, 金関

女性たちのアイルランド―カトリックの「母」からケルトの「娘」へ (平凡社選書) by 光子, 大野

Sexual/Textual Politics: Feminist Literary Theory (New Accents) by Moi, Toril

ケルトの宗教ドルイディズム by 新一, 中沢; 和雄, 月川; 真弓, 鶴岡

たのしく読める英米幻想文学 (シリーズ文学ガイド (4)) [単行本(ソフトカバー)] by 丈二, 大神田; 直人, 笹田

愛―後期恋愛詩集 by P.エリュアール; 智, 高村

マルドゥーン詩選集―1968~1983 [単行本] by マルドゥーン; 現代英米詩研究会

見える像と見えない像 (1982年) [古書] by 近藤 耕人

フィクションの修辞学 (叢書 記号学的実践) [単行本] by 米本 弘一; 渡辺 克昭; 服部 典之; ウェイン・C.ブース; Wayne C. Booth

伊藤サムのこれであなたも英文記者 [単行本] by サム, 伊藤

はじめての人の日本語文法 (はじめての人シリーズ) [単行本] by 尚史, 野田

パリ、砂漠のアレゴリー―ジャベスとともに by 和成, 鈴村

作家の墓を訪ねよう―明治の文豪から現代作家まで148人の墓碑案内 (週末計画) by 寛, 岩井

英語のしくみが見える英文法―ネイティブのセンスに迫る! [単行本] by 典久, 酒井

ママ・グランデの葬儀 (集英社文庫 40-A) by ガルシア・マルケス; 桑名 一博

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) by 仁司, 今村

19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう [単行本] by プール,ダニエル; Pool,Daniel; 信, 片岡

テリトリー論 1 (1) by 伊藤 比呂美

Ireland (Eyewitness Travel Guides)

ユビュ王―Comic by 明子, 宮川; アルフレッド・ジャリ; フランツィシュカ・テマソン

英語世界の俗信・迷信 [単行本] by 義雄, 東浦; 成寿, 成田; 英夫, 船戸

読むことのポリフォニー―フェミニズム批評の現在 by 美保子, 武田; 信恵, 角田; 和男, 岩田; 光子, 大野; 悠一, 武田; 優美, 浜名

サティケージデュシャン―反芸術の透視図 (1984年) [古書] by 鍵谷 幸信

ボリューム4倍角 [単行本] by 栄瞳, 青木

マザー・グース事典 by 茂, 渡辺

英語の発音パーフェクト学習事典 [単行本] by 深沢 俊昭

サイバネティック・フィクション―柔らかい機械としてのポストモダン文学 by デヴィッド・ポラッシュ; 伸雄, 上岡

メタフィクションの謀略 (ちくまライブラリー) by 孝之, 巽

CD BOOK ネイティブに英語を直してもらいました (CD BOOK) [単行本] by 貴宏, 岩城; クオ,クリスティーナ; オルダー,マーク・E.

エルビスコステロ詩集 by コステロ,エルヴィス; Costello,Elvis; 茉莉恵, 上田; えりか, 山下

笑う人間/笑いの現在 (Pola seminars) by 清和, 西村; 到, 松枝

写真の新しい読み方―表現の秘密がひと目でわかる、はじめての全世界・写真相関図 (別冊宝島EX)

グレン・グールド by WAVE編集部

アンディ・ウォーホル (1978年) (パルコ・ピクチャーバックス) [古書] by ピーター・ジダル

アイリッシュ&ケルティック・ミュージック (POP 90’s) by 敦史, 山尾

アイルランド音楽への招待 (音楽選書) by カーソン,キアラン; Carson,Ciaran; 功, 守安

超越・外傷・神曲 (ポリロゴス叢書) by エマニュエル・レヴィナス; 内田 樹; 合田 正人

旅の詩集 by 修司, 寺山

詩のボクシング 声の力 by かつのり, 楠

フランス (地球・街角ガイド タビト) by Dorling Kindersley; 同朋舎出版

Cambridge International Dictionary of English (Cambrdige Illustrated History)

(文庫)スーパーロックガイド/ローリング・ストーンズ (スーパー・ロック・ガイド) by ヘクター,ジェイムス; Hector,James; 智之, 山崎

帝国 (〈1冊でわかる〉シリーズ) [単行本(ソフトカバー)] by スティーブン・ハウ; 見市 雅俊

ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) [単行本(ソフトカバー)] by キャサリン・ベルジー; 折島 正司

ヴィジョンのひずみ―ブレイクの『四人のゾア』 by 繁子, 土屋

文学アメリカ資本主義 by 正司, 折島; 信二, 渡辺; 貴樹, 平石

寺山修司イメージ図鑑 [単行本] by 寺山 修司

映像のポエジア―刻印された時間 by アンドレイ・タルコフスキー; 鴻 英良

アンダー・ア・ブラッド・レッド・スカイ [VHS] [VHS] (June) U2

Smoke [VHS] [Import] [VHS] (June) Paul Auster; Wayne Wang; Harvey Keitel

Good Will Hunting [VHS] [Import] [VHS] (Dece) Gus Van Sant; Robin Williams

Shine [VHS] [Import] [VHS] (Dece) Scott Hicks; Geoffrey Rush; Justin Braine

発信型英語スーパーレベルライティング―日本人学習者の弱点を克服する技術とトレーニング [単行本] by 一三, 植田

VOAリスニングトレーニング―プロ通訳養成メソッド活用 (CD book) [単行本] by 篤志, 三島; 慶郎, 小倉

ロック伝説〈上〉―プロフィールとインタビュー36 by ホワイト,ティモシー; White,Timothy; 公夫, 石岡; 澄江, 月村

英語シャドーイング―映画スター編〈Vol.2〉【CD2枚付き】 [大型本] by 玉井 健; 西村 友美

新TOEIC TEST 英文法 出るとこだけ!―直前5日間で100点差がつく鉄則27 [単行本] by 小石 裕子

現代詩人論―現代詩史論・現代詩人論集 (1980年) [古書] by 粟津 則雄

Liar by Fry, Stephen

Paperweight by Fry, Stephen

日本語がついにとけた―日本語の扉をひらく三つの鍵 [単行本] by 武広, 桜井

Macmillan's preparation for the TOEIC test - A Guide for Advanced Learners...

母権と父権の文化史―母神信仰から代理母まで (人間選書) [-] by 茂孝, 市川

文体としての物語 by 陽一, 小森

The New Shorter Oxford English Dictionary (Dictionary) by OUP; Brown, Lesley

TOEICテスト まるごとリスニング CD付 by BSフジ『もし模試TV for the TOEIC TEST』; ECC

ヴァン・モリソン―魂の道のり [単行本] by ローガン,ジョニー; Rogan,Johnny; 京子, 丸山

競売ナンバー49の叫び [単行本] by ピンチョン,トマス; Pynchon,Thomas; 正雄, 志村

ディラン、風を歌う by マイケル・クレイ; 三井 徹

すでに売れてしまった本:

知の最前線―現代フランスの哲学 (1984年) [古書] by ヴァンサン・デコンブ; 高橋 允昭

野口雨情童謡集 (1976年) (日本の童謡) [古書] by 野口 雨情; 藤田 圭雄

ランボオからサルトルへ―フランス象徴主義の問題 (講談社学術文庫) by 啓之, 平井

CD BOOK 外資系の英語プレゼンテーション (アスカカルチャー) [単行本] by ベートーベン, 浅見

究極の英語学習法K/Hシステム入門編 ワークブック [単行本] by 国井 信一; 橋本 敬子

新編 英和活用大辞典―英語を書くた

めの38万例 [大型本] by 繁治郎, 市川; Dutcher,David; Boyd,Stephen; 灌, 沢村

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『人生ってなんだろ』

Jinsei

 

中学1年のときの担任の先生が、この本(当時の価格は900円)をクラス全員に買わせて読ませた。担任の先生は国語の先生で、私たちに教科書には載っていない三好達治や高橋新吉や草野心平の詩を教えてくれた。頭で読むのではなく、心で味わいなさいということだけをつねにおっしゃっていた。10年ほど前に中学のクラス会があったとき、久々にお目にかかって、「先生の影響で、私はいま大学で教えさせてもらっているんです」と報告させてもらうことができた。私も教師だから、教え子にそんなことを言われたら、抱きしめたくなっちゃうかもしれない。

この本を読んだのは13歳のときだから、かれこれ26年前になる。当時どういう思いでこの本を読んだのかまったく覚えていないが、読み返してみると、いまの私の人生の基盤を作っているように感じられる。

大人は目的や目標を持って生きていかないとだめだと子供に諭すことがよくある。しかし、松田先生はこう書く。

 大事なことは、軌道修正がいつでもできるように、人間としてのしなやかさを失わないことだ。
 馬車馬のように、ある方向につっぱしるだけというのは、自分の可能性の芽をつみとっているようなものだ。
 人間は、余裕をもっていないとだめだ(21)。

この本は1973年が初版だが、当時すでに松田先生は「シンプル・ライフ」や「もったいない」の精神を提唱されている。「人類が生きのびられるかどうかは、シンプル・ライフにたのしみをみつけられるかどうかにかかっている」(39)と先生は言う。

その他、面白い部分をいくつか引用してみたい。

 実生活で必要なのは、記憶力や短時間にまとめる能力でなく、大きな問題をじっくりとりくめる能力だ。そのためには、ほかの人ともうまくつきあって、「あの人なら手助けしよう」という気にさせたり、自分の仕事をひろい視野のなかでみる度量のひろさをもっていたり、人間として誠実で、まわりの人を仕事に集中させたりする能力が大切だ。
 それだから、入学試験で頭がいいと思われる人ばかりよりすぐって、そういう人を中心にした社会をつくると、ゆがんでくる。あたたかさがない、視野がせまい、思いやりがない。
 今の社会が住みにくいのは、そのためだろう(71)。

もうひとつ、スポーツが私におしえてくれたのは、自分のからだの調子と練習とをうまく組みあわせて、試合のときに、ベストコンディションにもっていく技術だ。(中略)このコンディションの調整の技術は、あとになって期限をきめられた仕事をするときに役にたったと思っている(145)。

わたしもスポーツをするようになって、はじめてこういう考えを理解できた。

 世界中の人間は、もっともっと、つよがりをやめないといけない。人間は、よわく、はかないものだという自覚をもたないといけない。
 無限の宇宙の銀河系のなかに、たかだか七十年か八十年の生命をあたえられた、つかのまの存在と思えば、殺しあいの無意味がわかるはずだ(171)。

松田先生は、世の中で一番怖いものは「権力」であり、「権力ほど人間を腐敗させるものはない」(181)という。おっしゃるとおりである。

 昔から、どうしてこのおそろしい権力をなくせるかと、いろんな人が、いろんなことを考え、いろんなことをやったが、うまくいっていない。子どものときから、人にいばるのは悪だということを心にきざみこむしかないだろう(181)。

スピード違反をしたドライバーを捕まえたときに、全能感をみなぎらせている醜い警察官にぜひとも読んでもらいたい。

 自分と思想のちがう人間と、どうやって平和にくらすかということが、いま、私たちにいちばん必要な知恵だ。
 自分は正しいのだから、まちがった相手にはどんなことをしてもいい、というかんがえをなくさないといけない。問答無用ということばがあるが、こんなことばはなくしてしまいたい。
 どんなにかんがえ方がちがっても、相手の言い分をよくきき、自分のほうが正しいと思ったら、その正しさを相手にわからせる努力をすべきだ。
 相手にわかるように言えないというのだったら、それが正しいことかどうか、はっきりしないということだ(189)。

以下は、ゆとり教育を打ち切らせ、詰め込み教育を復活させようとしている方々にぜひとも読ませてやりたい。

 人から命令されておこなう善は善とはいいにくい。それは人から命令されておこなう悪が悪ではない場合があるのとおなじだ。
   ほんとうの道徳というものは、人から命令されること自体を、これは善だろうか、悪だろうかと、自分で判断する自由をふくんでいる。
 道徳を教科としておしえることは、この自由を制限するおそれがある(205)。

こういう言葉を読んでいると、特定に誰かに向かって言うわけではないが、「ざまあ見ろ」と言いたくなってくる。

こんなものを13歳の私は読んでいたのだ。

最後にひと言。水泳を習っておけと松田先生は言う。その理由は、日本は周りを海に囲まれているからだ。

泳げない私には、きつい一言だ。私が泳げない理由はただひとつ。周りの人たちが曲がりなりにも泳げる中で、ひとりバッタンバッタンともがいていることを見せるのが恥ずかしかったからだ。松田先生もそれをずばりと見抜かれている。

これは英語が話せない人にも共通している。下手であることが恥ずかしいと思ってしまうことが上達を阻害する最大の原因である。

だから、私は授業の最初に、英語が苦手な人も、得意な人も実は同じように英語がよくわかっていないのである。だから、苦手だと思っている人は安心してほしいとなだめる。一方、得意だと思っている人には、慢心しないでほしいと釘を刺す。そうやって、みんなを同じ土俵に乗せてしまうのである。

ちょっといいアイデアでしょ?


この本は売りませんよ。自分の息子たちが人生に悩むような時期にきたら、読ませてやりたい本なので。

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『明治人物閑話』

まだ、内田樹氏のあとがきしか読んでいないのだが、これもあとがきを読んだだけですべて読んでしまったような気分になった。

要するに、ウチダ先生によると、この本は学究的常識を軽々と突き崩してくれる本なのである。

学者たちは自説をなすには客観的典拠がなければすまされないというような常識に縛られている。私もそのうちの一人である。しかし、森銑三氏は、その説を述べているだれだれ先生はいい加減なことを言う人ではないから、その説は正しいのであるとあっさりと言い切ってしまう。

ウチダ先生は、「そうか、それでいいのか」とハッとさせられたそうだ。

大事なのは、人間を見る目の確かさだけであり、ポストモダニズムやら、カルチュラルスタディーズやら、フェミニズムだのという知的ファッションなどどうでもいいのであるという。同感である。



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『お部屋も心もすっきりする 持たない暮らし』

この本を図書館で予約したが予約件数が多くて、なかなか借りられない。しかし、以下の紹介文を読んで、読んだ気になってしまった。

持たない暮らし : akiyan.com

「持たない暮らしの”七つの習慣”」

  1. もらわない
  2. 買わない
  3. ストックしない
  4. 捨てる
  5. 代用する
  6. 借りる
  7. なしで済ます

「なしで済ます」&「代用する」ことができるかどうかで、その人の創造性が試されると思う。

このakiyan.comのサイトには、引用の域を超えた著作権違反行為であると批判するコメントが書き込まれていた。果たして、その批判は正しいのだろうか。

私は法律の専門家ではないのでまったくわからないが、本来ブックレビューというのは、本の内容をきちんと紹介する行為であり、その意味では、上掲のサイトはまっとうなブックレビューになっている。

レビューと称して、ほんの一部を取り上げ、「この本はクズである」などと作品を全否定したり、レビューアー自身の身勝手な考えを伝える場に変えてしまったり、単に自分の著作物の宣伝に使ったりするような悪質な行為も世の中にはまかり通っている。

それに比べたら、はるかにましではないだろうか。いちいち目くじらを立てるほどの行為なのだろうか。

著作権法違反だなどと大げさにがなりたてるような、正義感の強い人がひとりでも混じっていると、たちまちその場の雰囲気が悪くなり、とたんに居心地が悪くなる。

この本のタイトルは『持たない暮らし』というのだから、わざわざ本を買わなくてもよいようにしてくれているレビューアーの行為は、著者の理想とする状態をつくる補助してくれているのではないだろうか(笑)。


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『なぜオシム語は人を惹きつけるのか』

気になる目次だけを拾っていく。目次を見れば、読むべき価値がある本かどうかわかるかもしれない。

「気づきの言葉」をたくさん持っている不機嫌な男
夢ではなく現実をとことん考える
無い物ねだりではなくあるものを活かす
絶対負けない喧嘩をする
あえて挑戦的な言葉を投げかける
反権力、反権威がオシムの真骨頂
ゴーンとオシムの共通点は数学的思考法
あれこれいわず短い言葉でビシッと伝える。
感動するからハマってしまう。
言葉に「毒」をまぶす
予想を裏切り、予想を上回る
問題解決のヒントに満ちている
凡才チームが天才チームに勝つ方法を教えてくれる
「縁の下の力持ち」をけっして忘れない
失敗の知識化を教える
モチベーションを刺激するオシムのひと言
ユーモアと皮肉で包んで料理する
サッカーで人生を熱く語る
たとえ話の原則---目からうろこがぽろぽろ落ちる
たとえが巧い人、下手な人
ほかの数値に換算してみるとイメージがつかめる
「毒と挑発」の原則---鮮やかな印象でハッとさせる
毒は劇薬という特効薬に変わる
「シンプル」の原則---複雑な話を簡単、単純にする
「ひと言で言えば」を巧く使う
要約力に頭の中身が透けて見える
「天の邪鬼」の原則---常識に風穴を開ける
逆転の発想ができるか
チーム力は平均値で決まるものではない!
「論理」の原則---誤解させない、錯覚させない
三段論法、起承転結、順接展開がいちばん正確に伝わる
「ユーモア」の原則---ひと言で場の雰囲気を変える
魅力がない人は必ず話もつまらない
話の引き出しを増やしておけ
人を見抜くひと言を持っているか

私はサッカーにはまったく興味はない。しかし、監督や調教師(トレーナー)としてのオシム氏ではなく、教育者としてのオシム氏の指導法には興味がある。

僭越ながら、申し上げさせてもらうと、私が普段行おうとしているスタイルに、彼の指導法がよく似ているのである。

まずは世間の常識とはかけ離れた発想法という毒を学生たちに提示し、彼らの頭を混乱させる。その混沌の中から、シンプルでやさしい言葉を使いながら考え方を論理的、数学的に整理していき、彼らの頭の中にマトリックスを形成させる。たとえ話を多用し、なるべくイメージしやすくする。そして、学習の過程を、人生にたとえ、人生を熱く語るのである。

偉そうな言い方だが、私は、学生時代の自分が受けたかったような授業をしようと思って授業をしている。もしかしたら、オシム氏は私の同志かもしれない。

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金子由紀子、『暮らしのさじ加減』

10年ぶりに砂漠に降った慈雨のように実にやさしい本だ。意味がわからない? 意味なんて、そのうちわかりますよ。

金子さんは、中島敦の『山月記』の一説を引用している(22)。なつかしい友人に再会したような気分になった。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、

何事かを為すには余りに短い。

念のため、この一説を含む箇所を青空文庫から引用しておく。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎(ひごと)に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪(たま)らなくなる。

私も、「虎」かもしれない。厳しいな。

金子さんの本に話を戻そう。

金子さんは裏技や裏技を扱ったテレビ番組が嫌いだという(42)。時間の無駄を省くために、わざわざ裏技を覚えるのが面倒だからである。私も大嫌いである。私とは違って、父は裏技というのが大好きで、本棚に裏技の番組本を3冊も飾っている。しかし、どうやら何一つ続いているものはないらしいが。

さらに嫌いなものとして、ファミレスをあげている(48)。これも同感である。正直言って、ファミレスでは価格に見合うだけのおいしさや満足を感じられない。家族4人で4000円も支払って、ハンバーグ定食なんて食べても、家で食べる冷凍食品の198円のハンバーグとさして代わりがないし、むしろ家で食べるほうがゆっくり落ち着いて食事ができる。無愛想なウェイトレスにいやな思いをさせられることもないし、大声で話すお客の下品な会話を耳にすることもない。

裏技も外食も自分の時間を節約する人には都合がよいのだろうが、けっして財布にやさしいわけでもないし、生活の余裕を失わせる原因になっているのではないかと思う。

たまの休みだから、どこかへ行こう、贅沢をしようというのも、家族を不幸にする原因である。どうせ渋滞にはまってイライラをつのらせるだけなのだから、そんなことをするより、ふだんの生活を充実させることにもっと気を配ったほうがいいと金子さんは言う。

金子さんは、もうひとつよい言葉を紹介してくれている(67)。

起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半

私もモノや他人にに振り回される生活はまっぴらごめんだ。

金子さんの先輩にちょっと変わった人がいたという(128)。まるでいまの私を見ているようだ。誰もが知っている情報には疎いが、逆にトリヴィアルな知識を持っている。ほかの人が知っているのなら、教えてもらえればいいだけで、別にわざわざ自分が知らなくてもいい。膨大な知識を集めても、それらを全部処理し活用することは不可能だ。だから、自分にとって何が大切か、自分が知るべきことは何か、ということをきちんと見据えて生きるべきなのだ。

金子さんによると、中国料理は野菜をすべて加熱して、ビタミンを減らしてしまうのだが、それは人間のビタミンの処理能力を考えたものだという。限度を超えたビタミンを摂取しても、毒になるだけである。情報もそれと同じではないかと金子さんは言う。おっしゃるとおりである。

無買日(Buy othing day)というのが北米にあるそうだ(142)。一日お金を使わずに楽しむのである。お金というものは、自分の代わりに何かをしてくれるものである。自分がやりたくないことをやってもらえるし、労力のかかることをかわりにやってくれる。自分ではできないようなことを可能にさせてくれる。だから、みんなお金をほしがるのである。しかし、お金は考えることや楽しむことまで代わりにやってくれてしまう危険がある。そこで、お金を使わないというシバリを与えた時点で、その人の生きることに対するクリエイティヴィティが明らかになるのだ。得てして、お金をかけないと楽しめないと思っている人は、お金を稼ぐことが人生の第一目的となり、お金を支払ったもの=自分らしさであると勘違いしている。しかし、大切なものはお金では買えない。お金をかけないで楽しんでみることで、宝の山は自分自身であるということに気がつけるのである。

私はこの本を読んで、自己肯定感でいっぱいになった。まるで10年ぶりに砂漠に振った慈雨のようなやさしさを感じた。ほんのちょっとのさじ加減で、人生は楽しめるものになったり、つらいものになったりする。充実した人生だったと思って死んでいきたいものである。

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片づけのコツ

片付けが必要なのは勉強でも同じ。長年のうちに集積した知識の断片で逆にものが見えなくなってくることが多い。

だから、部屋を片付けるように、必要なものと不要なものを仕分けして、不要なものを思い切って捨て、ひとつあれば済むようなものを一つだけ残し、足りないものは買い足して、どこに何があるか、手に取るようにすぐにわかる状態にしておく。

頭の中もそのくらいシンプルであると、さっぱりしたいい人間になれると思う。

「家は自分の延長です」(60ページ)と著者は言う。まったくそのとおりである。家の中が散らかっている人は、頭の中も散らかっており、しょっちゅう混乱している。

「暮らしの核になるものを見つけよう」(78ページ)という提案も振るっている。旅に行く予定がなくても、持って行くもののミニマムリストを作ってみる。すると、暮らしの核になるものがわかる。残りはすべてなくてもよいものなのである。

「買っているつもりが買わされている」(97ページ)という視点を持つのも重要である。

「『元に戻す』を体で覚える」(159ページ)。元の安定した体勢に戻すのは武道やスポーツと同じ。それを体で覚えるしかないわけだ。




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『のんびり行こうぜ』

昨日から、私の机の上には、野田知佑氏の『のんびり行こうぜ』(昭和61年初版)がある。アマゾンでは古本が1円(郵送代が340円?)で販売されている。

実家の倉庫に20年以上眠らせておいたため、表紙はきれいだが、紙質が悪いらしく、だいぶ黄ばんでおり、時代を感じさせる。シミもたっぷりついている。

野田さんが千葉の亀山湖付近に住んでいたころのエッセイで、いまはおそらく別の場所に居を構えているはずである。

プロフィールに昭和13年生まれと書いてあるから、彼は私の両親より少し上の世代の人間である。もう70歳を優に超えている。

私はこの本を中学3年か高校1年のときに読んだ。当時はまだ、環境問題や自然破壊についてほとんどメディアでは取り上げられなかった時代である。

私がこの本から受け取ったメッセージは、必要最小限の荷物をカヌーに積み込んで、自然や川のそばで暮らしている人たちと対話をしながら悠久の時間をすごしてみれば、不遜な態度を改められ、人間本来の謙虚さを取り戻すことができるというものである。

人間たちは数々のモノで武装し自然より強くなった気になっているが、とんでもない幻想である。

自分自身のカラダで自然との対話を楽しんでみると見えてくる世界がある。

この本は、そういうものを疑似体験させてくれる。

この本を読んでからカヌーで川下りをするのが私の夢になった。しかし、いまだにその夢は実現していない。私がときどき足を運ぶモンベルショップには、折りたたみ式のカヤックが展示されているのだが、あれを見るたびに今夏こそカヌー教室に家族で参加するぞという気持ちになる。でも、予算の都合でなかなか。

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注文が入った!

アマゾンマーケットプレイスに出品していた英語学習関係の二冊に注文が入った。TOEIC関連の本ではなく、それぞれ発音と発想に関する本。語学関係の本から売れていくのは予想通りである。

文学関連にはなかなか注文が来ないような気がする。値段が高いものしか出品しなかったから。しかし、語学関連の本とは違って、どれも価値のあるものばかり。詩集や思想関連の本なんて、神保町あたりを探し回ってもなかなか見つからないようなものだと思う。

それにしても、いざ配送手続きをすることを考えると、自分の娘を嫁に出すような感傷的な気持ちになる。

書籍を送る場合、昔は「書籍小包」とか「冊子小包」」といったけれど、いまは「ゆうメール」と名称が変わったことをいま初めて知った。

料金は150gまでが180円、250gまでが210円、500gまでが290円、1kgまでが340円、2kgまでが450円、3kgまでが590円となる。

それ以上は「ゆうパック」だ。たいていのものなら1000円くらいで収まるようだ。

アマゾンのサイトには、2営業日以内に注文者に当該書籍を郵送する手続きを取らないと、評価が悪くなるという脅しが書いてある。怖いねえ。

「2営業日」って、土日祝日を除外するという意味なのだろうか。よくわからないけれど、私は専業でやっているわけではないので、2日で発送するというのはけっこうきつい。まあ、代わりに妻に郵便局に出向いてもらえればいいのかもしれないけれども。

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『収ったり、出したり』

ふつうの収納術には、「いい場所を見つけてやる」という発想が根本的に欠如している。

 自分にとって大事なものの居場所を工夫して見つけてやるのは、実は面白い作業だと思っている。そして物の置き方、並べ方を試してみて、ここに置くと一番きれいに見える、ずっと見ていても見飽きないというレイアウト、デザインが決まるとすごく爽快、すごく誇らしく感じる性分なのだ(49)。

はっとさせられた。便利さ、快適さ、居心地の良さの追求だけではなく、美しさの追求も必要なのだということを堀井和子氏は教えてくれている。

掲載されている数々の写真には、他の実用的な収納術の本にはないような、雑然とした感じと生活の匂いが漂っている。しかし、それだからこそ美しいと思えるのかもしれない。不思議な本である。

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『貧乏神髄』

2002年発行の本。「スローライフ」などという軟弱なコトバがまだなかった頃である。タイトルは坪内逍遥の『小説神髄』をもじったものだろう。

著者の川上卓也氏は昭和49年生まれなので、私の弟と同い年。28歳くらいのときの著作になる。自分が28歳だった頃と比べたら、えらく老成しているように思える。

どこぞのすっとこどっこいの企業のトップにクビを切られる前に自分をリストラし、生きることを真に楽しむために貧乏に降り立ったらしい。

貧乏には本物とニセモノがあり、ニセモノの貧乏は貧乏臭いのだそうだ。貧乏臭い人は、自分に足りないものを消費で補い、モノに頼ることで自己を維持し、確固たる個や思想をもたない。この人たちの生活に必要なのは、「何を買うかを選ぶことだけ」(227)と喝破する。

貧乏臭さの漂う現代の日本を川上氏は「一億総貧乏時代」と名づける。耳の痛いコトバである。

開高健の『ロビンソンの末裔』(昭和39年刊)を紹介するコラムの中の次のような文章が心に響いた。

 冒頭、東京の家の家財を売り払うシーンは印象的です。六畳間いっぱいに並んだ役に立たない家財道具も、いざ捨てるとなると惜しい気がする。「これだけくだらないものを背負わなければ人間は暮らしていけないのか」とうんざりするシーンは、現代の貧乏人の胸にも響くのではないでしょうか。敗戦から何十年も経ち、日本は経済大国と呼ばれるに至りました。けれどそれは、「これだけくだらないもの」が自由に手に入れられるだけのものなのかもしれません。 

 生きることに精一杯にならなくても生きられる時代、他に精一杯になれるものを見つけることこそが、本当の豊かさではないでしょうか。豊かさの享受がくだらないものを消費するだけというのでは、なんだか寂しい思いがします。精一杯にふさわしいなにかを見つけ出すことは、現代における開拓ではないでしょうか。自分の可能性を開拓し、まいた種はやがて芽を出し、実りを収穫できたなら、その喜びはロビンソンの末裔たちが得ることになったかもしれない収穫の喜びと同等だと、胸を張って言える気がします(195ページ)。

私には川上氏のように、炊飯器も冷蔵庫もテレビもまだ捨てられない。洗濯機を捨てることなんて考えたこともない。

けれども、情報の消費期限があまりに短い新聞は何年も前から購読しなくなったし、腐臭の漂うテレビはほとんど見なくなった。ラジオもめったに聞かない。ケータイ電話も今月末で解約する予定。あとはパソコンとインターネットか。そこまでは私にはむずかしい。

人は自分が主体的に消費しているつもりでも、実は消費される側の人間になっているという現代文明批判がこの著作の基調である。私はその思想に全面的に首肯できる。

しかし、完全に消費主義に反旗を翻した生活を送ることは家族持ちの人間にとっては現実的に不可能である。現代人は生活の糧を稼ぎ、それをお金に変換し、それで別のものを手に入れる。その過程とそれによって手にするものをミニマムしていくというのが著者の理想である。それは「一人暮らし」だからこそ、容易にできることだ。

「シンプルライフ」を目指す私も川上氏と同じ方角を向いていると信じているが、不便さを極端に我慢する必要もないと思う。

したくないことはしない。必要のないことはしない。自分ができる範囲に収まることだけをこないしていく。生きる指標はこういうことだけで十分じゃないかと思う。

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『自分でわが家を作る本』

家だって、DIYすれば、ローンを組まなくても済むかも。

著者は在来工法の家を860万円(窯業系サイディング、ペアガラス樹脂サッシ)で作ったそうだ。質素な家(外壁は杉板、アルミサッシ)にすれば470万円(33ページ)。

我が家の近所の建設中の家は、「560万円の家」と書いてある。人に頼んだほうが安上がりということもあるようだ。

家を作るといっても、法律の知識や電気の知識なども必要になるし、ひとりでやるのは大変だ。たとえログハウスだって、自分で作るなんて私には考えられないな。あっぱれ。

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『そうじ以前の整理収納の常識』

私が参考になったのは次の2点。

1.毎日使うものは取り出しやすくする。

2.引き出しの中に箱をひとつ入れるだけで片付く。

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『捨てない!シンプル整理術』

私は高校の担任の先生に、「人生で大切なことは自分の座標軸をもつことだ」と教えられた。先生はどういうことを言おうとしていたのかを自分が完全に理解できたという確信はいまだに持てない。

しかし、物事を考えるとき、座標軸をつくってみるというのは一応やっている。

この本にも、整理術の核心として、その座標軸が紹介されている。

縦軸に「役に立つ」、「役に立たない」を置く。こちらは客観的な評価である。

横軸に「関心がある」、「関心がない」を置く。こちらは主観的な評価である。

すると、右上のカテゴリーには、役に立つし、自分でも関心があるというものになる。シンプルにものを考える場合、これを優先すればいいというわけだ。

「関心もないし、役にも立たない」という左下のカテゴリーは真っ先に捨て去るべきものがくる。

通常の場合、「役に立つけれど関心がない」、「関心があるけれど役に立たない」というものが多いだろう。私の人生は、「関心があるけれど世の中には役に立たない」、さらに言うとお金にならないというもので占められている。

この整理法は、モノばかりではなく、人間にも当てはめることができる。やはり、できるだけ左下の「関心もないし、役にも立たない」というカテゴリーに入る人間は切り捨てるべきだろう。誰からも好かれるのは無理だし、人生は短いのだから。

この本の中で著者がもっとも言いたかったことは、どうやら次の二点に集約されるようだ。

1.しなくてすむことは、しない。

2.いらないものは、いらない。

つまり、「自分の納得できることだけをしよう」(219ページ)ということ。

実用的な整理術のひとつを紹介しておく。「いらない衣類の見分け方」(128ページ)である。

  • すでにサイズが合わない
  • その服に二年以上まったく袖を通していない
  • その服と組み合わせられる服がまったくない
  • 好みが変わりきらいになった
  • バーゲンなどで安さにつられて買った失敗作
  • 似ているテイストの服の古いほう
  • ほころび、しみ、傷などがあって袖を通す気にならない

「その他の整理」も参考になる。

    1. 子どもの作品などはしばらく飾って、本人といっしょに写真に収めてから処分
    2. 余分なものを持ち込む結果になるので収納場所を増やしすぎない
    3. レジャー用品、季節限定用品などはレンタルを利用する
    4. どうしても処分に迷うモノのために「迷い箱」を用意。二週間をメドにして「行く先」が決まらなかったら処分
    5. つかれてへとへとになるほど整理に打ち込みすぎない
    6. バーゲンのDMは見ない、会場にも極力近寄らない
    7. 「モノを得る」ということ以外の豊かさや満足感を知る

最後の項目は、もっとも大事なことだと思う。

100円ショップダイソーで購入したiPod nanoのシリコンケース。エレコムから出ている1000円の商品との違いは、ペンダント型のインナーフォンをぶらさげる穴がついていないところだけだと思う。こちらのケースは裏に足(突起)がついている。

Ipodcase

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「選ぶ!」技術

人は生きている限り選び続けていくもの。選ばずには生きていけない。

著者は、選ぶ主体を他人ではなく自分を据えることを提案している。

「これは一生モノですよ」とか「お似合いですよ」などというコトバにはだまされずに、自分が気に入ったかどうかだけを基準にして対象を選ぶのだ。

賢い消費者になれなくたっていい。自分が気に入ったという気持ちを大事にしたい。

もちろん、失敗や後悔もあるだろう。しかし、それがよい経験になる。

美術鑑賞でも、価格の高さとか他人の評価が気になるものだが、そんなことはどうでもいい。自分が好きかどうかだけでいいのである。

「身辺をオーガナイズする」というコラム(134ページ)の中で、アメリカでもオーガナイズすることの重要性がさかんに言われているということが紹介されている。要するに、不要品を処分して身辺をすっきりさせるということだ。

自分自身をオーガナイズできれば、探し物もなくなるので、時間を無駄にすることがなくなるかもしれない。

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魔法使いチャッピー

Photo

実家の倉庫から掘り出してきた『魔法使いチャッピー おはなし魔法のドライブ』(ソノシートつき)は以下のサイトだと4600円で販売されている。

バナクレ棚=絵本/アニメ絵本&特撮/宇宙船の棚

手塚治虫の『ビス・ビス・ビス星ものがたり』はけっこうレアものかな。

『三平の釣りキチ道場』は私が子どもの頃むさぼるように読んでいたもの。古本市場では安いらしい。

いずれにせよ、ぜったいに手放したくない本たちである。

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思考のレッスン

Lesson

この本も成仏させてやらねばならない。

しかし、大事なのは、本という物体ではないんです。テクストを読んだとき、テクストと僕とのあいだで、ある種の幻想、観念が生じるわけでしょう。ロラン・バルトふうに言うと、テクストと読者とのあいだに電流が通じる。それがなければ単なる白い紙に黒いインキがついて汚れている物体にすぎないわけだから(単行本版169ページ)。

大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいのかだってわかるんです(183ページ)。

 勘九郎さんは「演技で大事なのは型である」と言う。同時に、「その型をするときに、なぜこういう演技になったのかを考えることが大切だ」とも言っているんですね。(中略)つまり型の成立する原点まで戻って考えて、その上で学ぶわけですね。

 先代仁左衛門さんの型についての説もおもしろい。仁左衛門さんは、「役者ってものはみんな身長その他違うんだから、人の型なんか取入れたってあんまり意味がない」と言うんですね。

 これを延長して言えば、型の生まれたゆえん、自分と型との関係、そういったことを考えないで、ただ型をなぞるのでは意味がない。つまり、通説、定説に無批判に盲従していても意味はないということです。それは官僚主義というものですね。ところが日本の学者には官僚が実に多い(196-97ページ)。

 とにかく最初に仮説を立てるという冒険をしなければ、事柄は進まない。直感と想像力を使って仮説を立てること、これはたいへん大事なことですね。

 同時に、仮説を立てるに当っては、大胆であること。びくびく、おどおどしていてはダメです。同じ仮説なら、みんながアッと驚くようなものを立てたほうがいい。つまり仮説を立てるに当っては、学者的手堅さよりも、むしろ藝術家的奔放さのほうが大事だと思う。

 自分の直感と想像力を信頼するのが大事で、実證主義に遠慮してはならない。もちろん実證主義も大事だけれども、それに「主義」がつくと、単なる臆病、あるいは前にお話しした学問的官僚主義に陥ってしまう(217ページ)。

 人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。そういう風情を見落としてしまったとき、人間の考え方は堅苦しく重苦しくなって、運動神経の楽しさを失い、ぎごちなくなるんですね。

 つまり遊び心がなくちゃいけない。でも、これは当たり前ですよね、人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから(229ページ)。

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中沢新一の宗教入門

Nakazawa

中沢新一、『夜中の学校⑨ 宗教入門』(マドラ出版、1993年)

これは1991年の9月に4週にわたってテレビ東京で放送された番組の採録である。

この本も蔵書の整理をしているうちに出てきたもので、成仏してやるために、アンダーラインを引いたところを中心に斜め読みした。

ほぼ終わり近くで、次のように中沢さんは2000年代の最初の10年間を予言するようなことを述べていた。

 これから宗教というものは、人間の世界の中で、いろんな意味でとても大きな影響力を持ってくるでしょう。キリスト教的な原理が市場経済ということを通じて、もっと広い影響力を地球上に発揮するようになるだろうしね

 市場経済型の原理の影響力は、前にもお話ししたように、ものごとを単純化して誘惑するようなものとして働くようになるでしょう。広告ですね、早い話が。それは深いものを浅くし、重いものを軽くし、暗い部分を持つものを明るいものに作り変えちゃう働きを持っています。

 でも、人間の知性というものは、それだけでは満足しません。もっと深いもの、暗いところへつながりのあるもの、それを表現しようとすると、とてつもない何かが飛び込んできてしまうようなものを求めます。そのとてつもないものを表現しようとするから、口ごもったり、気絶したりするしかないこともあるんですが、それを自分の力で捉えていこうとする人間の欲望は、なくなるどころか、ますます増大してくるでしょう(93-94)。

物事を単純化するという「広告」の機能を存分に利用したのが、小泉政権であったのは記憶に新しい。その単純化に大衆は幻惑されてしまったが、その悪夢から、いままさに目覚めようとしている。

「広告」をビジネスの中心に据えるモデルは、2008年9月に発生した金融危機以降、徐々に力を失ってきている。大企業からの広告費に依存してた大メディアはその経営方針の再考を迫られ、週刊誌や月刊誌などの中小のメディアはバタバタと倒産している。

しかしながら、これは物事を単純化するという広告の力が衰退してきていることを示していると素直には受け取れない。

複雑に考えなければいけないという学者の主張に、一般大衆は飽き飽きしているからである。

単純に考えれば言い訳でもないし、複雑にコードが絡まった状態を放置しておいてよいわけでもない。これは処理するのがたいへん難しい問題である。

My Life With Cables - Abstract City Blog - NYTimes.com

I don't like cables, too.

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僕ならこう考える

Yoshimoto

10余年前、当時付き合っていた女性が私に読むようにしつこく勧めた単行本の文庫版である。

私はこの本を2000年3月30日に購入した。奥付にそう書き込んであった。

そのころから、「癒し」という言葉が盛んに使われるようになったと記憶している。

その女性は「癒し」がほしかったのだろう。

いくらか読み返してみて、この本の中でもっとも重要な部分は「ありのままでいい」ということだと感じた。

「だから、どうしたらいいんだと言われたら、やっぱりそれでいいんじゃないでしょうか。嫌な性格はそのまま放っておいて、長所を伸ばすようにすればいいんじゃないでしょうか」(「自分を好きになる方法、好きな自分の見つけ方」、15ページ)

このあと、教師も腹が立つときがあるのなら、生徒に対してその気持ちを素直に出せばいいじゃないかということも吉本さんは言っている。

世の中の多くの人は、「いまの自分はだめなんだ。もっと努力して、自分を変えていかなければいけないんだ」と考えている。

諸悪の根源は、それだと思う。

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トレイルランニング

いつかやってみたいなと思うのがトレイルランニング。

トレイルランナーの走り方を見ると、一般道の走り方と少し違うような気がする。

山道は捻挫の危険性が高いから、テーピングもしっかりしないといけない。

山道を一人で登るというのも、ハードルが高い。

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寅さんに学ぶ日本人の「生き方」

志村史夫、『寅さんに学ぶ日本人の「生き方」』(扶桑社、2008年)を読んだ。

精神論ばかりで、寅さんの謎のトランクの中身などという具体的な話がないのが残念。

お説教を聞かされているような気分になった。

寅さんは「世間体」を気にしない。一般に「アウトサイダー」はニヒル(虚無的)であるが、寅さんは決してニヒルではない。寅さんの「独自の思想」とは、いま述べたように「競争原理とは無縁で、排他性を持たず、己の利益を捨てておいても、他人の幸福のために尽くす」という思想なのである。このような「独自の思想」を持つ人物が、結果的に現代社会の「帰省の枠組」の「外」に出てしまうのは仕方あるまい(28ページ)。

この部分が著者の寅さん観を要約した部分。残りはほとんどが水増し。何度も何度も同じ話が続く。

この本は寅さんのセリフの引用部分のいくつかだけを読めば十分である。

印象に残ったのは2つ。インテリ論と教育論である。

「ええ、治りますよ、インテリというのは、自分で、考えすぎますからね、そのうち、俺は何を考えていたんだろうって、わかんなくなってくるわけなんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャに込み入っているわけなんですよね。ええ、その点、わたくしなんか線が一本だけですから、まあ、いってみりゃ空っぽといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ」(208ページ)

この「インテリ論」が1992年(平成4年)の東京大学の国語の入試問題になったそうだ。問題は、これについての自分の考えを160字以上200字以内で記すというもの。

赤本の模範解答では、寅さんに庶民が魅力を感じるのは、寅さんが多面的・多角的思考をするインテリに対するアンチテーゼや解毒剤になっているからだというのである。笑止千万である。

著者もこれを取り上げ、インテリが必ずしも多角的思考の持ち主であるとは考えられないと書いている。同感の極みである。

二つ目の教育論はこうである。

「人は何のために勉強をするのか」という問いに対して、第40作『寅次郎サラダ記念日』の中の寅さんが出した解答が次のものである。

「つまり、あれだよ、ほら、人間、長い間生きていれりゃあ、いろいろなことにぶつかるだろう。な、そんな時、俺みたいに勉強していない奴は、この、振ったサイコロの目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。ところが、勉強した奴は、自分の頭できちんと筋道を立てて、はて、こういう時はどうしたらいいかなと、考えることができるんだ」(219ページ)

勉強や学問の目的は、自分の頭で筋道を立ててものが考えられるようになること。これしかない。

その他、著者は寅さんの中流・上流意識を取り上げ、贅沢を戒めろ、身の程を知れという「生き方」を説く。

確かにおっしゃる通りなのだが、他人に言われる筋合いのものではないという気になってしまう。

最初に戻るが、私が読みたかったのは、そういう精神論ではなく、具体的な「暮らし方」、要するに、寅さんのサバイバル術のほうである。

寅さんは、数々の危機的な場面でどう対処してきたか。この奥義こそが、現代の人類に伝えるべきものだろうと思う。

私がこういう本を書いたとしたら、寅さんの魅力だけしか書かなかっただろうと思う。著者のように、寅さんはこんなにすばらしい人物だが、それに引き換え現代の日本人は、なんと劣化していることか、などということはぜったいに書きたくない。

そんなことは、言われなくても、読者は自分で気づくもの。わざわざ言われると反発したくなるだけである。

「おっしゃるとおりです」、「ごもっとも」、「さすがです」という賞賛と同意のコトバだけを並べるのが正しい紹介文である。

偉そうなことを言ってはいけない。そういう偉そうなことを言う奴こそ、寅さんに言わせたら、「無粋」の極みなのであろう。

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頭がよくなる照明術

以前読んだ本だが、付箋を貼ってあるところだけ見直してみた。

映画館とは異なり、テレビを見ていると目が悪くなるのは、画面が小さいので、周辺の光が視野に入り込み、目に負担がかかるからなのだそうだ。

英語では、映画館で映画を見る場合は、「自然に視界に入ってくる」という意味のseeという動詞が使われるが、テレビの場合は「凝視する」という意味のwatchが使われるが、凝視というのだから確かに不自然で、筋肉に疲労が残りそうだ。

自宅のテレビをホームシアターのようにするには、天井の照明を消して、ソファのうしろとテレビの後ろにライトを置き、壁のコーナーや天井の一部に光を当てる。

これによって、雰囲気をよくして、リラックスできる空間を作ることができ、さらには視力を落とさないという効果も生まれるという(177-179ページ参照)。

明かりというものは、自分より下に位置していたほうが落ち着くのだそうだ。古代人が、外敵に襲われることを防ぐために焚き火を囲んでいたという習慣が人類の集合的無意識に残っているのだろう。

それはともあれ、わたしはこのごろは一切テレビを見なくなったので、ホームシアターなんかどうでもいいんだけど、リラックスということでは、お風呂の天井照明を切って、浴室の外にライトを置いてみようかなという気になった。日帰り温泉になんて行かなくても、自宅のお風呂が夜の露天風呂みたいになるかもしれない。

昼間ラジオを聴いていていたら、3歳の子どもが食パンの耳を残すので、母親が「パンは耳から食べなさい」と言ったら、口ではなく、自分の耳にパンを突っ込んだという話が紹介されていた。

その話を小3の息子に風呂の中で話したら、それにちなむ謎々を出された。

子守唄を聞かせると眠くなるパンは、食パンとアンパンのどっちか?

答えは…。

わからなければ、誰かに聞いてください。

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成仏

本棚は売らないことにした。

本を衣装ケースに入れて押入れにしまいこむのは、あまりよいことではないような気がしてきた。

いままで押入れの中や本棚の奥にしまいこんでいた本を引っ張り出してきて、写真に収めて、エンピツで線を引いていたような部分を、このブログに写すようなことをしてみることにする。

本を愛するものとして、本はきちんと成仏させてやらなければならない。

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「捨てる」決心

絶版ですが、よい本です。家中にモノがあれふている方はぜひとも図書館で探して読んでみてください。

「いずれ」使うときがくるかもしれないし、「そのうち」譲るべき相手が見つかるかもしれないから「とりあえず」取っておこうとか、捨てるのは「もったいない」という意識こそをまず捨てるべし。そういうものが使われる日は99%来ない。

「いずれ」「そのうち」「とりあえず」「もったいない」というコトバは直ちに追放しなければならない。

いつでも捨てられると思ってはいけない。捨てるのは今だ! 

家の中は倉庫や蔵ではない。押入れは、使わないものを押し込んでおくための場所ではない。

私はこの本を読む前に、不要品を捨てる決意を固めていたが、まだまだその決意が弱いものであったことをこの本を読んで再認識した。

読み返すことはありえないのに、処分できない本がまだまだある。ブックオフに持っていったのは、蔵書のごく一部。処分するのは忍びなかったものを、衣装ケースの中に入れて押入れに仕舞いこんでしまったが、その9割以上は処分してもよいものであった。

先日空っぽにした180センチの高さの本棚1棹を近いうちにリサイクルショップに持っていくことにした。収納できる隙間があると、人間はさらに仕舞いこんでしまう癖がある。だから、収納スペースはできるだけ作らないのがモノを溢れさせないコツである。そういう心理を知っておくことに越したことはない。

今はまだ本棚の棚のゆがみがもどらないので、それが戻ってから、行動を起こすことにする。漬物石のような辞書を載せていた棚の1枚のゆがみが少し取れてきた。他の棚と比べるとそれがよくわかる。今朝、その棚をすべて重ねて、その上に小さな本棚を載せ、重たい本をたくさん積み上げた。1週間もたたないうちにまっすぐになってくれるだろう。

立川談志が落語のマクラで「新聞を購読しないということは勇気がいりますね」と話している。インターネットが普及する前の録音だろう。いまじゃ、新聞なんて取らないのが当たり前(?)。

談志の母上は、本など一切読まないという人だったそうだ。それもすごい。そうすると、家の中にあったのは、必要最低限のものだけだったはず。

夜逃げがしやすくていいな。

冷蔵庫や洗濯機や鍋などの家財道具はなければないでなんとかなる。着る物も2泊3日程度のものを旅行かばんに入れておけば、あとはお金さえもっていればいい。

夜逃げは不謹慎かもしれないけれども、災害に見舞われても、オレにはもう捨てるものは何もねぇ、何も怖いものはねぇぞ、と強くなれそうだ。

人は捨てなければならないものを山ほど抱えてしまう癖がある。あの世になんてもっていけないのにね。

なければないで済ませられるものは、どんどん処分したほうがいい。

書籍はすべて電子化して、デジタルブックで読めるようになるといいなと、いま本気で思っている。

専門書とちがって、新書や文庫本なんて、何度も参照するものではないから、一回読んで終わりがふつう。

雑誌が売れないというのは、雑誌は捨てるのが基本だから、買うのがもったいないという意識を人々が持つようになってきたからなんじゃないかな。

だったら、デジタルブックのような形で、有料で雑誌を配信したらいいのに。それでも、雑誌は今後もっと売れなくなるということが容易に予測できる。

なぜなら、テレビ番組と同じように、情報の鮮度がすぐに落ちるからである。

現代の若者は、友人や恋人とくだらないメールを送りあっているというが、雑誌だって、そのくだらないメールと同じような内容でしかない。消費期限が圧倒的に短い記事ばかり。発売された時点ですでに、消費期限が過ぎてしまっているものさえある。

そんな噴飯物を食わされるなら、友人や恋人とメールをしていたほうがはるかにましなのかもしれない。

だから、今後は、書籍の販売価格を2倍以上にして、全国の図書館に買い取ってもらうということで、出版業界はやっていくしかないのではないかと思う。

アメリカ人は本を買わない。それに比べて日本人は本を買いすぎる。アメリカ人のよううに、本は借りるものという意識に転換し、かつ公共物として書籍は図書館を通じて共有する形でいくべきなのではないかと思う。

基本、新聞・雑誌はデジタル化。

さもないと、ゴミが増え、処分場がなくなってしまう。

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『パパラギ』の新刊文庫本

私が自分の生き方を見直す大きなきっかけをつくったのがこの本。

お金、モノ、所有欲、忙しさ(ビジネス)、そして情報に振り回されて生きることは、不幸であると気づかせてくれた。

昔から私は禅僧にあこがれている。いろんなものにあこがれてきたが、究極的には、禅僧のような生き方だ。

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アマゾンのマーケットプレイスに出品

この棚のものをすべて、アマゾンのマーケットプレイスに出品しました。

値段のつけ方が少々悪いかもしれませんが、冷やかしがてら覗いてみてください。

Sale

『新編 英和活用大辞典―英語を書くための38万例』

『リーダーズ英和辞典 第2版』

『リーダーズ・プラス』

『ディラン、風を歌う』

『究極の英語学習法K/Hシステム入門編 ワークブック』

などなど。

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声に出して読みたい日本語

自慢ではないが、私はこの本が出た当初から高く評価していた。

しかし、知人男性は徹底的にこき下ろし、読書は黙読が基本だと言い張った。読んで意味を解釈することが、読書の第一義的な楽しみだというのだ。研究にかかわっている人なので、そういうことを言うのはわかるが、違和感を感じた。

中学生の頃、担任の先生(国語科が専門)は、草野心平やらダダイストの高橋新吉やら谷川俊太郎やらの詩をひたすら紹介し、子どもたちに読ませるという授業をした。

解釈なんてしなかった。ただ読んでおもしろがる。それで終わり。「リズムがいいね」とか、「言い回しが独特だね」とか、「発想が奇抜だね」とか、「字面が面白いね」とか、先生は実に控えめなコメントをそれぞれの詩につけていくだけだった。

従来型の、抹香くさい道徳の授業のようなことは一切しなかった。

「声に出して読みたい」というより、声に出して読まないと気がすまなくさせるようなものもあるのだということに、そのとき中学生の私は気づいたのである。

大学時代に、友人に連れられ、はるばる表参道まで詩の朗読会を何度か見に行った。能楽堂の舞台の上で、詩人や作家や狂言師などが、自作の詩や他人の詩をひたすら読み、その後、雑談をするのだ。写真でしか見たことがなかった、谷川俊太郎やねじめ正一や伊藤比呂美が目の前にいることに私はひたすら感動していた。

かれこれ20年も前のことであるから、日本におけるポエトリー・リーディングの走りであろう。

そのときも、読み手たちは解釈なんていう野暮なことは言わず、ひたすら彼らの声を聞かせてくれた。まるで詩が音楽のように聞こえた。まるでライブを聴きに行っているような感覚だった。

文学というのは、必ずしも黙読と解釈だけを要求するものではない。

声に出して読んで、リズムやテンポを味わったり、独特の言い回しを面白がったり、あるいはそれを自分なりにいじって会話に盛り込んだりするために、文学を利用しても一向に構わないのである。

文学研究者というのは独特な存在である。作品を解釈することばかりに気が行ってしまう気の毒な人種である。私もそのひとり。

だから、ときどき、齋藤さんの本を読んで、毒消しをしなければならないのである。

 朗誦することによって、その文章やセリフをつくった人の身体のリズムやテンポを、私たちは自分の身体で味わうことができる。それだけでなく、攻した言葉を口ずさんで伝えてきた人々の身体をも引き継ぐことになる。世代や時代を超えた身体と身体とのあいだの文化の伝承が、こうした暗誦・朗誦を通しておこなわれる(202)。

 世代を超えた共通のテキストを持つことは、世代間の信頼関係を強める効果がある。自分が大切に思い暗誦しているものを、子どもや孫の世代が暗誦し身体に内在化させているとすれば、そこに信頼感や安心感が生まれる。それが古典のよさである(203)。

 暗誦文化は、型の文化である。型の文化は、強力な教育力を持っている。一度身につけてしまえば、生涯を支える力となる。日本語の感性を養うという観点から見れば、暗誦に優るものはない。最高のものを自分の身の内に染み込ませることによって、日本語の善し悪しが感覚としてわかるようになる、モーツァルトを聴くことで、音楽の質を感じとる感性が養われるように、最高級の日本語にはじめから出会う必要がある。

 幼い頃に、意味のわからない文章を覚えさせるのは拷問とも言える強制だという考え方がある。私はこうした考えに与しない。できるだけ早い時期に最高級のものに出会う必要があるとむしろ考える。意味がわかるのはあとからでもよい。たとえ意味がわからなくとも、その深みや魅力は伝わるものだ。よしんばそのときに魅力を感じなかったとしても、後年それを覚えたことに感謝する時が来る。また、それだけの魅力を持ったものが暗誦・朗誦される価値を持つ(203-04)。

以下の二つは吉田兼好の『徒然草』から(164-65)。

あやまちは、安(やす)き所(ところ)に成(な)りて、必ず仕(つかまつ)る事に候(そうろう)。(=過ちは困難なところではなく、もう安心だとやさしくなったところで起きる。)

改めて益(やく)なき事は、改めぬをよしとするなり。(=変えても利益がないなら変えないことだ。)

どうですか。自民党の議員やら大企業の経営者に読ませてあげたいくらいでしょ。

道元禅師の『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』より。

身心脱落(しんじんだつらく)

只管打坐(しかんたざ)

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心(しんじん)および他己の身心をして脱落せしむるなり。

孔子の『論語』より。

之(こ)れを知る者は之れを好む者に如(し)かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。(=物事への関わりは知、好、楽を経て深まり、自由になる)

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壁と卵

【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演 - 47トピックス

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

要するに、村上さんは弱い側のにつく人間だということと。

弱い者が必ずしも正しいわけでもない。間違っていることもよくある。にもかかわらず、村上さんには弱い側につく習性があるのだという。

「壁と卵」のたとえはトリッキーである。

これを政治に置き換えて、イスラエルは「壁」で、アラブは「卵」、イスラエルは悪で、アラブは善という図式を思い浮かべる人がいる。

しかし実は、イスラエルの中にも弱者や善人もいるし、アラブの側にも強者や悪人もいる。

イスラエルは徴兵が義務になっているので、国家の命令で仕方なくアラブ人を殺さざるをえない人もいる。彼らを悪党と決めつけてよいわけではない。おそらく彼らだって相当に苦しんでいるはずだ。

物事は単純明快な二分法で捉えることはできない。

そういうことを物語に変換していくのが文学なんだという話である。特に、村上さんは人間の弱さを描きたいということなのである。

村上さんが、イスラエルに行って、イスラエルを皮肉っぽく批判したわけではないし、情熱的にアラブの味方をしたわけではない。

そんなことを考える人は、そもそも文学がわかっていない人である。

村上春樹「エルサレム賞」 “勇気ある批判”

それにしても、村上さんは60歳。おそらく相当走るのは大変になってきていると思う。私もいつまで走れるかな。

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名文の定義

「名文」とは『広辞苑』によると、「名高い文章。すぐれた文章」とある。

だが、ことさら有名である必要はあるのだろうか。むしろ、「優れた文」と捉えたほうがすっきりする。

ではどういう文章が優れているのか。定義しようと思ったら、予想外に難しい。

思いつくままに並べてみると、こんなふうになる。

1.リズムが心地よく、声に出して読みたくなる。

2.比喩が巧みである。

3.映像が浮かびやすい。

4.嗅覚などの五感に訴える。

5.余韻が残る。想像力をかき立てる。

6.人の心を動かす。

すべて主観的なものであり、コンピュータにも判断できるような基準ではない。こんな定義では、ガチガチの理系の人を苛立たせてしまうかもしれないが、逆に言うと、冷徹な論理では解明できない部分のほうが想像力をかき立ててくれて、かえって私には面白い。

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阿部絢子の本

著者は、現代生活の不快の原因は「多すぎるモノ」であると断言する。

この本は、捨てる技術、整理整頓する技術を紹介している。

私はバックパックひとつで40日海外を旅したことがあるので実感を持って理解できるが、人間一人が生活するのに必要なものは旅行かばんひとつに収まってしまうものである。

それ以上の数のモノというのは、究極的には不要である。

本もパソコンも電話も、誰かと共有して公共のものを利用すればいい。生活必需品の多くも、クルマも、さらには住む場所も、共有しようと思えばできることである。

高度資本主義は、「共有」という概念を根底から覆し、家族のメンバーも、粒状の「個」として確立させ、それぞれが自分専用のモノを所有することを促し、それによって経済活動を賦活させてきた。携帯電話も一人一台、テレビも一部屋に一台という具合に。

それによって、現代人の生活はモノに溢れ、それに比例して不快感も高まっている。

江戸の庶民は、狭い長屋にはモノが置けないので、お金をかけるのはモノではなく、食だったという。食べてしまえば、消えてしまうようなものにカネを使った。

そういうシンプルな生活のほうが、実は快適で豊かだったということに気づく人が近頃(高齢化とともに?)増えてきたような気がする。

死んだら、あの世にモノはもっていけないんだからね。金持ちも貧乏人も、生まれるときも死ぬときは身一つだ。

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カラダ革命ランニング

Kin

金哲彦さんの『カラダ革命ランニング』は中級ランナーにとって勉強になる一冊だ。

「レベル別にケガ・故障を予防する」という章では、まず初心者レベルで痛くなりやすいのは、ひざ、腰、すね、おなか。これらは誰しも経験する通過点と金さんは言い、われわれを安心させてくれる。私の場合、腰以外すべて経験済み。

中級者レベルでは、足の甲や裏。足の裏は足底筋膜炎。足の甲の痛みは腱鞘炎なのだそうだ。私も1ヶ月ほど前に経験した。痛む理由がわからず不安になった。

筋力以上に走るとひざの外側が痛む。これは腸脛靭帯炎(ランナー膝)と呼ばれるもの。金さんは「腸」の字を「脹」と表記しているが、この漢字は膨れるという意味だからおそらく間違いだろう。それから、爪のはがれ、足のマメ。運よく私はまだ爪のはがれを経験していない。

上級者レベルだと、股関節の痛み。腹筋が弱いせいで、大腿四頭筋ばかり使って走っているのが原因なのだそうだ。腹直筋だけではなく、下側の腹筋や、腸腰筋(インナーマッスル)を鍛えればバランスがよくなって、痛みが改善するそうだ。

ランナーというのは、脚力ばかり強くなって、上半身とのバランスが悪くなりやすい。だから、上半身の腹筋周りも鍛えておく必要があるとのこと。

ランニングはただ走ればよいわけではなく、筋トレも平行して行わないと、バランスを欠いた走りになってしまい、故障しがちになるのである。

この本では、故障を避けるための筋トレの方法が紹介されている。

金さんの本は、ほんと勉強になる。

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パパラギ再読

Papalagi ツイアビ、『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(岡崎照男訳、立風書房、1981/01)

『パパラギ』の絵本版ではない方を読んだ。

この演説集には、文明人には重い言葉が満載である。

私たちにできることがあるとすれば、ベルトールト・ディールの言うように、それはツイアビ酋長の言葉に耳を傾けて、その中からいくらかでも希望を見つけ出すこと。これしかないのだろう。

 パパラギは貧しく、その国はみじめだから、馬鹿が枯れ葉を集めて自分の小屋につめ込むように、物をつかんで集め続ける。だがそのためにまた、私たちをねたみ、私たちが彼と同じように貧しくなればいいと願っている。
 物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしには生きてゆけない(52-53ページ)。

 彼らは物を作らねばならぬ。彼らは物を見張らねばならぬ。物は彼らにつきまとい、小さな砂アリのように彼らの肌をはい回る。彼らは物を手に入れるために、冷酷な心であらゆる罪を犯す。彼らは男の名誉のためでも、力比べのためでもなく、ただただ物のためにのみ、たがいに攻撃し合う(55-56ページ)。

私たちの中にも、ほかの人よりたくさん物を持つ人はたくさんいるし、たくさんのむしろや豚を持っている酋長に、私たちは敬意をはらう。だがこの敬意は、酋長ひとりに向けられているものであり、むしろや豚が尊ばれているのではない。なぜならそれは、私たちの喜びを示し、酋長の勇気と知恵をたたえるために、私たちがアローファ(贈り物)として彼に贈ったものだから。
 だがパパラギは、その兄弟のむしろや豚の数をたたえる。勇気や知恵はどうでもよい。むしろや豚を持たないものは、ほんの少ししか、あるいはまったく尊敬してはもらえない(74ページ)。

 神からたくさんの物をもらえば、兄弟にも分けてやらねばならない。そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。なぜなら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、だれかひとりが他のものとは不釣合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心ではない。さらに、だれかひとりがこう言うのも神の心ではない。「おれは日なたにいる。おまえは日陰に行け」私たちみんなが、日なたに行くべきである。
 神が正しいその手の中で、すべてのものを支えておられるかぎり、たたかいもなければ苦しみもない。狡猾なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。「神様のものなんて何もない。おまえが手でつかんだものは、おまえのものだ」--- そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。正しい知恵に耳かたむけよう。すべては神のものだ(75ページ)。

こういう言葉を聞くと、経済学とやらがいかに無力かがわかるだろう。

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オバマ・ショック

越智道雄、町山智浩、『オバマ・ショック』 (集英社新書、 2009/1/16) Obamashock

テレビは、お二人のような広い視野からアメリカの大統領選を伝えることができず、ただのお祭り騒ぎの報道に終始した。

いま、冷静さを取り戻した我々は、アメリカの周期的な変化を見つめ、今後の展望を予測し、日本がたどるべき道筋を考えるべき時期が来ていると思う。

テレビでは、政治や経済の視点でしか、大統領選を伝えていないが、この本では、カルチャーの面からも捉え直すことができる。世界は、政治と経済だけで動いているわけではない。この当たり前の事実を完全に忘れている人が多すぎる。

[楽天で買う?]

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オバマ大統領就任演説

Obama2

『生声CD付き [対訳] オバマ大統領就任演説』(朝日出版社、2009年) が届きました。

リンカーン大統領とケネディ大統領の就任演説も同時収録されている。

パラパラと見ていたら、リンカーンもケネディもshallを使っているが、オバマはshallを使わず、すべてwillで通している。

たしかにshallは仰々しい。

時代がかって聞こえてしまう。

だが、このshallは個人の意思を表すwillとは違って、神の意思を表す助動詞だ。

オバマの場合、神に対する誓いという性格を完全に失っているのかもしれない。

こういうことは、多分だれも指摘していないだろう。

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まんがでわかるランニング障害解決事典

小嵐正治、『まんがでわかるランニング障害解決事典』(ランナーズ、ISBN-13: 978-4947537607、2004/09)

これ買っておくことにしました。

私は運動音痴のマラソン体験記のような本や、こうすればあなたも速く走れるという一流選手によるアドバイス本などを読んでころりと騙され、足腰の各所に数々の故障を経験しました。そもそも健康維持のために始めたランニングで不健康になってしまっては本末転倒です。

故障の大きな原因は、自分で自分のことを客観的判断できないというところにあるのでしょう。

その人たちと自分とは素質が大きく違うのに、自分にもできるのではないかという希望的観測に自動操縦され、どこまで練習してよいのかがよくわからなくなって、やりすぎてしまう。その結果、蓄積した疲労が故障を誘発し、トレーニングができなくなって、また最初からやり直しとなる。

亀のようにゆっくり焦らずに自分のペースで進んでいくことは意外と難しいことです。

それができるようになれば、自ずと故障も少なくなるのでしょう。

こういう本を読んで、頭を冷やしてから、本格的なトレーニングを再開してもいいのかなと思います。

ランニング障害事典

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パパラギ

『絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと』(立風書房、 ISBN-13: 978-4651930220、2002/03)

子供が借りてきた『発明・発見の大常識』 という本を寝る前にパラパラと読んでみた。近代文明における諸々の発見や発明を振り返ってみると、いかに『パパラギ』の中で酋長ツイアビが語っている世界観から、われわれはいかに遠くへ来てしまったのかということを思い知らされる。

『パパラギ』の冒頭で、ツイアビは、白人(パパラギ)たちが全身に服をまとい、本来美しいはずであるはずの体を隠し、体を卑猥で罪深いものであると見なすことに異常さを感じる。パパラギは「神さまに捧げて踊る、娘の美しい手足も罪深」く、「子どもをさずかるという最高の喜びのために触れ合う場所も罪」(7ページ)だとする。

この酋長の考え方を、文明に取り残された人のものだと見る人は、おそらくいないだろう。

遅れているとか進んでいるとかではなく、基本に忠実か、それとも基本から逸脱しているかだけの違いである。

環境問題やエコを口にする人たちは、基本や原点を見据えず、そこからますます大きく逸脱していくように私には見える。

彼らの自己欺瞞に満ちた行動を見るにつけ、文明の汚染度の高さに心が痛む。

 パパラギの国には、自分の頭に火の筒を当てて、自分を殺してしまう人たちがいる。ほんとうの話だよ。

 物がないなら死んだほうがましだ……この人たちはそう考える。

 食事の皿のほかはなにも持っていなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに(29ページ)。

 パパラギは私たちのところにも、彼らの物を持ってきたがっている。「物があれば、きみたちは、もっと働くだろう」と彼らは言う。パパラギの言葉はバナナのように甘い。

 だが物は毒を塗った矢だ。私たちは自然の大きな力が作った物のほかは、物などほとんど必要ではないことを忘れてはいけない(32ページ)。

 私たちには「ラウ」という言葉がある。「私の」という意味であり、「あなたの」という意味でもある。ふたつはほとんどひとつである。だが、パパラギの言葉では、「私の」と「あなたの」は大きく違うのだ。

 こんな話をしていると、みんなの目には怒りが、くちびるには軽蔑が浮かぶのが見える。そうなのだ。これがパパラギなのだ。

 百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとしない。それどこから、持っていないことをその人のせいにしたいりする。

 もっと重い罰は、「私の物」を持っている人と持っていない人の戦いだ。この戦いがたくさんの人を苦しめている。

 だれかひとりが「私は日なたにいる。おまえは日かげに行け」というのも大自然の心ではない。みんなが日なたに行くべきである(35-38ページ)。

すべて見透かされている。

「痛み」といえば、昨日傷めた左足の甲の部分の痛みが引かない。「前脛骨筋」と「後脛骨筋」のあたりだと思う。歩くだけでも痛いので、今日は、運動せずに様子を見よう。

こんなふうに運動をして自分の体を痛めつけているんだから、わたしも酋長の目からはバカにしか見えないんだろうな。トホホ。

 そう、生まれるときにもお金を払わなければいけないし、死ぬときも、ただ死んだというだけで、家族はお金を払わなければいけない。
 からだを大地に埋めるにも、思い出のためにその上に置く大きな石にも、お金がかかるのだ。
 私はたったひとつだけ、パパラギの国でもお金を取られないことを見つけた。
 空気を吸うこと
 だが、それも彼らが忘れているだけだと思う。この話をパパラギに聞かれたら、息をするにもすぐに丸い金属と強い紙を取ると言い出すだろう。なぜなら、彼らは一日じゅう、お金を取る方法を探しているのだから(40-41ページ)。

 公平であるために言っておくべきこともある。それは、何をするにも丸い金属と強い紙が必要だが、何をやってもそれがもらえるということだ。何かすればいい。それをパパラギは「労働」と言う。
 「働け、そうすればお金になる」というのがパパラギの掟のひとつである。
 だが、この掟はどこかおかしい。(42ページ)

 パパラギの世界では、人間の重さをはかるのは気高さや勇気や心の輝きではなく、一日にどのくらいお金を作るか、どのくらいお金を箱にしまってるかなのだ(44ページ)。

 お金は悪魔だ。お金にさわった者はその魔力のとりこになり、それをほしがる者は、生きているかぎり力も喜びもお金のために捧げなければならない(46ページ)。

 機械が何でもすぐに作ってしまうので、パパラギはどんな物にも愛情を持たなくなった。それが機械の持つ大きな呪いだ。
 愛のない奇跡のために、パパラギは自分の心を機械に食べさせているのだ(53ページ)。

 職業というのは、つまり、ただ走るだけ、ただ食べるだけ、ただ匂いをかぐだけ、ただ戦うだけ、というふうに、ひとつのことしかできないということなのである(59ページ)。
 
 ひとつのことだけしかしない職業とは、おかしなものだ。人間は、手だけでもなく、頭だけでもない。からだも、心も、全部がいっしょに働いて、はじめて人間は喜びを感じる。一部分だけ生きるのなら、ほかのところは死んで、人間はめちゃくちゃになってしまう。
 それと同じように、職業のためにパパラギはめちゃくちゃになっているのだ(65ページ)。

 起こったこと、人のしたこと、しなかったこと、何でも伝えられる。どんなに悲しいことでも、普通の人間ならすぐに忘れてしまいたいことでも。
 よくないこと、人を悲しませるようなことが、どんないいことよりもずっとくわしく伝えられる。いいことより悪いことのほうがずっと大切で、うれしいことでもあるかのように。
 新聞は、すべての人の考えをあやつろうとする。どの人にも新聞の考えを押しつけようとする。それはうまくいっている。みんなが朝、紙の束を読めば、パパラギの頭の中に何があるか、お昼にはわかるだろう。
 新聞の機械のようなものだ。毎日たくさんの考えを作り出す。ひとつひとつの頭が考えるより、はるかにたくさんの考えを。しかしたいていの考えには、誇りも力もない。
 新聞を読めば、私たちの頭は知識でいっぱいになるだろう。しかし、強くなりはしない。頭を砂でいっぱいにするのと同じだ。
 パパラギの頭はこんな紙の知識でいっぱいだ。ひとつが出て行かないうちに、すぐに新しいのを取り入れる。自分の泥で息がつまりそうになる沼地のようだ。(82-84ページ)。

 日が美しく輝けば、彼らはすぐに考える。
 「太陽が昇った!」。彼らは切れ目なく考える。「太陽はどうして美しく輝くのか」。
 これはまちがいだ。馬鹿げている。日が照れば何も考えないほうがいいのだ。
 かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。手や足や腹や、からだ全体で光を楽しむ。頭で考えるのではなく、肌や手足に感じさせる。
 パパラギにとって考えることは、道をふさぐ大きな岩みたいなものだ。楽しいことを考えても笑わないし、悲しいことを考えても泣かないのだから(87ページ)。
 
 たったひとつ、知識病にかかった人をなおす方法は。忘れること。知識を投げすていることである。
 しかしたいていの人は、知識の重荷に疲れ、老人でもないのにしぼんでしまう(91ページ)。

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借りてきた本

Books 上下の2冊を借りるのは3回目。左右の2冊は初めて。

さっそく、中山和義著『スポーツから気づく大切なこと。』(実業之日本社、2008年)を読み始めた。

スポーツは体を鍛えるためだけではなく、大切なことが数多く身につくと著者は言う。

自信がつく、生きていることを実感できる、人とのつながりを感じる、感謝の心が芽生える、人の気持ちがわかるようになる、プレッシャーに強くなる、積極的になる、目標を設定する能力がつく、スケジュールを管理する力がつく、客観的に自分を見る力がつく、指導力がつく、決断力がつく、忍耐力がつく、集中力がつく、人をねぎらう力がつく、失敗を乗り越える力がつくなどさまざま。まったくそのとおり。

「自信を持つことは、自分を幸せにすることはもちろんですが、周りにいる人たちも幸せにすることができるのです」(31ページ)

「感謝できる能力の高い人は、本当に幸せだと思います」(47ページ)

「スポーツを行うことで、自分と向き合うことができます。他人の目を気にしない力をつけることができるので、プレッシャーに強くなれます」(51ページ)

「スポーツをしていると、人を観察する習慣が身につきます。仕事でコミュニケーションが上手くいっていない人は、この観察する力がありません」(54ページ)

「スポーツをすることで固定観念を捨てて柔軟に対応することの大切さに気がつきます」(85ページ)

「スポーツでは、ピンチのときにはタイムをとって間合いをとります。固定観念を外して柔軟に対応することができる人は強いのです」(87ページ)

「足りないことに焦点を当てて、出来事を見てしまう人は不幸です」(91ページ)

「自分の力で変えられないものに文句をいっても仕方がないのです」(93ページ)

「テニスの試合でも、積極的な人の方が勝つことが多いと思います。試合に出場したときに初めて会った対戦相手に、

「こんにちは! 今日はよろしくお願いします」

 と積極的に声をかけて握手を求めるタイプは、試合でも強いのです。試合が始まる前から、自分のペースに持ち込んでいるからです」(96ページ)

「どんな人でも、否定されてはがんばることはできません」(103ページ)

「人との比較で力を出すのではなくて、自分が持てる力をいつでも、全力で発揮することが大切だと気づかせてくれました」(109ページ)

2009年の箱根駅伝で優勝を果たした東洋大の立役者だった柏原選手が、「最高でしたね」とインタビューアーに言われ、すぐさま「最高ではないですよ。これが最高だったら、次がないじゃないですか」と言ったことが、強烈に印象に残っている。すがすがしくて、格好よかった。スポーツ選手じゃなきゃ、あんなこと言えませんよ。

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What I Talk About When I Talk About Running

Murakami, Haruki. What I Talk About When I Talk About Running (Trans., Philip Gabriel, Harvill Secker, ISBN-13: 978-1846552205, 2008/8/7, ¥1,961)

英訳で読めばすぐに気づくが、タイトル中の"running"は「経営すること」と「走ること」のチャーミングな洒落になっている。村上春樹氏がデビュー前にジャズバーの店主だったことは夙(つと)に有名。

私にはこの翻訳がよい翻訳なのかどうか判断がつかないが、同じ表現が繰り返し使われているのが気になる。たとえば、「もうすぐ」という意味の"just around the corner"や「当時」という意味の"back then"など、比較的近いところで数回目にした。

to不定詞を否定するのに、not to doではなくto not doの形を使っているところもあった。これは教科書的な英語では、まずい表現である。

面白いのは、日本語の表現を英語化して遊んでいる点。rainの受身を、日本人の英語以外で初めて目にした。

The weather in Kauai in August is wonderful, and I wasn't rained out ever once (49).

村上さんは、気の利いた表現をたくさん生み出す人なので、そういうのを英語にするとどうなるのかが見られる。

私のお気に入りは、こんな感じのもの。

Sadly, though,I'm no longer young. I'm getting to the age where you really do get only what you pay for (54).

トレーニングもしないで、良い記録が出るなんてことは、若い頃とは違ってありえないことを村上さんは淡々と受け止めている。私もこういうことが実感としてわかる年齢になったんだなとしみじみ思う。

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できそこない

福岡伸一、『できそこないの男たち』(光文社、ISBN-13: 978-4334034740、2008/10/17)

標準仕様は女。母から別の娘へ同じ遺伝子を受け継ぐために、女からカスタマイズされて作り出されたのが男。だから、身体的に精神的もか弱い存在である。寿命も短いし、病気にもかかりやすいし、ストレスにも弱い。しかし、ひとつだけ楽しみが与えられている。それは射精の快感である。その瞬間に男は時間を超越する。自分ができそこないでもいいやと思える瞬間かもしれない。

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学力とは何か

諏訪哲二、『学力とは何か』(新書y 205、洋泉社、ISBN-13: 978-4862483379、2008/12/6)

受験を突破する力を「学力」として割り切るならば、話は簡単だ。それで、商売をしているのが、塾や予備校である。和田秀樹や陰山英夫らは、そちら側に立って荒稼ぎをしているからこそ、胡散臭さいのだ。

しかし、そういう教育は、学ぶ前と学んだ後では人間が質が変わるという本来の「学び」の機会を子供たちから奪ってしまう。

諏訪さんは、「学校」は、社会の中で幸せに生きていくために必要な総合的な力をも育てる場であることを忘れてはいけないという立場に立っている。

PISAショックの話も面白い。実は、あの試験はヨーロッパ的な文化環境に住んでいる人たちには答えやすいものである。日本は成績が悪かったので大騒ぎになって、1位のフィンランドに学べという話になった。しかし、そういう姿勢は、ヨーロッパ自身が反省しているヨーロッパ中心主義に無思慮に同意してしまうことになるのだ。

日本人の学者や評論家には、そのような矛盾を犯しても平気でいられる者が少なくない。きっと彼らには学力がないのだろう。

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橋本治と内田樹

橋本治、内田樹、『橋本治と内田樹』(筑摩書房、ISBN-13: 978-4480814982、2008/11/27)

橋下さんによると、近頃の世の中は「全員参加型社会」になってきているという。公共心の強い彼でも、そういう社会はお嫌いなのだそうだ。私も同感である。公共心があったとしても、つながりたくない人とは断固としてつながりたくないのである。

「全員参加型社会」は、参加すべきではない人までむりやり参加させようとしたり、参加を認めてしまう。これは大いに問題である。それは自由と平等を重んじるデモクラシーとは相容れない考え方ではないのか。

裁判員制度など、その典型的なもの。

なぜ参加することが義務なのか。参加を拒否する権利は認められないのか。

国民側からオレも裁判に参加する権利を認めろというのなら理解できるが、参加したくない人まで参加する義務があるとして、参加を強制するという点は看過すべきではない。被告には黙秘権が認められているのに、なにゆえ裁判員には黙秘権や、出廷に対する拒否権が認められないのか。

しかし、そんな風にいちいち真面目に考えるのはよした方がいいのかもしれない。

どうせ赤の他人を裁くのだから、いい加減な態度で臨んでも誰からも文句を言われまい。みんな死刑だ、死刑だ、死刑だ~。

どうでもいいけど、世の中の人はどうしてみな暗い顔をしているのだろうか。

私は、毎日毎日生きているのが楽しくて仕方がない。「生きる歓び」というのはこういうものかということを日々実感している。

今日は、電車の中で、同じ車両に乗り合わせた人たちの表情をしげしげと見てみた。女性は、口元に笑みを浮かべているような表情の人が多い。ふたり連れも多く、ひっきりなしに表情を変えながら、くだらないことを楽しげにしゃべっている。

それに引き換え、男たちの表情は暗い。腕を組んで、むっつりと黙りこくった姿には夢も希望も感じられない。

世の中が暗いのは、お前たちのせいだぞ。女性たちを見習いたまえ。

少なくとも、我が家には子供が二人いるから、私は彼らの前では暗い顔をすることはできない。

長男の無駄遣いをとがめるために「うちには本当にお金がないんだよ、今月は特にピンチなんだ。おとうさんの財布の中身を見てみろ、1000円しか入っていないだろ」ということを言っても、絶望的な表情を浮かべることはタブーなのである。

次男はまだ3歳だから、いつなんどきでも、彼を楽しませてやるのが私の役目だと思っている。最近のお気に入りは、お風呂の中で「にらめっこ」をすることである。鼻の穴に小指を突っ込んでおいて、人差し指で目尻を引っ張ってたれ目にしたり、顔をつぶしたりして、なんとか彼を笑わすのが私の楽しみのひとつである。

そんな具合に自分を道化にして、子供たちを楽しませていると、どんどん自分も楽しくなってくる。

給料は安いし、将来性はないけど、家庭を持てたし、雨露をしのげる家もあるし、ふつうに飯が食える。それでいいじゃないか。オレは幸せなんだ、文句あるか!

こんな風に威張っている人はあまりいないのが不思議である。

橋下さんは、おそらく、わたしと同じように、生きていることに対する歓びを日々強く感じて生きている人のような気がする。彼のどの発言を読んでそう思ったのかは忘れたが、なぜだかそんな印象を受けた。

もしかしたら彼も人間の業を肯定する「天才バカボン」が好きかもしれない。

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昭和のエートス

内田樹、『昭和のエートス』(バジリコ、ISBN-13: 978-4862381187、2008/11/21)

内田センセイの本を読むと、自分から動かないと何も変わらないことや、感謝の心をもつことの大切さを気づかせてもらえる。

昨日、同僚の先生と食事をしながら話をしていたら、 学生の他責的傾向についての話題になった。それは自分の成績が悪いのは、教師の能力が低いからであると一元的に責任を押しつける傾向のことだ。

文科省の指導で、6、7年ほど前から行われるようになった授業評価アンケートは、学生たちのそういう悪しき傾向を増幅させているように思える。この雰囲気は、日本全体に瀰漫してしまっている。手遅れにならなければいいがと思う。

一方、そういう他責的な傾向から無縁の世界がある。それはスポーツの世界だ。

アスリートというのは、コーチや監督にどう指導されようとも、結局は自分が努力しないと何も改善しないということを身をもって知っている。だから、自分のいたらなさを他人のせいにするアスリートを私は見たことがない。万が一、そういう選手がいたとしても、その人をアスリートとして私は認めない。だから、論理的にそんなお馬鹿なアスリートは誰一人いないのである。

あなたが付き合うとしたら、どちらの人間がよいと思うか。

一方は、何事も他人のせい、世の中のせいとする他責的傾向の強い人間、もう一方は何事も自分の努力が足りなかったのであると考え、状況を改善する努力を行う人間。

答えは一目瞭然である。

就活でも婚活でも同じように、他人を不快にさせない、対立を煽らない、フレキシブルな人間が選ばれる傾向があるという。

いま、なかなか結婚できない人が増えているが、それはもしかしたら、他責的傾向が強く、協働を避ける、自己完結してしまう人間が増えているせいかもしれない。

この状況を変えるには、他人と連携すること、何でも他人のせいにしないこと、そして他人に感謝することを、さまざまな共同作業を通じて、子供たちに理解させることが重要なのだろう。

私は、授業中に、学生が英文を理解できないで困っていると、そのときには、できそうな友人のそばに座って、その人にそれとなく教えてもらうようにと嗜(たしな)めることにしている。彼らに自己完結しないようにするためである。どうしてもわからないことがあったら、まずは友人に聞いてみるという姿勢が共同体の基盤をつくる。それをあなたたちは忘れてはいないか?と私は問うのである。

内田センセイによると、昭和の時代はそれが残っていたという。私も昭和生まれの人間である。だからよくわかる。困っているときはお互い様の精神である。

危機的な状況になればなるほど、他人と連携しなければやっていけないということを、体験的に知らない人は不幸である。他人を呪うだけしかできないからだ。

だからこそ、学校には、市場原理や競争原理、弱肉強食、優勝劣敗の思想は持ち込んではいけないのである。

世の中が、あちら側であるからといって、学校があちらの世界に合わせることはない。学校というのは、世界にはいろんな考え方があり、いろんな考えを持つ人間がいて、その人たちと付き合っていく柔軟性を養う場であるべきなのだ。お金がなくても、柔軟性があれば幸せになれる。それを教えてあげる場であったほうが、学校ははるかに楽しい。

スポーツ番組を見て、「感動をありがとう」などという気持ちの悪い常套句を吐く暇があったら、自分たちの軟弱な態度を省みつつ、アスリートたちの強靭な精神構造を言祝ぐべきではないかと思う。

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今度はこれ

金哲彦監修、『より速いタイムで走りたいランナーのための全国主要市民マラソンコース攻略ガイド』(白夜書房、ISBN-13: 978-4861914584、2008/11/28)

やはり、来年はフルマラソンに挑戦したいと思う。 ハーフよりだんぜん苦しくて楽しそうだ。ランナーはある意味、マゾなのかもしれない。

 

 

 

諏訪哲二、『学力とは何か』(新書y 205、洋泉社、ISBN-13: 978-4862483379、2008/12/6)

陰山英夫氏の娘さんが「陰山メソッド」で東大に合格したそうだ。彼のメソッドの確かさを、親孝行の娘が立証した形で、誇らしさのあまり一冊本を書いてしまったというわけかもしれない。でも諏訪さんは、陰山メソッドは、学習者の意思を尊重していないと言う。おっしゃるとおりなのかもしれないが、反面、基礎的な学力を身につけるためには単純な反復練習を重視する陰山メソッドで十分だという気もする。どちらが正しいのだろうか。

記憶というものは、覚えて忘れて覚えて忘れて覚えることによって強化されていくということは誰しも経験的に知っているはず。それを反復すると、なかなか忘れられない記憶になるものだ。

 

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街場の教育論

内田樹、『街場の教育論』(ミシマ社、ISBN-13: 978-4903908106、2008/11/15)

いろいろ印象に残った話はあるが、ひとつだけ。

内田先生は、ゼミ員の採用面接のとき、たった5秒で判断するという。

彼の判断基準は、その場の雰囲気を良くしてくれる人かどうか、ゼミのパフォーマンスを高めてくれる存在かどうか、というものだ。

要は、協調性の問題である。

それは受験で判断される学力とはまったく違う評価基準である。就職の面接でも同じ基準が採用されている。

そういえば、私もいまの妻と結婚を決めたとき、この人となら一緒に楽しく過ごせるだろうと感じて、会ってすぐ判断した。5秒以上はかかったと思うが、数分以内だったと記憶している。

確かに、自分の経験に照らし合わせてみても、一瞬で相手を見抜いてしまうことは、よくある。第一印象とその後の印象はズレないことのほうが多い。

人間にも、まだ、そういう鋭い直感を駆使する動物的な能力が残っているのかもしれない。

教育の現場は、集中力を高め、限界を打ち破り、直感を研ぎ澄まし、協調性を養う場であるべきというのが、内田先生の持論である。本来、俗世間の定見とは別の世界を垣間見させてくれる場であるべき学校に、ビジネスマインデッドな競争原理を持ち込んだことで、学校は疲弊してしまった。

残念ながら、子供たちをだめにしたのは、現場の教員というよりも、自分たちの手を汚さずに、外部であれやこれやと無駄に処方箋を出してくる企業家や役人やメディア人のほうであると内田先生は主張する。いまの子供たちは劣化していると嘆く大人たちが、子供たちを劣化させたことに気づき、現場を信用し、現場に任せるところから始めないと何も変わらない、というのだ。確かに、信用されなければ、モーティヴェーションは高まらない。

本来、学校という場は、世俗の価値観や親からの虐待や、企業家による搾取から子供たちを守るアジールであった。日本とアメリカ以外の国の多くはいまだにその傾向が圧倒的に強く、PTAすらない。一方、近頃では学校が聖域のままであることを許さない日本人の圧倒的多数になってきている。これは由々しき問題である。

学校は、世俗的な価値観に対する防波堤の役割になるべき場所である。しかし、世俗の人間たちは寄ってたかってその環境をぶち壊した。

彼らの主張はこうだ。

世の中は優勝劣敗、弱肉強食の過酷な競争社会なのであるから、他者を蹴落とすことだけに持てるリソースを注ぎ込まなければ、社会人としてサバイヴできない価値観を、子供のうちに持たなければならないというものだ。

そういう世俗の価値観とは対極の価値観に触れさせるべき環境である学校に、たったひとつの価値観にしか触れさせず、葛藤を霧消させてしまうことこそが、子供たちの成熟を促すことならないのである。

子供たちの劣化の根本的原因は、それを理解しないビジネス・マインデッドな人間たちの、自己を疑わない未成熟さにあるのである。それゆえ、彼らがどんな処方箋を出してこようとも、事態を悪化させるだけであり、改善には一切貢献することがない。

教育というのは、内田先生の言葉を借りれば、惰性の力が強い世界である。状況が変わるには相当な時間がかかってしまう。だから、現場の人間がこつこつとごみ拾いをしていくうちに、いつの間にか変わっていることを期待するしかないのである。

学校という場は、ビジネスの世界と異なり、レスポンスが極端に遅く、かつまた、予想とは大きく違った形で反応が返ってくるところである。子供たちは、自分が学ぼうと思っていることは学ばず、学ぶことになると思いもしなかったものを学んでしまう。

教育はカタログショッピングとはまったく違う。お金を出せば、それに相当する価値の情報が与えられ、思ったとおりの商品(つまり資格や学位)が受け取れるわけではない。学校というのは、ボタンを押しても、何が出てくるのかわからないような自動販売機に似ていると言っても良い。

それがあるからこそ、子供たちはわざわざ毎日足を運んでしまうのだ。

お金を出せば何が手に入るのか、手に取るようにわかってしまうものは、好奇心をそそられることはない。それは学ぶ意欲を喚起させることはない。

教育にビジネスを持ち込むのは、教育の劣化を促進させるだけである。

教育とは協調性のある人間を育てることであるという理念だけは、教育者としては放棄してはならないと思う。

この考え方は、私が習っている少林寺拳法の理念と、恐ろしいほどにぴたりと一致している。

 

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白川静さんに学ぶ漢字は怖い

小山鉄郎、『白川静さんに学ぶ漢字は怖い』(共同通信社、  ISBN-13: 978-4764105850、2007/12/27)

荒川静香さんではなく、故白川静さんによれば、歎、謹、僅、勤、嘆、艱、饉に共通する旁(つくり)である「菫」は、焚殺される巫祝(ふしゅく)を表しているという。

巫祝とは神に仕える人のことである。飢饉のときに、巫祝、雨乞いのために、神への哀告の祝詞を入れた器である「サイ」(口)を頭上に載せ、前に手を交叉して縛られ、火あぶりにされる。「菫」は、その形を模す象形文字なのだそうだ。

「歎」の「欠」の部分は、口を開けて立つ人を横から見た形で、巫祝が雨が降るように嘆き訴える姿になっている。

謹賀新年の「謹」は、おめでたい意味のように思えかもしれないが、実は行き倒れの人を葬り、その呪霊を封じ込めるために祈ることを指している。それゆえ、「つつしむ」ことを表すようになった。

飢饉の「饉」は「食」と「菫」を合成したものであるから、もちろん凶作のことである。

「僅」は、穀類の実りが非常に少ないという意味。もしかしたら、この本には述べられていなかったが、この「人」はうなだれているのかもしれない。

勤労の「勤」は「菫」と「力」(耒 [すき]を表す)を合わせたものなので、農耕に勤労することを意味する。白川静氏は、飢饉を救うために、懸命に労働することだとろうと考えていたそうだ。

みな恐ろしい漢字である。ちなみに漢字の「漢」も同じ旁を持っているが、これとは関係がないそうだ。

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白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい

小山鉄郎、『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(白川静監修、文字文化研究所編、共同通信社、ISBN-13: 978-4764105782、2006/12/18)

「おもふ」は、顔(おも)にうれしいことや悲しいことがふっと出ることをあらわす動詞。そこに「思」「想」「念」などの漢字が入ってきて、意味に多様性が生まれ、現在の日本語に育っていった。

この本は、「おもふ」のような和語についての話ではなく、漢字の成り立ちを「甲骨文字」と「金文」を使って解明した白川静さんの業績について、小学生(高学年かな?)にもわかるように解説してくれた本である。

「相」というのは、「木」を「目」で見るということである。だから、樹木の盛んな生命力が、それを見るものの生命力を助けて盛んにするという字である。樹木と人間の生命力の相互関係から、「おたがいに、あい」という意味になるのだという。

「取」という字のつくりである「又」は「手」であり、戦場で敵を殺して、耳を切り取ることをあらわしていた。

「取」を含む「最」という字は、切り取った耳をたくさん袋に入れる様子を示しており、その数がもっとも多かった者、つまり一番功績のあった者を「最」と呼んだ。

「止」という字は、足を示している。「正」は「一」に「止」をつけた字である。「一」は、古代文字では「□」の形で、四方を壁で囲った城をあらわしていた。「正」という字は、城に向かって「止」(あし)を進める、つまり進軍して相手を征服するという意味である。相手を力で征服し、こちらの思うように「ただす」ことが、本来の意味であった。その「正」がもっぱら「ただしい」という意味で使われるようになったため、区別のために「征」の字ができたわけである。

「征」には「税金を取り立てる」という意味がある。これは征服した土地から徴税することからきた。その徴税を管理することが「政」(まつりごと)である。

「政」の旁(つくり)の部分は、手に鞭を持って相手を叩くという形になっている。つまり、敵を力で倒し、鞭を使って徴税するのが「政」であるということである。

「正義」というのも、もともとの意味は、征服した敵を思うように「ただすための支配者の道理」ということであった。

「武」というのは、少林寺拳法の開祖宗道臣は「戈(ほこ)」を「止」めるものであると解しているが、それはでたらめな話であって、本来は「戈」を持って「止」(あし)で前進することを表した文字である。

「臣」は目に関連した文字である。古代中国では神に仕える人は、瞳にわざと傷をつけて視力を失ったものがいた。そうやって神に仕えるのが「おみ、けらい」だった。

「民」は、瞳を突き刺して視力を失わせるということをいう字である。そうやって、視力を失った人を「民」といい、神への奉仕者とされた。「臣」とあわせて、「臣民」という。後に「民」は「たみ、ひと」の意味になった。

「眠」は、「民」(視力を失った人)のは、眠っているような状態に見えるので、「ねむる、ねむい」という意味になったという。

こうしてみてくると、漢字は、戦争、神、呪術などに関わる文字が多いことがわかる。白川文字学は、漢字を媒介して、アジア全体に広がる思想、哲学を映し出すinspiringでexcitingな研究である。

もちろん、英語にもこのような語源があり、わたくしはいつも学生に語源を説明している。語源を知ると単語を忘れることがなくなる。

「詰め込み教育」で育ってきた人は、思い出す手がかりを失うと、知識がゼロになってしまうような勉強法しかできない。勉強というのは、忘れた場合に思い出す手がかりをたくさん仕込んでおくことである。

そういうことを知っておくためには、できるだけ早期にこういう知識を子どもたちに注入しておくのは大切なことだと思う。

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オバマ演説集

Obama

『生声CD付き [対訳] オバマ演説集』(朝日出版社、ISBN-13: 978-4255004518、2008/11/20)

本日やっと届いた。

いま"Victory Speech: Change Has Come to America"を聴いているところ。

オバマさんの言葉は平易でわかりやすく、だが高尚で、魅惑的で、知性的で、愛情にあふれ、説得力がある。聴いているうちに思わず知らず感動で涙がこみ上げてくる。

「わが国の経済は全治三年です」と就任早々軽口を叩いた首相がどこかの国にはいた。いや正確には、いまだに首相の座にしがみついている、というべきか。

あの言葉を聞いたとき、あの軽薄で浅薄でペラペラな印象はどこからくるのかという疑問をもった。

オバマさんの演説を聴いて、その原因がわかった。

The road ahead will be long, Our climb will be steep. We may not get in one year or even in one term. But, America, I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you, we as a people will get there. (78)

「道のりは遠く、山は険しい」というオバマさんの言葉には重みがある。「余命3年3ヶ月」みたいな嘘っぽい診断には眉につばをつけたくなるが、長い間耐えなければならないかもしれないが、国民が力を合わせてがんばろうと、という気概が強く感じられるオバマ氏の言葉は人を動かす力がある。

彼を信じていけば、自分たちの未来はもしかしたら明るいかもしれない。失望と絶望の8年の間に求め続けていた、希望と自信と信頼感と安心感をアメリカ国民はオバマ氏の勝利によってようやく取り戻せたからこそ、アメリカはお祭り騒ぎになったのである。

残念ながら、「医者さんごっこ」を楽しんでいるわが国の余命30日の首相には、そういうことがわかっていない。

この演説を聴いて、リーダーというのはレトリックを駆使する能力の高さが問われることをあらためて思い知らされた。

レトリックとは、人をやる気にさせる力ということだ。

いいかげん、「なんとなく」なんて連発している場合ではないということに気づいたほうがいいよ、アホー・タローさんよ。

言い間違いというのは、フロイトを引用するまでもなく、無意識を露呈するものである。

これまでのやり方は「踏襲」はしたくない、俺のやりたいようにやるぜ。

「未曾有」の危機など俺の知ったことではない。

庶民のいろんな会合に「頻繁」に顔を出すのはマジ「煩雑」だぜ。

おそらくこういうことを麻生さんは言いたかったのだろう。

だからといって、民主党なら日本は明るいかといったら、心許ない。

一郎さんにはヴィジョンはあるのかもしれないが、レトリックがない。若さも優しさもない。人をとりこにする魅力もない。

いつになったら、"we have never been just a collection of individuals... We are, and always will be, the United States of America."みたいなことを言える格好いい首相が出てくるんだろうな。

オレがなるしかないかねえ。それじゃ、世も末だよ。

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また出ましたね:内田樹の本

内田樹、『街場の教育論』(ミシマ社、ISBN-13: 978-4903908106、2008/11/15)

内田樹、『昭和のエートス』(バジリコ、ISBN-13: 978-4862381187、2008/11/21)

追記:11月22日発注済

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できそこないの男たち

『生声CD付き [対訳] オバマ演説集』(朝日出版社、ISBN-13: 978-4255004518、2008/11/20)

 

 

福岡伸一、『できそこないの男たち』(光文社、ISBN-13: 978-4334034740、2008/10/17)

注文しました。

11/14(金)コラムの花道×福岡伸一をダウンロード

アリマキ(いわゆるアブラムシ)の一生から考えると、生物はメスが基本仕様で、オスは遺伝子をシャッフルして、変化する環境に適応するために一時的に生み出された存在だという。
オスはカスタマイズされた存在であるため、個体によって大きな偏差が生じ、変態やきわめて優秀なものが生まれることもある。

しかし、たいがいの男は女にかなわない。その理由が、福岡さんの説明でよくわかった。

また、男のほうが力があるのは、女にこき使われるためである。男は女の使い走りなのだ。しかし、辛いことばかりではない。そのかわり、セックスの快楽があるではないか。生物学的には、これが唯一の男の楽しみ、生きがいなのかもしれない。男は威張るな、自分の存在の哀しみを知れ、というわけだ。

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大人のいない国

鷲田清一、内田樹、『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』(ピンポイント選書、プレジデント社、ISBN-13: 978-483341888、2008/10)

あと5回くらいは読み返したい本だ。

近頃、「自立(支援)」とか「自己責任」などという声がうるさい。しかし、そういうことを言いすぎるのは、逆に、自分とは考えの違う他者を受け入れないという狭隘な価値観を表明していることになっているのではないか。

また、世の中には、自分の権利ばかり主張(claim)し、相手を一方的に糾弾するような語法が流行している。中学や高校におけるディベート(debate: battleやbatと同語源)の授業の影響かもしれない。ディベートの眼目は、他者の意見にいかに影響を受けずに、相手を叩き潰すかということである。

いずれの現象にせよ、他者を受け入れないという点では共通している。

この排他性は未熟さと同義である。

大人とは、自分の中に、複数の自分を抱え込んでいるものである。その多様性は成熟さと密接な関係をもっている。自分の中に多様性を抱えているからこそ、他者に共感ができ、受け入れられるのである。

自分とは考えの違うものをいちいち排除していては、連帯することは不可能である。異物を排除していくと、究極的には、孤絶するしかなくなる。現代の日本人には、そういう手合いが多い。

彼らは、自らが置かれている状況の外部に立って、偉そうに不平不満をもらす。そして当事者意識、当事者責任がないので、Discussion(disは分離、cussは叩く)をして周囲の意見の調整をしていこうとはしない。

このような対話能力のない人間を「子供」という。

逆に、他者や自らの置かれた状況と折り合いをつける能力をもつ人のことを「大人」と呼ぶ。

残念ながら、現代の日本人は、60歳になっても、シワくちゃな子供のままであることが多い。それでは、ちょっとまずいんじゃないのか。

下の世代は、上の世代と同じヘマを繰り返さないように、ちゃんと頭を鍛えておこう。

いつもながら内田氏はしびれる文句を吐く。ちいとばかし引用しておく。

 教育の目的は信じられているように、子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存するのである。少なくとも、私たちの遠い祖先はそう考えた(107ページ)。

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that節

池上嘉彦、『「英文法」を考える―「文法」と「コミュニケーション」の間』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、ISBN-13: 978-4480082305、1995/09)

ある人とthat節の扱い方について議論になった。その人は私の主張を否定するために、この本について言及したので、図書館で借りて一部を読んでみた。確かに、私の理解と正反対の考えが書かれていたので驚いた。

私はthat節に関して次のように理解していた。たとえば次の文をみてほしい。

Some predictions claim that by 2050, all coral reefs in the world will be damaged.

この例文を見る限り、thatがある場合は、私にはまだ文脈上明らかになっていない話題を伝えているように思える。

もしthatがなかったら、ご存知のようにというニュアンスが入るような気がする。

その理由は、thatというのは、近いものを指すthisと違って、遠いものを指すからである。その遠近感から類推すれば、thatというのは、文脈上、まだ明らかになっていないことを報告するようなスタイルになるはずである。一方、そのthatがないのであれば、もう遠くない話でしょう、だからまた繰り返しますよとか、もうすでにご存知でしょうけどね、というニュアンスが出てくるはずである。

しかし、池上氏は、アメリカの言語学者であるボリンジャーの説を採って、thatというのは、文脈上特定されるものを指すtheの感覚に近いのだから、thatがある場合は、既出の情報であり、ない場合は特定されないのだから新出の情報であると主張する。

しかし、この前提は間違っている。なぜなら、thatはtheから派生したのではなく、theはthatの音が崩れて、それとともに意味が拡大したからである。だから、順番が逆なのだ。

thatは遠いものを指す。この前提があるから、so thatの構文では、それで(so)、あれ(that)なのさ、という意味になるのである。

ボリンジャーは、形が違えば意味も違ってくるという立場から、むりやりそのような考えを主張しているのかもしれない。

口語では、that節のthatを省略することが多いというのはよく知られた事実である。教科書で採用されるような、ある程度硬い文章では、thatはほとんど省略されることはないが、英字新聞を見ていると、その多くが省略されている。

社会言語学的には、thatを入れないと構文が取りにくい場合には入れ、そうではない場合には省略することが多いと捉えているそうである。おそらく、ネイティヴスピーカーの多くも、同じように捉えているはずで、意味の違いなどほとんど意識していないのだろう。

どんな言語でも、同じ意味をもつ複数の単語があるはずである。同様に、thatがあってもなくても意味が変わるということはないのかもしれない。これが一番健全な考え方だと思う。

私の専門は英語学ではないので、最近の研究についてはまったくわからないが、池上さんの説は説得力に欠けている。この本を真に受けるような人が増えないことを期待したい。

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田舎暮らしに殺されない法

丸山健二、『田舎暮らしに殺されない法』(朝日新聞出版、 ISBN-13: 978-4022504401、2008/5/7)

田舎暮らしにあこがれる人は自立していない、と著者は言い切る。

オレは都会の荒波の中で勇猛果敢に戦ってきたと言い張る人もいるけれども、そういう人が潜り抜けてきたのは逃げて逃げて逃げまくってきた数十年間に過ぎない。そういう輩は、田舎暮らしを始めたとたんに絶望的な孤独感にさいなまれる。ひどいときにはうつ病にまでなってしまう。それは自立していないからである。

この状況から自分を救い出せるのは、妻でも家族でも他人でもなく、自分自身でしかない。だから自立していない人間はぜったいに田舎暮らしに手を出すなというのが、著者からの警告である。著者自身、長年田舎暮らしを続けてきているから、その言葉には説得力がある。

「田舎は天国だよ」というメッセージを垂れ流し、「団塊の世代」を田舎へと誘導する無責任な番組があるが、あの番組のスポンサーは天下のトヨタである。なけなしの退職金をはたいて田舎に家を買わされたあげく、田舎では一人一台必ず必要となるクルマを買わせようとする大企業の思惑にひっかかってしまう愚かなオヤジどもを見ているのは、実に悲しい。

田舎暮らしを始めたオヤジたちは、孤独感を払拭し、自分は何かの役になっているのだという気持ちになるためにボランティア活動に精を出し始める。そのうちに、田舎の汚いジジババの言いなりになって、使いっ走りか、奴隷のようになっていくのだそうだ。そういえば、『天国の楽園』でも、そういう人がたくさん出てくる。笑止。

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狭くて小さいたのしい家

永江朗、アトリエ・ワン、『狭くて小さいたのしい家』(原書房、ISBN-13: 978-4562037919、2004/8/25)

永江さんは、ガエハウスに引っ越してからテレビを見なくなったという話を書いている(256-58ページ)。そうしたら、いらいらしなくなったし、石原慎太郎や小泉純一郎がいかに薄っぺらい政治家かがわかり、物事を冷静に見られるようになったそうだ。わたしもそれがよくわかる。自分たちのライフスタイルにぴったり合うように設計された空間には、テレビという既製品は似合わないのかもしれない。

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田舎暮らしができる人できない人

玉村 豊男、『田舎暮らしができる人できない人』(集英社新書、集英社、ISBN-13: 978-4087203882、2007/04)

100ページ以降に書かれている産業革命のたとえ話が面白い。

産業革命以前、夫婦は力を合わせて共に働くことで10万円を稼いでいた。産業革命が起こり、近所に工場ができると、夫が借り出される。夫は月給10万円をもらい、それで妻は専業主婦となり、家を切り盛りするようになる。実質的に妻は無収入ということになる。それとともに夫は、自分一人の力でお金を稼いで、家族を養っているようなつもりになる。本当は夫が外に働きにいけるのは、妻や家族などの支えがあるからである。夫はそのことを忘れてしまったのだ。「団塊の世代」のオヤジたちは、まさにその亭主と同じである。

そういうオヤジであっても、田舎暮らしをすることで、産業革命以前の価値観を取り戻すことができると玉村さんは言う。

あるところに、大工と水道屋が住んでいた。大工は水道屋の奥さんに、「棚が壊れたため、直してほしい」と言われ、修繕を施す。一方、大工の家は、水道管が壊れていたので、水道屋に直してもらった。ともに修理代は2万円。お互いにお金を交換しても、意味がないので、ふたりはお金のやりとりをすることをやめてしまう。現代社会では、そこで4万円が動き、GDPに4万円が計上されることになる。ところが、このふたつの家の間には、実質上、経済活動が行われなかったので、GDPをまったく押し上げない。

産業革命以前の生活というのは、このような、お金に縛られない生活があった。玉村さんはそれを「手触りの感じられる生活」と呼ぶ。お金でサービスを買うのではなく、自分の時間を割いて、自分のできる範囲でワークする。自分(たち)の力で、自分たちの面倒を見る。だから、身の回りのもののほとんどすべてが自分たちの手で造られたものになり、手触りが感じられるのである。マルクスの言う「疎外」(alienation)のない生活である。そういう生活を取り戻すには「田舎暮らし」が最適なのかもしれない。

玉村さんは田舎暮らしをして「農業的価値観」を身につけるのもいいのではと言う。「農業的価値観」というのは、自然の中で暮らし、自然と対峙することで得られる「達観というよりはあきらめに近い」実感のことで、「やることはやらなければいけない。だが、できることには限りがある。自分の意志でコントロールしようとしても、コントロールできないことがある。だから、人事を尽くして、天命を待つしかない」(167ページ)というような考え方のことである。

時代は、あきらかに、一巡りして、このような昔の価値観、傲慢さとは無縁な、人間の有限性を真摯に受け止める生き方を再評価する方向に流れてきている。

都会の人たちは、お金で時間を買うというような、忙しい(busyな)生活、つまり、businessに束縛されている。玉村さんは、「忙」という漢字は心を失うと書くと解す。人がbusyだと感じるのは、したくもない仕事を誰かにさせられて、自分の時間を奪われるからである。だから、自分がしたい仕事をしているときは、忙しさを忘れることができる。つまり、心を失うことがないのだ。

都会のbusiness的な価値観を相対化するような生活が残っているのは、もはや「田舎」だけであるというのが、玉村さんの考えだ。

しかし、私は、わざわざ田舎に行かなくても、都会においても、この価値観を体現することはできると思う。少なくとも、私は、田舎暮らしに向かないタイプの人付き合いの悪い人間なので、田舎に行ったら、忙しさにかまけて心を失いそうだ。むしろ、今の生活を維持していたほうが、農業的価値観を実践しやすいと思っている。

玉村さんのような考え方や生活はブルジョワ的であると批判する人もいる。彼のような生活ができる人は相当なお金持ちだけであるという。そのとおりだろう。それに、こんな枯れた生活をしろと若い人に言うのはかわいそうだという人もいる。一方、彼の考えに親近感を持つ人も多数いる。私の場合は、批判と賛同が半分ずつというところである。

いずれにせよ、多様な価値観を許容する社会が成熟社会なのだろう。

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アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

町山智浩、『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks) 』(文藝春秋、ISBN-13: 978-4163707501、2008/10/9)

この本と併せて、以下の町山さんの出ている回のヴィデオ・ニュースを見ると、アメリカという国がどんな国かよくわかってくる。アメリカ人は、日本に特殊な国というレッテルを貼るのが大好きだが、アメリカも相当に特殊な国である。もちろん、どんな国も特殊なのであって、「ふつうの国」というのはどこにも存在しない。だいたい外国を特殊だと思い、自分の国がふつうだと思っている人は、田舎者である。そういう人間がアメリカには半分住んでいる。彼らが読む(読める)のは、せいぜいローカルなタブロイド新聞程度。地元のことしか関心がないのだ。インターネットにアクセスできても、時事ネタのチェックすらしようとしない。想像以上に情報音痴な人ばかりなのだそうだ。彼らは、どうしてイラク戦争が起こったのか、自分たちはどんなひどいことをしているのかすら知らないイノセントでナイーブな人たちなのだ。

しかし、アメリカでは、あと30年ほどで、白人がマイノリティーになる。白人は、高卒で低所得層の割合が高くなり、知識階級はアジア系が占めるようになっていく。確実に、アメリカというのは、WASPの支配する国ではなくなる。だからこそ、雑種のオバマさんが次期大統領に選出されたのだろう。

「雑種」というのが、今後のキーワードになるのかもしれない。

アジア人というのは、キリスト教とは関係のない世界に住んでいる。キリスト教のベースはユダヤ教であり、イスラム教とは兄弟関係にある。いずれ、それらの一神教的世界観が支配力を失い、仏教的な世界、雑種を容認する文化が、アメリカを覆い尽くす時代がくるのかもしれない。

町山さんは、アメリカはもう二度とベトナム戦争の二の舞であるイラク戦争のような戦争をしないと預言する。それはお金の問題だけではなく、文化が変わるせいだ。日本的な「和」の考え方がアメリカの何割かの人間に受け入れられて、アメリカ人の考えの一翼を担う時代がもしかしたら近いのかもしれない。

アメリカは自らが広めたグローバリズムで、自らを沈めてしまった。その状況をオバマさんはどう打開するのだろうか。単に内向きの政策に180度方向を変えるということにもならないだろう。

今後、世界にとって明るい未来が待っているのかどうかわからない。ただ、時代は大きく変わることだけは確かである。

オバマさんは、娘との約束通り、ホワイトハウスに犬を迎えると述べた。犬は、「雑種で、アレルギーを起こさない」ようなものにしたいそうだ。これはオバマ政権以降のアメリカの姿の象徴になるのだろう。

5金スペシャル映画とイラク戦争と大統領選挙 - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局

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体幹ランニング

金哲彦、『「体幹」ランニング』(講談社、ISBN-13: 978-4062144216、2007/11/28)

再読中。

昨日のランニングで、腕をうしろに大きく振って走ったらスピードが乗ることに気づいた。これがいわゆる「体幹ランニング」なのかもしれない。

しかし、まだ私は体幹を有効に活用できていない気がする。走り終わったあと、ふくらはぎばかりが痛くなるのはそのせいだろう。

この本のキモは、「体幹を使えば、もっとラクに走れる」ということだ。

武術を習っているから、丹田と骨盤は意識できる。しかし、第3のポイントである肩胛骨は今まで今ひとつ活用できていなかった(現在完了形)。

この本でも、フラットに着地し、地面からの反発力を有効に利用するという走りが勧められている。私にもそれはできる(と思う)が、しばらく続けていると疲れてくる。しかも、靴がへたってきているせいか、すぐに反発力が感じられなくなってくるのだ。

「体幹ランニング」なら疲れないというのであれば、私の走りは、やはり少し違うのだろう。

自分の走りを第三者の目でチェックしてもらうために、ランニングスクールのようなところに一度参加してみたほうがいいのかな。

着地に関してこう書いてある。

 ポイントは、着地した足の真上に、骨盤から上の上半身をまっすぐにのせること。これさえできれば、ふくらはぎで強く蹴り出さなくても、体は、自然に前へ前へと運ばれます。

 自分の足下を見ながら走ってみてください。足の上に体がまっすぐにのっていれば、着地したときに自分のつま先が見えることはありません(88頁)。

よし、今度これを試してみる。

来年の夢を語ろう。

ハーフマラソンで2時間を切れるようになったら(理想は1時間50分くらい)、フルマラソンにも挑戦してみたい。

11月のトレーニング目標は、キロ5分で10キロ走ること。今は10キロを55分で走ろうと思えば走れる。さらに5分縮めるんだから大変だ。

距離走は、15キロを2~3回のみに留めておく。

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買わせていただきます

鷲田清一、内田樹、『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』(ピンポイント選書、プレジデント社、ISBN-13: 978-483341888、2008/10)

 

 

町山智浩、『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks) 』(文藝春秋、ISBN-13: 978-4163707501、2008/10/9)

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翻訳

Murakami, Haruki. What I Talk About When I Talk About Running (Trans., Philip Gabriel, Harvill Secker, ISBN-13: 978-1846552205, 2008/8/7, ¥1,961)

翻訳が出ているんですね。

タイトルを隠して授業で使おうかしら。

今週は天気がよければ、1日10キロずつで、40キロは走れる。そうすれば今月の走行距離はトータルで162キロになる。何が何でも150キロは突破したい。

11月は200キロを目指す。

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親友になれたかも

村上春樹、『 走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋、ISBN-13: 978-4163695808、2007/10/12)

再読中。

「しかし何はともあれ走り続ける。(中略)走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」を一つ一つ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。」(102-03頁)

「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ。」(150頁)

「(前略)よく言われるように、やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。」(134頁)

 

村上さんと私が同世代だったら、無二の親友になれたかもしれない。

「ランナー小説家」として夙(つと)に有名な村上さんは、フルマラソンに備え、毎日10キロずつ、1ヶ月あたり300キロ走り込む。

彼は走りながら自分の足の筋肉に、「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返し説得するのだという(100頁)。

そして、気づかれない程度にわずかずつ、その限界値の目盛りを押し上げていく。

それを「筋肉の調教作業」(109頁)と呼ぶ。

朝令暮改、朝改暮変、朝出暮改、朝立暮廃になってしまうが、やはりスピード・トレーニングなどという色気は出さずに、できるだけ毎日、無理のないペースで地道に7~10キロ走り込むようにしよう。村上さんにならって。

10キロが軽々と走れるようになれば、いつのまにかスピードもつくようになるだろう。

結局、ハーフマラソンは21キロを2時間15分で走ればいいだけのこと。フルマラソンの半分でしかない。1キロ6分ペースならば、2時間6分程度。制限時間ぎりぎりでフィニッシュできる。それでも9分余裕がある。

息子が風邪を引いた。自分の周りでも風邪を引いているひとが増えてきた。うつされないように用心しなきゃ。

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伝記

ある作家の伝記を原書(英語)で読んでいる。130ページ中ようやく40ページまできた。8ポイントの小さな活字がぎっしり詰まっているので、年寄りの目には少々きつい。それでも楽しみながら読んでいる。読むのは通勤電車の中だけだから、読み終えるまでたっぷり2週間はかかるだろう。

若い男が女と街で偶然出会い、たった数週間で駆け落ちを決行する。生活が少しでも豊かになることを夢見て、知り合いにお金を借りまくり、見ず知らずの国へと移住する。その行動力には感心する。だが、そう簡単には豊かな生活は手に入れられないのが世の常。身過ぎ世過ぎのために語学教師の口を見つけるが、生徒たちは自分よりもはるかに金持ちだ。連中は単なる道楽として、外国語を学ぶだけ。教育なんかに身が入るわけがない。

そのうち連れが妊娠し、あっという間に出産。「子供を持たないのは臆病である証拠だ」などと喜びに浸っているのもつかの間、家族を養う重い責任に耐えかねてアルコールに依存するようになっていく。しまいには、祖国にいる弟をむりやり呼び寄せ、自分の家族の面倒を見させる始末。それでも自分の小説が出版されることを夢見ながら、作品を書き続けていく。

まわりの人間はみな金のために生きているが、自分は違う。自らの芸術を世に問うという気高い使命を抱え、生活苦に耐えながらも、そして身内にだけではなく他人にまで迷惑をかけながらも生きていく。私なら絶対に友人にしたくはないタイプだが、彼の芸術に対する誠実な姿勢には心を打たれる。

これが「若さ」というものなのだろう。それを失ったら、人間は終わりかもしれない。

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パン作りの本

Breadbooks

昨日またパン作りの本を借りてきた。そのうち自家製酵母にも挑戦してみようと思っている。ヨーグルトを使う方法なら簡単らしい。地粉も手に入ったら使ってみよう。

アメリカのリーマン・ブラザーズという証券会社が破綻し、株価が暴落し、原油価格も下げている。

基本的に、アメリカには今、金融以外になんの産業がない。とうの昔にものづくりをやめてしまったのだ。もちろん農業はあるけれど、高度な知能を使う産業は金融だけになってしまった。

このことからわかるのは、コンピューター上でお金を右から左に転がして利ざやを稼ぐような国はいずれ破綻するということだ。

ただ、アメリカを笑ってばかりもいられない。日本はアメリカの国債を大量に買って、アメリカの財政を支えているアホな国である。同じ泥舟に乗る一蓮托生の関係なのだ。

アメリカ大統領選は共和党のマケインが有利だと近頃は騒がれているが、共和党のような自由放任主義がアメリカの財政をガタガタにしてしまったのだから、私は民主党のオバマさんのほうが有利だと見ている。

「小さな政府」を標榜し、なんでも民間に任せておいたために、国民を守る社会保障制度がひどい状態になっている。アメリカでは盲腸の手術に90万円もかかるそうだ。

政府が介入しないといけないこともあるということに、そろそろアメリカ人も気づいてきているのではないかと思う。

何のために国家はあるのか。もちろん国民を守るためである。

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内田樹、『女は何を欲望するか?』

内田樹、『女は何を欲望するか?』(角川oneテーマ21 A 79、角川書店、2008/03、ISBN-13: 978-4047100909)

フェミニズムの勢いが衰え、瀕死の状態になったのは、フェミニズムがすべての社会現象を一刀両断に解決できると信じて、その適用範囲を広げてしまったからであると著者は言う。それはマルクス主義やフロイト派の心理学が衰退したのとまったく同じ道をたどっている。むりに踏み込まずに知らんぷりしておけばよかった世界に踏み込んでしまったために、数々のアポリア(解決不可能な難問)に遭遇してしまい、自縄自縛に陥ったのである。自分は天才だ、何でもわかる、何でも解決できるといって謙虚さを失ってしまった者がはまる罠にフェミニズムもはまってしまったのだ。

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日垣隆、『通販な生活』

Tsuhan

日垣隆、『通販な生活 一生を1ギガで終えないための買い物学』(講談社、ISBN-13: 978-4062146067、2008/4/18)

物欲万歳。物欲こそすべて。著者の日垣さんの思考は、現在の時流に反する80年代的なにおいがある。

エコな時代は経済を縮小させる。だが、こういうひとが増えていけば、お金がどんどん回って人々の生活に潤いが出てくるかも。ビンボーなアタクシにはついていけませんがね。

著者は自身の通販戦績が6勝4敗と書いている。アタクシに言わせれば、その勝率はきわめて低い。アタクシの場合は19勝1敗くらいだ。書籍を除けば、いままでで失敗したのは、12センチ厚の低反発マットレス(9800円)とビリーズブートキャンプくらい。

低反発マットレスの12センチの厚みは、腰に多大な負担がかけ、おかげで腰痛をわずらってしまったほどだ。今は低反発と称する一切のものから遠ざかっている。

その後、イタリア製のマニフレックス(こちらも通販)という高反発マットレスに乗り換え、たちまち腰痛から回復した。非常に質のよいものなので、いまでは家族全員がマニフレックスを愛用している。

ビリーズブートキャンプを購入したのは、大流行の1、2ヶ月前。使用を開始したのは購入してから半年以上たってから。しかも、いまだにDVDは第1巻しか開封しておらず、たった一回しか運動していない。

日垣さんも書いているように、通販で健康器具はぜったいに買ってはいけない。ろくなものはない。

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